Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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「にーちゃ」
―――誰だっけ、こいつ。
俺の視線よりずっと低い所にある、大きな目。生意気そうな口元。3歳か4歳か…その位。
…ああ、そうだ。思い出した。この、「兄ちゃん」と言ってるつもりで、うまく発音できていない呼び方。
こいつ、イズミだ。
そう言えば、こんなシーン、見覚えがある。大学の春休みに帰省した時の、神戸港で。
なんで今頃―――そうか、蕾夏が舞の名前なんか出すから、思い出したのか。
「にーちゃ」
「なんだよ」
「あれ、とって」
―――どれ?
イズミが指差す方向を見るけれど、何も見えない。
「あれって、何だよ」
「あれ。あの、そらにいるやつ。カメラでとって」
「俺には見えねーよ」
「いるよ」
「てんしが、いるよ、あそこに」
「瑞樹」
軽く肩を揺さぶられて、瑞樹は夢から覚めた。
が、眠たげに開けた目に飛び込んできたものの姿に、一瞬、夢の続きかと思って、
車窓から射し込む光の加減で、蕾夏が本当に天使みたいに見えたのだ。光の中に、そのまま消えてしまうんじゃないかと思えるほどに。
「? どうしたの?」
「…い…や、なんでも…」
「変なの。でも、よく眠ってたね。もうすぐ着くよ、ヘイスティングズに」
「……」
「―――瑞樹? 大丈夫?」
不思議そうな顔をする蕾夏をよそに、瑞樹はぐしゃっと髪を掻き上げ、決して座り心地が良いとは言えない列車の堅い座席にズルズルと沈み込んだ。
2月に入った最初の日、2人は久々に、プライベートで写真を撮るために、イギリス南東部の町・ヘイスティングズを目指していた。
ここ最近、疲れているのかもしれない、が、疲れている、に変わりつつある。ちょっと気分転換が必要な時期なのは、どちらの目にも明らかだった。だから今日は、心の洗濯をしに行くつもりでいる。
写真を撮って「疲れる」なんてことになるとは、予想もしなかった。趣味で撮っている分には、どれだけ歩いても、何十枚撮り続けても、疲れたことなど一度もなかったから。
商品撮影の試し撮りなどを命じられるのは、比較的楽だった。商品写真で大切なものは「質感」だということは、ある意味常識的だから。果物のみずみずしさ、ガラスの透明感、ブランケットのふんわりした柔らかさ―――そういうものを見る者に感じ取らせればいいのだ、と、ちゃんとわかる。だから、撮れる。時田の指示通りに。
けれど、どうしても困るのが、スナップ撮影。
感動するようなシーンに出会う。心を震わすような風景、最高に綺麗な夕日、思わず顔がほころんでしまうような人々の日常風景―――撮りたい、と、強烈に思う。今感じている感動を、写真に焼き付けて残したい、と。その衝動のままに、撮る。そして、その時感じたものは、確かに写真に全て残っている。
でも―――それでは駄目だ、と言われてしまった場合、どうすればいいのか途端にわからなくなる。
感じているもの全てを撮ったのでは、受け手は混乱する、と時田は言う。わかりやすく、一番強烈に感じたものだけを撮れ、と言う。だから、衝動のままに撮った後、少し考えてみる。
俺は今、何を一番感じているんだ? と。
でも、見えてこない。ただ、感動している。その場の空気に、色に、被写体が生み出すフォルムに。そのどれもが強烈で、1つだけ選ぶなんてできない。
試行錯誤を繰り返し、同じ場所で何枚も何枚も撮る。そして―――決まって、瑞樹が一番納得する出来なのは、最初に撮った“本能そのままの写真”なのだ。
「…好きなことを仕事にするって、辛いね」
ふいに、向かいの席の蕾夏が、そんなことを呟いた。
思いがシンクロしやすいのか、瑞樹と蕾夏は、こんな風に同じ時に同じ事について考えていることが多い。蕾夏も、ぐったりとしている瑞樹を見て、写真のことに思いを馳せていたらしい。
「好きなことを仕事にすると、楽しく仕事ができるんじゃないか、ってどっかで思ってたけど…逆なんだよね。好きなことを楽しめなくなっちゃう―――それって、辛いね」
「…まぁな」
「それでも、写真の世界で生きていきたいでしょ?」
真っ直ぐに見つめてくる蕾夏の目を見つめ返し、瑞樹は、微かに口元をほころばせた。
仕事なんて、何をやったって苦しい。同じ苦しむなら、捨てきれないもののために苦しんだ方がいい。
シャッターを切る瞬間の、あの高揚感にとりつかれた人間。そんな連中が、写真の世界で生きていくのかもしれない。そして、瑞樹もまた、そういう快感にとりつかれた人間の1人であることだけは、間違いなかった。
***
遠目にはなんだかわからなかった本日の目的地・ヘイスティングズ城は、間近で見ると、廃墟そのものだった。
「うわー…お城とは言っても、もう城壁とかしか残ってないんだね」
平日ということもあって、人もあまりいない。崩れ落ちた城壁は、どこか痛々しくさえ見えた。あまり予備知識を入れてこなかった蕾夏は、その寂しげな風景に眉根を寄せた。
「中世に破壊されまくったらしいからな…。でも、歴史を感じさせるだろ」
「うん。なんか、いろんな物が見えそう。ここって、例の“ヘイスティングズの戦い”のゆかりの地でしょ?」
「らしいな。海も近いし、いろんな意味で戦いの場になりやすかったんだろ。そんな場所にある城が、綺麗なまま残ってる方が、よっぽどナンセンスかもしれないな」
「…あ。ここのイメージにピッタリな言葉、思いついた」
「何?」
「“つわものどもが夢のあと”」
「―――イギリスで、いきなり“奥の細道”かよ」
冬の冷たい風にさらされた荒涼とした風景は、寂しいけれど、心惹かれる。瑞樹は、あらゆるアングルでシャッターを切った。
何も考えずに。
どんな計算も、どんな苦悩も乗せずに。
今、何を撮っているのか、という頭は、一切働かない。ただ、感じたまま撮るだけ。何を伝えなくてはいけないか、とか、どの部分が一番強烈なインパクトがあるか、とか、何を中心に据えれば第三者にはわかりやすいか、とか―――そんなことは、今日の瑞樹は、考えない。考える必要がない。
これは、仕事とは関係ない写真だから。
これは、瑞樹と蕾夏だけの時間だから。
良くないことだという事は、十分わかっている。こういう時も、仕事を意識して撮らなくてはいけないだろう。瑞樹はまだプロではないのだから、日頃の訓練がものを言う。それは、わかりすぎるほどにわかっている。けれど―――この時間を完全に失くすことだけは、瑞樹にはどうしてもできなかった。
「どんな感じ?」
風に乱れる髪を掻き上げながら、蕾夏は笑顔で瑞樹を振り返って訊ねた。
そんな蕾夏の姿にまで、瑞樹はカメラを向け、シャッターを切った。
「生き返るって感じ…かな」
「…うん。私も、そんな感じ」
蕾夏も、このところずっと、こんな時間が持てなかった。
瑞樹の撮影に同行しても、感じたままを口にするのが、だんだん怖くなっている。自分が感動をあらわにすることで、「10を感じ、9を捨てて、1を撮る」という瑞樹の取捨選択を混乱させるのが怖い。だから、一緒に撮影に行っているのに、こんな感覚は全然味わえない。
言葉のいらない時間―――同じ被写体を追いかけ、感動を共有する時間。ずっと2人が大事にしてきた、唯一とも呼べるもの。蕾夏もまた、それが瑞樹がプロとしてやっていくには邪魔になるものではないか、という不安を感じつつも、この時間を失うのだけは嫌だった。
「でも、時田さん、こういう本来の瑞樹の写真を見ても、“駄目だ”とか“やめろ”とか言わないよね」
「そうなんだよな…。年越しの時にアドバイスくれただけで、後は何も言わねーから、結構困る」
「あ、でも、商品撮影は褒められたじゃない? これなら、この分野はもう任せられるって」
「商品は、な。けど…俺、あんまり好きじゃねーんだよな、あれ…」
わがままの許される立場ではないが、思わず渋い顔になってしまう。
「商品は確かに、苦も無く撮れるけど…撮りたい、って気持ちを持たずに撮るのは、どうも性に合わない」
「じゃあ、どの分野を目指すの?」
「…まだそこまでは、見えてこないな」
ただ、心を、動かされたい。
撮りたい、という衝動のままに、撮りたい。けれど、それがプロとして許されないのだとしたら―――何を撮ればいいのだろう?
「…あー、ごめん。今日はそういう難しい話はナシだったよね」
少し難しい顔になった瑞樹を見て、蕾夏はちょっと大げさな位にすまなそうな顔をして手を合わせてみせた。場を和ませるためのオーバーさだと察し、瑞樹はちょっと笑って、蕾夏の頭にポンと手を乗せた。
「わぁ…ねえ、見て! ここから海見える」
ヘイスティングズ城の周囲に広がる丘に出たところで、蕾夏が歓声を上げて遠くを指差した。
眼下に、ヘイスティングズの街並みと英仏海峡が見える。そう言えば、イギリスに来てから、海らしい海はあまり見ていなかった。
「ね、もしかしてあの海の向こうにうっすら見えるのって…フランス?」
「だろうな」
「すごーい! イギリスにいるのに、フランスが見えるなんて。うわー、あんなに近いんだ…」
「ドーバー海峡行けば、もっと近く見えるかもなぁ…」
天気が良いからこそ見られた景色だろう。瑞樹も好天に感謝しつつ、シャッターを何度か切った。
「なんか、ここの海って、丸く見えるよな」
何気なくそんなことを口にしたら、蕾夏が嬉しそうな顔をして振り向いた。
「瑞樹もそう思った? なんか、水平線が丸く見えるよね。地球って丸いんだ、って感じがする」
地球の丸さを感じる―――そんな、人によっては幼稚とも捉えかねない部分でも、何故か2人はシンクロする。
だから、そのままを撮る。何も足さず、何も削らず、そのままを。
出来上がった写真には、きっと「地球の丸さ」が写っているのだろう―――たとえ、2人以外の人間には、それが感じ取れないとしても。
***
カムデン・パッセージの家に帰りついたのはかなり遅い時間だった。
「夕飯は要らないって言うから何も準備しなかったけど、ちゃんと食べてきた?」
出迎えた千里が、へろへろ状態の2人を気遣ってそう言うが、へろへろなのは空腹のせいではない。
「大丈夫。夕飯は食ってきたから。これは…歩き疲れだよな」
「うん…ヘイスティングズ回っただけじゃ足りなくて、ライまで足のばしちゃったから」
ヘイスティングズから列車で30分ほどのところに、綴りは違うものの蕾夏のハンドルネームと同じ響きの街があったため、急遽足をのばしてしまったのだ。中世風の可愛らしい街並みは、“趣ビル”好きの蕾夏をいたく刺激した。おかげでフィルムが足りなくなって、2本買い足したほどに。
「じゃあ、疲労回復のために、ローズヒップティーを進呈しよう」
ダイニングテーブルに半ば突っ伏すようにしていた瑞樹と蕾夏の目の前に、淳也がティーカップをトン、と置いた。紅茶は淳也の趣味のひとつで、かなりこだわっているのだ。
「ああー、ありがとう。淳也さんの紅茶っておいしいから好き」
「何が違うんだろうなぁ…。お前淹れると、見た目綺麗なのに、絶対渋いよな」
「う…、また淳也さんに習うもん」
「あ、そうだ。累が蕾夏に、これ渡しておいてくれって。今日、会社で渡されたよ」
香り高いローズヒップティーに酔いしれているところに、淳也が1通の封書を差し出してきた。
途端、蕾夏の表情が、明らかに狼狽したものに変わる。
「…あの、これ、中身何だって言ってた?」
「さぁ? 僕は全然聞いてないよ。ただ蕾夏に渡してくれって言われただけで。ああ、添削よろしくって」
「―――うわ…本気だったんだ」
思わず頭を抱えてしまう蕾夏を、話の見えない瑞樹と一宮夫妻は、怪訝そうな顔で眺めた。
「何なんだよ、それ」
「…ラブレターの添削」
「はぁ!?」
「累君、今、雑誌に投稿する小説を書いてるの。で…その中で、ラブレターが出てくるんだって」
「…もしかして、それを蕾夏に添削しろってことか?」
「うん。女心をくすぐるようなラブレターがいいから、って」
「ちょっとちょっと、どんなのよ? 見せて見せて」
呆気にとられる淳也と瑞樹をよそに、千里は興味津々だ。封書を取り上げようとするのを、蕾夏が慌てて奪い取った。
「ダメダメ、絶対両親には見せるなって言われてるからっ。私の文章の先生やってもらってるお礼に引き受けたんだから、約束破る訳には…」
「ええー、いいじゃないのぉ。親としてすっごく興味あるわ。あの子ってば、奏と違って恋愛に疎いじゃない? あの子の頭の中でどんな恋愛が展開してるのか、是非見てみたいのよぉ」
「と、とにかく、見せるのは駄目っ」
「じゃあ、今ここで読んで、内容を要約してみせてよ。それならいいでしょう?」
「…うー…」
「淳也だって聞きたいわよねぇ? あの累が書いたラブレターよぉ?」
「いや…うーん、どうだろうねぇ」
言葉を濁す淳也だったが、その目を見れば、興味がない訳じゃないのは明々白々だった。
「瑞樹だって聞きたいでしょ?」
「別に」
本心でそう答えたら、テーブルの下で足を軽く蹴られた。千里の真向かいになんて座るんじゃなかった、とちょっと後悔する。
「…じゃあ、とりあえず、読んでみるから」
千里の勢いに押され、蕾夏は渋々、薄いベージュ色をした封書を開けた。
入っていたのは、封筒とお揃いの便箋が1枚。時田の写真集のために書かれたあの大学ノートの日本語同様、英語も繊細で優しい筆記体だった。蕾夏はそれを真剣な面持ちで読み進め、そんな蕾夏を千里は真剣な面持ちで見つめた。
「どう? なんて書いてあるの?」
「ま、待って、まだ読んでる途中…」
眉間に皺を寄せて読み進めた蕾夏は、ある単語でピタリと視線を止め、ちょっと困った顔をした。
「これって、どういう意味で使ってるんだろう…」
「何?」
「heart's blood―――まさか、生血、って意味で使ってる訳じゃないよね」
「あらま。情熱的な言葉が出てきたわね」
千里は目を輝かせ、同意を求めるように、隣に座る淳也の腕を肘で小突いた。
「あなたがプロポーズで使った言葉よねぇ?」
意外な展開に、瑞樹も蕾夏も、少し目を丸くする。もしかしたら累は、そういった逸話を聞かされていて、それをラブレターに盛り込んだのかもしれない。
淳也は、照れたような笑顔を見せ、感慨深げに説明した。
「heart's bloodは、勿論生血とか生命って意味だけどね。僕は“たいせつなもの”って意味で使ったんだよ。この心臓を流れる血と等しいほどに、君という存在が無くては僕は生きていけない―――って感じかな」
「…はー…なるほど」
便箋に目を落としたまま、蕾夏は顔を赤らめた。情熱的というか…口にするには、あまりにも激しすぎるセリフだ。
「あの頃は淳也も私も若かったからねぇ…血がもっと熱かったのよね、きっと。―――で、どうなの? 累のラブレターの中身は」
「う…うーん…そ、それが…ちょっと説明するのも辛いものが…」
ますます顔を赤らめる蕾夏に、どうもこの顔に弱い瑞樹まで赤面しそうになってしまう。慌てて席を立った瑞樹は、蕾夏の腕を掴んで問答無用で引き上げた。
「お前、翔子にメール出すって言ってただろ。明日撮影だし、早くした方がいい」
「あ、うん、そうだね」
渡りに船とばかりそそくさと便箋を仕舞う蕾夏に、千里は大いに不満な顔をした。
「ええー、気になるじゃないのぉ。メール位すぐ出せるでしょ?」
「つ、疲れたしっ。淳也さん、紅茶ご馳走様」
いかに千里が膨れようとも、これ以上ここにいると瑞樹も蕾夏もそれぞれにまずい事になりそうなので、一切取り合わずにダイニングから逃げ出した。
勿論、淳也と千里はこの後「蕾夏が説明するにも辛いものがあると表現するほどのラブレターとはどんなものか」について、延々と推理し合う訳だが…。
***
蕾夏がドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
いや、正確には違う。デスクライトだけは一応つけてあるから、部屋の中は一応ちゃんと見える。ただ、部屋全体の照明が、既に落ちていた。
「瑞樹? どこ?」
「上」
ロフトに上がっているらしい。蕾夏は髪を乾かすのに使ったタオルを置いて、ロフトに続く階段を上った。
瑞樹は、フロアベッドに寝転がって、天窓にカメラを向けていた。
「天窓撮ってるの?」
「んー…、今日、いつもより月明かりが凄いから」
「今日ってお天気ほんとに良かったもんね。でも…そんな体勢で、よく撮れるね」
「三脚で撮った方が良かったかな…手ぶれしてそうで怖い」
フラッシュをたかずに露光させて撮ったので、手ぶれを起こしていたら意味不明な写真になっていそうだ。瑞樹は勢いをつけて起き上がると、ベッドサイドのライトをつけた。
「ところで、さっきの累のラブレターって、結局、蕾夏の目から見てどうだったんだ?」
蕾夏の反応が妙に歯切れが悪かったのが気になっていたのでそう訊ねると、蕾夏は困ったように眉を寄せた。
「…それがねぇ…採点し難いもんがあるんだよね」
「そんなに酷いのかよ。あいつ、プロのライターだろ?」
「そうなんだけど、文章のうまさとラブレターの情感って、また別物というか―――うーん、瑞樹にも見てもらおうかな」
サイドボードの引き出しに放り込んでおいた封書を取り出すと、蕾夏はそれを瑞樹に差し出した。両親には絶対見せるな、と言われてはいたが、誰にも見せるな、とは言われていない。瑞樹に見せる位なら、別に構わないだろう。
瑞樹は、ベッドの上にあぐらをかくと、便箋を広げ、ちょっと難しい顔をしてそれを読み始めた。が―――半分ほど読み進んだところで、その顔がだんだん笑いをこらえているような顔になっていく。
「…どう?」
瑞樹の隣に腰を下ろした蕾夏が訊ねると、瑞樹は、ちょっと待て、という風に手でそれを制した。そして最後まで読み終わると、あまりの衝撃にベッドの上にごろんと転がってしまった。笑いを耐えているので、その肩が震えている。
「…すげー…累のやつ、シェークスピアにでもなったつもりかよ」
「私は“シラノ・ド・ベルジュラック”を思い出した。もう、読んでる間、背中のへんがむず痒くてむず痒くて…」
「こんなこと書くヤツ、今時いるか? この世の光だの女神だの…貰った女の方が引くんじゃねーの?」
「私なら、100パーセント、引く」
「すげーロマンチスト…。で? 蕾夏はどう添削するんだよ」
「添削以前の問題だと思うから、口頭で説明しようかなって思ってる。でも…累君て絶対、ラブレター書いたことも愛の告白したこともないよね」
「ないだろうなぁ…あったら、こうはならねーだろ」
寝転がったまま、もう一度便箋を眺める。が、ふとある事に気づき、瑞樹は訝しげに眉をひそめた。
「…けど、なんかこの表現、お前を彷彿させるな」
「え?」
「“ぬけるように白い肌”に“流れる黒髪”だぜ? 大喧嘩した後の仲直りの手紙のつもりが、途中からラブレターになってる、って設定なのも気になる」
「…大喧嘩…したよね、この間」
「累が帰って来てる日にな」
なんとなく、顔を見合わせてしまう。嫌な予感が頭をよぎるが、それをあえて無視し、蕾夏は瑞樹の手から便箋を取り上げた。
「ま、まあ、明日の朝ここに寄るみたいだし。その時に口頭で話しとく」
「朝って何時ごろだよ。明日って例の“シーガル”の撮影だろ」
「大丈夫。電話してから来るって言ってたから」
そう言いながら、便箋を折りたたんで封筒に入れる蕾夏を、瑞樹は寝転がったまま眺めていた。
白のナイティを着た蕾夏は、天窓から射し込む月明かりで青白く照らされて、ロンドンに来た最初の日見た時同様、この世の生き物ではないように見える。何度か瞬きしたら消えてしまいそうで―――どこかに行ってしまいそうで、見ていて苦しくなる。
瑞樹は、無意識のうちに手を伸ばして、放り出してあったカメラを掴んだ。
カメラを蕾夏に向け、構える。ファインダー越しにその姿を捉えると、視線に気づいた蕾夏が、はっとしたように瑞樹の方を見た。
「え…っ、撮るの?」
「撮りたい」
「ええー、でも、こんな格好だよ?」
「その格好だからだよ。滅茶苦茶撮りたい」
やはり寝間着姿というのが抵抗があるのだろう。蕾夏は、ちょっと恥ずかしそうに笑い、俯いた。その瞬間、シャッターを切る。
「お前、よくここで、寝る前に膝抱えて考え事してるだろ。ああいう姿見ると、撮りたくなる」
「ああ…こんな風に?」
「そう、そんな感じ」
蕾夏が首を傾けると、黒髪が、サラサラと音を立てそうな感じで、肩から滑り落ちる。スローモーションを思わせるその動きに
―――兄ちゃん、天使がいるよ、あそこに。
あの日、イズミは、何を見ていたのだろう?
子供の目には、本当に天使が見えていたのかもしれない。子供は大人には見えないものを見る力を持っているから。
イズミが見た天使は、どんな姿をしていたのだろう。宗教画で見るような天使だろうか―――それとも、今目の前にいる、蕾夏のような姿だろうか。
衝動が、襲ってくる。撮りたい、もっと撮りたい、と。
蕾夏にカメラを向ける時は、いつも無心でいられる。彼女の魅力を引き出さなくては、という頭を働かせなくても、自分というフィルターを通せば、そこには魅力的な蕾夏しか残らないから。
かつて、蕾夏の父に訊ねられたこと。「瑞樹君が撮りたい物は、何だい?」―――あの答えは、ここにある。
蕾夏を撮りたい。
この世で一番、心を動かされるもの。撮りたい、という衝動に駆られ、撮らずにはいられないもの。蕾夏を撮りたい。もっと、ずっと。
「も、もうやめようよ。やっぱり恥ずかしいよ」
耐え切れなくなったのか、蕾夏が、ちょっと怒ったような顔を作って、瑞樹のカメラに手を伸ばした。
「いつもよか、色っぽく撮れると思うけど?」
「尚更やだっ!」
クスクス笑っていた瑞樹は、カメラをサイドボードの上にコトリと置いて、蕾夏の体を抱き寄せた。
「ほんと、お前って、面白い」
「お…面白いって…なんか、腹立つっ」
余計にむきになる蕾夏に笑ってしまいながらも、無意識のうちに、手のひらが蕾夏の体の線を辿ってしまう。手のひらに感じる、コットン地のさらさらとした感触―――でも、それではすぐに、足りなくなる。
体勢を入れ替え、蕾夏の背中をベッドに押し付けた。髪の感触を、頬の感触を、指先で確かめるけれど―――でも、それでもまた、物足りなさを感じてしまう。
撮りたい、という思いと、欲しい、と思う気持ちは、どこかでリンクしているのだろうか。
気が違いそうに―――飢餓感に、煽られてしまう。
胸元のボタンに手を掛けると、蕾夏の表情が、一瞬、強張る。小さな肩がほんの少し震え、微かに息を呑む。
そこに、蕾夏の中に眠る暗い過去を、見つけてしまうから。
「…怖い?」
つい、訊かずにはいられなくなる。
頷けば、いつだって死ぬ気で思い止まる。けれど、きゅっと唇を引き結んだ顔は、小さく首を横に振った。こんな時いつも、無理をさせている気がして心が痛む。けれど…結局、その痛みに目を瞑る。その代わりに、優しくしようと思う。最大限優しく。
そうしないと、侵食されてしまう。自分の中に巣食う、得体の知れない狂気に。
ずっと前から、蕾夏に対してだけ持っている、コントロールの効かない狂気に。
こんな瞬間、怖くなる―――心も体も手に入れてもなお、まだ満足できない、自分の貪欲さに。
「蕾夏」
「…うん」
名前を呼ばれただけで、何故いつも蕾夏が涙を流すのか、わからない。
「蕾夏―――…」
名前を口にするだけで、何故いつも苦しくなるのか、わからない。
わかるのは、触れていないと、抱きしめていないと、蕾夏を感じていないと、息ができないということ。ただ、それだけ。
“heart's blood”―――君がいないと、生きていけない。
淳也の言葉は、真実かもしれない。
***
「おはよー。今日もいい天気だね」
朝食も終わって、そろそろ出かけるか、という時間になって、累が一宮家に現れた。
「藤井さん、読んでくれた?」
千里と淳也が傍にいない事を確認して、累はひそひそ声で訊ねてきた。リビングで書類を広げて今日のスケジュールを確認していた瑞樹と蕾夏は、そろって眉をひそめたような表情を累に向けてしまう。
「読んだけど…あれは、ちょっと、あまりにもあまりだと思う」
「えっ…主人公の彼女に対する気持ち、伝わらなかった?」
「いや、そう言うんじゃなくてさぁ…なんて言えばいいんだろう」
困ったように蕾夏がチラリと瑞樹の方を見る。え、俺? という顔をした瑞樹だったが、男同士の方が話がわかりやすいのかもしれない、と思い直し、なるべく端的に批評した。
「伝わる伝わらない以前に、並んでる文句だけで、女は引くと思う」
「引く?」
「思い入れが強すぎて、怖いって思う可能性が高い。俺が女でも、このラブレター貰ったら、こいつ大丈夫か、って不安になる」
「…うーん…そうか。もっとあっさりしてた方がいいのか。本音を書いちゃ駄目なんだな」
「いや…っていうか、これが本音なのかよ、この主人公」
「あり得ないかな」
困った、という顔で、自分の書いたラブレターを読み返す累に、彼のイメージする恋愛とは一体どんな状態なんだ、と不安になってくる。もしかして、ハーレクインロマンスばりの非現実的な大ロマンスが展開しているのだとしたら、小説を書くにはいいかもしれないが、現実の恋愛の方が心配だ。
「ねぇ、累君。その小説って、どんな話なの?」
「ん? カメラマンとモデルの話」
蕾夏の質問に対する累の答えに、瑞樹も蕾夏もフリーズした。
「もともと親友同士で、お互い好きなのになかなか恋人に昇格できないんだ。で、大喧嘩したのをきっかけに、主人公が彼女にこのラブレター渡して、自分の本心を伝える、って展開にしようと思ってたんだけど…うーん、そうか、本音をストレートに書いちゃ駄目なのか…」
「―――…」
―――絶対、俺達がモデルだろ、おい。
昨日の嫌な予感が、確信に変わる。にしても―――このラブレターは、いくらなんでもあんまりだ。
「累…一度、小説全部を、蕾夏の検閲受けた方がいいと思うぞ」
でないと、どんな事が書かれているか知れたものではない。投稿した小説が採用されたりしたら、下手をすれば自分達の恥をイギリス全土に広めるような事にもなりかねない。恐ろしい話だ。
「あ、そうだね。僕も藤井さんの書いた紀行文、全部読んでる訳だし―――はい、これ。まだ半分も書けてないけど」
常に持ち歩いているらしく、累は鞄の中から原稿の束を取り出し、蕾夏に差し出した。とその時、廊下に置かれた電話が鳴ったので、累はそそくさと電話を取りに行ってしまった。
受け取った原稿の1枚目には、タイトルとおぼしき文字だけが書かれていた。
“Under the same roof(一つ屋根の下)”…恐ろしいほどに、ネタ元がバレバレなタイトル。
「…瑞樹…これ読む勇気、ある?」
「…ねぇよ」
「…私だって無いよ」
原稿束を手に、何ともいえない気分になる2人だった。
***
「…あ、成田君? 累君が出るから驚いたよ、またそっちに行ってたんだね。…いや、まだ家だよ。今日、スタジオに直行するから、悪いけどオフィス寄って、必要なもの持ってきてくれるかな。…そう、その辺り。…え? ああ、それはいい。…うん…ハハハ、そうだね。あ、それと、藤井さんに、白っぽい服着てくるように頼んでくれるかな。カメラテストで代役お願いしたいから―――ああ、わかった。じゃあ、また後で」
受話器を置いた時田は、大きなため息をひとつつくと、ドアの向こうのベッドルームを振り返った。
「今日はモデル撮影なのね」
ドアの向こうから聞こえてくる声が、少し刺々しく感じられる。
「どんな子? 魅力的?」
時田はそれに答えず、チェストの上に置かれたアジアンタムの鉢に、霧吹きで水をあげた。全部で3鉢。今、時田が一番大切にしているものが、これだ。
ドアの向こうの気配が動く。着替え終わったのだろう。
「私のことは、撮ってくれないのね」
がたん、と音がして、半開きだったドアが大きく開く。
「…もう魅力がなくなった? 昔は私以外撮りたくないって言ってたのに」
彼女を無視して水遣りを続ける時田の口元に、何とも言えない笑みが浮かんだ。
そう―――昔は、そうだった。
君以外、撮りたくなかった。それどころか、君さえいれば、他には何も要らないとさえ思っていた。あの頃は。
“heart's blood”―――姉の千里に、何度となく
君さえいれば、他には何もいらない。君がいなくては、生きていくことができない。
だからこそ、君を失った時に、僕は一度、死んだんだ。
生き返るために、どれだけの時間を要したか…君には、わかるまい。
君を失った僕が、それと同時に何を失ったか―――君には、わかるまい。
「郁夫」
彼女らしからぬ弱い声が、時田の名を呼んだ。
「最初からやり直すのは、もう無理なの?」
―――たちが悪い。本当に。
時田は、疲れたような笑みを浮かべてため息をつくと、霧吹きを少々乱暴にテーブルの上に置いた。
目を上げ、彼女を見据える時田の顔は、とてつもなく冷たかった。おそらく、姉も、義兄も、2人の甥も見た事がない顔―――誰も信じないだろう。こんな顔を、あの時田がするなんて。
「撮影に出なきゃいけないんだ。帰ってくれ」
「……」
「それとも、5年前と同じように、追い出されたいかい?」
彼女の顔が、蒼褪めた。5年前の手酷い仕打ちを思い出したのだろう。
「君が誰と一緒になろうと、僕が誰と一緒になろうと、それは僕達それぞれの自由だ。けれど―――僕達2人は、絶対に一緒になることは許されないんだよ、もう」
「…わかってるわ」
「なら、帰るんだ」
そう言い放ち、時田はそれ以上の会話を拒否するように、踵を返した。彼女の横をすり抜け、着替えるためにベッドルームに向かう。
何度追い出されればわかるのだろう?
何度拒絶すれば懲りるのだろう?
彼女だけじゃない―――時田も、そうだ。追い出したのに、拒絶したのに、また同じ事を繰り返す。何故、はじめからいなかった人間のようなフリをして生きていくことができないのだろう?
―――消せないものが、たった1つだけ、あるから。
自分達の愚かさを、否が応でもつきつけてくるものが、たった1つだけ存在しているから。
時田の背中に、さっき置いた霧吹きがぶつけられた。がつっ、という音を立てて右の背中にぶつかり、床に落ちる。その勢いで、カーペット張りの床に水が零れ落ちた。
「酷い男…!」
―――そう。僕は、酷い男だ。
君が、酷い女であるようにね。
僕は一生、君を撮ることはないだろう。
どんなに心惹かれても、死にかけた本能が君を求めても―――僕はもう二度と、君だけは、撮らないだろう。
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