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just say "I need you" ―

 

 疲れ果てて事務所に戻ってきたカレンは、エレベーターを降りたところで、ばったり奏と出くわした。
 「…よぉ」
 「…お疲れ。なに、今日は撮影?」
 いつもはストリート系の服装しかしない奏が、スーツを着込んでいる。珍しい物でも見るような目をするカレンに、奏は少しむっとしたような顔をした。
 「今日はポートフォリオ用の撮影してきたとこ。そろそろ作り直さないといけない時期だから。おかげで今月は出費が嵩むな」
 「奏位稼げるモデルなら、苦にもならない額だろうけどね。バイトで食い繋いでるあたしにとっては死活問題よ」
 カレンのモデル収入は、食べていくなんて無理、という位ささいなものだ。マネージメント料を事務所に支払い、必要経費を差っ引いたら、手元に残るのは同世代のOLの月給よりずっと少ない。だからカレンは、ウェイトレスのアルバイトをしている。大半のモデルが、案外そんな風に「兼業モデル」しているのが現状なのだ。
 「カレンは今日はどこだったんだよ」
 「例のアレ」
 「…ああ、例のアレか」
 無意識のうちに、2人の眉間に皺が寄ってしまう。例のアレ、が、“シーガル”のテレビCMの撮影のことを指しているのは、今更確認するまでもないことだった。

 “シーガル”のポスターは、結局瑞樹が撮影した蕾夏の写真が採用された。
 それなりに落ち込んだカレンだったが、決定的なダメージを受けずに済んだのは、“シーガル”の仕事がもう1つあったから。それが、テレビCMだった。
 “シーガル”の戦略では、静止画像であるポスターは“清純”を、動画であるテレビCMは“快活”をテーマにして、それぞれ特徴を出そう、というものだったのだ。ポスター撮影の現場では、カレンのマネージャーが相当美和や“シーガル”の担当者と揉めていたが、より高いギャランティーでより目立つCM撮影が残されたことで、なんとかその場は収まったのだ。
 とはいえ―――先週のポスター撮りで、モデル事務所側と広告代理店側が少々ギクシャクしてしまったのは隠しようも無い事実で、CM撮影の現場のムードはちょっと異様だった。カレンのマネージャーにも、意地があるのだろう。なんと言っても、カレンの仕事を奪った相手が、モデル経験ゼロの、ずぶの素人なのだから。

 「場外乱闘でも起きた? オレ、ちょっと見てみたかったんだよな。カレンのマネージャー、結構ヒステリックだし」
 「冗談じゃないわよ。変なムードではあったけど、予定通り2日間で無事撮り終えたってば」
 半ば奏を睨むようにしながら、カレンは、休憩コーナーの奏の向かいの席に腰掛けた。
 「やっぱり、アシスタントに仕事とられてヘラヘラしてる郁が特殊なんだろうなぁ…。郁はいつも、誰が撮る、ってことより、その仕事そのものが成功するか失敗するかを優先して考えるタイプだからな。元々編集者だから、写真を“撮らせる側”の目もあるのかもしれない」
 「ふぅん。人間できてんのね、時田先生。あんたの叔父さんとは思えないわ」
 口の端を上げて笑ったカレンだったが、奏の目が僅かにその表情を変えたのに気づき、はっとして口を噤んだ。
 時田は、奏の叔父―――でも、血は繋がっていない。
 この話をする時、奏はいつも、妙な反応をする。
 彼は、親がどこの誰だかわからないことを全く気にしていなかったし、彼が育ての親を実の親と思っているのはカレンから見てもよくわかる。なのに…何故か、時田のことになると、態度が頑なになる。いつ頃からこんな風なのかは定かではないが、ここ1、2年は間違いなくこんな風だった。
 「…まあ、奏も、40、50になりゃ、あの位にはなるんじゃないの」
 「げー…。んな先のこと、考えたくないね。この顔で中年になると思うと、気分悪くなってくる」
 奏は、そう言ってげんなりした顔をすると、気だるそうな仕草でテーブルに頬杖をついた。

 なんとなく、会話が途切れる。
 先週の、あの“シーガル”のポスター撮影以来、奏はカレンの住むフラットに来ていない。カレンが、来ないでくれ、と頼んだから。
 好きな人のことを考えろ、と時田に言われたカレンは、あの時、縁台に座り、ずっと累の事を考えていた。
 出会った時のこと、一緒に遊びに行った時のこと、毎日毎日英語を習っていた時のこと、仕事の悩みを相談した時のこと、そして―――大学の女友達を、紹介された時のこと。
 ため息が出る位に美しいブロンドヘアをした「累の女友達」は、“清純”を絵に描いたような女性だった。自分の汚さと比較して感じた、絶望感―――思い出したら、涙が止まらなくなってしまった。
 今、奏に抱かれるのは、辛い。嫌でも累を、そして累にはふさわしくない自分を、思い出してしまうから。
 そして、蕾夏に会うのも、かなり辛い。彼女のムードは、あの時の「累の女友達」を彷彿させるから。

 ふいに、脳裏に、この前のインスタント写真が浮かぶ。
 無邪気、純粋…そんな言葉だけでは表現できない笑顔を浮かべた、カレンの知らない蕾夏の姿。瑞樹というフィルターを通すと、あの蕾夏があんな風に写るのだろう。
 ―――あたしは、どんな風に写るだろう?
 あたしも、いつものあたしよりは綺麗に撮れるかな。
 もしそうなら、撮って欲しい。失くしてしまったものを、そこに見つけてみたい―――カレンは、そう、思った。

 「…ねぇ。今日の撮影で、鈴村さんに聞いたんだけど―――鈴村さん、あの2人に目をつけてるみたいね」
 どこか虚ろな口調のカレンの言葉に、サングラスを弄んでいた奏は、その手を止めて僅かに険しい表情になった。
 「目をつけてる、って?」
 「イギリス国内向けのポスターの仕事に、また使いたいみたい。セットで」
 「―――へえ…」
 興味なさそうに相槌を打つ奏だったが、その目が、少し落ち着きをなくしているのに、カレンは気づいた。
 「何のポスターか知らないけど、まぁ、キッズ向けならいけるんじゃない? あの色気のなさじゃ、ブロンド美女に慣れてる男は見向きもしないけどな」
 嘲笑うかのような奏の口調。
 でも、日頃の奏は、決して女性をけなさない。多少気に食わなくても、とりあえず褒める。プライドの高い女が多い世界で生きているからこそ身についた処世術だろう。
 なのに彼は、カレンが知る限り、一度も蕾夏を褒めたことがない―――その事が何を意味しているのか、奏本人は気づいていないのだろうか?

 ―――気づいてないのかもね。こいつって、根っからのバカだから。

 でも、気づかない方が幸せかもしれない―――そう思いながら、カレンは、奏の言葉に笑みを返した。

***

 「お断りします」
 情け容赦なく言い放たれた言葉に、美和の笑顔が強張った。
 「…あの、まだ、詳しいコンセプトも伝えてないんだけど」
 すると瑞樹は、絶対その笑顔は嘘だろう、と言いたくなるような感じに、ニッコリと微笑んだ。
 「手間を省いて差し上げただけです」
 「……」
 ―――なんか…ついに本性見たり、って感じね…。
 「なんだか、今日はやけに好戦的ね、成田君。一体どうしたの?」
 「嘘つきに見合った態度をとってるに過ぎませんよ」
 「―――ああ、確かに、嘘ついて呼び出したのは悪かったと思ってるわ。けど、そうでもしないと話を聞いてくれないじゃない? ビジネスの話なんだから、少しは折れてくれないかしら」
 「敬語と丁寧語を使ってるだけでも、限界ギリギリまで折れてるつもりです」
 笑顔とは正反対なセリフに、目の前の作った微笑が、余計怖いものに感じられてくる。

 手ごわい相手だろうとは想像していた。
 けれど、ここまでとは思わなかった。師として気を遣わざるを得ない時田がここにいない分、本性を出しやすいのかもしれない。
 瑞樹がここまで態度を硬化させたのは、やはり“シーガル”の件で瑞樹と蕾夏の起用を提案した張本人が、美和だからだろう。撮影後も、瑞樹はポスターに使う写真が決まる直前まで、ずっと抵抗していた。それをなんだかんだと宥めて丸め込んだのは、やっぱり美和だった。どうやら相当、恨まれてしまっているらしい―――美和は、大きなため息をひとつついた。

 「…笑顔も敬語も丁寧語もいらないから、とりあえず座って。せめてちゃんと説明させて頂戴。私だって、この企画を成功させたくて必死なのよ。話位聞いてくれてもいいでしょう?」
 食い下がる美和に、瑞樹は僅かに片眉を上げた。でも、ここで問題を起こしても仕方ないと考えたのか、応接セットのソファに、少々乱暴な身のこなしで腰掛けた。
 笑顔と敬語と丁寧語を放棄した瑞樹は、無言のまま、憮然とした表情でソファに寄り掛かっている。その気配は、相変わらず警戒を全く解いていない感じだが、一応話を聞くだけの時間は留まってくれそうだ。美和は、ほっと息をつくと、本題に入った。
 「実は―――イギリスでもトップクラスの宝飾メーカーの、ニューコレクションのポスターの仕事があってね。来月あたりにはもう撮影をしないとまずいんだけど…こっちが選んだモデルに、メーカー側が納得しなくて、今、難航してるのよ」
 ちょっと言葉を切り、瑞樹の様子を窺う。瑞樹は、僅かに首を傾けるようにして、美和の話に聞き入っているようだった。
 「今回のコレクションでモデルに求められるのは、“神秘的な輝き”なの。で…この前、成田君が撮った中で、一番静かで穏やかな1枚を見て、これだ! ってひらめいたのよ。藤井さんなら、いけると思う。是非、推させて欲しいのよ」
 「…オリエンタルブームが過ぎ去って、結構経ってる筈だけどな」
 瑞樹は、そう言って、少し皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。その言葉に、美和が少しむっとしたような表情をする。
 「確かに、山口小夜子の時代と違って、今は“東洋の神秘”なんてテイストで売ってるアジア系モデルも少なくなったけど―――それでも、東洋独特の神秘的な部分に心惹かれる西洋人は多いの。藤井さんの持ってる特長は、西洋人が憧れる“東洋的な美”そのものだから、むしろ本国より海外の方がウケると思うわ」
 瑞樹も、その点に異論はないのだろうか。熱のこもった美和の言葉に、瑞樹はなんら反論しなかった。ただ、皮肉っぽい笑いを微かに浮かべたまま、黙っている。
 「それにね、彼女には、これまでのアジア系モデルと違って、不思議な柔らかさがあるの。フワリとした柔らかさのある神秘的な美って、なかなか見つからないでしょう? この企画、彼女なら上手くいくと思うの。勿論、成田君以外に撮影を頼む気はないわ。―――ねえ、どう? やってみてくれない?」
 「…悪いけど、他当たって下さい」
 いきなり丁寧語が戻ってきた瑞樹は、きっぱりとそう言うと、がたん、と席を立った。
 「えっ、ちょっ、ちょっと! 答えが性急すぎない!?」
 「話を聞けって言うから、聞いたまでです。話が終わったようなんで、俺、帰ります」
 「待ってっ! もうちょっとよく検討して、自信のある企画なんだから!」
 「いい企画ですよ」
 そう言って、瑞樹は、美和を見下ろしてふっと笑った。
 「でも、俺はもう二度と、仕事で蕾夏を撮る気はない。だから、どんな企画を持ってきても無駄です」
 美和は、その言葉に、思わず眉をひそめた。
 「二度と、仕事では撮らない…って、あなた、プロになる気でいるんでしょ?」
 「勿論」
 「だったら、もうわかってるでしょう? 自分と、藤井さんの商品価値が。2人で組めば、すぐに一流まで駆け上がれるのに…なんでそのチャンスを見過ごしにするのか、私にはわからないわ」
 美和がそう言うと、瑞樹の顔が、途端に険しくなった。
 厳しい表情の瑞樹は、しばし美和の顔を凝視していたが、ソファに置いておいたジャケットをひったくるように掴むと、応接室を出て行こうとした。慌てて美和も立ち上がり、瑞樹の腕を掴んだ。
 「待って! だったら、あなた以外に撮ってもらうわよ、藤井さんを! それでもいいの!?」
 賭けのつもりで、美和はそう言ってみた。“シーガル”の時には、それで瑞樹が折れたから。
 けれど、瑞樹はもう折れなかった。冷笑を口元に浮かべると、斬って捨てるような口調で言い放った。
 「他の奴が撮る蕾夏で、あんた達の望む“商品”が出来上がると思うんなら、好きにしろよ」
 「……」
 「何が“商品価値”だよ―――俺と蕾夏の関係は“商品”なんかじゃねぇよ。ふざけんな」
 吐き捨てるように言うと、瑞樹は乱暴に美和の手を振り解き、応接室を出て行った。

***

 「…お断りします。ごめんなさい」
 困ったように眉を寄せた蕾夏は、そう美和に答えた。
 その答えに、美和は、やっぱりね、という落胆の表情をしてため息をついた。
 「…あの、もしかして、午前中に瑞樹の事呼び出してたのも、この話だったんですか?」
 「そう。事務所に戻ってあなたに入れ知恵されてからじゃ遅いって思ったから、成田君が出てってすぐにあなたを呼び出した訳。けど…同じ答えが返ってきたんじゃ、入れ知恵も何もあったもんじゃないわねぇ…」
 苦笑いを浮かべる美和に、蕾夏の表情が少し険しくなった。
 「じゃあ、資料を瑞樹が持って帰らなかったから取りに来て欲しいって口実は、完全に嘘ですか」
 「ええ」
 「てことは、写真の変更の可能性があるから、って瑞樹を呼び出したのも、そもそも嘘?」
 「そうなの。ゴメンネ」
 全く悪びれない美和に、蕾夏は呆れ顔をするしかなかった。
 「…美和さん、絶対、瑞樹に復讐されると思う」
 「もうされちゃったわよ。一大チャンスを断られちゃったんだもの、最大の復讐でしょ? あーあ…、でも、諦めきれないなぁ…」
 資料をばさっとテーブルの上に放り出すと、美和はため息と共に、深くソファに沈みこんだ。そのサバサバとした態度が好感を持てて、蕾夏はくすっと笑った。
 「ねえ。なんであなた達って、そうもあの写真を出すのを嫌がるの? “シーガル”の時も、相当ギリギリまでねばったじゃない?」
 「瑞樹は何て言ってたんですか?」
 「それがねぇ、よくわからなくて。問答無用で“お断り”って感じだもの。ああ、でも、1つだけ言ってたかな―――“俺と蕾夏の関係は商品なんかじゃない、ふざけるな”って。“商品価値”って言っちゃったのが、癇に障ったみたい」
 ―――う、うわー…、仮にもクライアントに、ふざけるな、とか言っちゃったのか…。
 よっぽど頭にきたんだな、と思いながらも、冷や汗が吹き出してくる。
 「す、すみません、瑞樹ってば失礼な態度とって」
 「いいのよ。敬語も丁寧語も無しで、って言ったのは私の方だもの。本音をぶつけてもらえて光栄よ。彼、本音を滅多に出さないように見えるもの。ただ…意味が理解できなかったのが、ちょっとねぇ…」
 眉を寄せる美和の顔を眺めながら、蕾夏は、どう伝えれば良いか、と頭の中でいろんな言葉を並べた。瑞樹の気持ちは、多分自分の気持ちと同じだと思うが、それは第三者に伝えるのが難しい感覚だから。
 「何て言うか―――瑞樹が撮った私の写真は、第三者に見せるような類の写真じゃないんです」
 ためらいがちに蕾夏がそう言うと、美和は、キョトンと目を丸くした。
 「綺麗な写真じゃないの。技術的にも、クオリティも、十分プロレベルよ?」
 「そういう意味じゃなく―――たとえば…美和さんも、その…好きな人とハグしてるとことか、キスしてるとこの写真だったら、いくら綺麗に撮れてても、第三者に見せたくないでしょう?」
 口にすると、恥ずかしくなる。だんだん語尾が小さくなり、顔が熱くなってきてしまう。そんな蕾夏を、美和はやっぱり目を丸くしたまま凝視していた。
 「え…っ、あの、あなた達にとってああいう写真は、そういうラブシーンを収めた写真と同質のものなの?」
 「…ん、そういう感じ、かな。私達の関係そのものが、そこに写ってる気がする。そういうのは、第三者には見せたくないし、見せたとしてもそれを“商品”として売るなんて、とてもできない―――特に瑞樹は、クライアントの思惑とか消費者ニーズとか、そういう言葉で踏み荒らされるのは嫌だ、って感じてるんだと思う」
 「―――なんか…驚く位に“2人だけの世界”ねぇ…」
 目を丸くしたまま、美和は感心したような、けれど呆れたような声を漏らした。
 「そんな風だから、成田君の仕事にくっついて、イギリスくんだりまで来ちゃった訳ね。納得だわ」
 「え、別に、瑞樹にくっついて来た訳じゃないですよ?」
 「じゃあ、前の仕事を辞めてまで、何をしにイギリスに来たの? 藤井さんは。時田さんのアシスタントだったら、成田君で十分でしょ」
 「うーん、何をしに、って言われると…」
 改めて問われると、困る。首を傾げた蕾夏は、少しの間、眉間に皺を寄せて考え込んだ。が、やがて顔を上げると、考えをまとめながら話すみたいに、ポツリポツリと説明しだした。
 「私の夢、瑞樹の写真集を作ることなんです」
 「写真集?」
 「そう。いつか、瑞樹がプロになって、自分の撮りたいものを自由に撮れるようになって、その結果が写真集として残ればな、って。それがいろんな人の手に渡って、瑞樹や私が時田さんの写真集に感動したみたいに、いろんな人を感動させられたら素敵だな、って」
 「…そう、ねぇ。素敵ね、確かに」
 「―――時田さんは、この半年間で、瑞樹が時田さんを納得させるだけの写真を撮ってみせたら、プロになるバックアップをしてくれるって言ったんです。でも、瑞樹は、納得させられるだけの写真を撮るには、私が」
 そう言いかけて、蕾夏の胸に、またあの冷たい不安がふわっと浮かんできた。

 ―――そう、私が必要だ、って言ってた。あの頃は。…ううん、今も。
 けれど、その確信は、少なくとも蕾夏の中では、だんだんグラつきつつある。
 確かに、瑞樹自身が納得する写真のためには、蕾夏は必要かもしれない。けれど…時田を納得させる写真を撮るためには、果たして本当に必要なんだろうか? 感動を増幅させる自分の存在は、むしろ―――…。

 その先を考えそうになって、蕾夏は慌てて、またその不安をぐっと飲み込んだ。
 「…私が、必要だ、って。瑞樹がプロになるのが、私の夢だから…だから、私も瑞樹も、夢を叶えるために、イギリスに来たんです」
 「―――よくわからないけど…成田君は、藤井さんがいないと、いい写真が撮れないってこと?」
 「本当に納得のいく写真は」
 「…ねえ。それって、まずいんじゃないの?」
 心底心配そうな顔になった美和は、少し身を乗り出すようにして、眉を寄せた。
 「成田君がプロになったとして、よ。藤井さん、この先ずーっと、彼の撮影現場にくっついて回るつもりなの?」
 「…え? ああ…そこまでは考えてないけど…なんらかの形で瑞樹の仕事には関わりたいって思う位で」
 「でも、成田君がプロになったとしても、最初はアシスタントなんて絶対雇えないわよ? 自分が食べてくだけで精一杯なのが普通だもの。だとしたら、藤井さんを雇うこともできない訳でしょ」
 「そりゃあ…でも、半年の間には、瑞樹1人できっと撮れるようになるだろうから、もっと他の関わり方を」
 「他って?」
 「う、うーん…ない、かなぁ? なかったら、仕方ないけど」
 「そんな! だったら、半年後の藤井さんはどうなるのよ! 成田君が1人で撮れるようになってプロになったら、もうお役御免? そんなの、同じ女として納得いかないわよ。藤井さんばっかり犠牲になってるんじゃないの」
 「……」
 そんなこと、言われても…困ってしまう。
 まだ瑞樹がプロになってもいないのに、その後の自分のことなんてまだ考えられない。自分が何をしたら瑞樹がプロになれるのか、それすら今グラついている状態なのに、どうしてその先など考えられるだろう?
 「―――ねえ。蒸し返すようで悪いけど…やっぱり、受けてみない? 今度の話」
 美和は、ビジネスを持ちかけている、というよりは、本当に蕾夏の将来を心配しているような声色で、そう言った。
 「これを足掛かりに、モデルとカメラマンとして、一緒の世界でやっていったら? あなたと成田君がコンビを組めば、絶対成功する。保証するわよ?」
 「…それは…」
 それは、できない。瑞樹も望んでいないし、自分も望んでいない。
 このままずっと同じ道を歩いて行きたい、その思いはあるけれど、その形は決してカメラマンとモデルという形ではない。
 じゃあ―――他にどんな道があるんだろう。
 「―――まあ、今回は無理としても、選択肢の1つとして考えた方がいいと思うわよ? せっかくの金の卵だもの。2人だけの世界もいいけど、殻を破って外の世界に出る必要もあるでしょ」
 最後に美和がそう締めくくったが、蕾夏はその言葉に、首を振ることも、頷くこともできなかった。

***

 美和の会社を出てからも、なんだか頭がうまく回らなかった。
 大きなため息をついて、腕時計を確認する。今、午後1時半―――そういえば、まだ昼食を食べていない。蕾夏は、近くの公衆電話から、時田のオフィスに電話を入れた。

 「―――あ、瑞樹? 私」
 『…なんだよ。お前か。心臓に悪い』
 「え? どうして?」
 『オフィスの電話、今日初めて取ったから。いつもお前が取ってるだろ』
 「あはは、そうだね。もしかして瑞樹にとっては、今のがイギリス来て初めての“電話を取る”経験?」
 『…だな。―――で、どうだったんだよ。鈴村女史に口説かれたんだろ』
 瑞樹の声が、怒った時みたいに、少し低くなる。忌々しげな顔をしている瑞樹が目に浮かび、蕾夏は、受話器を握り締めたまま苦笑した。
 「勿論、断ったよ。あんな思いするの、人生に一度で十分だもん」
 『そうか。なら、良かった』
 電話の向こうの気配が、ほっと緩むのがわかる。信用されてないなぁ、と、また苦笑してしまった。
 「私、まだお昼食べてないから、どこかで食べてくつもりだけど、いいかな?」
 『いいけど―――時田さん、これから取引先の付き合いでどっか行くから、俺達は好きにしていいって言ってる。どっか撮りに行くか?』
 心臓がドキン、と鳴った。受話器を握る手に力が入ってしまう。
 「う…ん、あのさ、それなら私、ちょっとカレンに“シーガル”の件で一言お詫びしてきたいんだ。このままエージェントの方寄っていくから、瑞樹、ハイド・パークあたりを1人で撮ってて。間に合えば私も行くから」
 『なんで俺1人で』
 「たまにはいいじゃない、そういうのも。自分だけの考えで、じっくり撮る時間も必要かもしれないしね」
 『―――お前、また余計なこと考えてないか?』
 「……」
 ―――なんで瑞樹には、バレちゃうんだろう。
 『蕾夏』
 「…なに?」
 『余計なこと、考えんな』
 「…考えてないよ。だから、先に撮ってて、って。後から私も行くから」
 『―――わかった。1人で待たされる分は、ミネラルウォーター1本で手を打つ』
 「指定銘柄は?」
 『ボルヴィック以外、却下』
 その声音に、“余計なこと”を考えて暗くなっている蕾夏を少しでも和ませようとしている瑞樹の気持ちが見え隠れする。蕾夏は口元をほころばせ、「わかった」と答えた。

 ―――瑞樹は、いつも優しい。
 受話器をフックに掛け、蕾夏は、大きく息を吐き出した。
 公衆電話のガラスに体を預け、しばし目を瞑る。なんだか、ミレニアム・カウントダウン以来ずっと溜め込んできたことが、さっきの美和との会話を引き金にして、じわじわと体を侵食し始めた感じがして、体が酷くだるかった。
 瑞樹は、いつも優しい。どんな時も、蕾夏にだけは。
 時田のアシスタントの仕事など、本当は瑞樹1人で十分こなせる筈。けれど瑞樹は、必ず蕾夏に何がしかの仕事を任せてくれる。現場で蕾夏が手持ち無沙汰になってしまわないように。
 寒い地域のロケハンだと、自分の上着まで蕾夏に着せて、瑞樹だけ風邪をひいたりする。本末転倒、と時田に言われて不貞腐れていたけれど、あれだったら瑞樹1人でロケハンしてきた方がマシだったんじゃないかという気がする。
 せめてプライベートでは気を遣わせたくない、と思うのに―――瑞樹は恋愛でも、いろいろ蕾夏に気を遣っている。蕾夏が怖がらないように、過去の暗い記憶を呼び覚ましてしまわないように…いつもいつも、優しくしてくれる。

 写真だけが支えだった。いや、それだけのために来たと言っても過言ではなかった。瑞樹が撮りたい写真を撮るためには、自分が一緒にいる必要がある、そう信じていたからこそ、来ることができた。それが間違いなく、瑞樹がプロになるために必要なことだと思ったから。
 でも、それが間違いだとしたら?
 2人で撮る写真は、素人の趣味の写真―――第三者には理解できない、2人だけの世界の写真。プロとしては通用しない写真。プロとして通用する写真に、蕾夏はいらない。むしろ、蕾夏がいては、時田が言うような写真は撮れない。…それが、真実の全てだとしたら?

 バランスが、とれない。
 想いのバランスが、どうやってもとれない。
 瑞樹と一緒に、同じ目標のためにここにいる筈なのに、できることは極端に少なくて、むしろ瑞樹に要らぬ負担をかけている面ばかり多くて。バランスがとれない―――瑞樹にあげたいものが一杯あるのに、あげられない。

 ―――だったら。
 だったら、私、一体何のために、ここにいるんだろう―――…?


 暗い考えの深みに引きずりこまれそうになったその時、コンコン、とガラス扉をノックする音がした。
 電話を使いたい人が急かしている、と思った蕾夏は、慌てて目を開け、額に落ちた髪を掻き上げた。
 「す、すみません、今―――…」
 条件反射的につい日本語で答えてしまう。が、そこで言葉は止まった。
 ガラス扉をノックしていたのは、ストリートファッションに身を包んだ、奏だったのだ。ちょっと驚いた顔をして、電話ボックスの中の蕾夏の顔を覗き込んでいる。
 「そ…奏君!? 一体どうしたの!?」
 「?」
 奏が、何? という顔をするのを見て、聞こえないのだと気づいた。あたふたと扉を開くと、遠ざかっていた雑踏の音が電話ボックスの中に一斉になだれ込んできた。
 「どうしたの、奏君」
 「あんたこそ、どうしたの。オレは美和さんとこに情報収集に行くとこだけど」
 「私は美和さんの所から帰る途中だよ。偶然だね」
 笑顔を作ろうとした瞬間、瑞樹に言われた言葉を思い出した。
 “奏には、注意した方がいい”―――理由はわからなかったけれど。蕾夏は一応、いつもより笑顔の度合いを控えめにしておいた。
 「美和さん所から、って…もしかして、次の仕事の話?」
 少し声をひそめるようにして、奏が探るような目をする。事情を知っていそうなその態度を一瞬不思議に思った蕾夏だったが、カレンのことを思い出して、ああ、と想像がついた。カレンは数日前、“シーガル”のテレビCMの撮影で、美和と一緒だった筈だ。その時、何か美和から聞いたのだろう。
 「うん。カレンから何か聞いてるの?」
 「え…、ああ、うん。まあ、ちょっとだけ。あんた達2人で、またポスター任されるとか、何とか…」
 なんだか落ち着かない様子で視線を彷徨わせる奏の様子に、蕾夏はくすっと笑った。
 「でも、その話は、断ったの」
 彷徨っていた奏の視線が、止まる。再び蕾夏の方に向けられた奏の目は、心底意外、という表情をしていた。
 「―――え?」
 「断ったの。本当は“シーガル”だって、最後の最後でカレンの写真が逆転勝利すればなぁ、って思ってた位だもの。この先ももう受ける気はないよ。私も、瑞樹も」
 「なんで…。カレンの奴なんか、羨ましがってたのに。自分がカメラマンの恋人だったら、ヌードでも何でも売れそうな自分をガンガン撮らせて、自分も恋人も一緒にビッグになってやる、って」
 「あはは…、カレンらしいね」
 カレンは、強い。羨ましい位に。
 自分がカレンのような人間ならば、たとえ瑞樹が嫌がろうとも、そうやってどんどん引っ張って行って、2人で成功を収めるのかもしれない。2人で殻の中に閉じこもって、自分達の世界を守ろうと身を寄せ合ってるなんて、カレンから見たら馬鹿としか言いようがないだろう。
 カレンのような強い女性が、瑞樹の相手だったら良かったのに―――また暗い考えに囚われそうになって、蕾夏は小さなため息をついた。
 「でも、あいつのモデルやらないんだとしたら―――あんた、郁との契約終わったら、どうすんの?」
 「別に。まだ考えてないよ」
 「アバウトだなー…。何か希望とかないのかよ」
 「希望?」

 ―――私の、希望…。

 蕾夏は、奏から視線を逸らし、奏の背後の雑踏をぼんやり眺めた。
 希望―――具体的に何になりたい、ってことは、まだ見つけていない。けれど。
 「…必要とされたいなぁ…」
 「…え?」
 「何でもいい。ただ、必要とされれば」
 ―――瑞樹、に。

 自分がいるから、瑞樹は自由に生きることができる―――そんなことを実感したい。役立っているのだと、足手まといなんかではないと思えるだけの自信が欲しい。
 一度失った自信を取り戻すのが、こんなに難しいことだなんて―――夢にも、思わなかった。

 一度溢れてきてしまった不安は、蕾夏を極限まで苛み始めていた。
 だから、この時、雑踏をぼんやりと眺める蕾夏のことを、奏がどんな目で見ていたのか、蕾夏は全く気づいていなかった。

***

 ―――オレ、何してるんだろう?
 一宮家の玄関ドアの前で、奏は苛立ちに頭を掻き毟った。
 どうせ、またあの2人の仲の良さを見せつけられて、気分が悪くなるだけだ。それがわかっているのに、なんでここに立っているのだろう?
 いや。理由はわかっている。
 昼間見た蕾夏の虚ろな表情が、どうにもひっかかっているからだ。
 意を決して、ドアベルのボタンを押す。ジリリリリリ、と目覚まし風の音が鳴り響いたしばし後、ガチャリとドアを開けたのは、意外にも淳也だった。
 「奏? どうしたんだい?」
 「どうした、って…帰って来ちゃいけなかったのかよ」
 「ははは、まさか。最近は、珍しい位に帰って来るなぁ、と嬉しくなっただけだよ」
 むっとしたような、照れ隠しのような顔をしつつ、奏はドアの内側に入った。
 家の中は、なんだかいつもよりシンと静まり返っている気がする。ダイニングにも、リビングにも、人影はなかった。
 「実は、千里が、学校の生徒から風邪もらって来ちゃってね。もう寝てるけど、会うのは明日にした方がいいよ。風邪うつったら、奏の仕事に差し支えるからね」
 「ふぅん…わかった」
 「夕飯は?」
 「いや、食ってきたから。…あいつらは?」
 「瑞樹と蕾夏は、もう2階に上がった。多分、何か作業やってると思うよ。まだ早い時間だからね」
 そう言う淳也は、リビングで新聞を読んでいる最中のようだった。今日は累は帰っていないらしい。
 更に淳也と2、3言葉を交わした奏は、まだもやもやと曖昧な気分のまま、2階へ上がった。
 ノックして、返事がなかったりしたら、どうすりゃいいんだろう―――そんな妙なことを考えながら階段を上がっていたら、最上段に足をかけたあたりで、突然、瑞樹と蕾夏の部屋のドアがそっと開いた。
 思わず、足が止まる。驚きに息を詰めて見ていたら、ドアの隙間から、蕾夏がひょこりと顔を出した。
 「…あれ? 奏君だったんだ、下で何かガヤガヤ話してたの」
 「―――…」
 いつもと変わらない表情の蕾夏に、なんだか拍子抜けする。
 「千里さんが、風邪ひいてねぇ」
 「ああ、それ、親父から聞いた…。あの…あいつは?」
 「瑞樹? いるよ。何、瑞樹に会いに来たの?」
 「いや、っていうか―――あいつの写真、見せてもらおうかと思って」
 口から出まかせではない。一応、そういう目的もあって来たのだから。
 “シーガル”の撮影現場で見せられた、あの試し撮りの写真―――あれには、かなりの衝撃を受けた。人間を撮ることで人形を撮る無意味さをわからせてやる、そう言った瑞樹の言葉そのままの写真のような気がして、モデルとしての奏の何かを酷く刺激した。
 あいつって、普段、どんな写真を撮ってるんだろう―――そんな興味が、突然、湧いて来た。それも今日来た理由の一つだ。
 「瑞樹ー、奏君が写真見せてくれって。今って大丈夫?」
 「んー…邪魔しねーなら、入ってよし」
 「オッケー。―――奏君、入っていいって」
 一応許可が下りたらしい。奏は、落ち着かない気分で、初めての2人の部屋に足を踏み入れた。
 瑞樹は、デスクの前に座って、フィルムをデスクライトにかざして確認する作業をしているようだった。傍らのベッドの上には、無数の写真がばら撒かれていて、その中央に、何故かアルバムが1冊開いて置いてある。
 「ちょっと待っててね」
 蕾夏はそう言うと、ロフトに上がって行った。
 手持ち無沙汰になったので、なんとなく、背後から瑞樹の作業を眺めた。昔、時田がこんな作業をしているところを、隣でよく眺めた記憶がある。なんだか手つきが似てるな、などと思っていたら、ふいに、瑞樹が口を開いた。
 「俺の写真が見たいなんて、どういう風の吹き回しだよ」
 ちょっと、ドキリとさせられる。ここに来た一番の目的が、写真ではないだけに。動揺を誤魔化すため、奏は少しぶっきらぼうに答えた。
 「…別に。郁が惚れこんだ腕に、ケチの1つ2つつけてやろうかと思っただけ」
 「ハ…、なるほど」
 そう言うと、瑞樹は振り返り、背後に立つ奏を仰ぎ見た。
 「俺はまた、単なるこの部屋に入るための口実かと思った」
 「―――…!」
 奏の考えなどお見通しのように、瑞樹はニッ、と笑ってみせた。
 あのダークグレーの瞳が、奏を見据える。魅了されそうなその目は、決して鋭くはない。けれど―――瑞樹の気配は、どことなく奏を警戒している。空気が、僅かにピン、と張っている感じがある。
 静かで穏やかな中にも漂う、緊張感―――奏は、なんだか、自分も知らない自分を瑞樹には見抜かれている気がして、ぶるっと身を震わせた。
 一言からかったら、もう興味がなくなったのだろうか。瑞樹はまた、フィルムの確認作業に戻ってしまった。奏は、気づかれないようホッと息を吐き出すと、写真を敷いてしまわないよう注意しながら、ベッドに腰掛けた。
 「お待たせー。これどうぞ」
 ちょうどその時、ロフトから蕾夏が降りてきた。小さな花柄のポケットアルバムを1冊手渡された奏は、さっそくそれを広げようとした。
 「あ、ごめん、奏君。そっちのロフトの階段に移動してもらってもいい? 今、これ、作業中なの」
 「え? あ…ああ、わかった」
 困ったような顔をしている蕾夏にベッドのスペースを明け渡し、奏は、ロフトに続く階段へと移動した。適当な段に腰を下ろして蕾夏の方を見てみると、蕾夏は、ベッドの真ん中にぺたんと座り込んで、周囲にばら撒かれている写真を、真剣な眼差しで見つめていた。どうやら、アルバムに貼る写真を選んでいる最中だったらしい。
 ポケットアルバムを開いてみると、そこには、見慣れたロンドンの景色が、いくつもいくつも切り取られていた。
 時田の写真よりも、1歩踏み込んだような、ダイナミックさのあるアングル―――時田の風景写真を初めて見た時感じた高揚感を、奏は瑞樹の写真にも感じた。好みの写真なのは、間違いなかった。


 誰も言葉を発しない中、それぞれが、それぞれの作業に没頭する時間が、暫く続いた。
 ポケットアルバムを最後まで見終わってしまった奏は、静かにアルバムを閉じると、他の写真も見せてもらおうと思って、視線を蕾夏に移した。
 声をかけようとして―――声が、喉で、詰まった。

 蕾夏は今、写真を選ぶ作業はしていなかった。
 ベッドの中央に座り込んだまま、フィルムを光に透かしている瑞樹の横顔を、じっと見つめていた。
 瑞樹を見つめる蕾夏の目は、やっぱり奏の知らない目で―――柔らかでありながら、どこかに熱を帯びていて、無言のままに愛情を伝えようとしているような、そんな目だった。
 蕾夏が瑞樹を見つめる視線は、真っ直ぐで、どこまでも揺るぎない。
 彼だけを、見つめている。慈しむように―――いとおしむように。


 ―――なんで…。

 胸の奥に、針で刺されたような、小さいけれど鋭い痛みが走る。
 その痛みに耐えるように、奏は唇を噛みしめた。

 

 ―――なんで、その視線の先にいる男が、オレじゃないんだろう―――…。

 

 気づかない方が、幸せだったのかもしれない。
 けれど、もう、遅い。

 奏は、アルバムに添えた手をぎゅっと握り締めると、増してゆくばかりの痛みから逃れるように、視線を逸らした。


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