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 “シーガル”の撮影は、一軒家をイメージしたスタジオのテラスを利用して行われた。
 ガラス戸部分を背に植物などを配して、なんとか和風ムードを作ろうという作戦らしい。午後からの撮影のために、朝から瑞樹と蕾夏がスタジオに直行したのも、実はそんなセット組みの問題があったからだ。


 「ええと、成田君だっけ。この間はお疲れ様」
 2人とほぼ同時にスタジオ入りした広告代理店の女性は、“シーガル”社の打ち合わせで既に瑞樹とは顔を合わせている。瑞樹の顔を見てニコリと笑った彼女だったが、その隣にいる蕾夏を見て、少し眉をひそめた。
 「あら。彼女同伴? 困るわよ、仕事とプライベートは分けてくれないと」
 「いや、彼女も時田さんのアシスタントです」
 瑞樹の説明を聞いて、意外、という顔をする彼女に、蕾夏は苦笑しつつちょっと頭を下げた。
 「藤井蕾夏です。アシスタントのアシスタント、って感じですけど…一応、時田さんのアシスタントです」
 「あ、あら、やだ、そうなの! ごめんなさいね、失礼なこと言って」
 彼女は慌てたようにそう言うと、少し改まった態度で蕾夏に手を差し出した。
 「私、鈴村美和。今回の広告の総指揮を取ってるの。同じ日本人ってことで、カメラマン指定がない場合は、よく時田さんにお願いしてるのよ。大御所になってもフットワークの軽い人で助かってるわ」
 「あはは、確かにフットワーク軽いですよね」
 「ねぇ。少しは仕事、絞ればいいのに」
 困った人よね、という風に笑う美和は、明るい色のショートヘアーや蕾夏より10センチ近く高い背、健康的な明るさなどから、どこか佳那子を彷彿とさせる。勿論、佳那子の方がはるかに美人だし、多分年齢も佳那子の方が幾つか若いだろう。が、醸しだすムードがとてもよく似ているので、蕾夏は、いいムードで仕事ができそうだな、となんとなくホッとした。

 日本向けを意識しているせいか、広告代理店側のスタッフは、美和を含め3人とも日本人もしくは日本に詳しい人間だった。
 撮影の前準備では英語が飛び交っているのが当たり前な日々を過ごしていたので、セットの確認を日本語で行えるのはありがたい。英語が達者な蕾夏が主に機材関係のセッティングを日本語のできないスタジオスタッフと一緒に行い、瑞樹は広告代理店専属のアートディレクターと一緒にセット組みに時間を費やした。
 「それにしても納得いかないねぇ…この設定」
 川野という名の、瑞樹より若干年上のアートディレクターは、絵コンテを見ながら眉を顰めた。どこで調達してきたのか、日本の夏の風物詩・立簾(たてす)を、磨かれたテラスのガラス戸に立てかけていた瑞樹は、絵コンテを振り返りながらその言葉に同意した。
 「川野さん、反対意見出さなかったんですか」
 「出したに決まってるだろ。時田さんだって出してたし…。けどなぁ。“シーガル”のお偉方が、何かこの設定に思い入れがあるらしくて、一切妥協をしてこないんだよ。いっそ、その駄目さ加減を見せつければ、考えも変わるかもしれないけどね」
 「それは一理あるな」
 「成田君なら、どう撮る? 今回の広告」
 いたずらっぽい目線でそう言う川野に、瑞樹は少し考え込んだ。
 「俺なら…あえて、和風の小物は一切使わない、かな。いっそ白背景で、モデルだけの方がいいかも」
 「ほほー。その心は?」
 「カクテルって、色が綺麗でしょう」
 セットを組みながら、それをずっと感じていた。
 背景がごちゃつき過ぎている。これでは、カクテルの小瓶の透明感も、カラフルな色合いも、全く生きてこない。ならば、背景は一切ない方がいい。
 それを説明すると、川野はうんうん、と嬉しそうに大きく頷いた。
 「そうなんだよね。いや、わかってるなー、成田君。でも、問題が1つ残ってる。“和”をどう表現するかだよ」
 「“和”―――…」
 そう言われて、一瞬、頭の中にひとつの映像がひらめいた。
 「朱塗りとか黒い(さん)とか…まあ、和をイメージできるシンプルな小道具はいろいろあるけどね。小道具が揃ってりゃ、すぐにでも試し撮りして“シーガル”の連中の湿気た頭にガツンと衝撃与えてやるのに―――今日この場で試すのは無理だよなぁ…」
 惜しいねぇ、と首を捻る川野に、瑞樹は曖昧な笑みを返した。
 自分なら、どう撮るか―――セットを黙々と組み上げる瑞樹の脳裏には、それがはっきりとしたイメージとして浮かんでいる。実現のチャンスはないとわかっていながらも、瑞樹はその映像の虜になりつつあった。
 「瑞樹。中の準備できたから、チェックしてくれる?」
 商品の単体撮影のための準備をしていた蕾夏が、テラスに顔を出して声をかけてきた。
 「わかった。あ…そこのロープの端、ちょっと押さえて」
 「おっけー。―――あっ、時田さん、おはようございまーす」
 蕾夏の声に、瑞樹と川野も顔を上げ、立ち上がる。見れば、厳しい表情で美和と話していた時田が、少し顔を和らげてこちらに歩いてくるところだった。
 「おはようございます」
 「おはよう。セットの方は?」
 「ほぼ完成しました」
 「じゃあ、藤井さんでポラで試し撮りしといて。レフ板なしの自然光のみで」
 「中の、商品撮影の方は?」
 「ああ、そっちも」
 時田の指示は、大体いつも短くて的確だ。けれど、今日はなんだかその声色が妙にぶっきらぼうに感じられる。思わず眉をひそめた瑞樹だったが、あえて指摘はしなかった。
 「川野さん、ちょっと」
 「あ、はい」
 アートディレクターの川野を引き連れて、また時田は美和のところへ行ってしまった。その態度も妙に乱暴な気がする。
 日頃、あまり波のないタイプの時田にしては、異常とも思える位に苛立っている。ただでさえ不安な要素だらけの撮影が、更に不安になってきた。

***

 「やっぱりあのセットで撮るんだね」
 外のセットでの試し撮りを終え、商品撮影用のスタジオに移動しながら、蕾夏がそう言って眉をひそめた。
 瑞樹も、新しいフィルムパックをインスタントカメラにセットしながら、難しい顔で頷いてみせる。
 「川野さんまでが反対してるのにな」
 「クライアントの力ってそんなに大きいの? SEやってた頃は、あまりにも無茶言うクライアントには、懇切丁寧に説明して、なんとか納得してもらうように努力してたけど…」
 「それでも納得しないバカなクライアントもいただろ」
 「…いたね」
 「そういうクライアントなんじゃねぇの、“シーガル”は」
 「…最低かも」
 商品撮影用のセットは、超シンプルに出来上がっていた。
 白ホリゾントの前に、テーブルクロスを掛けた丸テーブル。そこに、“シーガル”の新製品が全5種類、微妙に前後させながら並べられている。ただ、それだけ。テラスに作られた「虚構の純和風」に辟易した後だけに、このシンプルさにホッと気分が和みさえする。
 「ねぇ、この並べ方で良かったかなぁ? このジョン・コリンズの色合いとワイルド・アイリッシュローズの色合いが、ちょうどグラデーションみたいで綺麗かな、って」
 「ああ、俺は、そういう色変化って結構好き。モデルもこっちで撮りゃあいいのに…」
 「だよねぇ」
 試し撮りの邪魔にならないよう、蕾夏が脇にどくのと同時に、インスタントカメラで全体を正面から撮影した。ジーッという音と共に吐き出されたプリントを、すぐ傍の作業台の上に置く。
 もう1枚撮っておくかな、と思ったその時、さっき脳裏に浮かんだ映像が甦ってきた。
 「―――なあ。ちょっと、そこにお前、入ってみてくれない?」
 「え?」
 後ろに手を組んで、並んでいるカクテルの小瓶を見つめていた蕾夏は、瑞樹の言葉にキョトンと目を丸くした。
 「私が入るの?」
 「そう。床に膝つく感じで―――目線が、カクテルとほぼ同じになる位で」
 瑞樹が何を考えているのか、さっぱりわからない。が、蕾夏は、言われた通りテーブルの向こう側に移動し、膝をついた。日本の食卓テーブル位の高さのテーブルなので、蕾夏の背だと、ちょうど胸から上がテーブルの上に出る位だ。
 「こう?」
 「うん。その位置からカクテル見ると、どんな感じがする?」
 「え? うーん…あんまり、そっちから見てる時と変わんないかなぁ…」
 蕾夏は、ちょっと眉をひそめ、目の前にずらりと並ぶカクテルの小瓶を眺めた。正位置から見た時との違いは、ライトの向きの違い位だろうか。
 ふと、蕾夏は何かを思いついたように淡いオレンジ色のカクテルに左手を伸ばすと、それを少し傾けた。テーブルの上に置いた右手の甲に半ば頬をくっつけるようにして顔を傾け、傾けた小瓶を仰ぎ見る。すると、ライトの光がカクテルに透けて、なんとも言えない柔らかな色が視界に広がった。
 「あ、面白ーい。ねぇ、こうやって透かして見るとさ、ガラスの曲面とかカクテルの成分のせいなのか、角度によって、ちょっとずつ色が違って見える」
 「…そう言えばお前、前にこんぺい糖の瓶も、そうやって光に透かして見てたよな」
 瑞樹がそう言うと、蕾夏の目が懐かしそうにすっと細められた。
 「うん、そう。私、こういうガラス製品見ると、光に透かして見る癖があるんだ。テーブルの上に置いてある時はビビッドオレンジだったものが、光に透かしたら金色に見えたりするじゃない? 不思議―――色って、光の強さでも変わるし、見る角度でも変わるし…見る人の気持ちによっても変わるって思わない?」
 「うん…そうかもな」
 「こんぺい糖も、光に透かすと、本当に空から落ちてきた星みたいに見えたの。あー…でも、懐かしいな、浅草で写真撮った時のこと。あの時の写真て、どれも大好き。全部優しい色してたから…」
 そう言って蕾夏がうっとりした表情をした瞬間、思いのほか間近で、インスタントカメラのシャッター音が聞こえた。
 ジーッ、という、写真が吐き出される音まで聞こえる。驚いた蕾夏は顔を上げ、瑞樹の姿を探した。
 「な―――なんでそんな近くにいるのっ!」
 真正面にいるとばかり思った瑞樹は、蕾夏のすぐ斜め前に立っていた。出てきた写真をピッとカメラから抜き取り、蕾夏を見下ろしてニヤリと笑っている。
 「表情撮ろうと思ったら、ポラじゃこの位置まで寄らねーと無理なんだよ」
 「やだーっ! 油断した! どんな顔してたのか全然わかんないよっ」
 「まあ待て。もうすぐ出てくるから―――ほら」
 慌てふためく蕾夏に、瑞樹は手にした写真を差し出した。
 正方形に近い写真の中央部は、まだ画像が浮き出てきている最中なので、大半が真っ黒だった。が、やがてぼんやりと人の姿らしきものが見え始め、テーブルの上に並ぶカクテルの小瓶が判別できるようになり、1分も経つ頃には全ての色がしっかり認識できるほどになった。
 そこには、なんともいえない笑みを浮かべた蕾夏が写っていた。
 インスタントカメラなので、いかんせんピントが甘い上に発色もいまいちだが、その写真は、蕾夏が好きな“優しい色をした写真”の類に間違いない。蕾夏の口元が、嬉しそうにほころんだ。
 「へーえ…、私、こんな表情してたんだ、今」
 「お前って、楽しかったこと思い出してる時、いつもいい表情するんだよな」
 「だったら、もっと具体的に指示与えてくれたら良かったのに…」
 「指示されたら、こういう顔にはならねーんだって」
 「成田君!」
 ふわふわと柔らかな空気の中に、突如、川野の声が乱入した。
 「ごめん、ちょっと来てもらえるかなー!?」
 「今、行きます」
 一瞬、今が撮影の準備段階であることを忘れそうになった。瑞樹は、手にした写真を他のインスタント写真と一緒に無造作に束ねると、蕾夏を促しながらスタジオを後にした。

***

 「視線こっちにくれるかなー? そうそう、そんな感じ。あ、手がちょっと被りすぎだねー。ボトルの底よりラベルがよく見える角度に持って貰えるかな。…うん、OK。―――ええと、カレン?」
 「はい?」
 ファインダーから目を離した時田は、困ったような顔をして、縁台に腰掛けるカレンを見つめた。そして、ちょっとため息をついた。

 カレンは、白地に藍色で牡丹の模様を染めた浴衣を着て、辛子色とえんじ色の帯を結んでいる。ふわふわだった髪は最大限癖が出ないよう伸ばし、後ろで一つに結い上げてある。いつもより抑え目のメイクも手伝って、確かに普段よりはおしとやかなムードではある。
 だが。
 「…俺には、銀座の駆け出しホステスにしか見えねぇ…」
 「…銀座のクラブ、行ったことあるの?」
 「なくても、そう見える」
 少し離れて、時田とカレンの撮影風景を見守っている瑞樹と蕾夏は、そんな事をヒソヒソと話していた。更に離れた所で見ている美和も、その横に居並ぶ“シーガル”の担当者2名も、やはり表情は冴えない。

 「もう少し、屈託のない子供っぽいムードが欲しいんだけどなぁ」
 「…これが精一杯なんですけど…」
 時田にそう答えるカレンも、困ったような顔をしている。彼女なりに、自分の中の純粋な部分を表に出そうと必死なのは、見ていてわかる。が、悲しいかな、それが空回りしているのだ。
 自己表現を自在にやってのけるには、まだ経験不足。けれど、無垢な表情を自然と浮かべられるほど、カレンの中身はまっさらではないのだろう。
 「今、何考えながら座ってた?」
 「別に、これと言っては…」
 「じゃあ、好きな人の事、考えてみて」
 え? と目を丸くするカレンに、時田は穏やかな笑みを返した。
 「どんな人間も、恋する気持ちは、一番純粋で真っ直ぐだよ。カレンが苦労してきたのは、ずっと見てきた僕が一番良く知ってる。それでも、キミはまだピュアな部分をちゃんと残してる。保証するよ」
 「…でも、あたし…」
 「大丈夫。自分の中を隅々まで探してみてごらん。そうしようとするだけで、おのずと表情や立ち居振る舞いに出るから」
 どうやら時田は、モデル自身に自分の魅力を発揮させようと、ムードや言葉で導いていくタイプらしい。接する態度は常に柔和で、モデルが上手く動けなくても怒鳴りつけたりはしない。
 ちょっと戸惑った顔をしたカレンは、それでも結局は、「わかりました」ときっぱりした声で返事した。この辺りは、若手とはいえ、圧倒的にアジア人種には不利なこの世界で生きているだけのことはある。今時の女の子そのままなカレンではあるが、プロ根性はあの佐倉と通じる部分がありそうだ。

 「あ、ちょっとはマシになったんじゃない?」
 再開された撮影を見ながら、蕾夏が小声でそう言った。
 確かに、表情がさっきよりは作ったものではなくなり、少し遠くを見ている目も穏やかなものに変わっている。“静けさと清純さ”の“静けさ”位は、なんとか出てきた感じかもしれない。
 「…マシではあるけど、まだコンセプトには程遠いだろ」
 「そ、そうだけど…もうちょっと時間かければ、さ」
 「あいつは、あれで限界だと思う」
 「え?」
 見ていて、わかる。カレンはあれ以上、自分の中の純粋さを表現などできないだろう。
 カレンが瑞樹と会って「同類」だと感じたのと同様に、瑞樹もまたカレンの中に、自分が持っているのと同じ捻じ曲がった部分を感じている。
 幼い頃に身についてしまった、ある種の自己防衛本能―――「諦め」にも似たものを常に意識してしまう、癖。たとえどれだけ心の中に純粋さを持ち合わせていても、それを表に出せば傷つくことの多い子供時代だったのだろう。ちょうど瑞樹が、そうであったように。
 だからこそ、累ではなく、奏と付き合っているのだ。カレンは。
 累を完全に失うことを、カレンは怖がっている。だから、試みる前から諦めている。累を手に入れることを。
 瑞樹も、同じことを考えた時期があった。だから、わかる。常に「諦めること」で自己防衛してきた癖が、そんなところに強く影を落とす。確かに人を恋う気持ちは純粋かもしれないが、カレンがそれを思う時、まず間違いなく自嘲の思いが混じるに違いない。
 「―――カレン?」
 去年の今頃の自分の心理状態にぼんやりと思いを馳せていた瑞樹は、時田の訝しげな声に、はっと我に返った。
 「カレン、大丈夫か?」
 視線を移すと、カレンは、縁台に座ったまま顔を両手で覆って泣いていた。真っ先に、一番近くにいた時田が駆けつけ、その背中をさすって顔を覗きこんだ。
 「どうした? 辛い事でも思い出したかな?」
 「…ご…めんなさい…」
 カレンらしからぬ、弱々しい声。彼女の事情をいろいろと見聞きしている時田は、悲しげに目を細めると、カレンの頭をポンポン、と撫でた。
 「…いいよ。ちょっと休憩にしようか―――美和ちゃん!」
 腕組みをし、厳しい表情で見ていた美和に、時田は手振りでこっちに来るように、と合図した。代わりに、カレンに立つよう促し、瑞樹と蕾夏がいる方へと押しやった。
 とりあえず、年齢が近い自分達にカレンを落ち着かせる役が託されたらしい。時田と美和が縁台の周辺で何やら相談を始めたのが気になったが、瑞樹と蕾夏は、まだうな垂れたままのカレンをなんとか宥めることにした。
 「カレン…大丈夫? 何か飲み物持ってくる?」
 蕾夏が訊ねると、カレンは首を振った。大きなため息をつき、まだ残っていた涙を手のひらで押さえると、うんざりした口調で吐き出した。
 「―――ああ、最悪。だからミス・キャストだって言ったのに」
 「でも…最後の方、凄くムード出てたと思うけど」
 「“calm & innocence”? あっは…あれが精一杯よ。笑わせるんじゃないわよ、って意識が、どっかにずっと残ってるんだもの」
 皮肉っぽい笑いを浮かべたカレンは、蕾夏が差し出していたハンカチを半ばひったくるようにし、用意してあった椅子にストンと腰かけた。2月のロンドンはまだかなり寒い。浴衣姿は辛いだろうと思った蕾夏は、傍にあったスポーツタオルを肩にかけてあげた。
 「…あなたなら、ピッタリなんだろうけどね」
 ふいに温かくなった肩に、少しバツが悪そうな顔をしたカレンは、涙を飲み込みながらそう呟いた。
 「成田さんだって、そう思うでしょ? あたしよか、蕾夏さんの方がピッタリだって」
 「―――俺は本音しか言わねぇけど、いいのか?」
 「…よして。ますます落ち込むわ」
 声を沈ませるカレンに、蕾夏は困ったような顔をし、カレンと目線の高さを合わせるようにしゃがみこんだ。
 「…私はモデルじゃないもの。それに、同じ人間なんだから、中身に大差はないよ。カレンより見た目が派手じゃないだけだよ、きっと」
 「あはははは、それ、本気で言ってるの? バッカみたい」
 自嘲気味だったカレンの表情が、僅かに苛立ちを含んだものに変わる。カレンは、自分を斜め前からじっと見つめる蕾夏の顔を、心底馬鹿にした顔で睨んだ。
 「こっちに来てから、あたしが何してここまで来たのか、あんたには想像つかないでしょ? 何人と寝たかわかんない位。風俗に走った方が儲かるかも、って思った時期すらあるわよ。そんなあたしが、純粋だの清楚だのって単語のつく仕事やること自体、無茶も甚だしいのよ」
 「―――それでもカレンは、ちゃんと純粋な部分、持ってるよ?」
 蕾夏の眉が、少し悲しげに寄せられる。が、その反応が、余計カレンの癇に障ったらしい。
 「何よ、その顔。同情してるの? 言っとくけどね、あたしは、仕事欲しさに二流三流のカメラマンと寝たことだってあるのよ。でも、後悔なんてしてない―――あたしは、成功するためなら何だってする。自分の欲望満たすためなら、世間知らずだったあたしをどう扱っても構わないって態度をとった男達のことなんて、気の毒とは思っても憎みも恨みもしない。あなたみたいに、男のいい面しか知らなさそうな、純愛ドラマを地で行く清純でお綺麗な人間に同情なんてされたくないの。わかった?」
 「おい」
 感情的なカレンのセリフに、瑞樹もさすがにカチンと来た。思わず、カレンの肩をぐいっと掴み、こちらを見上げたカレンを睨み据える。
 「お前、知った風なこと言うな。お前が蕾夏の何を知ってるって言うんだよ。勝手なことを…」
 「瑞樹」
 感情的になりかけた瑞樹を制するように、蕾夏は小さく首を横に振った。何も言わないで、と、言葉には出さずに訴える蕾夏は、少し悲しげな、そして苦しげな顔をしている。今の言葉に一番納得いかないのは、蕾夏本人だろうに。
 「…ごめん、カレン。わかったような口きいちゃって」
 蕾夏は、薄く微笑むと、そうカレンに言った。視線を蕾夏に戻したカレンの目が、その言葉に僅かに動揺する。
 「カレンは、私より年下なのに、私より広い世界を知ってるんだもの。…私がとやかく言うことなんて、何もないよね。ごめん」
 「……」
 「カレンは、強いよ―――羨ましい」
 そう口にする蕾夏の表情に、カレンは戸惑っていた。
 蕾夏の目は、カレンを見ているようで、見ていない。どこかに暗いものを宿した、悲しげな目―――日頃の蕾夏からは想像のつかないその目に、自分は何かとんでもない事を蕾夏に言ってしまったのではないか、という気がしてくる。
 「カレン!」
 ちょうどその時、気まずくなったその場のムードを裂くように、テラスの内側から誰かが声をかけた。
 顔を上げた3人は、そこに奏の姿を見つけ、それぞれに驚いた。
 「奏。随分早くない?」
 「オレ、仕事が早いんだよ。暇になったから、早めに来て、お前の似合わねー浴衣姿でも拝もうと思ってさ」
 「なーによそれ。似合わないは余計よっ」
 むっとしたように口を尖らせると、カレンはスポーツタオルを取り、ちょっと襟元の合わせを直すようにしながら立ち上がった。なんで奏がここに、という顔をしている2人の方を見遣ったカレンは、バツが悪そうに説明した。
 「この後、奏と2人でやる仕事があるの。まだ休憩中よね。ちょっと、行ってくる」
 「10分位だと思うから、目の届く範囲にはいてね」
 「…うん、わかった」
 蕾夏の言葉にちょっと視線を泳がせたカレンは、カラカラと下駄の音を響かせながら、奏の方へと走って行った。一瞬、カレンを見送った瑞樹の視線と奏の視線がぶつかったが、何故か奏の方から目を逸らしてしまった。
 「―――また、言われちゃったなぁ…」
 軽くため息をついた蕾夏は、よいしょ、と言いながら立ち上がり、軽くGパンをはたいた。顔を上げ、瑞樹を見上げた蕾夏の顔は、少し寂しそうな笑みを湛えている。
 「私って、そんなに、何も考えてない幸せな奴に見えるのかな。こういう時、どんな顔すればいいか、わからなくなっちゃう…」
 ―――男のいい面しか知らない、どころか。
 カレンには想像がつかないだろう―――綺麗な経験しかしていなそうなこの真っ白な外見をした蕾夏が、一番多感な時期に、一体どんな暴力に晒されたのか。自分の身を守るためにした事に、どれほど精神を痛めつけられたか。10年以上、その痛みを押し隠したまま生きてきた蕾夏が、一体どんな悪夢を毎夜見てきたか。
 「…カレンが羨ましいなんて、言うな」
 瑞樹はそう言って、蕾夏の頭をくしゃっと掻き混ぜるように撫でた。
 「お前は、最強の女だって言っただろ?」
 常に言い続けてきたセリフ―――その言葉を聞いて、蕾夏も少しだけ笑みを見せた。
 「成田君、藤井さん」
 呼ぶ声に振り向くと、時田が「ちょっと」という風に手招きしていた。何か撮影に変更でも入ったらしい。
 2人は、一瞬緩みかけた気分を引き締め、時田の方へ向かった。

***

 「ふーん…やっぱり浴衣って色っぽいよな」
 カレンの浴衣姿を頭のてっぺんからつま先まで眺めつつニヤニヤ笑う奏を、カレンは目を三角にして睨んだ。
 「奏、目つきがヤラシイ」
 「そりゃあ、ヤラシイこと考えてるんだから、当然だろ」
 「…バカ」
 呆れたような顔をしたカレンだったが、いつもの軽いノリの奏に、どこかホッとした。
 「―――良かった。いつも通りの奏に戻ってる」
 カレンのセリフに、奏は訝しげに眉をひそめた。
 「は? 何だよそれ」
 「ここ何日か、奏、もの凄く荒れてたじゃない。いつも神経ピリピリしてる感じだったし、あたしの部屋でもクッション殴ったりしてたし」
 「…別に…荒れてた訳じゃないって」
 そう言いつつも、ちょっと視線が泳いでしまう。奏は、気まずそうに視線を逸らすと、テラスのサッシを軽く蹴った。
 実際、荒れていたと思う。かなり。
 カレンの部屋でクッションを殴っていたのは、1週間ほど前、一宮の実家を無我夢中で飛び出した、あの夜の話だ。カレンに対しても、かなり乱暴な扱いをしたと思う。おかげで翌朝、部屋から追い出されたりもしたのだが。
 その後、他の女や友達の部屋を渡り歩いているうちに、少し頭が冷えてきた。冷静になってみたら、なんだか馬鹿らしくなった。
 瑞樹と蕾夏が恋人同士なのは、最初から察していたことだし、その関係がどの程度であろうと、それは奏とは関係のない話だ。奏好みの女であるなら話は別だが、蕾夏は奏の好みからははるかに遠い。むしろ対極だ。瑞樹のことは少々気に食わないが、彼が奏に何をした訳でもない。叩かれたのは自分のせいだから恨む筋合いでもない。
 何を熱くなってるんだ。そう思ったら、イライラも次第に消えていった。1週間かけて、やっといつもの自分を取り戻せた気がする。
 「…で、撮影はどうなんだよ。休憩中?」
 「うん、まあね。でも…」
 「そんなの無理ですっ!」
 ちょっと愚痴ろうか、とカレンが思ったところに、突如、蕾夏の声が響いた。
 何事か、と視線を縁台のセットの方に向けると、座っている時田と美和を前に、瑞樹と蕾夏が立っていた。時田は、インスタントカメラで撮ったとおぼしき写真を1枚手にしている。どうやら、その写真をめぐって、何かトラブルになっているらしい。
 おろおろする蕾夏の隣に立つ瑞樹は、一見無表情に見えるが、酷く硬い表情をしている。案外、動揺をあらわにしている蕾夏以上に動揺しているのかもしれない。
 「時田さんも反対して下さいよ…私、そんなの無理ですから」
 「僕も納得してるよ。鈴村さんの意見に賛成だ」
 「そんな…」
 「成田君。この写真、一応試し撮りの一環だよね?」
 時田の静かな視線が、瑞樹を見上げる。瑞樹の肩がピクリ、と反応したが、表情は硬いままだった。
 「…別に…ただ、俺ならこう撮るのに、って思っただけです。でも、それを見せてもう決まった路線をひっくり返そうとか、そういうつもりだった訳じゃありません。確かに川野さんとそういう話はしましたけど…」
 「じゃあ、君ならこう撮る、の講釈を聞かせてもらおうかな」
 挑むような時田の口調に、瑞樹のみならず、奏も眉をひそめた。こんな挑戦的な態度を取るのは、時田らしくない。まるで瑞樹を煽っているかのようだ。
 「―――カクテルの色を生かすには、背景は極力シンプルな方がいい、と、アートディレクターの川野さんと話してて…でも、“和”を表現するアイテムで(つまづ)いて」
 「うん。それで?」
 「…蕾夏だったら、モデル単体でも“和”を表現できると思ったので、商品と、素のままの蕾夏だけを撮りました。それだけです」
 「―――なるほど」
 ニッと笑った時田は、軽く頷き、手にした写真を再度眺めた。
 「確かに、藤井さんの黒髪と色白なとこは、日本を強く感じさせる。外見的なキャラクターも、“シーガル”が出したキーワードと合致する。これなら、“和”も静けさも清純さもちゃんと表現できるよね」
 「私も、今回の企画にピッタリだと思うの。…ねえ、悪いようにはしないわ。約束する」
 席を立った美和は、そう言って瑞樹の腕を軽く掴んだ。
 「あなたにとっても、チャンスなんじゃない? そりゃあ名前は出ないけど―――アシスタント時代に、これだけ大きな撮影を委ねられるんだから、凄い経験になるわよ。それにね。この写真見せてもらう前から、“シーガル”の担当者は、藤井さんに目をつけてたの」
 瑞樹の表情が、更に険しくなる。が、美和は食い下がった。
 「あなたも見たでしょう? “シーガル”側の、あの頑なだった態度。彼女のルックスは、それを一度で覆したのよ? しかも、この写真を見て、あなたと藤井さんに全部任せるとまで言ってるの。あなた達のコンビで、あの“シーガル”の硬い頭を180度変えさせたのよ。やらない手はない…そう思わない?」
 「―――お話はわかりますが、お断りします」
 食い下がる美和に、瑞樹は尚も頑なに態度を変えなかった。
 「“シーガル”は、時田さんとカレンの仕事です。契約もしてない俺達に、現場でいきなり首を挿げ替えられるほど、軽い仕事じゃない筈です」
 「それなら問題ないよ」
 のんびりした口調で、時田が口を挟んだ。
 「今回は、モデルもカメラマンも指名なしだし、君は僕のアシスタントだから、君が撮ること自体は問題ない。商品撮影はやっぱり僕がやるしね。モデルの現場での交代も珍しい話じゃない。君もスタジオで働いた経験があるなら、知らない訳じゃないだろう?」
 事実、覚えがあるのだろう。瑞樹は黙ったまま、少し視線を落としてしまった。
 「もし、どうしても君が撮らないって言うなら、僕が撮るよ」
 その言葉に、瑞樹は表情を変えた。
 挑戦するような時田の目を、瑞樹の鋭い目が見返す。ただならぬ空気に、無関係な美和や、傍観している奏までもが、一瞬息を呑んだ。
 「撮るよ。前から言ってあったよね? 機会があれば撮らせて欲しいって。藤井さんを」
 「……」
 助けを求めるように、蕾夏が瑞樹の手に縋る。その手を一度ぎゅっと握り返すと、瑞樹は大きく息を吐き出した。
 「同じセッティングで、時田さんがカレンを撮ればいいんじゃないですか」
 「それは無理だ。その写真は、僕とカレンじゃ撮れない。君と藤井さんだから撮れたものだよ」
 「…なら、時田さんが蕾夏を撮っても、この写真にはならないんじゃないですか」
 「じゃあ、君が撮るんだね?」
 嵌められた、という風に、瑞樹が舌打ちする。今度こそ逃げ道がなくなってしまった。
 瑞樹は苛立ったように髪をくしゃっと掻き上げると、葛藤しているかのように眉根を寄せた。が、諦めがついたのか、どこかすまなそうな視線を蕾夏の方に向けた。
 「…2人だけだったら、撮れるか?」
 「―――多分…」
 自信なさげに言う蕾夏の手をもう一度しっかり握ると、瑞樹はやっと、冷静な視線を時田に返した。
 「2人以外、スタジオに入れないって条件なら」
 「…わかった。じゃあ、任せるよ」
 さっきまでの挑戦的な視線が嘘のように、時田は穏やかで、どこか満足げな笑みを浮かべていた。少し離れて見ていた奏は、時田のその表情にはっとさせられた。
 奏の目には、その笑顔が、なんだか息子の成長を喜ぶ父親のそれのように、見えたのだ。
 挑戦的な態度も、対抗心を煽るような物言いも、全ては瑞樹がそれを乗り越えて挑んでくるのを期待してのこと―――そんな時田の狙いが、奏には読めてしまった。
 ゾクリ、と、冷たいものが、体の中に湧き上がる。
 累に感じた以上の嫉妬―――奏は、慌てて、一瞬湧き上がったものを奥底に飲み込んだ。

 瑞樹と蕾夏は、美和や川野と確認事項のようなことをしばし話し合うと、周囲には目もくれず、さっさとスタジオの中へ引っ込んでしまった。まだ戸惑っているような蕾夏と、憮然とした表情の瑞樹の様子から、傍目にはビッグ・チャンスにしか見えないこのアクシデントを、あの2人が全く歓迎していないのは明らかだった。
 そんな2人を見送っていた時田は、小さなため息をひとつつくと、奏達の方に歩いてきた。
 「カレン」
 少し申し訳なさそうな声色に、奏はようやく、傍らにいるカレンの存在を思い出した。考えてみたら、この状況で一番ショックを受けているのは、カレンに違いない。目の前で、完全な素人に仕事を奪われたのだから。
 遅ればせながらカレンの表情を窺うと、カレンは、一見平然とした顔をしていた。けれど…やっぱり、全くの平常心でいられる筈がない。テラスの窓に添えられたカレンの手は、微かに震えていた。
 「済まなかったね。今回はお互い、運がなかったみたいだ」
 カレンの肩にポン、と手を置いた時田がそう言うと、カレンは、能面のようだった表情を僅かにほころばせた。
 「あたしも“合わない仕事”って思ってたし、時田先生もあのセットには辟易してたんでしょ? なら、かえってラッキーだったかも。降ろされて」
 「まあ、そう考えた方が良さそうだね」
 「けど…郁まで降りることはなかったんじゃない」
 奏が、少し納得のいかない口調で言うと、時田は、なんともいえない笑みを浮かべた。
 「藤井さんを撮れるのは、多分、成田君しかいないよ」
 「―――どういうことだよ」
 訝る奏とカレンの目の前に、時田は、1枚の写真を差し出した。
 それを見た瞬間―――奏も、そしてカレンも、言葉を失った。

 そこに写っていたのは、2人の知らない、蕾夏だった。
 あの『生命(いのち)』の写真に写る蕾夏以上に、無垢さが前面に押し出された蕾夏は、キラキラと光るカクテルの小瓶を光に透かすようにしながら、それを見上げて微笑んでいる。けれど、その微笑は、2人が知る蕾夏の笑顔とは、全く異質だ。
 子供のような、真っさらな笑顔―――日頃蕾夏が見せる、そつのない柔らかで静かな笑顔とは違い、今感じている感動や憧憬を全て曝け出した、素のままの笑顔。モデルという仕事柄、作り笑いでも思わず惹き込まれるような美しい笑顔を幾度も目にしてきた2人だが、蕾夏のこの笑顔と同じ質の笑顔は、まだ一度も見た事がなかった。仕事では勿論のこと、実生活でも。
 純粋な、宝石の原石のような笑顔で笑う蕾夏の表情とはアンバランスに、傾けた首筋の白さや艶のある黒髪には、ドキリとさせるものがある。常日頃、どこか真意の読み取れないムードのある蕾夏だが、そこに写る蕾夏は、ひどく無防備だった。

 瑞樹にだけ見せる、笑顔。
 瑞樹の前だからこそ見せる、無防備な姿。
 ピントの甘いインスタント写真でも、その衝撃は凄まじい。偏屈な“シーガル”の一同が、一目で路線変更したのも当たり前のことだ。奏とカレンは、言葉を失ったまま、その写真を食い入るように見続けた。

 「…言っただろう? “怖いよ、あの子達は”って」
 その言葉に目を上げると、時田は静かな笑みを浮かべて、写真を見つめていた。
 まるで、恋する相手でも見るかのように―――憧れを滲ませた目をして。
 「成田君は極端な位感性で撮るタイプだから、腕は良くてもその気にならないと本領は発揮できない。藤井さんも稀に見る素材だと思う…でも、彼女が本来の顔を見せるのは、成田君の前だけだ。これは、あの2人だから撮れた写真だよ」


 その時感じた衝撃は、何だったのだろう?
 モデルとしての欲かもしれないし、同業者としての嫉妬かもしれないし、自分を小馬鹿にした瑞樹への対抗心かもしれないし、誰にもこんな顔を見せない蕾夏に対するもどかしさかもしれない。

 ただ。
 奏は、ショックを受けていた。

 あの日、2人が口づけを交わすのを見た時以上のショックに、奏は今にも震えだしそうになっていた。

***

 怒涛の1日が終わったのは、辺りがすっかり暗くなった6時頃だった。
 撮影の後片付けなどに最後まで追われた瑞樹と蕾夏は、前日の小旅行以上のふらふら状態で、スタジオを後にした。
 「…ごめんな、蕾夏」
 ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、瑞樹は歩き出しながらぽつりと呟いた。
 マフラーを巻きなおしていた蕾夏は、その言葉に、少し首を傾げるようにした。
 「ごめんな、って?」
 「試し撮りの写真、うっかり他のと一緒にしちまったから」
 「…そんなの、仕方ないよ。撮影前ってバタバタしてたもん」
 「―――ったく、不覚だったよなぁ…」
 今更悔やんでも仕方のないことだが、あの時写真を時田の手に渡していなければ、と思うと、どれだけ後悔してもし足りない。
 あれは、全くのプライベート写真だ。時田から、見せなくてもいい、と言われている「プライバシーに関わる写真」の類―――昨晩撮った蕾夏の写真同様、誰にも見せることなく瑞樹の手元に残しておく写真の筈だったのだ。
 あれは、瑞樹と蕾夏だけの世界だ。
 誰にも邪魔されたくない、壊されたくない世界―――そんな世界に、土足で踏み込まれた気がする。
 大きなため息をつくと、瑞樹は蕾夏の肩に手を回して、ぐいっと引き寄せた。
 「考えただけでムカつく…俺が撮ったお前のポスターが、あちこちの店に貼り出されると思うと」
 「…私だって嫌だよ…どうする? 佳那子さんとかが飲みに行った店にあの写真が貼ってあったりしたらさぁ」
 「お前なぁ、嫌な想像させんなよ。ポスターにかじりついて感激の涙流すカズの姿が目に浮かぶだろ」
 「瑞樹こそそんなシーン想像させないでよっ。…ああ、もー、嫌だなぁ…最終段階で、カレンの写真が逆転採用されないかなぁ」
 「無理だろ…ポラ撮り見た“シーガル”の連中の顔、見ただろ?」
 「ううう…お父さん、何て言うかなぁ? お前は何しにイギリス行ったんだ、って言われちゃいそう…」
 父、の一文字に、思わず瑞樹の足が止まった。
 ―――そうだよ。あの写真、親父さんも見るんだよな。
 いくら常識はずれなほどに理解のある父親だといっても、娘がいきなりポスターモデルになってしまっていたら、何と言うだろう。想像するだけで、背筋を冷や汗が伝いそうだ。
 「…本決まりになったら、俺から電話しとく」
 「うん…私も一緒に、精一杯、事情説明するから」
 「どっかパブ寄ってくか…なんか、1杯飲みたい」
 「カクテル以外にしようよ。暫く、見るのもイヤ…」

 “シーガル”の新製品の日本発売は、今年の4月。
 日本に帰るのが、怖くなってきた。急に強くなった冬の北風に、2人はもう少しだけ体を寄せあった。


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