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 フライパンの上で器用にひっくり返したオムレツを見て、瑞樹は一言、呟いた。
 「…俺、相当ストレス溜まってるんだな…」
 「え?」
 「これ」
 きゅうりを切っている蕾夏に、フライパンを目で示して見せる。そこにあるオムレツは、焦げ目ひとつなくて、ふわふわで、まるで洋食屋ででも出てくるような完璧なオムレツだった。
 「凄く綺麗に出来てるよ?」
 「俺的には、いまいち」
 「…瑞樹って、変なところでこだわるね」
 眉間に皺を寄せつつ、瑞樹は出来上がったオムレツを皿に移し、ボウルの中の卵をまたフライパンに流し込んだ。
 「最近、つくづく思うよな。俺、ずっと頭使わずに、本能だけで写真撮ってたんだな、って」
 ため息混じりの瑞樹のセリフに、蕾夏の表情が一瞬、暗くなる。
 ミレニアム・カウントダウンから、そろそろ1ヶ月。ロケハンや試し撮り、時田の指示などで写真を撮る瑞樹に同行するたび、蕾夏はあの時の時田の言葉を頭に甦らせては、冷たい不安に苛まれていた。瑞樹が苦労しているのが傍目にもわかるから、余計に。
 ふと気を抜けば、あっさりとその不安に負けてしまう。こんな瞬間でも。蕾夏は、また蓄積しそうになった冷たいものを自分の中の隅の隅へと追いやり、包丁を置いてきゅうりを盛り付け始めた。
 「最近の瑞樹、撮るたびに頭フル回転させてるもんね。だからストレス溜まってるのかな」
 「多分な。あー…たまには、難しいこと何も考えずに撮りたいよなぁ…」
 「今度、撮影ない日にでも、どっか撮りに行こうよ―――あ、しまった。余っちゃった」
 きゅうりが中途半端に残ってしまい、思わず眉を寄せる。考え事をしながら切ったので、枚数がわからなくなっていたらしい。
 「食べる?」
 きゅうりの切れ端を手に、瑞樹に訊ねる。瑞樹はそれを見て、悪戯を思いついたような笑みを浮かべた。
 「食わして」
 「…久々に出たわね、それが」
 「両手塞がってるし」
 フライ返しを置けばいいじゃん、と思いながらも、蕾夏は仕方なく、きゅうりの切れ端を素早く瑞樹の口の中に放り込んだ。相変わらずの早業に、瑞樹は不服そうな顔をした。
 「だから。こんなに早業じゃ、面白くねーって」
 「面白がらないようにやってるのっ」
 「…けど、面白いんだよな」
 耳まで真っ赤になる傍らの蕾夏を見下ろして、思わず呟く。
 「変だよなぁ。この位でそんなに赤くなるんなら、なんで」
 「ああああ、もうっ! うるさいうるさいうるさいっ!」
 「…まだ何も言ってねーじゃん」
 「バカッ! 言わなくてもわかるのっ、瑞樹が言いそうなことはっ!」
 くすくすと笑う瑞樹の脇腹に軽くパンチを入れたところで、だるそうな足音が近づいてくるのが聞こえた。
 「おーはーよー…」
 「あ、おはよう、累君。締め切り、間に合った?」
 「うん…なんとか」
 眠そうに目を擦る累は、蕾夏の挨拶にそう答え、欠伸をしかけた。が、瑞樹の手元に目をとめた途端、その欠伸がピタリと止まる。
 「…あ! 噂の、成田さんの卵料理だ! うわー、ラッキー! 今日帰ってきてて良かった」
 「なんだよ、その“噂の”って」
 「父さんから聞いてたんだよね。成田さん達が先に起きた朝はラッキーだって。そこいらのレストランよりうまい卵料理が出てくるから、って」
 一宮家の朝食のルールは、至極シンプルにできている。一番早く起きてダイニングに行った人間が作る―――それだけ。大抵の場合は千里だが、たまにこうして、瑞樹と蕾夏がその役目になる場合もある。そして、瑞樹と蕾夏が作る場合は、卵料理は瑞樹と決まっているのだ。
 「成田さんって、なんでこんなに卵料理上手いの?」
 「ん? 弟子入りしたから」
 皿に盛られた完璧なオムレツをうっとり眺めていた累は、その言葉に目を丸くした。
 「弟子入りって、誰に?」
 「近所の洋食屋のおやじに。…両親が離婚するまでは、妹が担当だったんだよな、卵料理は―――“うまい玉子焼きが食いたい”って親父がうるさいから、学校帰りに何回か通って習った」
 「…成田さんて、見た目ではわからない部分、いっぱいあるよなぁ…」
 確かに、瑞樹をよく知らない人間ならば、まず「台所に立つ瑞樹」自体、想像がつかないだろう。ましてや、プロのコックみたいに、フライパンの柄をとん、と叩いて、見事にオムレツをひっくり返す瑞樹なんて、絶対想像がつかない筈だ。
 自分よりフライパンさばきの上手い瑞樹に、蕾夏としてはちょっと悔しい気分にもなるのだが、こういう外見と実態のギャップを知るのは楽しい。だから、黙々とオムレツを作る瑞樹を見るのは、結構嫌いじゃない。
 「あ、藤井さん。昨日、休憩ついでに、藤井さんが書いたやつ、読んだよ」
 思い出したように言う累の言葉に、蕾夏の表情がぱっと明るくなった。短文を書く前に長文で自分の考えをまとめるといいよ、という累のアドバイスに従って、ミレニアム・カウントダウンについての紀行文というか感想文というか、そういうものを書いて、累に渡してあったのだ。
 「えっ、ほんと? どうだった?」
 「面白かった。で、頼まれた通り、僕なりの添削やってみたけど…今、時間ある?」
 「ないけど、見るっ!」
 例のキラキラした目になる蕾夏を見て、累は微笑ましくなって、その頭をぽんぽんと撫でてから、ダイニングへ行った。
 パンを焼いている間位なら別に構わないだろう、と思い、蕾夏は手にしていたものを全て置くと、大慌てでトースターにパンをセットした。
 ふと視線に気づき、瑞樹の方を見ると、面白くなさそうな顔をした瑞樹が蕾夏を軽く睨んでいた。
 「…なに?」
 「…別に」
 どう見ても「別に」という顔じゃない瑞樹に、思わず首を傾げてしまう。

 何故突然不機嫌になったのか。
 その理由を蕾夏が知るのは、もう少し先のこと―――その日1日が終わってからだった。

***

 「お前、先に時田さんのオフィス戻ってた方が良くないか?」
 モデルエージェントの入っているビルの入口で、瑞樹はそう言って、蕾夏を振り返った。
 「どうして?」
 「奏がいるだろ、ここは」
 心配そうな顔をする瑞樹に、蕾夏はくすっと笑って首を横に振ってみせた。
 「大丈夫。もう怖くないから。それに、瑞樹1人で行ったら、細かい説明で(つまづ)くよ、きっと」
 今日は、ただ書類の受け渡しをするだけではない。来週に迫っている“シーガル”社のポスター撮影について、細かい段取りのすり合わせをするために来ているのだ。瑞樹もある程度は英語ができるが、語彙力が圧倒的に不足している。それもあって、蕾夏についてきてもらったのだ。
 「それにしても―――今回の仕事、なんか、日本かぶれの変な外国人みたいな発想だよね」
 並んでビルの中に足を踏み入れつつ、蕾夏が小声でそう言った。
 「だよなぁ。日本、イコール、和服、って連想は仕方ないとは思うけど―――カクテルだろ。似合わねぇ…」
 “シーガル”社は、イギリスでは大手と呼べる酒造メーカーである。
 ヨーロッパではメジャーな会社だが、日本ではあまり知名度が高くない。アイリッシュビールが主力商品、という部分にも問題があるのかもしれない。日本では“ギネス”のアイリッシュビールが確固たる地位を築いてしまっているので、創立からさほど経っていない“シーガル”では、なかなか食い込み難いのだろう。
 その“シーガル”が、去年、新しい分野にチャレンジした。家庭で楽しめる小瓶タイプのカクテルだ。瑞樹が愛飲していたカクテルバーと酷似しているのだが、得意分野であるスコッチ・ウイスキーを使ったカクテルを特徴とすることで差別化を図るらしい。その新商品のポスター撮影を、時田が依頼された訳だ。
 2日前、瑞樹は、その打ち合わせに同行した。そして、その場で出された企画案を見て、あまりのセンスの酷さに頭痛がしてしまった。浴衣姿のモデルが、縁台に座ってカクテルを飲むというのだから凄い。
 「さすがの時田さんも、オフィス戻ってきて頭抱えてたよ。どうやって撮る気なんだろう、時田さん」
 「…知らねーよ。打ち合わせで、一応反対案は出してたけど、通らなかったみたいだぜ?」
 「第一、これって、例のカレンさんがモデルなんでしょ? そもそも、カレンさんじゃ、イメージじゃないもの」
 累のフラットで会った、あのコケティッシュな魅力を持つファニーフェイスを思い出し、蕾夏は眉を寄せた。
 「浴衣が似合わねーって意味?」
 「ううん、そうじゃなくて―――ほら、このレジュメの表紙に書いてある、コンセプトキーワードが」
 そこには、この企画のイメージするものを、2つの単語で表してあった。
 “calm & innocence”
 「静けさと清純さだよ? なんか違う…カレンさんて、もっと華があって情熱的なタイプだもの」
 まだカレンに会ったことがない瑞樹も、ちょっとため息をつく。蕾夏の直感は、結構正しい場合が多い。蕾夏がそう感じるということは、まだ見ぬカレンが“シーガル”のコンセプトからは大きく逸脱したモデルである可能性は高い。
 「日本人モデル自体ほとんどいないから、選択の余地がないのかもな…」
 「…ま、まあ、相手はプロのモデルなんだし、ね」
 「―――そう期待するけど」
 そう相槌を打ちつつ、瑞樹は何気なく、傍らにいる蕾夏を見下ろした。

 “calm & innocence”―――…。
 こいつなんか、ピッタリだと思うんだけどな。

 そう考えただけで、瑞樹の頭の中には、具体的なイメージがあっという間に広がってゆく。蕾夏を被写体として考える時は、いつもそうだ。そう―――初めて会った時でさえも。
 休憩時間にでも撮らせてもらおうかな―――そう考えると、憂鬱なものになりそうなこの仕事も、ほんの少しだけ楽しみになった。

***

 問題のモデルとは、思いがけず早く対面する羽目になった。
 スケジュールのすり合わせが終わり、応接室から出たところで、偶然鉢合わせになったのだ。
 「あ……」
 明るい色の、ふわふわとした癖っ毛のその女性は、応接室のドアを閉めた2人の姿に目を留め、次いでその1人が蕾夏であることを認めると、美人というよりは可愛いタイプのその顔を、一瞬にして険しいものに変えた。
 対して蕾夏は、その瞬間こそ僅かに戸惑ったような表情になったものの、すぐに笑顔を作った。
 「あ、カレンさん。こんにちは」
 「…なんであなたが、ここにいるの?」
 予想外な蕾夏の笑顔に出鼻を挫かれたカレンは、落ち着かなく視線を彷徨わせながら訊ねてきた。
 「今度の“シーガル”の件で、こちらの担当者の方とスケジュール調整してきたの」
 「―――そういえば、時田先生だったっけ、“シーガル”撮るのって」
 「そう。また来週、スタジオで一緒になると思うから、よろしくね」
 にこっと笑ってそう言う蕾夏に、カレンの顔がみるみる紅潮していく。
 「…こちらこそ。でも、さん付けはやめてよ。あたしの方が下なのに」
 怒ったような、照れ隠しのような口調で、カレンはそう言って軽く蕾夏を睨んだ。最初に見せたあの強烈な敵対心がほとんど消えかけているのを察して、蕾夏の気配も少し和らぐ。
 ―――相変わらず凄いよな、こいつの「本気の笑顔」って。
 蕾夏が、相当な努力をして笑っているのだと気づいている瑞樹は、やっぱり自分にはできない芸当だな、と感心した。
 「ええと―――あ、紹介しないとね。彼が、時田さんの本当の意味でのアシスタントで、成田瑞樹さん」
 蕾夏が瑞樹を紹介すると、カレンは、ああ、と納得したような顔をして、意味深な笑いを浮かべた。
 「へーえ、この人が成田さんなんだ。ふーん…」
 「……??」
 思わず、顔を見合わせてしまう。何をそんなに納得されているのか、瑞樹にも蕾夏にもさっぱり見当がつかない。
 「ああ、立ち話も疲れるから、そこ座らない?」
 そう言ってカレンは、エレベーターホールを利用して作られたちょっとした休憩コーナーを指差した。テーブルが4つほどあって、その1つは既に打ち合わせか何かに使われている。長居するつもりなどないが、意味深な笑いの理由を知らないまま帰るのは、やはりちょっと気分が悪い。2人は、一応カレンの言葉に賛同して、休憩コーナーの一角に落ち着いた。
 「ねえ。奏にひっぱたかれたって、本当?」
 がたん、と椅子を引くと同時に、待ちきれない様子でカレンが蕾夏に訊ねた。
 「え?」
 「しかも、あなたをひっぱたいた奏を、成田さんがひっぱたいたって、本当?」
 「…誰から聞いたの? 奏君?」
 「あのプライドの高い男が、ひっぱたかれた話なんてする訳ないじゃない。編集プロダクションの人から」
 脳裏に、あの日現場にいた編集プロダクションの2人の顔が浮かぶ。撮影に気を取られていて、蕾夏や奏の騒動にはあまり関心を払っていないように見えたのだが、どうやら興味津々で見ていたらしい。
 「―――最悪…」
 「別にいいだろ。お前に非がある訳じゃなし」
 ため息をつき肩を落とす蕾夏に、瑞樹は、少し不機嫌さを滲ませた声で言った。思い出すだけで、あの時の怒りが即座に甦る。冗談ではなく、あの場が仕事現場でなければ、肋の2、3本平然と折っていただろう。
 「私のことじゃないよ。瑞樹のことを言ってるの」
 「俺も別に構わねーし」
 「構うよ。そんな噂が横行したら、これから先やり難いじゃない。時田さんの甥なのに」
 「ああ、それは大丈夫」
 バッグの中から、紙に包んだキャンディを取り出しながら、カレンは口の端をつり上げた。
 「編集プロの人、うちの社長にタレ込みに来たの。“Frosty Beauty”が女に手を上げたなんてバレたら、イメージダウンだものね。それ相当のお金を積んだから、この件はこれでジ・エンド」
 「…それって、強請(ゆす)りって言わねーか?」
 「そうとも言うかも」
 カレンはそう言って、ストロベリー色したキャンディを口に放り込んだ。強請りたかりなど珍しい話ではない、ということが、カレンの口調から感じ取れる。あまりのドライさに、言葉もない。
 「んー、やっぱり、このキャンディってイマイチ。サクマのいちごミルクが食べたいなー」
 包み紙をがさがさとバッグに仕舞いながら、カレンがそう言って眉を顰める。その言葉である事に気づき、蕾夏が口を開いた。
 「カレンって、こっち生まれじゃないんだね」
 「え? なんで?」
 「サクマのいちごミルクなんて固有の商品名が出てきたから」
 「あっはは、そっか。そうね。うん、生粋の日本人で、日本生まれよ」
 「いつイギリスに?」
 「16の時」
 イマイチなキャンディをもう1つ取り出したカレンは、それを蕾夏に差し出しながら答えた。蕾夏は、困ったような顔でそれを無言で断り、続けてそれを差し出された瑞樹は、露骨に嫌そうな顔で断った。
 「うち、早くに母親が死んでずっと父子家庭だったんだけど、高校入学してすぐ位に父親も死んで、あたし1人になったの。悲しさより解放されたって気分が大きかったな…最後の半年って、受験と父親の看病で、あたし、ボロボロだったもの。葬式やって、僅かばかりの遺産を貰って、それでイギリスに来たの。元々モデル志望だったし、モデルだけじゃ食べていけない日本と違って、イギリスなら大成すれば大金持ちも夢じゃないから」
 「…な…なんか、まだ22なのに、結構壮絶な人生送ってるね」
 「野心家の人間て、結構こんななんじゃない」
 カレンの言葉に合わせて、口の中をでキャンディが転がるカラカラという音がする。あっけらかんとした、いかにも「いまどきの女の子」な態度。たった4つ5つ離れているだけなのに、既にジェネレーション・ギャップを感じてしまいそうだ。
 そして、やっぱり思う。“シーガル”のイメージコンセプトとはかけ離れすぎてるよな、と。
 清純とも静けさとも無縁そうなカレンの浴衣姿を想像して暗澹たる気分になっていると、突如、カレンが立ち上がった。
 「あっ、いいタイミング! 奏! そうー!」
 瑞樹と蕾夏の背後に向かって手を振るカレンに、2人も後ろを振り返った。
 何かレッスンでもしていたのか、トレーニングウェアを着た奏が、スポーツタオルで汗を拭いながら歩いていた。カレンの声に顔を上げた奏は、そこに瑞樹と蕾夏の姿を見つけて、あからさまなほどにギョッとした顔をした。
 「偶然会っちゃったわよー、あんたが殴った女と、あんたのこと殴った男!」
 いくら周囲に日本語がわかる人間がいなそうだからといっても、これはあんまりな言い草だ。奏は、慌てたように駆け寄ると、カレンの頭を一発はたいた。
 「いったぁ〜い」
 「痛いのはお前がバカだからだよっ」
 ひそひそ声で怒鳴った奏は、くるりと振り返ると、一度瑞樹の顔を見、続いて蕾夏に視線を移した。
 「…なんで、こんなとこに居るんだよ」
 「なんでって…仕事だけど?」
 キョトンとする蕾夏に、奏の目が落ち着きをなくす。チラリと瑞樹の顔色を窺うようにしたかと思うと、奏は突然、蕾夏の腕を掴んだ。
 「ちょっと、借りるから。5分だけ」
 「…は!?」
 なんだそれは、という顔をする瑞樹をよそに、奏は蕾夏の腕をぐいっと引っ張って、無理矢理立ち上がらせた。誰もが唖然とする中、一番唖然としたのは、当然ながら蕾夏本人だ。
 「え!? え…あの、ちょ、ちょっと、何!?」
 「いいから! ちょっと来いって」
 ―――こ、来いって、あの…なんで!?
 そう訊きたくても、問答無用で引っ張られてしまう。あまりに突然のことに、声が出てこない。
 ―――ちょ…ちょっとーっ! 瑞樹っ! 何か言ってよーっ!
 ずんずん歩く奏の勢いに転びそうになりながら振り返ると、奏を見送る瑞樹の顔は、過去最悪レベルに機嫌が悪くなっていた。

***

 瑞樹から十分距離を取ったと判断したところで、奏はおもむろに足を止めた。
 ちょっと視線を戻せば、廊下の数十メートル先には瑞樹とカレンの姿がすぐに確認できるのだが、とにかく話を聞かれるのはまずい。掴んでいた蕾夏の腕を放した奏は、自らを落ち着かせるために、小さく息を吐き出した。
 「な…なんなの? 一体。どうしたの、急に」
 掴まれていた辺りの腕をさすりながら、蕾夏は眉をひそめて奏を見上げてきた。怯えている風には見えないが、微妙にじりじりと後退している気がする。あの屋上で聞いた“少しだけ怖い”という自分に対する評価を思い出し、またチクチク胸が痛む。
 「…今日って、スタジオじゃないから、訊いてもいいよな」
 「え?」
 「あいつって、あんたの恋人?」
 あいつ、が指す人物は、当然、1人しかいない。それは蕾夏にもわかったようで、一度、瑞樹の方に目を移してから、奏を見上げてサラリと答えた。
 「そうだよ?」
 「……」
 スタジオの時の頑なさが嘘みたいに、あっさり答えが返ってきてしまい、反応に困る。
 「それが、どうかしたの」
 「…いや…別に」
 偶然目撃してしまったキスシーンの話は、到底口にはできない。そんな事を言ったら、自分があの場所でずっと隠れてたと暴露するようなものだ。

 スタジオで喧嘩した時、奏は、2人はただの仕事仲間だと判断していた。蕾夏が叩かれた後の瑞樹の対応が、あまりにもシンプルで冷静だったから。
 だから、その後、屋上で見てしまったシーンには混乱させられた。もしかして、叩かれた後で弱ってしまっている蕾夏の隙に瑞樹がつけ入ったのではないか―――そんな風に思って、見損なったぞ、という気分になった。あまりにも、そういう男女間のスキンシップには疎そうに見える蕾夏と、逆にそういう事には慣れっこそうな瑞樹。だからこそ、瑞樹と蕾夏のキスシーンは、なんだか許せないものに見えたのだ。
 ―――なんだ…やっぱり、恋人同士だったのか。
 ホッとするのが、半分。
 そして、余計腹立たしいのが、半分。

 「あの…話って、それだけ? だったら、もう戻るけど」
 不思議そうにそう言う蕾夏に、奏は、肝心な事を忘れていたのに気づき、慌ててまた蕾夏の腕を掴んだ。
 「い、いや! その―――ごめん」
 「え?」
 「悪かった。この間、ひっぱたいて」
 歯切れの悪い奏の謝罪にちょっと目を丸くした蕾夏は、続いてクスクスと声を立てて笑った。
 「案外素直なとこあるね、奏君。…いいよ、もう。私が痛かった分は、瑞樹が奏君叩いてチャラになったから」
 「…なら…いいけど」
 なんだか、拍子抜けしてしまう。
 あまりにもあっさりと瑞樹との関係を肯定し、あまりにもあっさりと大喧嘩を水に流してしまう蕾夏に、なんだかここ数日張りつめていたものが緩んで、体の力が奪われる気分になる。あの時見た、胸が痛くなるような悲しげな目や、正体不明の「佐野」という名前を出した時の硬く強張った声は、もしかして錯覚だったんじゃないかという気さえしてきた。
 ―――なんだ。結構、単純な奴じゃん。
 ホッとするのが、半分。
 そして……余計不安になるのが、半分。

 ―――本当にそうか?
 オレが思うほど、単純な奴か? こいつ。この笑顔のどこまでがこいつの本音だ?

 本音が見えない、蕾夏の笑顔。自分に向けられるそつのない笑顔に、奏は知らず、苛立ちを覚えた。

***

 「案外、わかりやすいね、成田さんて」
 数十メートル先の蕾夏と奏を時折振り返っている瑞樹の様子に、カレンは可笑しそうに笑いながらそう言った。
 「大丈夫。奏はケダモノじゃないから、こんなとこで彼女にどうこうする気はないって」
 「…そういう心配をしてんじゃねーよ」
 カレンを睨み、ついぞんざいな口をきいてしまう。確かに、蕾夏の腕を掴んでいる奏の手に神経が逆撫でされているのは事実だが、それ以上に気に入らないのは、蕾夏の態度の方だ。
 ―――つい何日か前に自分をひっぱたいた奴に、そんなに隙を見せるなよ、全く。
 ニコニコと笑うその笑顔が「よそ行き仕様」であることは、瑞樹にとっては一目瞭然だ。が、掴まれている腕を振り解くのを忘れて話し込んでいる様にイライラさせられる。
 「そんなに奏って信用ない? 女関係は滅茶苦茶だけど、それ以外は結構普通だと、あたしは思うけど」
 イマイチと言っていたキャンディを新たにもう1つ口に放り込んで、カレンはそう言って首を傾げた。人と話す時の態度とは思えないその振る舞いに、瑞樹は片方の眉を上げた。
 「…確かに、あんたよりはまともそうだよな」
 「あ。何よそれ。酷い言い草」
 「いちいち真に受けるなよ。―――それに、奏が案外まともなのは、わかってる」
 「ふーん…なんでわかってるの? 奏が案外まともだって」
 「あいつの両親、知ってるからな。あの両親に育てられてりゃ、性根は真っ直ぐな奴の筈だ」
 イベントごとに歌い出す陽気な淳也と、肝っ玉母さんという言葉を地で行くような千里の姿を脳裏に浮かべ、瑞樹は呟くようにそう言った。
 実の息子ではない奏や累を、あの2人がどんな風に育ててきたか、2ヶ月一緒に暮らしてみてなんとなくわかる。累が、実の親についての疑問や不安を一度も口にしないのも、あの両親に愛されてきたからこそだろう。
 確かに奏は、その容姿故に男からは嫌われ女からは変な意味で求められ、どこか捻じ曲がった性格になった部分はあるのかもしれない。けれど、持っている本質は、短気すぎでぶち切れやすいものの、極めてストレートで素直だ。いや…素直だからこそ、頭にくるとそれがそのまま出て短気に見えてしまうのだろう。歪みきった瑞樹から見れば、羨ましい位だ。
 「…なるほどね。なんか、わかった」
 脚を組み、テーブルに頬杖をついたカレンは、また意味深な笑い方をして瑞樹を見つめた。
 「さっき、あなたの顔見た時のファースト・インプレッションの意味、わかった気がする」
 「?」
 「同族意識ってやつかも」
 怪訝な顔をする瑞樹に、カレンは、少し身を乗り出すようにした。
 「今のセリフでわかった。成田さんも、家庭に恵まれてないタイプなんでしょ」
 「…まあ、奏や累よりは、恵まれてないな」
 「あたしよりは?」
 「微妙」
 「あっはははは、そーなんだ? やっぱりね。ぱっと見た瞬間、なんか同じ階層に住んでる人間、て感じがしたもん」
 途端にリラックスする、カレンを取り巻く空気。
 それでわかった。彼女が、蕾夏に対して、彼女なりに緊張していたことが。
 多分それは、コンプレックス―――明るい世界しか知らないように見える、誰からも愛され、何一つ苦労せずに、蒸留水みたいな心のまま大人になったように見える、蕾夏に対する。自分が暗い部分を持っているからこそ、彼女の純白さに憧れ、羨み、妬み、そして引け目を感じるのだ。
 誰も、知らない。蕾夏の中に、どれだけのものが隠されているのかを。
 ―――知らなくていい。俺以外は、誰も。
 瑞樹は、ふっと笑みを浮かべ、これも独占欲の一部なのだろうかと自嘲気味の気分を味わった。
 「ねぇ。今度の“シーガル”の撮影って、成田さんは撮らないの?」
 「さあ? テストはするだろうけど」
 「あたしのこと、撮ってよ。なんか、すっごく撮って欲しい気分」
 「あんたを撮るのは、俺の仕事じゃないんでね」
 「あ、ほら、その目」
 興味なさそうな目で自分を一瞥する瑞樹の目を、カレンは無遠慮に指さした。
 「ゾクゾクする―――成田さんの目って。その目でファインダー越しに見つめられたら、モデルはみんなその気になると思う。セクシーなあたしって、撮ってみたくない?」
 「…あのな。今度のコンセプト、あんた聞いてないのかよ」
 「聞いたわよ。“calm & innocence”でしょ。人選ミスよね。そうねぇ…今度の仕事では、ちょっと撮ってもらえないかぁ」
 「他の仕事でも、撮る気ないし」
 「そんなつれない事言わないでよ。じゃあ…」
 嫣然とした笑みを浮かべたカレンは、突如、瑞樹のシャツの襟元をぐいっと引っ張った。
 不意打ちを食らった瑞樹の本能が、やばい、と咄嗟に判断する。が、遅かった。次の瞬間には、カレンの唇が、瑞樹の唇を捉えていた。
 ―――おいおいおい、やめろって! 何すんだよっ!
 ただでさえ、他人の唇の感触は気色が悪い。加えて、カレンの場合、唇に塗っているグロスの感触が気色悪さに拍車をかけている。瑞樹は、自分の襟首を掴むカレンの手を乱暴に掴み、全力で唇を引き剥がした。
 「…ッカヤロ、勝手に気安く触るんじゃねーよ!」
 「んふふー、約束のキスしちゃったー」
 舌を出して笑うカレンを、半ば殺しかねない勢いで睨みつけ、手の甲で唇を拭う。拭っても、独特の気持ち悪い感触の記憶までは消えてくれなかった。
 「プロになったら、絶対撮ってよね。スケジュール空けて待ってるから」
 「撮るか!」
 「もー、冷たいなぁ。…あ、おかえり。仲直りできたの?」
 カレンのセリフに、背筋に冷たいものが走った。
 振り向くとそこには、他人の不幸を面白がっているような顔をした奏と、僅かに頬を赤らめてそっぽを向いている蕾夏がいた。その表情から、今のシーンをしっかり見られてしまったのは間違いない。
 けれど。
 瑞樹はそんなことよりも、まだ蕾夏の腕を掴んだままの奏の手の方に、目が行ってしまった。
 ―――お前…いい加減、振り解けねーのかよ。
 ふつふつと、怒りがこみ上げてきた。

***

 「あらまあ、珍しいわね、奏まで帰ってくるなんて!」
 瑞樹や蕾夏と一緒に帰ってきた奏を見て、千里は驚くと同時に、嬉しそうな笑みを見せた。もう3ヶ月近く帰っていなかったので、当然だろう。
 累も、昨日に引き続き家にいたので、久々に一宮家一同が顔を揃えたことになる。夕食の食卓は、家族4人プラス2人、という大人数でギューギュー詰め状態になった。
 久しぶりの千里の手料理を味わいつつ、奏は常に、瑞樹と蕾夏の様子を観察していた。
 奏の真向かいに座る蕾夏は、終始穏やかな笑みを浮かべて、淳也や千里の話に相槌を打っている。そんな蕾夏の隣に座る瑞樹は、何故か累に「オムレツの作り方」を教えてくれと言われて、苦労しながら説明している。
 ―――表面上、普通にしてるけど…心の中じゃ、かなり険悪になってるよな。
 別に、あの2人に別れて欲しいとか仲たがいして欲しいとか思っている訳ではないが―――もし、あのような純愛カップルが痴話喧嘩にでもなったら、面白い。実に見ものだ。部外者だからこそ許される高みの見物に、奏の口元に、不謹慎な笑みが浮かんだ。


 「奏、寝るとこ、上と下とどっちがいい?」
 夕飯が終わり、奏が累と共用している部屋に戻っていると、少し遅れて上がってきた累がドアを開け、そう訊ねてきた。
 「んー、別にどっちでも」
 「じゃあ、上でもいいかな。僕、結構遅くまで調べ物すると思うから」
 異存はないので、読んでいた雑誌に再度目を落としつつ、手を挙げて了解の意思表示をした。
 「あ、成田さん。シャワーっていつ頃使う?」
 まだ廊下にいる累のセリフに、奏はぱっと顔を上げた。
 ちょうど、瑞樹と蕾夏が2階に上がってきたところだったらしい。自分達の部屋のドアノブに手をかけていた瑞樹は、累に呼び止められ、扉を半開きにしたままこちらを向いていた。蕾夏の姿は、ちょっと見えない。
 奏は、雑誌をベッドの上に投げ出して、ドアの方へと歩み寄った。
 「フィルム整理とかあるから、まだ暫く後」
 「そう。あ…藤井さんは、先の方がいい?」
 「ううん。私も後でいいよ」
 視界の外にいた蕾夏が、そう答える。瑞樹の声も、蕾夏の声も、和やかだ。
 「じゃあ、僕と奏、先に使わせてもらうね」
 「うん、いいよ。じゃ、おやすみなさい」
 「おやすみー」
 穏やかで、ほのぼのとした日常風景。奏も、累の背後で、向かいのドアに消える2人に手を振ってみせた。

 そして、そのドアが閉まった、次の瞬間。
 闘いの幕は、切って落とされた。

***

 「やだっ! やーだー、絶対やだっ! もー、1メートル以内に近づかないでっ!」
 「なんだよそれっ! お前だって見てただろ!? あれは不可抗力で、俺は被害者だぜ!? なんでお前にこんな態度とられなきゃならねーんだよっ!」
 「何が被害者よ、何が不可抗力よっ! 隙につけ入られただけじゃない! 前から瑞樹は隙がありすぎるの! だからいろんな女の人にキスされちゃうのよっ!」
 「隙がありすぎなのはお前だろ! お前、奏にひっぱたかれたこと、もう忘れたのかよ!? 何簡単に腕掴まれてんだよ!」
 「暴力ふるうつもりかどうか位、ちゃんとわかるわよっ!」
 「そういう心配以外にもあるだろっ! 握られたのが手だったら、どうせお前、また野崎の時みたくフリーズしたんだろ!」
 「酷いっ! そんな前の話引き合いに出すなんて卑怯じゃないっ! 瑞樹だって学習能力ゼロの癖にっ!」
 「お前にだけは言われたくねーよっ、そんなこと!」


 「―――…」
 いくら防音設備がしっかりしているとはいえ、ドア1枚では、完全にシャットアウトするのは無理なのだ。微かに聞こえてくる凄まじい口論を廊下で聞きながら、奏と累は、思わず顔を見合わせた。
 「…な…なんか、凄いことになってるね…?」
 「…うーん…予想以上に、壮絶だな」
 どこか楽しげな笑みを浮かべてドアを見つめる奏に、累は顔を引きつらせた。
 「もしかして奏、これを期待して帰ってきたの?」
 「勿論。昼間も、ずーっとオレが一緒だったから、あいつら爆発する機会がなかったんだよ。2人きりになったら爆発するんだろな、とは思ってたけど…ふーん、予想以上」
 「趣味悪いと思わない?」
 「思うけど、楽しいから」
 「…奏…その歪んだ性格、なんとかした方がいいよ?」


 「もー信じられないっ! なんで瑞樹が他の女の子に抱きつかれてるとことかキスしてるとことか見なきゃいけないのよっ!」
 「俺のせいじゃねーよっ!」
 「瑞樹のせいなのっ! 瑞樹がもっと毅然としてればいいでしょっ! 隙を見せて女の子を惹きつけるからこーゆーことになるのっ! 編集部の女の子にも、そのうち抱きつかれたりキスされたりするんだから!」
 「バカ、んなことさせるかっ! お前の方が危ねーんだよ! お前には警戒心ってもんがなさ過ぎる!」
 「あるもんっ!」
 「ねぇよっ!」
 「あーりーまーすー!!」
 「ねーって言ってんだよっ! あの累だって男なんだからな! 部屋までふらふら付いてくし、頭撫でられても気がつかねーし、どこが警戒心があるって!? え!?」
 「累君は2こも下じゃないっ!」
 「上とか下とか関係あるかよ!」
 「瑞樹にはないかもしれないけど、私にはあるのっ! そりゃ瑞樹は、年上も守備範囲でしょ。舞さんだって2こ上だったしっ!」
 「お前…信じらんねー! なんで今更舞の名前が出てくるんだよっ!」
 「瑞樹が年の差の話なんか出してくるからでしょっ!」
 「あー、もう、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるせーよっ!」


 そして。
 唐突に、ドアの向こうは、静かになってしまった。

 「…あれ?」
 いつの間にか、息をつめて熱戦に耳を傾けていた累は、いきなりの静寂に目をキョトンと丸くした。
 セリフの1つ1つが明確には聞き取れないほど微かな声しか漏れてこなかったが、それでもこうも唐突に途切れると変な感じがする。首を傾げた累は、傍らの奏の顔を見た。
 「…もしかして、聞いてるの、気づかれたかな?」
 「―――…」
 奏の方もやはり、突然幕引きされた口喧嘩に、ぽかんとしたような顔をしてドアを見つめていた。が、現状を察するにつれ、その顔が、だんだんと険しくなっていく。
 双子の兄の、かつて見た事もないような険しい表情に、累は思わず後退(あとずさ)ってしまった。
 「そ…奏? どうしたんだよ?」
 「―――オレ、やっぱり、帰る」
 「え?」
 言うが早いか、奏は、部屋の中に舞い戻り、脱ぎ捨てていたコートを拾い上げた。

 累は、気づいていない。ついさっきまで、極限ギリギリにまで緊迫していた空気が、今、ふわりと和んでしまっていることに。
 奏だけが、気づいている。この沈黙の時間が、何を意味するのか。

 「な、なあ、奏っ…なんで、急に?」
 その問いかけには答えず、奏はさっさとコートを羽織り、階段を駆け下りた。途中、千里の声が聞こえた気がしたが、構わず外に飛び出す。もう1秒たりとも、あの家の中にいたくなかった。

 ―――馬鹿だ。オレは。
 こんなことして、何になる? こんな馬鹿げたゲーム位で、あいつらの間が突き崩せる訳もないのに。

 この前感じた嫌な感じの震えが、また甦ってくる。あの震えに侵食される前に、少しでも遠くへ行ってしまいたい。
 そうしなければ―――自分が、酷く、凶暴で凶悪な人間に変わってしまいそうだった。


***


 壁に縫いとめた蕾夏の手が、息苦しさを訴えて、何度かもがく。
 それに気づいて、瑞樹は、蕾夏の唇に押し付けていた唇を離した。
 息苦しさから解放されて、吐き出す息と一緒に憤りや熱がすっと引いていく気がする。ほんのちょっと前、声が嗄れるほど怒鳴りあっていたのが嘘みたいに。
 「…こういう誤魔化し方、嫌い」
 真っ赤な顔をして、少し恨めしそうな目をする蕾夏に、瑞樹の中に(くすぶ)っていた苛立ちが、やっと少し緩和された。
 「お前が舞の名前なんて出してくるからだろ。全く…俺の方は何とも思ってなかったって、何回説明すりゃわかるんだよ」
 「―――ごめん…」
 叱られた子供みたいな声に苦笑し、瑞樹は宥めるように、蕾夏の額に唇を落とした。
 「もう、拗ねんなよ」
 「…うん。もう大丈夫。瑞樹は?」
 「俺は―――…」
 俺も大丈夫、と言いかけた瑞樹の頭の中で、1人の存在が、それに「待った」をかけた。
 「―――蕾夏」
 「なに?」
 「奏には、注意した方がいい」
 瑞樹の言葉に、蕾夏の目が、不思議そうに丸くなる。
 「え…、どうして? 奏君、もう私を叩いたりしないよ、きっと。今日、ちゃんと笑って話せたもの」
 「いや、そういうんじゃなく…」

 どう、説明すればいいのだろう。今日感じた、あの空気を。
 あの後、カレンも含めて4人で話している時、時田の事務所までついてきた時、そしてこの一宮家までついてきた時―――瑞樹はずっと、感じていた。奏の気配を。
 瑞樹と蕾夏にとっては好まざるこの状況を、奏は、楽しんでいた。
 2人で落ち着いて話せる時間などできないよう、常に瑞樹にくっついて回っていた奏は、間違いなくこの馬鹿げたゲームの首謀者だ。カレンによって起きたアクシデントを、彼は自分のゲームのために利用したのだ。
 ただの「ひねくれ者」なら、それで構わない。人の不幸を楽しむような歪んだ嗜好の持ち主と割り切れば、それで済む。
 けれど―――…。

 「―――とにかく、警戒した方がいい」
 「…でも…」
 「…頼むから」
 掠れたような、彼らしくない声に、蕾夏もただならぬものを感じ、思わず頷いた。それに安心したのか、瑞樹は、やっと手首を解放して、蕾夏をぎゅっと抱きしめた。


 危険。本能がそう、察知する。
 けれど、それがどんな危険なのか―――それは、蕾夏は勿論のこと、瑞樹にもまだ、はっきりとは見えていなかった。


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