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fight! ―

 

 時田の仕事の受け方は、はっきり言って節操がない。
 下積み時代の付き合いを切れないからだ。
 「…風景写真家が、食器のパンフレットの撮影してるとは知らなかった」
 「そう言うなよ。いい社長で、学生時代から僕に目をかけてくれてたんだから」
 新製品のカタログを出すんです、という一言で、受けてしまう。
 そんな訳で、今、一行は時田のスタジオにいる。
 時田は、ロンドンにあるビルの一角に、小さなスタジオを持っている。大掛かりな撮影や、前回の“VITT”の時のようにスタジオを指定された場合は他のスタジオで撮るが、なにせオフィスから歩いて2分という便利さなので、商品撮影や小規模な人物撮影なら、大抵は自分のスタジオで撮ってしまう。
 時田は、瑞樹達と契約する前は、アシスタントがいなかった。かつ、スタジオは極々個人的なものなので、スタッフを雇っていない。ということは、基本的に時田は、セットの設置から撮影まで、全てのことをたった1人でやっていた訳だ。
 「契約切れた後が怖いなぁ…。2人に手伝ってもらうことに慣れちゃったから」
 「またアシスタント雇えばいいじゃないですか」
 今日撮影するガラス食器を磨きながら、蕾夏が笑ってそう言う。が、カメラのセッティングを進める時田は、眉間に皺を寄せて首を振った。
 「僕の場合、ちょっと贅沢なんだよ。腕があって、感性も自分と合ってる奴でないと―――それに、大体、成田君のレベルでアシスタントやってること自体、稀だから」
 「お世辞言っても、何も出ませんよ」
 時田の言葉を額面通り受け取っていない瑞樹は、ライトの設置をしながら、さらりとした口調でつっこみを入れた。
 「それより、1つ目の商品、バックは黒ケント紙で収まりますか」
 「もう仕事の話かい…。―――ええと、収まるサイズではあるけど、3つ目で白のバックペーパー使うから、1つ目もバックペーパー使って。あ、それと、3つ目はバック飛ばすから、ライティングもう1台用意するのと、使う箱全部に白ケント紙巻いといて。絵コンテはこれ」
 「手持ちは?」
 「ライト? いや、いいよ。固定で撮るから。あ、でも写りこみあるかもしれないから、1人待機しといて」
 それを聞いて、瑞樹と蕾夏は、それぞれの作業位置のまま目を合わせ、無言でじゃんけんをした。
 2度のあいこの末、瑞樹が勝った。
 「じゃ、俺が手持ちライト」
 ニヤリ、と笑う瑞樹とは対照的に、蕾夏は不服そうに唇を尖らせた。
 「えー…つまんない。また準備でお役御免なんて」
 「紙巻く役、譲ってやるから」
 「苦手な癖に“譲る”とか言うし…」
 「俺が苦手なんじゃなくて、お前が上手いんだ」
 「お世辞言っても、何も出ないもん」
 耐え切れず、時田が吹き出した。
 同じようなやり取りは、このスタジオの剥げてきたホリゾントを塗る時にもあった。でもそれは、作業を押し付けあっているのではなく、そういうやり取りを楽しんでいるのだ、ということが傍目にもわかるので、見ていて微笑ましい。
 日頃、ほとんど喋らない瑞樹が、唯一テンポよく会話する相手―――本当に不思議な子だよな、と、食器を丁寧に並べる蕾夏を時田は眺めた。

 『俺、二度と奏は撮りませんから』
 3日前、“VITT”社からの帰り道、硬い表情でそう宣言した瑞樹を思い出す。
 多分、ショックだったのだろう。あの2枚の試し刷りのポスターが。写真に理想を持っているだけに、撮りたいものと求められたもののギャップに苦しんでいるに違いない。サラの態度も手伝って、“VITT”の仕事は、彼の中で最悪のイメージで固まってしまっている。
 けれど。
 撮ってもらわねばならない。なんとしても。

 時田は、ふっと息をつくと、淡々と作業を進める2人を、少し離れた所から眺めた。

 ―――早く、見つけろ。君らの道を。
 明るい世界だけを目指すための―――君達2人、それぞれの道を。

***

 ケンジントン・ガーデンズに程近いビルの中の一室。奏は、部屋の中の様子を窺いながら、半開きになった扉をコンコン、とノックした。
 中にいる人間が、一斉に奏の方を向く。
 「なんだ、奏君。今日ってオフだったかい?」
 目を丸くする時田に、奏は、サングラスを少しずらし、口元だけ笑ってみせた。
 間もなく撮影開始、といった雰囲気のスタジオの中には、時田と、アシスタントである瑞樹と蕾夏、クライアントとおぼしき人間が2名、奏も見た事がある編集プロダクションの人間が2名いた。どうやら今日は、商品撮影らしい。
 瑞樹と蕾夏以外は、突然の奏の登場に、一瞬は眉をひそめたものの、すぐに自分達の打ち合わせに戻ってしまった。編集プロダクションの人間は、当然奏のことを知っているし、時田の甥であることも知っているから、こういう場面に慣れっこなのだ。クライアントの2人は、年齢からみて、おそらく奏を全く知らないのだろう。
 ―――ま、知ってても、イメージ違いすぎてわからないかもしれないけど。
 高級なコレクションばかり身につけているモデルの一宮 奏とは、似ても似つかない服装―――フリースのジャケットにゆったりタイプのGパン、履き潰すのも時間の問題なスニーカー。“GAP”のキャップを反対向きに被っている奏は、24という年齢より子供っぽく見えるだろう。
 「来週の“シーガル”の打ち合わせの件で、社長が郁にこれ持ってけって」
 サングラスを元に戻し、奏は手にした茶封筒を時田に差し出した。時田も、その言葉に納得したような顔になり、ライトから手を外し、その茶封筒を受け取った。
 「ああ、ご苦労さま。“シーガル”は確か…カレンだったかな、モデルは」
 「そう、あいつ」
 カレン、という名前に、台の上の商品位置を微妙に調整していた蕾夏が、微かな反応を見せる。それを目の端にとらえ、ああ、こいつ累の所でカレンに会ってるんだっけ、と思い出した。
 カレンの方は、相当蕾夏にライバル意識を燃やしていたが、蕾夏の方はどうなのだろう―――もう少し反応を探ろうと思ったら、瑞樹が蕾夏の肩を叩いて何事かを耳元で告げ、2人して撮影場所を離れてしまった。

 「カレンと言えば―――奏君、撮られたらしいね」
 目で瑞樹と蕾夏を追っていたら、時田にそう話しかけられた。視線を時田に戻した奏は、軽く肩を竦めてみせた。
 「記事になるとは驚いたけどね」
 今年の初めごろ、カレンと一緒にいるところを、三流の大衆紙に撮られたのだ。オレ達なんて記事になるのかよ、とせせら笑っていたのだが、驚いた事に翌々日のその大衆紙に、しっかり写真入で掲載されていた。
 あの記事を見て、一体イギリス国民の何パーセントが「ああ、あの」と思っただろう。ほとんどいないんじゃないか、と奏は思っている。奏は、今やかなり名の知れたモデルではあるが、業界以外での知名度などゼロに等しい。カレンに至っては更にその下だ。何のためにあんな記事を載せたんだか―――奏は、自分に張り付いていたであろう記者の無能さに呆れた。
 「累のやつ、“これで奏にも公認の彼女が出来たんだね、おめでとう”とか言ってた…どこまでボケてるんだか」
 「あはは、累君らしいよなぁ。“奏は、フラフラ女を渡り歩いてばかりで特定の彼女が出来ないんだけど、望みが高すぎるのかなぁ”って大学時代からよく悩んでたよ」
 「悩むなよ…彼女いない歴24年の癖に。オレより自分の人生考えろって」
 「と、僕に言われても困るんだけどね」
 ニコリ、と笑う時田を、奏は呆れたように睨んだ。
 「郁も、フリー期間が長すぎるんじゃない。前に特定の女いたのって何年前だよ」
 「…さて。そろそろ撮影始めるから、見学してくなら奥によけててもらえるかな」
 触れられたくない話題だったらしく、時田はそっけなくそう言うと、カメラのファインダーを覗き込んでしまった。
 ―――何年前、なんてスパンじゃないよな。
 言われた通り、撮影の邪魔にならない場所へと移動しながら、奏は心の中で呟いた。
 時田に、特定の女性がいるところなど、一度も見たことがない。遊び程度にはそれなりにあったようだが、付き合っている、というレベルは一度もなかった筈だ。淳也が心配して見合いなどを勧めたこともあったらしいが、どれも実を結んでいない。
 多分、1人の女に、一生分の想いを使い果たしてしまったのだろう―――奏は、そう思っている。
 奏も、累も知らない、誰か―――時田はずっと、その幻影を見ているのだ、きっと。

 「―――…っと」
 考え事をしていたら、誰かにぶつかってしまった。
 ぶつかった腕を押さえて、慌てて顔を上げる。そこに立っていたのは、絵コンテを手にした瑞樹だった。
 奏が腕を押さえたので、痛めたとでも思ったのだろう。瑞樹は少し眉をひそめ、足を止めた。
 「大丈夫か」
 「…別に、なんとも」
 予想外な柔らかい対応に、奏の中の瑞樹に対する印象が、ほんの少し変わる。前回会った時ってこんな奴だったっけ、と思うが、思い出せるのは苛立ったように奏を睨みつける瑞樹の姿だけだ。
 「あんた、今日は撮らないの」
 何気なくそう訊いてみると、瑞樹は本音の読み取れない無表情を返した。
 「普通、撮らねーだろ、アシスタントは」
 「けど、この前は撮っただろ、オレのこと」
 「…ああ、あの時だけはな。もう二度とやらねーよ」
 僅かに眉を顰めてそう言う瑞樹に、奏も不愉快そうに眉根を寄せた。
 「なんだよ、それ」
 「マネキン撮るなんて馬鹿らしい仕事、もう御免だから」
 「―――あんた、ほんとにプロになる気あるのかよ? 馬鹿らしかろうが何だろうが、それを撮れと客が命令するなら撮るのがプロだろ」
 呆れたような口調で奏が言うと、瑞樹は、少しだけ驚いたような目をした。
 微妙な色合いをした瞳が、奏の目をじっと見据える。初対面の時もそうだったが、そうされると、やっぱり落ち着かない気分になってしまう。
 「な…っ、なんだよ」
 「―――いや」
 ふっと笑った瑞樹は、視線を逸らし、じっと宙を見つめた。そのまま暫くそうしていたが、やがて、ため息と共にくしゃっと髪を掻き上げた。その一連の動作の間合いが独特で、思わず奏も見入ってしまう。
 ―――なんでこいつ、こんなに目を惹くんだろう。
 初対面の時から、そうだった。そこそこ整った顔だとは思うが、このレベルならいくらでもいる。立ち居振る舞いが大胆な訳でも、持っているムードに華がある訳でもない。なのに、目を惹く―――同じ男の奏が、つい見惚れてしまうほどに。
 「…なかなか、痛いところを突いてくる」
 少し首を傾けるようにしてこちらを向いた瑞樹が、そう言って奏の目を見返した。
 「でも、俺は、たとえクライアントに逆らう事になっても、マネキンは撮らない。プロ失格って言いたけりゃ言わせとく」
 「…撮影現場から逃げ出すとでも言う訳かよ」
 「まさか。ちゃんと撮るぜ、“人間”を。…撮って、認めさせる。マネキンなんか撮っても、意味がねーってことを」
 「……」
 奏の中の、何かが、掻き乱された。
 なんだろう―――プライドを傷つけられた? …いや、違う。
 ポリシーとしていたもの、信じていたものを、根底から揺さぶられたような感じ。お前はマネキンだから撮らない、その言葉に反感を覚えながらも、頭の片隅が、今の瑞樹の言葉に反応している。
 「―――この前と、妙に態度が違うんだな、あんた」
 動揺を隠すように奏が呟くと、瑞樹はニッと笑った。
 「“人間”の一宮 奏は、悪くない被写体だからな」
 「……え」
 「けど、氷の人形のフリすんのが、お前の仕事なんだろ。縁が無かったな。ま、せいぜい頑張れよ」
 「―――…」

 半ば、馬鹿にしたような口調。
 瑞樹は、手にしていた絵コンテで奏の肩を軽く叩くと、そのすぐ横をスルリとすり抜けて行った。

***

 ―――何なんだよ、あいつは…っ!
 壁際に寄りかかり、不貞腐れたように腕組みをした奏は、イライラと足を揺すりながら撮影風景を眺めていた。
 サングラスを忌々しげに外した奏の視線の先には、手持ちのライトを片手に、時田と一緒にカットグラスを撮影している瑞樹がいる。
 一瞬見惚れた自分が、一瞬その言葉に動揺した自分が、腹立たしい。惹きつけるだけ惹きつけておいて、最後の最後で、ストンと落とし穴に嵌められた気分だ。

 『奏ってさぁ、寂しがりやの犬みたいだよね』

 かつて、累に言われた言葉が、頭をよぎる。まだ日本にいた頃だから、中学生位だろうか。意味がわからず訊ねたら、累はニコニコ笑いながらこう言ったのだ。

 『だって、少し優しくされると、尻尾振って(なつ)くじゃない。で、そっぽ向かれると、傷ついて噛み付くんだよね。ほら、似てるだろ?』

 「奏君。さっき、瑞樹と何話してたの?」
 奏の不機嫌の火に油を注ぐように、同じように壁にもたれて撮影風景を傍観していた蕾夏が、声をかけてきた。
 「…別に。一緒に仕事することは二度とないな、って話をしてただけ」
 「―――ああ。“VITT”の件?」
 少し沈んだような声色になった蕾夏に、奏は足を揺するのをやめ、傍らの蕾夏を見下ろした。
 見下ろした先に、奏をじっと見上げるあの黒い瞳があって、今日2度目の落ち着かなさを覚える。全く―――2人揃って、相手の目をやたらとじっと見る奴らだ。瑞樹は、男女無関係に人を惹きつける目で落ち着かなくさせるし、蕾夏は、人の心を見透かすような目で落ち着かなくさせる。厄介な連中だな、と、奏は思わず眉を顰めた。
 「時田さんが撮るのが一番いいに決まってるんだけど…どうして撮ろうとしないか、奏君、知らない?」
 「…知らないね。モデルとしてのオレを、認めてないんじゃない」
 ぷい、とそっぽを向いて、奏は吐き捨てるように言った。言うつもりなどなかったのに、つい本音が出てしまう―――この、隠しておいた本音も全部見透かしているかのような目のせいかもしれない。
 「認めてない? どうして?」
 「さぁね。郁のレベルになると、生半可な知名度じゃ撮りたくないのかもな」
 「時田さんは知名度なんかでモデルを選ばないよ。奏君だって、それは知ってるんでしょ?」

 ―――知っている。
 知名度など、時田の前では無意味だということは。
 “撮りたい”と思わせるかどうか―――時田にとって重要なのは、それだけだ。撮りたいと思えば、たとえ素人であっても、拝み倒してでも撮るだろう。
 カメラマン・時田郁夫は、モデル・一宮 奏を撮ろうとはしない。
 写真を趣味とし、行く先々で奏や累を撮ってくれた編集者の叔父は、もういないのだ。

 「―――そんな事より、あんた、累のフラットでカレンに会ったって?」
 触れられたくない話題から逃げるように、奏は視線を逸らしてそう口にした。途端、今度は蕾夏の表情が険しくなる。
 「スタジオには、仕事に関係ない話は持ち込みたくないって言ったよね?」
 「カレン、今度郁と一緒に仕事するんだろ。嫌でもあんたも現場で顔合わせるんだから、カレンの話は仕事の話だ。違う?」
 「…結構、奏君て理屈っぽいね」
 観念したようにため息をつくと、蕾夏は視線を奏から外し、真っ直ぐに前を見た。
 「奏君の彼女なんだから、言っといてくれないかなぁ。仕事の時は、もう睨まないでくれって」
 「別に、彼女じゃないよ」
 「累君はそう言ってたけど」
 「そりゃ、累はそう言うさ。実際には、カレンはオレの彼女じゃない。カレンが惚れてるのは、累の方だ」
 その言葉に、蕾夏は訝しげに眉をひそめ、外したばかりの視線を奏に向けた。
 「…どういうこと?」
 「カレンのやつ、累が優等生すぎるもんだから、らしくもなく気後れしてんだよ。告白して会えなくなるより、友達の方がいいんだとさ。けど、あいつも女だからな―――累と同じ顔してるオレを利用してるって訳」
 「利用?」
 キョトン、とした顔で自分を見上げる蕾夏の目に、奏はからかうような笑みを浮かべた。
 「あー、あんたみたいな“いかにも清純派”にはわかんない世界かもな。要するに、セックス・フレンドってやつ。日本にもあるんだろ、そういう話」
 「……」
 これ以上ない位わかりやすく言ったつもりなのに、蕾夏のキョトンとした顔は、一向に納得した表情に変わらない。まだ理解してないのかよ、と奏が呆れかけた時、やっと蕾夏が口を開いた。
 「…奏君、なんでそんな事できるの?」
 「は?」
 「自分の事好きじゃない女の人相手なんて、嫌でしょう?」
 「…あんた、ホントにガキだね」
 今度こそ呆れた口調でそう言い、奏は馬鹿にしたような笑い方をした。
 「こういうのは、恋愛とは無関係なんだよ。一晩楽しめれば、相手が誰を思ってようが関係ないだろ。第一、オレに近づいてくる女は、みんなオレの中身なんてどうでもいいんだよ。この顔が目当てなんだから。そういう女ばっかりだから、オレの方も相手の中身なんてどうでもいい。いい体してて、できれば外見もイケてて、後腐れのない女なら誰でもいいんだよ」
 「―――…」
 蕾夏の眉が、少し悲しげに歪む。その様が目の端に映ったが、奏はあえて無視した。
 「あいつも、そういうタイプなんじゃないの」
 「え?」
 親指で、10メートル以上離れた撮影現場を指し示す奏に、蕾夏の表情が変わった。
 「女が放っとかないだろ、あいつって。適当に遊んで、あとはポイなんじゃない」
 「……」
 反論するかと思ったが、蕾夏は黙っていた。黙って、ただ、険しい表情で奏を見上げていた。奏の目から、一度も目を逸らすことなく。そうやって見据えられると、やっぱり奏の方が落ち着かなくなってしまうのだが、ここで目を逸らすとなんとなく負けのような気がしたので、奏も蕾夏の目を見据えたまま、黙っていた。
 やがて、蕾夏は大きなため息を一つつき、自分を落ち着かせるように目を伏せた。再び目を上げると同時に、蕾夏は冷たい口調で言い放った。
 「女の子が、奏君の外見しか見てくれないのは、当然だよ」
 その一言に、奏の眉がむっとしたようにつり上がる。が、蕾夏は全く怯まなかった。
 「だって、奏君自身が、人のことを外見でしか見てないんだもの。人の心の中、知ろうとしてないもの」
 「―――なんだって?」
 「奏君、人のこと、好きになろうと思わないんでしょう? 誰も愛そうとしない人のことなんて、誰だって愛そうとは思わないよ。顔目当てで女の子が寄って来るのが嫌なら、もっと相手の心をよく知ろうとする努力を奏君自身がしないと無理だよ」
 「誰が嫌だなんて言ったよ。オレは“顔目当て”で結構だよ。オレはただ楽しみたいだけで、純文学の世界みたいな恋愛がしたい訳じゃないんだからな。セックスに心なんて要るかよ。え?」
 「“心”を知りもしないで、知ったふうな事言わないで!」
 現場を気遣うだけの理性はまだあるらしく、撮影現場には気づかれない程度の小さな声。けれど、蕾夏の声は、明らかに激しい怒りを帯びていた。その激しさに、奏の方が、一瞬言葉に詰まる。
 「自分の尺度で、自分以外の人間を馬鹿にしたりしないで! 中身で評価される人間が羨ましいんだったら、一度位、自分の方から相手の中身を知ろうとしてみなさいよっ」
 「…なに…」
 「心なんてない“人形”のフリし続けてるから、誰も奏君の中身を評価しないんだよ。女の子も、クライアントも」
 「ああ、別にそれで結構だね」
 「嘘つき」
 憤りに僅かに唇を震わせた蕾夏は、ついに、一番言ってはいけない一言を口にした。
 「そんなに時田さんに認めてもらいたいんなら、そんなに累君が妬ましいんなら、“人形”をやめて、ちゃんと“人間”やって見せればいいじゃない!」
 「―――…ッ!」

 その言葉に。
 奏の理性の糸が、ぷっつりと切れた。

 カッと頭に血ののぼった奏は、振り上げた右手で、蕾夏の頬を思い切り平手打ちした。
 大した音はしなかったものの、その勢いで、蕾夏はよろけて、傍にあったテーブルにぶつかった。テーブルの上に置いてあった機材が、ガタッと音をたてる。
 「―――あんたこそ、知ったような口きくんじゃねえよっ!」
 その場の状況に対する配慮を完全に忘れ、激昂のままに、怒鳴った。
 蕾夏は、叩かれた左頬を押さえて、奏から顔を背けたまま固まっている。どうせ、叩かれたことなど皆無に等しくて、突然の事に呆然としているのだろう―――そう思うと、いい気味という気さえした。
 泣きたきゃ勝手に泣け、とそっぽを向こうとしたその瞬間、奏のフリースジャケットの襟首を、誰かがぐいっと引っ張った。
 「……!?」
 凄い力で強制的に振り向かされた奏の左頬を、一切遠慮のない手がひっぱたいた。
 コミック雑誌の効果音にでもありそうな、派手な音。目の奥が、一瞬チカチカした気がする。思わずよろけそうになったところを、襟首を掴んでいる手がもう一度ぐいと奏を引っ張り上げた。
 混乱状態で目を上げると、そこには、無表情に奏を睨み据える、瑞樹がいた。
 「―――失せろ」
 「……」
 たった、一言。
 けれど、その声には、限りなく殺意に近いものがこめられていた。その冷たさに、背筋がゾクリとする。
 瑞樹は、たった一言発しただけで、掴んでいた襟首をあっさり解放した。もう興味はない、という風に奏の目の前をすり抜けていくと、まだ顔を上げていない蕾夏の肩に手を置き、その顔を覗きこむ。
 「大丈夫か?」
 瑞樹の、僅かに心配そうなニュアンスを乗せた問いかけに、蕾夏はやっと顔を上げ、乱れて顔にかかってしまった髪を掻き上げた。
 「…ん、平気。ごめん、撮影の邪魔して」
 「いや、こっちは大丈夫。…次の商品、バック飛ばすから、ライト手伝ってくれよ」
 「うん、わかった」
 蕾夏は、笑顔すら見せてそう答え、瑞樹に従って撮影現場に向かった。奏の存在など、最初からそこになかったかのような態度で。
 「―――…」
 毒気を抜かれたように立ち去る2人を見送っていた奏だったが、一度、蕾夏がこちらを振り向いたのを見て、心臓が妙な感じに跳ねた。

 怒った目や、怯えた目をしているのなら、まだ良かった。
 蕾夏の目は、悲しそうだった―――それを見た奏の胸が、知らず、痛みを覚えるほどに。

***

 失せろ、という瑞樹の言葉に従った訳ではないが、さすがに居づらくなった奏は、ビルの屋上に上がった。
 人目につかない空調設備の裏に陣取り、イライラしながら、Gパンのポケットから煙草とライターを引っ張り出す。中毒患者よろしく、せわしない仕草で煙草をくわえて火をつけるが、一服してもなお苛立ちは治まらなかった。
 ―――なんなんだよ、あいつらは。
 あのピュアすぎる写真を撮った連中―――写真を見た時は、のほほんとした、鈍いタイプの奴に違いないと思った。世慣れてなくて、ちょっとでも人間の汚い面を見せたら嫌悪のあまりそそくさと距離を置くようなタイプだろう、と。
 ところが、実物は、とんでもない。
 視線ひとつで人を釘付けにする男に、超能力でも持っているんじゃないかと思うほど勘の鋭い女。どんなに汚い面を見せようと、それがどうした、という顔で、するりとかわしてしまう。結局奏だけが、馬鹿みたいに1人でいきがっている。
 手のひらが、じんじんと熱い。
 眉間に皺を寄せ、右手を広げてじっと見てみる。僅かに赤くなった手のひらは、少し痺れていて、どこかに熱を持っていた。
 ―――あいつの頬っぺたの方が、きっと、もっと痛かったよな…。
 頭が冷えてくると、急に罪悪感が頭をもたげてくる。女に手を上げたことなど、これまで一度もなかった。それだけに、あのシーンを思い出すと、棒きれでも飲み込んだように、胃の辺りが重たくなってくる。
 けれど―――ひっぱたかずには、いられなかった。
 一番、触れられたくない部分だったから。
 累が、妬ましい―――時田に才能を認められている、自分と同じ顔をした片割れが。それは、ずっと隠してきた、奏の一番汚い感情だ。累だって、まさか自分が妬まれているなんて思っていないだろう。むしろ、累の方が奏に対してよく「羨ましい」と口にする位だ。気弱な彼は、自信に溢れていて、何事にも動じない奏を尊敬しているから。
 蕾夏の目は、その、本人達ですら気づいていない事実を、あっさり見抜いてしまっている。

 何故、見抜かれてしまったのだろう?
 どこまで、見抜かれているのだろう?
 奏が隠しているものを、あの何でも見透かすような漆黒の瞳は、一体どこまで把握してしまっているのだろう。それを考えると、ゾッとするような恐怖を覚える。

 煙草の味など、全然わからない。奏は舌打ちをすると、まだ半分以上残っている煙草を摘み上げ、自棄になったように地面に叩きつけた。スニーカーの底で踏みにじり、ドサリ、とその場に座り込む。背中の後ろにある空調設備の金属独特の冷たさが、余計に奏の頭を覚醒させていく。そうなると、罪悪感ばかりが奏を苛んだ。
 ―――やっぱり、謝るべきだろうか。
 何であれ、カッとして手を上げたのは事実だし、それは明らかに奏が悪い。最後に見たあの悲しそうな目が、チクチクと奏の胸を刺した。
 撮影ももう終わりそうだったし、一言「ごめん」とだけ言いに行こう。
 そう、思った時。


 「ロンドンのビルの屋上って、初めてだね」
 聞き覚えのある声に、心臓が飛び出しそうになった。
 「天気悪いよなぁ…。寒くないか?」
 「うん、大丈夫」
 今屋上に出てきたばかりの2つの声と足音は、確実にこちらに近づいてきていた。
 ―――な…なんでこっちに来るんだよ。冗談だろ?
 まだ頭の中がまとまりきっていないのに、顔を合わせるなんて無理だ。無意識のうちに口元を手で覆い、空調設備の裏に潜めた体を、更に小さくする。回っているファンの音で、多少の物音なら掻き消されそうだ。
 2人は、奏とは反対側に陣取ったらしい。空調設備に寄りかかるような気配が、背後から漂ってくる。
 「―――で、本当に、大丈夫か」
 空調のファンの音は、会話までもは遮らない程度の騒音らしい。さっき訊ねた時とは明らかに違う、心底心配しているような、瑞樹の声が聞こえてきた。
 「ん…大丈夫。あの位なら平気」
 「…動かねーから、ちょっと焦った」
 「あはは、そりゃ、少しはね。でも―――1発殴られる位、どうってことないよ。気絶寸前まで殴られるのに比べたら」
 穏やかじゃない話の内容に、奏は、1ミリも体を動かさないようにしながらも、眉をひそめた。
 「悪かった―――もうちょい早く止めに入るつもりだったけど、ちょうど撮ってる最中で、手が離せなかった」
 「いいよ、そんなの。でも瑞樹、いくら手が離せないからって、撮影しながら奏君威嚇するの、やめなよ。あの距離だし、瑞樹の方見てないんだから、奏君全然気づいてなかったよ」
 「…うるせーよ。あれでも自制してたんだからな。時田さんも周りの連中も全然気づかねーし…撮影現場じゃなけりゃ、(あばら)の2、3本折ってやるのに」
 そのセリフだけで、肋骨のあたりが痛くなる。でも、それよりも―――あの時、周囲に気づかれない程度の声で言い争っていた奏と蕾夏のことに、撮影に集中しているように見えた瑞樹が気づいていたという事実に、奏はかなり驚いた。
 「あんなガキ、放っとけよ」
 「…だって、瑞樹のこと、悪く言うんだもの」
 少し拗ねたような蕾夏の声に、瑞樹の声が笑いを含む。
 「何。お前、俺の悪口言われてキレた訳?」
 「そ…っ、それだけじゃ、ないけどっ。でも、なんかやたらと瑞樹に対抗意識むき出しにしてて…瑞樹のこと、何も知らない癖に…」
 「わかったわかった。だから、そんな目するなって」
 笑いを堪えるような、ちょっと震えている声。瑞樹がそんな風に笑いながら喋る顔など、奏には想像がつかなかった。“そんな目”がどんな目なのか、見えないのがもどかしい。
 「―――あいつが俺につっかかるのは、時田さんのせいだろ、きっと」
 びくり、と、奏の心臓が、嫌な感じに引きつった。
 「時田さんに目ぇかけられてる存在が、面白くないんだと思う。自分を撮ろうとしない時田さんに対するイライラが、俺や蕾夏に向いてるだけだ。…だから、あんまりマジにとるなよ、あいつの言う悪口なんて」
 「…ん…そうだね」
 ―――こいつにも、見透かされている。
 片手で覆った唇が、わななき始める。動揺したくなくても無理だった。

 “人間”を撮ることで、“人形”を撮る無意味さをわからせてやる、と瑞樹は言っていた。
 それは、奏が無意識のうちにずっと求めてきた言葉だった。その言葉を―――できることなら、時田の口から言わせてやりたかった。
 自分なら本当の奏を撮ってやれるよ、と、時田に言ってもらいたかった。けれど、時田は奏を撮るとは言ってくれない。クライアントを騙してまでも、奏から逃げてしまう。
 認めてもらえない―――自分という存在を。
 だから、時田に認められている人間が、妬ましい。

 「―――でも、なんかね。凄く、嫌だったの」
 動揺に震える奏の耳に、蕾夏の沈んだ声が届いた。
 「なんだか、瑞樹との関係、馬鹿にされた気がして。そんなとこも…なんか、似てて、凄く」
 「誰に」
 言葉が、少しの間、途切れる。やがて聞こえてきた声は、更に沈んでいた。
 「―――佐野君に」
 「……」
 ―――佐野?
 誰だ? と訝しげな顔になる奏をよそに、背後の気配は、にわかに緊迫してくる。
 「蕾夏…」
 「う、ううん、そうじゃない。全然違うの、見た目は。けど―――ちょっとだけ、似てる。カッとなったら、何するかわからないとことか、表面的には冷たい感じなのに、中身がやたらと熱いとことか…時々見せる、剃刀の刃みたいな目つきが」
 「…そう…か」
 「…さっき、ちょっとフリーズしちゃったのも、思い出しちゃったから…よく似たような言い争いしたことがあって、ああ、あの時は、私が佐野君のことひっぱたいたんだよな、って。…あの時、もっと、よくわかり合えるように話してれば…その次って、なかったのかな…って…」
 「―――もう、よせよ」
 瑞樹が呟いた。
 やるせないような声で。
 なんだか、事情がわからなくても、胸が痛くなるような、声で。

 にわかに、奏の心臓が、暴れだす。
 嫌な予感―――けれど、どういう予感なのか、奏自身でもよくわからない。ただ、心臓が暴れる。
 何か、とんでもない事をしでかしてしまった気がして。
 平手打ちなんかより、何倍も、何十倍も酷い事―――それが何なのか、わからないけれど。

 「―――奏が、怖い?」
 「…ん…少し、だけ」
 「…じゃあ、俺は?」
 「―――…」
 言葉が、そのまま、途切れる。
 暴れる心臓を宥めるみたいに、空いている手で左胸を押さえながら、奏はその返答を待った。が―――待てど暮らせど、答えが返ってこない。自分の事を“少し怖い”と評価されてしまっただけに、その続きはちょっと気になる。
 ―――何やってんだよ、あいつ。さっさと答えろよ。
 苛立った奏は、気づかれないようにそろそろと立ち上がり、そっと身を乗り出して、背後の様子を窺った。
 そして、2人の様子が目に入った瞬間。
 暴れていた心臓が、止まった。
 「―――…!!!」
 弾かれたように体をさっと引き、空調設備の裏にまた体をくっつける。声を出してしまいそうになったので、また口元を手で覆った。
 ―――な…な…何してんだよ、あいつらっ! こんなとこでっ!
 全身の血が、顔に集まってしまった気がする。加速度的に熱くなる顔に、止まった心臓はまた別の意味で暴れ始めた。

 けれど、おかしな話だ。
 キスシーンを目撃した位で、こんなに動揺するなんて。
 奏自身、人前でキスしたことなど、数え切れないほどある。他人のキスシーンだって初めてではない。それどころか、学生時代に仲間と乱交まがいのことをした事があるので、もっとえげつないシーンを目撃したことすらある。気分のいいものではなかったが。
 なのに―――何故、こんなに動揺しているのだろう? 別にそんなに、熱烈なキスをしていた訳でもないのに。

 気づかれないように、詰めていた息を吐き出す。さっさとやる事やって早くどっかに行け、と叫びたくなるのを我慢して、気配が遠ざかる瞬間をひたすら待つ。
 背後の沈黙が、(かん)に障ってしょうがない。さっき見たあのシーンを思い浮かべるだけで……気が、変になりそうだ。

 気づかないうちに、奏の体は、小刻みに震え始めていた。
 何からくる震えなのか―――それすらわからずに、奏は、ただひたすら声を殺して、その場に立ち尽くしていた。


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