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「なるほどねぇ…。よっぽど寒かったんだな、冬の湖水地方は」
「…かなり」
「だからって、自分の上着まで藤井さんにかけちゃうとは、また無謀だねぇ…」
真冬のウィンダミア湖畔で、2人分の上着を着込んで立っている蕾夏の写真を見て、時田は肩を震わせて笑った。
「挙句に自分が風邪ひいてるんじゃ、意味ないだろう?」
まだ風邪が治りきらない瑞樹は、だるそうな目で時田を軽く睨んだ。
「…俺は、時田さんを笑わせるためにロケハン行ったんじゃねーけど…」
「ああ、ごめんごめん。大丈夫、ちゃんと見てるよ」
敬語や丁寧語が薄れてきているのは、熱のせいと、彼があまり触れられたくない話題に時田が触れてしまったからだろう。時田は苦笑しつつ、膨大な枚数の写真の束を手に取った。
瑞樹が写真に撮ってきた湖水地方に、時田は翌週、取材で訪れることになっている。雑誌の連載の仕事だが、時間的に2日しか取れそうにないので、瑞樹に先にロケハンしてきてもらったのだ。どの辺りが絵になるかな、と考えを巡らせつつ、時田は1枚1枚、写真をめくっていった。
―――面白いな。
フィルムのコマ順に並べられた写真を眺めつつ、時田は無意識のうちに、何度か頷いていた。
どの撮影ポイントでも、必ず3、4枚ずつ写真が撮られている。その、すっかり同じ場所での3、4枚が、順番に見ていくと非常に興味深いのだ。
1枚目は、明らかに「成田瑞樹の写真」。隣に立つ蕾夏が、何を指差し、どんな言葉で感動を伝えたのか、それが目に見えるような写真だ。
2枚目は、1枚目とは微妙に異なる。アングルが必ず引き気味になっているので、より被写体から距離を置いたんだな、とすぐわかる。
そして3枚目、4枚目は―――無機質な写真になる。事実をありのままに、どんな感動も乗せないままに撮った写真。
どうすればいいのかと、試行錯誤を繰り返してはあがいているのがよくわかる、一連の写真。そんな中でも、必ず1枚目に本来の瑞樹の写真が含まれていることに、時田は笑みを深くした。
ちょうど半分ほどの写真をチェックし終えたあたりで、オフィスのドアが開き、蕾夏が駆け込んできた。
「ただいまぁ」
「お帰り。ご苦労様。編集部の方、何か言ってた?」
蕾夏は今日、時田が雑誌連載を持っている月刊誌の編集部に、色校正の終わった原稿を届けに行っていたのだ。本来、これは瑞樹が担当している役割だったが、瑞樹が風邪をひいた事にやたらと責任を感じた蕾夏が、是が非でもと言って代わりに届けに行ったのだ。
編集部でのやりとりを思い出しているのか、蕾夏は、コートを脱ぎながら少し首を傾げるようにした。
「ええと―――あと3日早く持ってきてくれると助かる、って言ってました」
「…ああ、そう」
「それと…」
蕾夏はそこで言葉を切り、チラリと瑞樹の方を見た。ちょっと不愉快そうなその目に嫌な予感を覚えた瑞樹は、思わず身構え、眉をひそめた。
「―――いい、やっぱ、やめとく」
「何だよ。気になるだろ」
「藤井さん、コーヒーいる? 雨の中使い走りしてくれたお礼に、淹れてあげるよ」
自分がいたのでは言い難いらしい、と察し、時田はそう言って席を立った。意図が見え見えな行動に僅かに頬を赤らめたが、蕾夏は大人しく礼を言い、瑞樹の隣に腰を下ろした。
「…で、何だよ」
瑞樹達からは少し離れた所でコーヒーメーカーをセットし始める時田の様子を窺いつつ、瑞樹は小声で蕾夏に促した。すると蕾夏は、少し眉を寄せ、軽く瑞樹を睨んだ。
「―――編集部の女の子達に、“前に来た男の人はどうしたんだ”って、しつこく訊かれた」
「……は?」
「もー、なんでイギリスまで来てこうかなぁ。原稿の受け渡しだけで、女の子惹きつけるのやめてよ」
「惹―――…」
声が大きくなりそうになって、慌ててボリュームを絞る。
「惹きつけてねーよっ。あのオフィスに女がいたかどうかすら覚えてねーのに」
「ふーん…でも、あの子達、凄い目で睨んでたよ? 瑞樹の名前、ちゃんとフルネームで覚えてるし」
「俺は何もしてねーって。んな事位で妬くなよ」
「や…っ、妬いてるんじゃないよっ。ただ、迷惑なのっ。女の子もそうだし、男の人も」
唇を尖らせてそう言う蕾夏に、それまで呆れたような顔をしていた瑞樹が、ちょっと表情を変えた。
「男? なんで男が」
「女の子達の詰問から庇ってくれたのはありがたいけどさ。“彼って君の恋人?”ってしつこく訊くし―――もてる男が恋人だと大変だろうねぇ、って同情して、頭まで撫でるし」
「……」
「“彼のこと心配なら、次からは君がうちの担当になりなよ”って助言されちゃったよ。もー…余計なお世話っ」
「―――次は、俺が行くから」
憮然とした口調でそう言い、瑞樹は蕾夏の髪をくいっと引っ張った。
「い、痛い痛い、何すんのよっ」
「…お前、軽々しく頭なんて撫でさせるなよな」
最大級の不機嫌さで呟く瑞樹に、蕾夏は、意味がわからないという風に、キョトンとした顔をした。
―――馬鹿げた独占欲だと思う。
けれど、髪の毛1本でも、誰かが触れたと思うと、許せなくなる。
両刃の剣―――激しすぎる感情。上手く折り合いをつけないと、自滅する。そう時田は言った。
視線を、機嫌よくコーヒーを淹れている時田の背中に向ける。彼は、上手く折り合いをつけられずに自滅したのだと言う。この1年、スランプを感じていた、とイギリス行きの話をした時に言っていたが、それと関係のある事なのだろうか。
よく考えると、時田が何を思って瑞樹と蕾夏を連れてきたのか、まだよくわからない部分がある。
何を、考えているのだろう―――自滅も、スランプも感じさせないその背中を眺めながら、瑞樹はそんな疑問を覚えた。
***
「あれ? 郁と、成田さんは?」
時田のオフィスに訪れた累は、一人、デスクについて何かの作業をしている蕾夏を見て、少し目を丸くした。
「昨日から2日の日程で、瑞樹と2人で湖水地方に取材に行ってるの。私は留守番」
「ああ…先週、2人でロケハン行ってたやつかぁ…。新年早々忙しいね、郁も」
「時田さんに用事だった?」
「うん。でも―――まあ、まだ日にちがあるし、いいかな」
ちょっと眉を寄せる累の様子に、蕾夏の表情が真剣みを帯びる。
「もしかして、仕事の話? 多分、今晩帰って来たら、ここに一旦寄ると思うけど…」
「だったら、今晩にでも郁のフラットに直接寄ってみるよ。郁と直接話しないと、ちょっと何ともならない仕事だから」
「そうなんだ。…ええと、何か飲む?」
「適当に冷蔵庫から貰うから、気にしないでいいよ」
累はそう言って笑顔を見せると、冷蔵庫から買い置きのジュースを1本取り出した。甘いものが好きな累らしい選択に、蕾夏もちょっと笑った。
嬉しそうな顔をしてジュースを飲む累は、その容姿の端麗さと表情のストレートさで、どことなく和臣を思い出させる。眼鏡をかけてもなお綺麗な顔をしているのに、醸しだすムードは柔らかくて温かい感じだ。
―――同じ顔なのになぁ…。
“VITT”の撮影の時の、累の双子の兄を思い出し、蕾夏は少し眉をひそめた。
一見、累と見間違えてもおかしくない位に同じ顔なのに、奏は、累とは似ていなかった。春の陽射しみたいな累とは対照的に、奏は冬の嵐みたいな感じがした。冷たくて、でも内包するものは激しくて―――危険な感じが。
そのイメージが、記憶の底に封じ込めた人影と重なって見え、蕾夏の胸はざわついた。この世で一番、思い出したくない人―――その人と、あの日見た奏の醸しだすムードは、ぞっとするほどに似ていた。
思い出したら、全身に鳥肌が立った。蕾夏は慌ててその記憶を頭の隅へと追いやり、中断していた作業を再開した。
「それ、何やってるの? 仕事?」
ジュースを飲みながら近づいてきた累が、頭上から蕾夏の手元を覗き込んだ。
蕾夏は、アルバムに写真を貼り、そこに何かを書き込んだ紙を添付するように貼り付けていた。1ページ1枚ずつ―――さながら、写真集のように。
「これは、趣味。前からね、瑞樹の写真の中から気に入ったのを焼き増しさせてもらって、こうやってアルバムにまとめて、1冊の写真集にしてるの」
「へーえ…。ってことは、この文章は、藤井さんが書いたの?」
「そう」
「読んでいい?」
軽い調子で言う累に、蕾夏は困ったような顔をした。
「でも、累君、プロのライターさんじゃない。とてもお見せできるシロモノじゃないもの」
「プロったって、まだ駆け出しだよ。そう呼ばれるのがくすぐったい位の」
「それでも嫌だよ、恥ずかしいもの。私の文章、新聞記者やってる父が太鼓判押す位のわかり難さだから」
「わかり難い?」
「“観念的すぎる”んだって」
それでもまだ覗いて来ようとする累から隠すように、蕾夏はアルバムを慌てて閉じた。
「父曰く、だけど―――私が凄く凄く感動してるのは伝わってくるけど、何にそれほど感動してるのか、それが第三者には伝わらないって。文章自体は面白いけど、読んだ人間にちゃんと伝わらなきゃ駄目だって。新聞記者になりたい、って言ったら、無理だろうって言われちゃった」
「はー…、結構厳しいお父さんだね。でも…藤井さんて、システムエンジニアしてたんだよね? 仕様書書いたりマニュアル書いたり、結構お客さんに見せる“文章”って書いてたんじゃない?」
「…それもそうだね」
言われて、初めて気づいた。そう言えば蕾夏は、よく自分の担当外の客のためにも、マニュアルを作成させられた。「コンピューターを立ち上げてください」と電話で指示したら客本人が立ち上がってしまった、なんていうレベルの客に使用方法を説明するのだから、マニュアル作成は結構大変だ。どうすればわかってもらえるのか、と、散々悩んだものだ。
「そっか…わかってもらわなくちゃ、って思えば、それなりな文章を私も書けるんだなぁ。気づかなかった」
「頑張れば新聞記者もいけたんじゃない?」
「うーん、どうだろうね。私も時田さん位の文章力があれば、ちょっとは自信もてるんだけど」
苦笑混じりに蕾夏が口にした言葉に、累の綺麗な眉がピクリと反応した。
「郁位の?」
「ほら。時田さんのここ2、3年の写真集って、必ず写真に詩編とかエッセイがついてるじゃない? 私、時田さんの写真も勿論好きだけど、あの文章が好きなの」
蕾夏が時田の写真集を集めたのは、瑞樹の影響もあったが、それ以上にそこに書かれている文章が魅力的だったからだ。
淡々としていながら、どこか温かい文章―――写真を見ながらその文章を読むと、写真も、文章も、相互に引き立ってるように感じられて、与えられる感銘が2倍以上になる。写真集としてもいい出来だと思ったが、あれを詩集・エッセイ集と考えても、十分納得できるものだと、蕾夏は感じていた。
「凄い写真撮る上に、あんなに文才にも恵まれてるなんて、時田さんて恵まれすぎだよねぇ…。神様ってずるいと思う」
「……」
黙って聞いていた累の顔が、何故かどんどん赤くなる。視線が宙を彷徨うようになり、態度まで落ち着かなくなってきた。それに気づいた蕾夏は、訝しげに眉を寄せた。
「どうかしたの?」
「…ええと…」
累は、ちょっと言いよどんだ後、バツが悪そうに視線を逸らした。
「―――それ、僕…」
「え?」
「…郁の写真集の文章…全部、僕が書いてるんだ」
「……え???」
理解するまでに、たっぷり10秒を要した。そして、累の言葉の意味を理解した蕾夏は、その事実の衝撃に、思わず席を立ってしまった。
「え…ええええええ!? る、累君があの文章書いたの!? 時田さんじゃなくて!?」
「あ、あの、一応これ、秘密だよ? 僕の名前、全然本に載ってないし」
うろたえた口調の累の答えに、蕾夏の眉が僅かにつり上がった。
「それって、時田さんのゴースト・ライターってこと?」
「いや、そういう訳じゃ―――…」
コホン、と咳払いをすると、累は、彷徨わせていた視線をやっと蕾夏に向けた。
「つまりさ―――僕は、大学入ってすぐ位から、一応ライターみたいな仕事をしてはいるけど、こっちの雑誌である以上、書くのは英語なんだよね。日本語じゃなく。でも、やっぱり日本語を書いてみたくて―――郁に頼んで、試しに書かせてもらったんだよ。無名のライターなんて名前が載る筈もなくて、郁の名前を利用した形になっちゃったけどね。で…それが結構評判良くて。郁は僕の名前も載せようって毎回言ってくれるけど…最初に載せなかった以上、今更載せるのもどうかと思って、僕がひたすら断ってるんだ」
「…そ…そうなんだ…」
話に納得した途端、蕾夏の目がキラキラしだす。その変化に、累はうろたえたように顔を赤らめた。
「な、何? なんでそんな目をキラキラさせるの」
「えー…、いや、だって…尊敬…」
「しないでいいっ! しないでいいから、尊敬なんて!」
「でも、尊敬しちゃうよ。私もあんな文章、瑞樹の写真につけられるようになりたいもの」
憧れを滲ませたその声と表情に、蕾夏の心の中全てが表れている気がして、累は、つい今までの焦りのようなものも忘れて、何とも言えない温かい気分になった。
―――ほんとにこの人って、成田さんと、成田さんの写真の事しか考えてないんだなぁ…。
2人の関係は、正直なところ、累にはよくわかっていない。同じ部屋に寝泊りしているから恋人同士なのでは、とも思うが、人前での2人の姿は、そういった甘さを微塵も感じさせない。ただ―――瑞樹が蕾夏のことを、そして蕾夏が瑞樹のことを、本当に大切に思っているのだけは、痛い位に伝わる。それがどんな関係であったにしても。
羨ましい―――それほどまでに思える相手に、もう出会えているなんて。
「…あの…実はね。今日ここに来たのも、次の写真集の打ち合わせのためなんだ」
明かすつもりの無かった事を、累は思わず口にした。
「えっ、そうなの?」
「うん。で…フラットの方になら、書きかけの原稿あるけど―――良かったら見せようか?」
「いいの?」
「特別に」
蕾夏が、その申し出に、ノーと言う筈もなかった。
***
累のフラットのあるバービカンは、なんだかロンドンらしからぬ街だった。
なんでも再開発地区らしく、ここ20年ほどで近代的なビルが次々に建ったのだという。まるで東京と変わらない超高層ビルの林立に、累には似合わない場所だな、と蕾夏は感じた。
が、そんな中にある累の部屋は、外観とは全く異なって、いかにも累らしい部屋だった。
壁際に並べられた、大量のペーパーバックや単行本。単行本の多くは日本の名著と呼ばれる文学作品で、著者別にきちんと並べられている。淡いトーンの壁紙に合わせるように、どの家具も白木で統一されていて、部屋全体がモノトーンなのに優しい雰囲気に包まれていた。
「…奏君の部屋は、きっと、スチール家具と黒で統一されてるよね」
何の気なしに蕾夏がそう呟くと、累は可笑しそうに吹き出した。
「当たり。藤井さんの言った通りのインテリアだよ。でも、元々実家に住んでた時は、全然違う部屋だったんだ。引っ越す時、たまたまああなったみたい。無難で安く手に入るからこれでいいや、って」
「細胞分裂する時に、いろんなものが、2人にきっちり分けられちゃったのかなぁ…」
「双子だから、そんな事もあるのかもしれないよね。…はい、これ」
そう言って累が差し出したのは、大学ノートだった。
「まだ、頭の中の整理段階だから、こんなもんに書いてるんだ」
「ふーん…。拝見します」
蕾夏は、少しかしこまって頭を下げ、恭しくノートを受け取った。
デスクとセットになった椅子に腰をかけ、パラパラとノートをめくってみると、横滑りな繊細な文字が並んでいた。写真などは全く貼られていないようだ。
「累君、時田さんの写真撮影に同行してないよね。どうやって書いてるの?」
「僕の場合は、僕の言葉じゃなく、郁の言葉を文章にするからね。写真見ながら、郁からの聞き取りだけで書くんだよ」
「そっか…累君の感動が言葉になったらまずいのか…」
なるほど、時田の写真集と銘打って、しかも読者は、それを時田の言葉と思いながら読む訳だから、そういう書き方もあるのかもしれない。自分の感動を乗せずに言葉を紡ぐなんてできるんだろうか、と思いながら、蕾夏は真剣な表情でノートに目を走らせた。
「あの―――交換条件、って訳じゃないけど、さっきのアルバム、ちょっと見せてもらってもいいかな」
「え? うん、いいよー」
ためらいがちな累のセリフに、読むことに集中していた蕾夏は、驚くほどあっさりした返事を返した。半分以上、聞いていない状態のようだ。その様子に苦笑した累は、遠慮なく、蕾夏の鞄から半分姿を見せていたアルバムを引っ張り出した。
紺色の表紙をめくると、そこには、ハイド・パークのだだっぴろい芝生地帯の写真が貼られていた。
随分と姿勢を低くして撮影したのだろう。冬の色合いをした芝生と、真っ直ぐに伸びる小道は、どこまでも―――それこそ地の果てまでも続いているように見える。累は写真の良し悪しのわかる方ではないが、勢いがあって面白い写真だと思った。
その写真は、まだコメントがついておらず、続く数枚も、やはり写真が貼られているだけで、コメントはなかった。
そして、10枚ほどの写真が続いた後。
それは、突然、現れた。
「―――藤井さん」
「え?」
「これ…本当に藤井さんが書いたの?」
累にそう問われ、蕾夏はやっと視線を上げた。
累が手にしているアルバムを覗き込むと、それは、ミレニアム・カウントダウンの時に瑞樹が撮った写真のページだった。ミレニアムの瞬間は撮り損ねたが、花火が上がっている最中に、瑞樹も数枚、自分の視点で撮ったのだ。
それは、彼があの時思い浮かべた通りの構図―――打ちあがった花火で辺りが白く照らされる中、それを見ている観客達のシルエットが浮かび上がっている。両手を挙げている者、肩を組んでいる者、寄り添っている者―――そんな影が、新しい年を祝って、熱狂していた。蕾夏にとっては、ロンドンに来てから撮った中では、一番好きな写真だった。
蕾夏がその写真に添えた文章は、詩のような、紀行文のような、不思議な文章だった。あの時感じたものを、ストレートにそのまま書き記した言葉で、どう考えてもそれしか出てこないので、早々とアルバムに貼り付けてしまったのだ。
「そうだよ。私が書いたの」
「…そうなんだ」
「変かな。私の文章、よく“主語は何なんだ!”って叱られるから、変かも」
そう言って蕾夏はクスクス笑うが、累は笑えなかった。
―――確かに、観念的すぎて、わかり難いところはあるのかもしれない。
でも―――…。
と、その時、累の部屋の呼び鈴が鳴った。
はっと目を上げた累は、名残惜しい気分でアルバムを手放し、慌てて立ち上がった。
誰だろう、と思いながら魚眼レンズで、来訪者の姿を確認した累は、少し驚いたような顔をしてドアを開けた。
「ハァイ、累君」
「…どうしたの、カレン。珍しいね」
「今日はオフだから、久々に累君とこで本でも読もうかと思って」
現れたのは、スラリとしたスタイルと、独特のあくの強いコケティッシュさを持つ顔をした、東洋系の女性だった。累よりも、僅かに年下だろうか。ニッコリと累に笑いかけると、その横をすり抜けて、部屋の中に入ってきた。
カレンと呼ばれた彼女は、机の前に座る蕾夏の姿を見つけると、それまでの笑顔を急に強張らせた。
「…誰?」
「あ、ええと…郁の、アシスタントさんだよ」
「時田先生の?」
カレンは眉をひそめ、まるで値踏みをするように蕾夏の全身に視線を走らせた。その目つきに、なんとなく自分が誤解を受けているのを感じ、蕾夏は慌てて席を立った。
「あ、あの、累君。もう私、オフィスに戻るね。まだ仕事もあるから」
「えっ。あの、じゃあ送るよ」
「ううん、いいよ、自分で帰れる。彼女が来たっていうのに、ほったらかしにしたら失礼だよ?」
ベッドの上に放り出されていたアルバムをそそくさと仕舞う蕾夏に、その意図を感じ取った累は、困ったような笑顔を見せた。
「カレンは僕の彼女じゃないよ。奏の彼女」
予想外の返答に、蕾夏はキョトンとした顔をした。
「奏君の?」
「うん。僕達の2こ下で、奏と同じモデル・エージェントの仲間なんだ」
―――奏君の彼女…?
蕾夏は、眉をひそめて、累の僅かに手前で自分の方を見ているカレンを見つめ返した。
―――じゃあ、なんでこの子、こんな目をして私を見るの?
ぞくっとしたものが、背筋を駆け抜ける。蕾夏は鞄を肩からかけ、カレンの視線から逃れるように玄関に向かった。
「でも、ほんと、構わないで。原稿見せてくれてありがとう。またね」
「あ…藤井さん」
すれ違う瞬間、累の手が蕾夏の腕を掴んだ。急なことに、思わず体が強張る。
かなり至近距離から蕾夏を見下ろしてきた累は、何故か妙に真剣な顔をしていた。その迫力に飲まれて、蕾夏はその場に立ち止まった。
「また何か書いたら、見せてくれる? もう少し見せて欲しいんだ」
「え…? そ、それは、いい、けど…」
「絶対だよ」
念を押す累に、戸惑ったようにコクンと頷く蕾夏だったが、その間も、絶えることなく注がれ続けるカレンの視線が気になって気になって仕方なかった。
―――その子…本当に、奏君の彼女? 本当は、累君の彼女なんじゃない?
でなけりゃ、この視線の意味、説明つかないよ。
カレンが、蕾夏に向ける、刺すような視線―――それは、数日前、編集部の女子社員達が蕾夏に向けた視線と、酷似していたのだ。
***
湖水地方からの帰り、駅で捕まえて乗ったタクシーがオフィスとは全く反対方向へ向かっているのに気づき、瑞樹は怪訝な顔をした。
「どこかに寄るんですか」
「ああ、うん。例の“VITT”のポスターの試し刷りが最終段階に入ったんで、その確認を兼ねて、本社に呼ばれてるんだよ」
「…ああ、あの」
途端、瑞樹の表情が冴えなくなる。
正直なところ、あの仕事の事は、あまり思い出したくもなかった。自分が撮ったとは公にできない、という部分でも嫌な仕事だったし、その挙句に撮ったモデルが、感情の欠片も持ち合わせていない氷で出来たマネキン人形であったのも気分が悪かった。こんなものが本当に求められているのだとしたら世も末だ、と思ったほどに。
時田も何も言わないので、あえてその話はしないできたが、頭の隅には常にひっかかっていた。下手をすれば時田の写真ではないとバレて契約がパーになるのでは、と思っていたが、そんな様子も見えなかった。ほっとする反面、実は失望していた。誰も見抜けないのか、と。
「俺、外で待ってますから」
タクシーを降りたところで、瑞樹はぶっきらぼうにそう告げた。が、時田はあっさりそれを拒否した。
「君もついて来た方がいい。自分の写真がどう“商品”になったのか、その目で確認しておきたいだろう?」
「…別に」
「プロなら、最後まで責任を持つもんだよ」
―――あれを撮ったのは、俺じゃなく、あんたの筈だろ。
事実はどうあれ、対外的にはそうなっているし、瑞樹もあれは自分の仕事だとは思いたくなかった。
それでも、意固地になって残るほど、瑞樹も子供ではない。大きなため息をひとつつくと、瑞樹は黙って時田の後に続いた。
ファッションブランドの会社など訪れるのは初めてだが、“VITT”本社は、瑞樹の知る普通の会社―――コンピューターの販売会社やソフトハウス、銀行の本社営業部や印刷会社と、全く変わりはなかった。
アパレルとかファッションなどという単語から連想する華やかさは、裏方のシビアなビジネスには必要ない。無味乾燥な白い壁と床が続く廊下を歩きながら、瑞樹は、なんだか病院の廊下でも歩いている気分になってきた。
随分と若い銀髪の女性に案内されたのは、瑞樹の予想を裏切って、社長室だった。
「…いきなり社長面談ですか」
眉をひそめ、隣に立つ時田に耳打ちすると、時田は静かに微笑んだ。
「社長のじきじきのご指名だからだろう」
「―――最悪」
「大丈夫だよ。君は、何も喋らないで立ってればいいから」
案内した女性が、社長室のドアをノックすると、中から、張りのある女性の声が返ってきた。
「Come in.(どうぞ)」
無言のまま社長室のドアが開けられる。案内した女性に促され、時田と瑞樹は社長室に足を踏み入れた。
社長らしき女性は、確かに、入って真正面にある大きな机の向こう側にいた。
が、瑞樹は彼女の顔を確認できなかった。
社長の席の背後の壁―――つまり、入口ドアから1歩入った真正面の壁に、自分が撮った奏の写真が2枚、巨大なポスターサイズに引き伸ばされて貼られていたからだ。
目が、釘付けになった。初めて“商品”となった、自分の写真に。いい意味で、ではない。悪い意味で。
寒気がするほど、綺麗な顔をした奏が、そこにいた。白バックで、こちらを斜めに見据えるようなポーズのものが1枚。黒バックで、横顔のものが1枚。どちらも、美術品か何かなんじゃないか、と思うほど、“人間”を感じさせない―――冷たくて、無機質な写真だ。奏の頭部にかかるように、反対色で印刷された“VITT”というロゴも、角ばって無機質な感じのするロゴだった。これを見た人間は、服の魅力ではなく、“VITT”の冷たく都会的なイメージだけを汲み取るだろう。
『モデルはね、自分を売り込む写真を撮ってもらうんじゃないの。着ている服を、持っているバッグを魅力的に見せるためにいるのよ。自分の魅力も、商品を輝かせるために使わないんじゃ意味ないわ』
以前、バイト先のスタジオでの撮影時に、当時22歳だった瑞樹の先輩・佐倉みなみが口にした言葉だ。若干22歳ながら、彼女は立派なプロのモデルだった。撮りたいとは思わなかったが、彼女のプロ根性には、瑞樹だって一目置いていた。
今、目の前にある写真を佐倉が見たら、彼女はどう思うだろう?
こんなモデルは即刻クビだ、と言って憤慨する佐倉の顔が目に浮かぶ。ついでに、こんな写真しか撮れないカメラマンも、彼女ならクビにするだろう。モデルの魅力を引き出すのはカメラマンの仕事―――それが、佐倉の口癖だったから。
―――こんなもんが、本当に、商業ベースに乗っちまうのかよ。
暗澹たる気分で、瑞樹は2枚のポスターを凝視し続けた。これがプロの仕事だ、と言われてしまったら、自分はプロとしてやっていくのは無理かもしれない―――そんな事すら、考えながら。
瑞樹が、ポスターに釘付けになっている間も、時田と“VITT”の社長は何かを話し合っていた。が、その会話は、瑞樹の耳には全く届いていなかった。
彼が我に返ったのは、目の前に、背の高い美女が立ちはだかってからだった。
「―――…」
突如、視界に現れた微笑に、瑞樹は一瞬ひるみそうになった。
サラ・ヴィットという名の女社長は、年齢はよくわからないが、とにかく迫力のある美女だった。真っ赤にひかれたルージュもだし、見事なまでのブロンドヘアもそうだし―――男の視線を意識した、やたらと体にフィットした黒のスーツも、ただでさえ高い身長をより高くしているピンヒールも。とにかく、全身、気合が入りまくっている。
―――スペシャル級で、苦手なタイプ。
瞬時に頭が、拒否反応を示した。
「You are his assistant photographer, aren't you?(アシスタントさんよね?)」
「…Yes, ma'am.(そうです)」
「I think you have good skill for your age.(年の割りにはいい腕をしてるじゃない)」
口の端を上げて彼女が言った言葉に、瑞樹はぎょっとして目を見張った。
「…And very attractive. You're a lady-killer, aren't
you? Ikuo, don't you think so?(それに、魅力的ね。さぞや女泣かせなんでしょ。郁夫、そう思わない?)」
―――おいおいおい。
瑞樹の眉が、不機嫌極まりないという風に片方だけ上げられる。視界の端で時田のリアクションを確認したが、彼はただ、困ったような笑みを浮かべるだけだった。
―――というか。
さっきのセリフ、どういう意味だ? 勘づいてるって事じゃねーのかよ、これ。
奏を撮ったのが時田ではないと―――瑞樹だと気づいているセリフとしか思えない。
目の前の意味深な笑顔は、一体どういうつもりなのだろう? その真意を測るようにサラ・ヴィットの目を見据えた瑞樹だったが、次の瞬間、その体が一気に強張った。
サラの手が、突然、瑞樹の首筋に触れたのだ。
「…Be ambitious, little boy, if you hope success.(成功したいなら、野心的になることね、ぼうや)」
「―――…っ」
喉が、詰まる。
真っ赤な爪を持つ指が、僅かに掠めるように、瑞樹の首筋を這う。その感触に、封じ込めた記憶が揺さぶられる。冷たい嫌な汗が、瑞樹の背筋を流れ落ちた。拳を握り締めていないと、正気を保てそうにない。
―――触るな。
乱暴に突き飛ばしてしまいたい衝動を堪え、瑞樹はサラの目を真正面から睨んだ。精一杯の気力をふり絞ると、低い声で言い放った。
「―――若い愛人が欲しけりゃ、他をあたりな」
日本語がわからないのだろう。サラは、少し目を丸くしただけだった。が、瑞樹の放つ殺気に気づいたのか、不用意に触れていた喉元から手を引いた。
「You lost, Miss President.(社長、あなたの負けですよ)」
笑いを噛み殺した声で時田がそう言うと、サラはむっとした顔になり、時田をジロリと睨んで、瑞樹から離れた。十分な距離を置かれて、やっと少しだけ体の力が抜けた。
―――その場の、誰も、気づかない。
今、瑞樹がまとっていた殺気の意味を。
誘惑するような態度を取るこの女に腹を立てたせいではない。不本意な写真を市場に出さねばならない、というやるせなさのせいでもない。ただ、首筋に、喉元に、その手で触れたせい―――絶対に揺り起こしてはいけない記憶を、無粋に揺り動かしたせい。
当たり障りのない会話を交わす時田とサラを、どこか別世界の出来事のように眺めながら、瑞樹は震えだしそうな体を必死に宥めていた。
耐えなければ、何をしだすかわからないほどに―――サラの手は、鮮やかに、“あの女”を思い出させた。
***
千里と2人で夕飯を終えた蕾夏は、瑞樹に焼き増ししてもらった写真をフロアベッドの上に並べて、考えを巡らせていた。
―――うーん…。マニュアルを書くようには、わかりやすい言葉が出てこないよなぁ…。
累に言われた事を頭に甦らせてはみるが、上手くいきそうにない。第一、これは趣味でやっているのだから、累や他の人の目を意識して書くなんて嫌だ。かと言って「新しく書けたら、また見せて」と累に言われてしまったからには、恥ずかしくないものを書きたい、という思いもある訳で…。
―――面倒な事をOKしちゃったなぁ。
ちょっと重い気分になってため息をついたその時、外階段に通じるドアの鍵が、ガチャガチャと音を立てた。
外階段は、今は瑞樹と蕾夏の専用の出入り口だ。瑞樹が帰ってきたのに違いない。蕾夏は慌てて立ち上がると、階下への階段を駆け下りた。
「瑞樹? お帰り―――…」
笑顔でそう声をかけた蕾夏だったが、瑞樹の表情を見て、その笑顔は一瞬で消えた。
瑞樹の顔は、蒼褪めて見えた。
後ろ手に閉めたドアに寄りかかり、俯き気味にその場に立ち尽くす瑞樹の姿は、なんとなく見覚えがあった。
―――そうだ。
前に、私が、事故に遭いそうになった子供を助けた時―――あれで、妹さんの事故を思い出してフラッシュバック起こした後、瑞樹はこんな感じだった。
何か、思い出させられる事が、あったんだ。
蕾夏は、本能に近い部分で、それを察知した。
あの時は、何故瑞樹が苦しんでいるのか、わからなかった。何もわからないまま、帰れと蕾夏を突き放す瑞樹が痛々しくて、何もできない自分が辛かった。
でも―――今は、全部、知っているから。
蕾夏は、柔らかな笑みを浮かべると、まだドアに寄りかかったまま動かない瑞樹の方へと歩み寄った。
前髪の隙間から、暗い瞳をした瑞樹の目が、こちらを覗く。一瞬、ドキリとしたが、それでも蕾夏は歩み寄り、瑞樹の体に腕を回して、軽く抱きついた。
「…無事に、帰ってきてくれて、良かった」
「―――…」
「次は、どんなにキツい日程でも、置いてかないでよね」
それに応えるように、瑞樹も蕾夏の背中に腕を回し、微かに抱きしめ返した。その反応に、蕾夏もやっと、少しだけほっとした。
「―――俺、もう、あいつは撮らない」
「……」
「次のコレクション、どれだけ時田さんに頼まれても、もう二度と撮らない」
「…うん。そうだね」
何故なのかは、わからないけれど。
蕾夏は、理由を訊ねることも、反対することもせず、ただ瑞樹を抱きしめた。
どんな理由があろうとも―――瑞樹を傷つけることは、許せない。それだけが、蕾夏にとって大切なことだから。
***
「…今日、気に食わない女に会っちゃった」
ベッドに腰掛けて足の爪に丁寧にネイルを塗りながら、本当に面白くなさそうに言うカレンを、ベッドの中で半分まどろんでいた奏は、あまり興味なさそうに眺めていた。
「ふーん。誰?」
「時田先生の、アシスタントとかいう女」
奏の頭の中に、1ヶ月近く前会った人物像がぱっと浮かぶ。
途端、霧がかかったようになっていた頭が、突然覚めた。
「―――あいつが、何だって?」
「奏も知ってるの?」
「…まあね」
思わず、眉間に皺が寄る。やたら勘が鋭くて、人の本音を平然と見透かす癖に、当人の本音はどこにあるのかさっぱり見せない女―――妙に忌々しくて、神経を逆撫でされる女だった。
「累君の部屋に行ったら、いたの。累君の原稿読んでたみたい。累君が女の子を部屋に呼ぶなんて初めてじゃない?」
「カレンが行ってるだろ、時々」
「…あたしは別として、よ」
わかってんでしょ、という風に、カレンは首を回して、奏を睨んだ。奏は肩を竦めると、ベッドサイドに手を伸ばして、くしゃくしゃになった煙草の箱から、1本取り出し、火をつけた。
「なんか、悔しい―――累君、凄く楽しそうな顔で笑ってた。それが、なんか…ちょっと、お似合いに見えて」
「あんな、男と手を握った事もなさそうなガキっぽい女に、何対抗意識燃やしてんだよ」
「―――奏ってホント、女見る目、ないね」
呆れたような顔をするカレンに、奏は冷笑を返した。
「女見る目があったら、累と同じ顔だってだけでオレと平気で寝るような女と、付き合ったりする筈ないだろ」
「―――…」
「…ま、いいけど? オレもそれで、いい目見させてもらってんだから」
「…あたし1人じゃない癖に。そんなに女を弄ぶのが楽しいの?」
「楽しいよ」
平然と、言ってのける。
―――楽しいに決まってるだろ。
オレの中身なんてひとつも見ないで、顔だけでフラフラついてくる女ばっかりなんだから。
こいつだって、そうだ。累のことは中身で見ている癖に、オレに求めてるのは「累と同じ顔」だけなんだから。
みんな、同じだ―――女も、オレを起用したがるクライアント達も。
「カレンも、楽しいよ」
累そっくりの顔で、笑ってみせる。
これ以上ない位、甘い表情で。
「だから、せいぜい、楽しませてよ」
これ以上ない位、冷酷な本音を隠して。
馬鹿げている―――奏は、カレンの腕を引き寄せながら、嘲るような笑みを浮かべていた。
けれど、カレンを嘲っているのか、それとも自分自身を嘲っているのか―――そのどちらなのかは、奏自身、わからなかった。
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