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keep believing ―

 

 いつもなら蕾夏が止める筈の目覚まし時計が、いつまでもやかましく鳴り続けている。
 半ば強制的に目覚めさせられた瑞樹は、むくりと起き上がると、蕾夏の向こうに手を伸ばして、時計のアラームを止めた。
 髪を掻き混ぜながら、手にした目覚まし時計を確認すると、都合5分間、アラームが鳴り続けていた計算になることがわかった。スヌーズ機能でだんだんボリュームが上がっていった結果、目覚めの悪い瑞樹でも気がつく音量に達したのだろう。
 「―――…蕾夏?」
 時計を枕の横に放り出すと、瑞樹は、隣に寝ている蕾夏に視線を移した。
 瑞樹に背中を向ける形で寝ている蕾夏は、まだ完全に熟睡状態らしい。ベッドの外に投げ出した手から、アルバムが1冊、床に落ちている。そう言えば昨日、瑞樹がうとうとし始めた時も、蕾夏はまだアルバムを眺めていた。多分、そのまま眠ってしまったのだろう。ベッドサイドのライトが点きっぱなしになっている。
 よほど、疲れているのだろうか。こんなことは、珍しい。まだ、朝のタイムリミットまでには余裕があるので、瑞樹は起こすのをやめ、そのままなんとなく蕾夏の寝顔を眺めた。

 最近の蕾夏は、なんだか、少しわかり難い。
 表面上はいつもと変わらないが、時折、心ここにあらずといった感じに、視線がどこか遠くへ向けられてしまう。一緒に写真を撮りに行っても、1歩前に踏み出す足を引っ込めるみたいに、何かを飲み込んでしまう。中途半端にシンクロした気持ちが投げ出されてしまうと、目の前にある景色をどう撮ればいいかわからない。瑞樹はそんな時、押し黙ってしまう蕾夏に何もしてやれず、いつももどかしい思いをしていた。
 特に、ここ2週間は―――そう、美和から仕事を打診されてからというもの、蕾夏はますますわかり難くなった。限界ギリギリのところで踏み止まっているそのムードは、1年前…辻との間に問題を抱えていたあの頃を彷彿とさせ、瑞樹を不安にさせる。
 何をそんなに、苦しんでいるのだろう?
 その機会は何度も与えているつもりなのに、何故話してくれないのだろう?
 蕾夏と距離を感じると、自分の中の危険なものが、また暴れだしそうになる。コントロール外でまた暴れだしたらどうなるのか……それが、怖い。だからなんとかしたいけれど、どうすればいいのか全く見当もつかない。

 瑞樹は、まだ規則的な寝息をたてている蕾夏の髪を指で絡め取り、その頬に軽く唇を落とした。
 …これだけのことで、足りなかったものが満たされる。
 好きで仕方なかった筈の写真のことで日々精神を削られているけれど、蕾夏を感じればそれで削られた分が補われる。かつて、母の手で息の根を止められてしまった感情が、蕾夏といると、ゆっくりゆっくり、息を吹き返す。
 自分はこんなに救われているのに―――蕾夏にしてやれることは、少ない。
 それどころか、ただ一緒にいるだけでは満足できなくて、その体を奪ってしまう。自分の欲のために奪うばかりで、蕾夏に与えられるものは、あまりにも少ない。
 せめて、こうして熟睡できるなら。悪夢も見ずに、深く眠ることができるなら―――その時間だけでも、蕾夏に与えてやりたい。
 この小さな体の中に何を抱え込んでいるのか見えない蕾夏に、その位のことしかしてやれない―――それが、もどかしくて仕方なかった。

***

 「うーん、やっぱり熟睡すると、体が軽いかも」
 「だろ」
 いつもより軽い足取りで機嫌よく階段を上がる蕾夏の様子に、瑞樹は苦笑を浮かべた。目が覚めた時、瑞樹が蕾夏の寝顔を見ていたものだから「なんで起こさないのよっ!」と真っ赤になって怒っていたのだ。ほら、起こさなくて正解だったじゃねーか、と意地悪を言いたくなるが、寝顔を見たくて起こさなかった部分も実際あるので、やめておいた。
 今日は、これと言って大きな仕事はないので、時田のスタジオの方で、機材の再点検などをすることにしている。明日、雑誌の撮影が控えているし、例の食器パンフレットの撮影以来このスタジオでの撮影はなかったので、念のためにチェックが必要なのだ。
 「あれ? 鍵、開いてるみたい」
 預かっているスタジオの鍵を開けようとした蕾夏が、ちょっと目を丸くした。
 不思議に思いつつ扉を開けると、中には既に時田がいて、白ホリゾントを眺めてじっと立っていた。何も配置されていないホリゾントを見て、一体何を考えているのだろう?
 「おはようございます」
 瑞樹と蕾夏が声をかけると、時田ははっとしたように振り返り、慌てたような笑顔を見せた。
 「あ、ああ…おはよう」
 「何してるんですか? ホリゾント、どっか剥げちゃってるとこでもありました?」
 ホリゾント塗り担当の蕾夏が眉をひそめると、時田は苦笑し、目の前で大きく手を振った。
 「いや、そんなんじゃないよ。まあ―――僕流の瞑想みたいなもんかな」
 「瞑想…?」
 「気分が塞いでる時とか、ストレス溜まってる時は、ホリゾント見ると落ち着くんだ」
 変わってますね、と言いそうになって、2人とも危ないところで思い止まった。
 瑞樹も蕾夏も、時田が言うようなものに該当するものは、空だと思っている。空を見上げると、瑞樹は「心がリセットできる」と言うし、蕾夏は「命が洗濯される気がする」と言う―――それはどちらも、同じ意味かもしれない。青い空は勿論のこと、曇り空であっても、空を見ていると、小さなことでくよくよ悩んでいる自分が馬鹿らしくなってくるのだ。
 けれど時田の場合、ただの白い壁を見て、心のリセットや命の洗濯をするらしい。やっぱり時田は、ちょっと変わっている。
 「でも…そんな風に“瞑想”してる時田さんて、初めてかも。何か嫌なことでもあったんですか?」
 蕾夏が訊ねると、時田はその回答を曖昧に誤魔化した。少し首を傾げた蕾夏だったが、どうやら自分には言えない類の事らしいな、と察し、スタジオ内の掃除の準備に取りかかった。
 瑞樹も、スタジオにいる間はいつもかけているオムニバスのMDをデッキセットし、スイッチを押した。ライトなどの機材を化学雑巾で拭き始めたが、時田はまだホリゾントを眺めて立っていた。
 「…蕾夏には話せないような話ですか?」
 ちょっと訊ねてみると、時田は、困ったような笑みを浮かべて、首の後ろあたりを掻いた。
 「うん、まあ―――ほら、この前、君ら2人が蹴った話」
 「…ああ。宝飾店のポスターの」
 「あれ、どうやら奏君に決まりそうなんだ」
 ちょっと、意外だった。
 美和の言っていたコンセプトからすると、モデルは女性であることが前提のように瑞樹には思われた。なのに、奏に話が行くとは―――でも確かに、あえて男性モデルに女性のアクセサリー類を着けさせるというのは、“神秘的な美”を表現するには、意表をついていて良いのかもしれない。
 「で、これまた美和ちゃんが考えそうなことではあるんだけど…僕に撮ってくれないか、って話が来てね。断ったものの、ちょっと後味が悪くて、それで気分が塞いでたんだよ。美和ちゃんが困ってるのは知ってたからね」
 「なるほど…」
 それを聞いて、何故蕾夏に言えなかったのか察しがついた。“VITT”の件で、蕾夏はいつも「時田さんが撮ってあげて下さいよ」と何度も口にしていた。奏が、時田に撮ってもらえないことに歪んだコンプレックスを持っていることに気づいている彼女からすれば、とにかく一度試してやればいいじゃないか、という思いが強いのだろう。時田は、またそれを言われるのが嫌だったのだ。それが正論であることを、重々承知しているから。
 「―――時田さんは、俺達が鈴村さんのオファーを受けるべきだった、って思ってますか?」
 ちょうど良い機会だと思い、瑞樹は、少し気になっていた事を、時田に訊いてみた。
 その質問に時田は、思わせぶりな笑みを浮かべた。
 「君は、どう思う?」
 「…わかれば、訊いてないですよ」
 「ハハ、そうだね」
 時田は、面白そうにそう言って笑うと、また視線をホリゾントに向けた。
 「―――君がもしもあの話を受けたら、もうそこで見限ろうと思ってた」
 「……」
 思わぬ言葉に、息を呑む。瑞樹は眉をひそめ、時田の横顔を凝視した。
 「…どういう意味ですか」
 「つまり―――君が藤井さんを“売る”気でいるなら、遅かれ早かれ破綻するだろうと思ったからだよ」
 まだ意味を測り兼ねている瑞樹の様子に、時田は視線を瑞樹に戻し、真っ直ぐに彼の目を見据えた。
 「あの“シーガル”の写真は、間違いなく成功する。それは僕も保証するし、この後同じように君が藤井さんを撮った写真を売り続ければ、君も彼女もあっという間に一流に駆け上ることができると思うよ。君にはポートレートの撮影依頼が次々に舞い込むようになり、藤井さんを撮りたいというカメラマンがどんどん名乗りを上げるだろう。その全てを断ることが、君達にはできるかな?」
 できる、と言いたいところだが―――無理だろう。拒否したくてもできないケースがあるのは、瑞樹でも想像に難くない。
 「君達の好む好まないに関わらず、君達それぞれの“商品価値”に目をつける人は多いと思う。そうなった時―――2人だけの世界に閉じこもってる“今の”君達では、もうその世界を守っていくことができないだろう。その先に待ってるのは、破局しかない―――藤井さんを失って、君は撮り続けられると思うかい?」
 「―――いえ…」
 「…だろうね」
 そう言うと、時田は、どこか懐かしげな、そして寂しげな表情をして、目を細めた。
 「僕は、ずっと守りたかったものを失って、撮れなくなった―――何を撮っても、前のような満足感は得られない。それは今も同じだよ。ある程度立ち直るまで10年以上かかった―――まあ、おかげで編集者なんて仕事もやって、人脈は増えたんだけどね」
 時田の言葉に、瑞樹は目を見張った。
 時田は、イギリスの大学を卒業後、出版社に就職している。プロカメラマンとして転向したのは32歳の時だ。珍しいコースを取っているな、とは思ったが、まさかそんな裏事情があったとは予想外だ。
 「まあ…ともかく君らは、1つ、クリアした訳だ。“シーガル”の件は悪かったよ。でも、自分達の“商品価値”を実感させるには、いい機会だと思ったんでね」
 「…そういうのは、先に言ってくれないと…」
 「ハハハ…、僕はね、甘やかさないたちなんだよ」
 少し恨めしそうな目をする瑞樹の肩を、時田はポン、と叩いて笑った。

***

 昼近くなり、そろそろオフィスに戻るか、という時間になって、いきなりスタジオに来客が現れた。
 「あれ、今日ってこっちだったんだ」
 聞き覚えのある声に3人が振り返ると、スタジオのドアの所に、奏が立っていた。
 「なんだ、奏君。どうしたんだい?」
 「オフィス行ったら留守なんで、こっち来た。あ、今日用事があるのは、オレじゃなくて、カレンね」
 奏の言葉に促されるように、奏の後ろから、カレンが顔を覗かせた。
 いつも色柄物の女性的な服が多いカレンだが、今日は珍しくセーターにGパンというカジュアルな服を着ている。元々スタイルがいいのだし、派手な顔立ちなので、そんなシンプルな服装の方が好感が持てる。
 「なんだ、2人揃って来るなんて。デートの途中か何かかな?」
 からかうように時田が言うと、奏とカレンは、曖昧な笑い方をした。その刹那、奏の視線と瑞樹の視線がぶつかると、奏はバツが悪そうな顔になって、視線を逸らしてしまった。
 ―――案外、不器用な奴。
 2週間前、瑞樹達の部屋に来た奏を思い出し、瑞樹は微かに笑った。どの程度かはわからないが、奏が蕾夏を意識しているのは気づいていた。瑞樹の目から視線を逸らすということは、本人も自覚があるということだろう。
 「オレは午後から、この近所で打ち合わせあるからついてきただけだよ」
 「1人じゃ暇つぶしできなかったのよね、奏は」
 「…余計なこと言うなよ」
 睨む奏を無視して、カレンは、ちょっと真剣な眼差しを瑞樹の方に向けた。
 「あの―――あたし、今日は、成田さんにお願いがあって来たの」
 意外な話の振られ方に、瑞樹は、俺? という顔をした。
 「あのね、あたしのポートフォリオ作るのに、1枚協力して欲しいの」
 「は? つまり、撮れってことか?」
 「そう。あたし、バイトしてなんとか食い繋いでる状態だから、プロには頼まずに節約しようと思って。で…仕事で撮った写真とかの他に、あと1枚、どうしても欲しいの。それを成田さんに撮ってもらいたくて。…ダメ?」
 ちょっと心配そうにカレンが眉を寄せる。その表情で、前にふざけて“約束のキス”をしてきた時とは違い、今回は真剣に瑞樹に撮って欲しいと思っているとわかった。
 基本的に自営業に近いモデルの世界が、見た目の派手さとは裏腹に台所事情が厳しいことは、スタジオで3年バイトしていた瑞樹も、随分見聞きしている。協力してやらないと、という思いはある。が―――簡単にイエスとはいえない事情が、瑞樹にもある。
 ポートフォリオは、モデルの履歴書みたいなもの。つまり…撮るのは、ポートレートだ。
 「いい機会だよ、成田君。撮らせてもらうといい」
 迷っている様子の瑞樹に、時田が背中を押すように声をかけた。ちょっと眉をひそめるようにする瑞樹に、さっき見せたのと同じ楽しげな笑みを浮かべる。
 「言っただろう? 僕は甘やかさないたちだって。苦手分野でも撮れって命令するよ」
 「命令、ですか」
 「そういう約束だよね」
 撮れと言うものを片っ端から撮れ。それが、イギリスに誘った時の、時田の言葉。諦めたようなため息をつくと、瑞樹は蕾夏に視線を向けた。
 瑞樹がポートレートを撮れないのがただの苦手意識ではないことを、彼女だけは知っている―――蕾夏は、やっぱり、少し心配そうな目をしていた。が、瑞樹が自分の方を見たのに気づくと、まるで瑞樹を安心させるみたいに、ふわりと柔らかく微笑んだ。
 撮ってあげて―――無言の中にも、そういう声を聞き取った瑞樹は、前髪を掻き上げてしばしじっと考え込んだ。
 ―――確かに、そろそろ、苦手だからと逃げ回ってられる時期じゃなくなってきてるよな…。
 少なくとも奏は撮ることができた。ファインダー越しに合わさった視線に、恐怖より先に「何かを感じ取らなくては」と思う気持ちが強くて、あのトラウマを一瞬忘れた。カレンだってその気になれば撮れる筈だ。
 「…わかった」
 覚悟を決めた瑞樹が短くそう答えると、緊張気味だったカレンの表情がパッと明るくなった。
 「ほんと? 良かったー。じゃあね、1つリクエストがあるんだ」
 途端にいつものカレンの調子に戻る。その様子に苦笑しながら先を促すと、カレンは、思ってもみないことを口にした。
 「あのね。あたしを、蕾夏さんみたいに撮って欲しいの」


 ―――どうやって撮れってんだよ。似ても似つかねーキャラしてんのに…。
 嬉々としてメイクを直しているカレンを遠くに見ながら、瑞樹は無意識のうちにため息をついていた。
 奏は、やはり職業柄、美容関係には強いらしい。カレンのメイクや髪型に、細々と文句をつけている。ああして見ると結構お似合いな2人なのに―――人間の心は、とかく都合のいいようには動かないものだ。
 「女の人撮るのって初めてだね」
 時田と一緒にライトの調整などをしていた蕾夏が、瑞樹の隣に並びかけて、そっと声をかけてきた。
 「ああ…そういや、そうだな」
 「どう? 撮れそう?」
 「…あんまり自信ねーなー…。ポートレートは、随分お前撮ったんで慣れたとは思うけど」
 思わず眉をひそめてしまう。蕾夏の目は、ファインダー越しでも問題なく見つめられる。けれど…それが、果たして母のあの目を既に凌駕してくれているのかどうか、そこのところは、正直やってみないとわからない、という感じだ。
 「綺麗に撮ってあげてね。私みたいに撮って欲しいっていうんだから、変な風に撮ったら、カレンだけじゃなく私も怒るよ」
 「おい…あんまりプレッシャーかけんなよ」
 クスクス笑う蕾夏を、軽く睨む。睨まれてもまだ笑っている蕾夏だったが、ふと瑞樹の手元を見て、不思議そうな顔をした。
 「あれ? 時田さんのカメラで撮るの?」
 瑞樹が手にしているのは、日頃持ち歩いているライカでも、仕事で使っているニコンでもなく、時田のキャノンだった。
 「ああ…ニコン、オフィスに置きっぱなしにしてたから、今手元に無い」
 「ライカM4では撮らないの」
 「…あれでは、お前以外は撮らない」
 ニッ、と笑って瑞樹がそう言うと、蕾夏はちょっと目を丸くした後、照れてしまったのか、僅かに頬を染めて視線を逸らした。
 ライカM4は、瑞樹にとっては特別なカメラ―――イギリスに来てからも、ライカでは趣味の写真しか撮っていない。仕事とプライベートの切り替えをカメラの持ち替えでやっている、と言ってもいいだろう。
 ライカでは、瑞樹は、本当に撮りたいものを、本来の撮り方でしか撮らない。だから、蕾夏以外の人間をあれで撮る気にはなれないのだ。
 瑞樹が本当に、撮りたいもの―――それは、蕾夏だけだから。
 「―――なあ。ちょっと、そこ立ってみろよ」
 「え?」
 3メートルほど先を指差し、瑞樹はカメラを構えた。キョトンと目を丸くした蕾夏は、それでも瑞樹の言う通り、瑞樹が指差した辺りに所在無げに立った。
 フレームの中央に、蕾夏の姿を捉える。ブレストショットのアングルでピントを合わせると、まだ要領を得ない顔をしている蕾夏と、ファインダー越しに目が合った。
 背筋がゾクリとして、いつものあの撮りたいという衝動が襲ってくる。蕾夏のポートレートは、いつもそうだ。…でも多分、他のモデルでは、こんな感覚は味わえない。本能が求めるままに撮れる被写体は、蕾夏しかいない。ならば、他の人間は、どう撮ればいい?

 蕾夏のように撮って欲しいというカレン―――似ても似つかない彼女を、どう撮るか。
 ファインダー越しに蕾夏を見つめたまま、瑞樹は、そのヒントを掴みかけていた。

***

 ―――なんか、私の方が緊張してくるなぁ…。
 撮影の邪魔にならない壁際に立ちながら、蕾夏は昂ぶってくる神経を宥めるように、大きく深呼吸した。
 実際、撮影に入ってしまえば、蕾夏にできる事など何もない。あとは、カメラマンとモデルだけで作っていく世界だ。そのことに一抹の寂しさを覚えながら、蕾夏は、ホリゾントの前に立つカレンの姿と、後姿しか見えない瑞樹を眺めていた。
 「これだよね? 藤井さんが好きなMD」
 時田の声に、はっとして、耳に神経を集中する。ぼんやりして気づかなかったが、今かかっている曲は、デヴィッド・フォスターの“Winter Games”だった。
 「そうです」
 「オッケー。…さて、カレンも準備いいかな?」
 カレンは、少し不安そうに、蕾夏とは反対側の壁際で傍観している奏に視線を送った。どうやら、慣れないテイストの服装やメイクに、いまいち自信が持てないらしい。カレンらしくない表情に、奏は苦笑いを浮かべた。
 「カレンらしくなくて、ナイス」
 「…あんたね。後で覚えてなさいよね」
 むっとするカレンに、奏はあかんべーをするみたいに舌を出してみせた。お似合いなのになぁ…、と、蕾夏はそんな2人を見て思ったが、そう上手くいかないのが人間の心の難しいところだ。カレンにとっての累の存在を思い、蕾夏はなんだか切ない気分になった。
 「じゃあ―――気分だけは蕾夏さんになりきる気でやるから、蕾夏さんより綺麗に撮ってよね」
 彼女らしい強気の笑みを浮かべるカレンに、瑞樹はけっ、というように片眉を上げた。
 「本物に敵う訳ねーだろ」
 「奏もあなたも失礼よねっ。見てなさいよ、“ヴォーグ”の表紙飾るようになったら、どんなに頼まれてもサインしてやらないんだから」
 「はいはい。ま、せいぜい頑張んな」
 カレンが膨れっ面になった瞬間、瑞樹は、何の予告もなくカメラを構え、シャッターを切った。さすがに、カレンの表情が固まる。
 「ちょ…ちょっとー…」
 「適当に動いてて。俺も適当に撮るから」
 もう瑞樹は、ファインダーから目を離さなかった。鋭い声でそれだけ指示を出すと、あとは黙って、シャッターを何度か切った。
 カレンも、撮影に入った、という空気を察知して、軽く深呼吸をする。ふわふわの髪を掻き上げると、カレンは、真っ直ぐにカメラのレンズを見つめた。

 ―――あ…。
 今、視線が、合った。

 ファインダー越しに、瑞樹の視線が、カレンの視線を捉えたのをはっきり感じる。思わず蕾夏は、下ろした手をぎゅっと握り締めた。
 ゾクリ、と、瑞樹にファインダー越しに見つめられた時のあの感覚が、背中に甦る。どこか遠いところで、シャッターを切る音が聞こえた。
 ライトを受けて立つカレンは、とても綺麗だった。いつもの派手さとエキセントリックさが少し抑えられ、ちょっとナチュラルになったカレン―――メイクのせいだろうか。どことなく幼い感じがする。考えてみればまだ22なのだから、いくら顔立ちが違うと言っても、蕾夏よりも幼さが残っていても当然だろう。
 白のオフタートルのセーターの肩に、ふわふわと柔らかそうな髪が波打って落ちている。カレンがポーズを変えるたび、その髪がふわりと風に舞って、光を反射した。綺麗だな、と思った瞬間、またシャッターを切る音がした。

 ―――ゾクゾクする…。
 だんだん、鳥肌が立ってくる。自分が瑞樹に撮られている時の高揚感―――あれと同じものが、体に甦る。蕾夏は、無意識のうちに、自分で自分の腕を抱いていた。

 …カレンも今、これを感じているのかな。
 私が瑞樹に見据えられた時感じるあの何とも言えない感覚を、カレンも味わっているのかもしれない。瑞樹の、ファインダー越しの視線を感じて、全身が痺れるみたいな不思議な感覚に囚われているのかもしれない。
 あんな目で見つめられたら、そうなるのが普通だもの。
 ―――…そう…あんな、視線で。

 そこに考えが行き着いた途端。
 蕾夏は、体の芯が、一気に冷たくなるのを感じた。

 体が、震えだす。
 おかしい、と自分でも思うけれど、どれだけ腕を抱く手に力をこめても、カタカタと震えだした体は止まらない。制御不能になったみたいに、ただただ震える―――それに比例して、体の中がどんどん冷たくなる。
 ―――どうしよう。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。止まらない。
 暴走しだしたものは、制御不能になって、蕾夏をどんどん蝕みつつある。このままここに居たら、おかしくなってしまうかもしれない…そんな焦りを感じるのに、目は撮影風景に釘付けになったまま動かないし、凍りついた体は呼吸を乱れさせる。
 なんとか手を動かして口元を覆うと、蕾夏は必死の思いで視線を逸らした。
 視線を逸らすことができれば、後はなんとかなった。力が抜けてしまいそうな足をぎこちなく動かし、蕾夏は、瑞樹やカレンに気づかれないよう、壁伝いに出口を目指した。時田の視線を感じ、一度だけ振り向く。心配そうな彼に、なんとか笑顔だけ返して見せた。
 奏のいる前側のドアを避け、後ろのドアから、スタジオの外に出た。
 音がしないよう、慎重にドアを閉めると、一気に体の力が抜ける。蕾夏は、がくんと膝をついて、その場にへたり込んでしまった。


 ―――い…やだ…。
 信じられない―――なんで私、こんな風になるの…?
 瑞樹が、カレンを撮れたのは、本当は、凄く嬉しいことの筈。お母さんの目を思い出して、親友の目すらファインダー越しに直視できなかった瑞樹が、ちゃんとカレンの目を見て写真を撮っていた。これで瑞樹は、1つ克服した。また1歩、プロに近づいたんだ。…だから、私も喜ばなくちゃいけない。
 なのに―――これは、何?
 瑞樹が、他の女の人を、私を撮る時のあの目で見てる―――そう考えたら、どうしたらいいかわからなくなった。
 寂しさと、嫉妬と、独占欲と…そんなマイナスな感情ばかりが浮かんできて、止まらなくなった。

 「―――…最、低…」
 言葉にしたら、唇が震えた。
 堪えてきたものが、決壊した気がする。もう、限界―――唇を噛んだ蕾夏の目から、涙が溢れてきた。蕾夏は廊下に座り込んだまま、両手で顔を覆って泣き出した。
 もう、全てが嫌だった。
 一緒にいても、瑞樹に何の協力もできない自分。彼がプロになる手助けのために来たのに、何ひとつ助けになっていない。むしろ足を引っ張っている自分。モデルとして彼を助けることもできないのに、いつもいつも、彼に優しさばかりもらって何も返せない自分。
 その上、こんなこと位で動揺して、筋違いな嫉妬をして―――馬鹿みたいに泣いている自分。

 私…何のためにここにいるの?
 なんでこんな所で泣いてるの?
 こんな風に泣くなんて―――私がここに来たのって、結局はただ、瑞樹と離れたくないだけのエゴだったんじゃない?

 ―――もう、信じ続ける自信なんて、ない。
 私は瑞樹にとって必要な人間だなんて、もう信じられない―――…。


 「―――どうかしたのかよ」
 ふいに、奏の声が、前側のドアの辺りから聞こえた。
 条件反射のように、思わず顔を上げてしまった。が、自分の顔を見た奏が目を丸くするのを見て、慌てて泣き顔を背けた。
 気力を振り絞って、手の甲で涙を掃い、立ち上がる。ドアに縋っていないと、今にも足から力が抜けそうだった。
 「―――ごめん。何でもないの。すぐ戻るから、中入ってて」
 「い…いや、でも―――…」
 「蕾夏?」
 ドアから半分体を廊下に乗り出している奏の背後から、まだカメラを手にしたままの瑞樹が顔を覗かせた。その瞬間、奏の顔が少し強張った気がしたが、今の蕾夏にはそれを気遣う余裕など残されていなかった。
 奏の横をすり抜けた瑞樹は、蕾夏の傍に駆け寄った。瑞樹の手が頬に触れ、掃いきれなかった涙を指で掬う。ただそれだけでふっと緊張が緩む自分を感じて、また自己嫌悪に陥りそうになった。
 「どうした? 急にいなくなると心配するだろ」
 「ご、ごめん…なんでもないの。ちょっと、急に苦しくなっちゃって…。酸欠かな。でも、大丈夫」
 顔を覗きこんでくる瑞樹の目は、その言葉を信じているとは思えない目だった。
 その視線から逃れるように目を逸らすと、まだこちらを見ている奏の姿が目に入った。が、奏は、蕾夏と目が合うと、バツが悪そうな顔をして、スタジオの中に引っ込んでしまった。
 ―――奏君も、心配してくれたのかな。
 案外、優しいところもあるんだな―――そんなことを、ぼんやり考えている自分が可笑しい。いや…情けない。
 結局はこうして、瑞樹の撮影の邪魔をしてしまっている。瑞樹だけじゃなく、奏にまで心配をかけている。その実態が、全く筋違いな嫉妬だと知ったら、2人とも何と言うだろう。

 ―――どうしようもなく、自分が、嫌い。

 堪えてきたものが、許容量を超えた気がする―――蕾夏は、瑞樹の手の温かさに救われながらも、その手を払いのけたい衝動を、必死に抑えていた。

***

 結局その日は、ほとんど仕事にならなかった。
 時田の原稿をパソコンで清書するのはいつも蕾夏の仕事だが、いつもなら1時間で終わる内容に、倍の時間を費やしてしまった。挙句に、時田にまで心配されて、「ちょっと早めに帰って休んだ方がいいよ」と、まだ5時前だというのに、早々に仕事を切り上げさせられた。
 随分早い帰宅に千里は驚いたが、千里を手伝って夕飯の準備をしていたら、ほんの少しだけ気が晴れた。
 いつもよりちょっと豪勢な食事を作り、淳也の帰りを待って、瑞樹も含めた4人で夕食をとった。その後、ちょうどテレビで『レオン』をやるというので、珍しく4人でリビングでテレビを見た。大好きな映画の筈なのに、レオンに置いていかれまいと健気について歩くマチルダの姿に、なんだか切なくなってしまう。この映画を見てそんな風に思ったのは、今回が初めてだ。

 スタジオを出てから、映画を見終わるまでの、長い時間―――瑞樹は、ずっと一緒にいたけれど、何も訊かなかった。
 でも、限界は近い―――蕾夏も、それを感じ取っていた。


 「―――で?」
 部屋のドアを閉めると同時に、瑞樹が、幾分低い声でそう切り出した。
 瑞樹のベッドの真ん中あたりにペタンと座り込んだ蕾夏は、瑞樹がやや苛立った素振りでベッドに腰掛けるのを、半分うな垂れた状態で見ていた。頭の中は、まだまとまりきっていない。何か口にすると、また涙が出てきてしまいそうな気がする。
 「どうしたんだよ、今日」
 「―――…」
 「…今日、だけじゃないよな。今年入ってからずっと…特に、ここ2週間位。お前、何か抱えてただろ」
 はっとして、蕾夏は顔を上げた。少し驚いた―――けれど、当然のことかもしれない。毎日一緒にいて、この瑞樹が気づかない筈がない。
 「話せよ」
 「…どう…言っていいか、わからないよ…」
 「とりあえず、言いたいように、言ってみろって」
 瑞樹に目を見据えられると、目を逸らすのが難しい。けれど、とてもその目を見つめながら言えそうにないので、蕾夏は必死に視線を落とし、消え入りそうな声で、小さく呟いた。
 「―――私、ここにいない方がいいと思う」
 「……」
 口にして、一瞬、後悔がよぎる。口にする前よりも、言ってしまった後の方が、心臓がうるさいほどに暴れた。
 チラリ、と目を上げると、瑞樹は唖然とした顔で蕾夏の顔を凝視していた。たっぷり1分近く、何も言えずにそうやって蕾夏の顔を見つめていた瑞樹は、やがて、僅かに眉を歪め、口を開いた。
 「―――…え??」
 「…だ…だから。私、一緒にいない方がいいと思う。少なくとも…こっちいる間は」
 「ちょっと待て」
 ただならぬ話に、瑞樹は思わず、膝の上に置かれた蕾夏の手を取った。
 「待てよ―――お前の頭ん中では、何がどうなってそういう言葉が出てきてんだ?」
 「―――私、わかんなくなっちゃった…」
 泣いてしまいそうな予感に、喉が詰まりかける。蕾夏は、瑞樹の手をぎゅっと握り返して、その予感に耐えた。
 「私、何しにイギリスまで来たんだろう、って…毎日毎日、わかんなくなる。瑞樹がプロになるには、絶対私が一緒に行かなくちゃ駄目だ、って信じてたけど―――なんか、どんどん、その逆のような気がしてきて」
 「…何で?」
 「だって私、何も役に立ててないもの」
 「そんなことねぇって」
 「そんなことあるよ! アシスタントの仕事だって、本当は瑞樹ひとりで十分なのに、瑞樹、気を遣って私に仕事回してくれてる位だし―――モデルにでもなって助けてあげられればいいけど、それもできないし」
 「んなことの為に来た訳じゃねーじゃん、お前は。もっと大事な役目があって来たんだろ?」
 困ったように眉を寄せた瑞樹は、蕾夏の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。が、感情の箍が外れた蕾夏は、その手を振り払うみたいに激しく首を横に振った。
 「その大事な役目だって、全然果たせないもの! 瑞樹は、私といたら“プロになるための写真”なんて撮れないよ、きっと」
 途端、瑞樹の目が大きく見開かれた。
 「…はぁ!? 誰がそんな事言ったんだよ!?」
 「だって、時田さん言ってたじゃない! 私達は感受性が似すぎてるって。そういう2人がいつも一緒に写真撮ってるから、第三者を意識できなくなるんだ、って。それに…“10を感じて、1を撮り、9を捨てる”って時田さんは言ったけど―――それなら、一緒にいると感じるものが増えちゃう私って、ただ瑞樹の選択肢を増やしてるばっかりだもの。そんな風なら、いない方がいい…一緒に撮りに行かない方がいいよ…」
 蕾夏の目から、耐え切れなくなった涙がまた溢れてくる。もう、我慢の限界だった。
 「お、おい…、ちょっと落ち着けって」
 涙を掬うように瑞樹が指を目元に伸ばすが、堰を切ってしまった言葉は、もう止めようがなかった。
 「私は、瑞樹が“撮りたい写真”には必要なのかもしれないけど、瑞樹が“撮らなきゃいけない写真”には邪魔なんじゃない? …だったら私、何しにイギリス来たんだろう―――毎日毎日、瑞樹に気ばっかり遣わせて、瑞樹に優しくしてもらってばっかりで、私から瑞樹には何もあげられない―――こんなの、苦しい。苦しくて、もう耐えられないの」
 「―――俺は、気なんて遣ってないって…」
 なんでそうなるんだ、という風にため息をつきながら、瑞樹はそう言った。
 「第一、何もお前にあげられてないのは、俺の方だろ? お前を犠牲にしてばっかりで…。なんでお前がそんな風に言うんだよ」
 「犠牲になんて、なってないよ―――犠牲でも何でも、なれるんなら、なりたい。それで瑞樹にとって必要な人間になれるんなら」
 その言葉に、瑞樹の顔色が、変わった。
 「―――え…?」
 「…瑞樹が自由に撮れるようになるために、私ができる事が何も無いのが、辛いの―――必要とされたいの、瑞樹に。でないと、何のためにイギリスに来たのか、どんどん見失っちゃうよ…」
 「……」

 瑞樹の目が、次第に険しくなる。
 引き結んだ唇が、微かに震える。蕾夏の手を握る手に、無意識のうちに力がこもってしまう。肩を震わせて泣く蕾夏を、瑞樹は、信じられないという表情で、言葉もなく見つめ続けた。

 「―――お前は…俺の写真にしか興味ねぇのかよ」
 何かを抑えたような声に、蕾夏は顔を上げた。
 瑞樹の顔は、蒼褪めてすらいるように見えた。どうしてこんな顔をするのだろう―――思考力の低下した頭の片隅で、蕾夏は少しだけ、不思議に思った。
 「プロになるために、ってそればっかりお前は言うけど、俺が写真以外でもお前を必要としてるって、どうして思わねぇんだよ」
 「―――…」
 どう答えていいのか、頭がうまく回ってくれない。簡単な答えの筈なのに、なんだか傷ついたような辛そうな瑞樹の表情がショックで、どんな言葉も出てこない。
 涙で濡れた睫毛を何度か瞬くと、また涙が頬を伝った。それを見た瑞樹の表情が、余計辛そうになった。
 「一緒にいること以上に大切なことはない、って言ったお前が、同じ口でそういう事言うのかよ!? 俺が何度同じ事言ったら信じるんだよ―――お前しかいらないって! お前さえいれば、あとは何もいらないって!」
 「…わ…かってる、よ?」
 なんとか出てきたのは、それだけ。
 わかっている。瑞樹が、恋人としての自分を必要としているのは。それは十分知っている。自分だってそうだから。
 「でも…、」
 うまくまとまらない考えをなんとか伝えようと口を開いた蕾夏だったが、次の瞬間、その続きの言葉は、喉で止まってしまった。
 瑞樹が、握っていた手をぐいっと引き、蕾夏の体を引き寄せたから。
 「―――…!」
 抗う声を上げる間もなかった。
 背中に回った手が蕾夏を抱き寄せた刹那、蕾夏は強引に唇を奪われていた。
 有無を言わさず、まるで心の痛みを思い知らせようとするみたいに、無理矢理蹂躙してくる唇に、蕾夏は初めて、僅かながら恐怖を感じた。でもそれは、全く知らないものではなかった。過去に一度だけ、ある―――蕾夏が、過去を吐露した時。あの時、訳がわからないままに交わしたキスは、ちょうどこんな風だった。
 いつもの優しさが感じられないキスは、辛かった。心が切り裂かれそうに痛い―――それが自分の痛みなのか瑞樹の痛みなのかわからないけれど、耐え難いほどに、痛い。
 その痛みから逃れるみたいに身を捩るけれど、それはただバランスを崩すきっかけになっただけだった。押し倒されるように後ろに倒れた弾みに、一瞬、唇が離れた。
 「…っ、ね、えっ! こ、こんな誤魔化し方、嫌いだって―――」
 その一瞬をついて言ったが、またすぐに唇を塞がれてしまう。
 肩をベッドに押し付ける瑞樹の手が強すぎて、肩に痛みが走る。直後、シャツのボタンを強引に外されるのを感じて、沸騰しかけた頭の中が冷たくなった。
 ―――ちょ…っ、ちょっと、やだ! やだ、こんなの…っ!
 こんな風に乱暴にされたことは、今まで一度だってなかった。でも、乱暴にされることよりも、話を聞いてもらえない方がショックかもしれない。蕾夏は必死に体を捩り、なおも蕾夏を放そうとしない唇から逃れた。
 「や―――…やだっ! ねぇ、ちゃんと話させてよ! なんで!? なんでこんな」
 「―――聞かない」
 少し掠れた声でそう言った瑞樹は、いつかみたいに、蕾夏の唇に指先を触れさせた。それ以上の言葉を封じるように。
 その指が、頬を辿り、首筋を滑り降りて、肩を、胸を、ゆっくりと辿っていく。蕾夏は、呼吸も瞬きも忘れて、ずっと瑞樹の目を見つめ返していた。
 至近距離から見下ろしてくる瑞樹の目は、辛そうだった。
 見ているだけで、痛みで気が変になってしまいそうなほどに―――辛そうだった。
 「今は、何も聞かない。…だってお前、俺が言葉で説明しても、信じてくれないだろ」
 「…瑞…樹」
 「―――蕾夏しか、いらない」
 その言葉に。
 背筋が、何故か、ゾクリとした。
 そう―――ファインダー越しに見つめられた、あの瞬間みたいに。

 首筋に唇が押し付けられる。襲ってきた鋭い痛みに、声をあげそうになる。
 いつもより間違いなく、乱暴なキス、乱暴な愛撫。でも、抵抗できなかった。なすがままに、ただ狂わされていく事しかできない。不思議と、怖くはない―――ただ頭を占めていたのは、瑞樹の辛そうな目のことだけだった。

 ―――どうしてそんなに、辛そうな目をするの…?

 この先に、その答えが見えてくるだろうか―――思考力が奪われていく中、蕾夏はずっと、そんな事を考えていた。


***


 ―――どうしたら、信じてもらえるんだろう。
 こんな風に、蕾夏の恐怖心を無視して、自分の抱える狂気を押し付けて―――そんなのは逆効果でしかないんじゃないか?
 そう思うのに。
 どうしても、止められない。暴走していくものを。

 「蕾夏…」
 返事はないと知っていながら、名前を呼ぶ。
 それでも、腕の中でぐったりしている蕾夏は、僅かに反応して、うっすらと目を開けた。
 晒された白い首筋に唇を這わせても、もう蕾夏は声を上げる力もない。瑞樹の腕に掛かった手の力だけが反応を返す。蕾夏をそんな状態にまで追いたててもなお、止めることができない。

 辛かった。
 こんな風に抱くのは、どうしようもなく辛かった。
 蕾夏には辛いことだから、優しくしたいと思っているのに、優しくできない―――コントロールの効かない欲望だけが、狂ったように蕾夏を求め続ける。そんなことをしても、体は満たされても、心は満たされなかった。辛い…そんな風にしかできない、自分が。
 こんな風になるから、ずっと宥めすかして、閉じ込めてきた狂気なのに。
 閉じ込められなくなる―――蕾夏との距離を、感じると。
 信じてもらえないと―――本当に蕾夏しかいらないのに、どんなものより、蕾夏と一緒にいることが自分にとっては重要なのに、それを否定されると―――暴れだす。力づくででも蕾夏を引きとめようとする自分が。言葉では信じてもらえないから、こんな風に自分の存在を刻み込もうとする。
 ただ、信じてもらいたいだけ。
 今の自分に必要なものは、蕾夏しかないのだと。

 「―――瑞樹…」
 空気の揺らぎにも消えそうな声が、微かに名前を呼ぶ。
 瞬きと同時に、涙が頬を伝う。残っている力の全てでしがみつきながら、蕾夏は一言、呟いた。


 「信じて―――…」


 ―――何を?
 信じてもらいたいのは、俺の方なのに…?

 次第に力を失っていく狂気に晒される中、瑞樹はずっと、そんな事を考えていた。

 

***

 

 まるで、水から上がった後みたいに、体が重かった。
 なんだか馴染みのない肌触りのシーツや掛け布団の感じに違和感を覚えながら、蕾夏は重い瞼を上げた。
 そして、思い出す―――ここが、どこなのか。
 「―――…」
 無意識のうちに、隣にいる筈の温もりを探す。けれど、隣に寝ていた筈の瑞樹はいなかった。
 動きたくない、と抵抗する体を宥めながら、辺りを見回す。すると、デスクの上のカメラや手帳をデイパックに入れている最中の瑞樹の姿が目に入った。すっかり出かける準備をし終えたその姿に、一体今何時なんだろう、とぼんやりと思った。
 蕾夏の視線に気づいたのか、瑞樹が振り向いた。
 蕾夏と目が合って、少し動揺したように瞳を揺らした瑞樹は、ベッドに片膝だけ乗せて、蕾夏の顔を覗きこむようにした。
 「―――大丈夫か?」
 「…わかんない…」
 我ながらなんて答えだと思うけれど、本当にわからなかった。ただ、だるい―――動きたくない。それだけで。
 「さっき、触ってみたら、お前熱がありそうだったから―――今日は、休めよ。時田さんには俺から言っとくから」
 「……」
 蕾夏は、何も答えることができずに、ぼんやりした目でただ瑞樹の目を見つめていた。
 瑞樹の目には、蕾夏に対する罪悪感が見て取れる。そんな目を見ていると、だんだん胸が痛くなる。
 瑞樹の手が、髪をゆっくりと撫でる。その手は、これまでの瑞樹と同じ、優しい手―――それさえもためらっているみたいに、瑞樹の手は微かに震えているように感じた。

 やがて瑞樹は、思い切るように蕾夏の髪から手を離すと、デイパックを掴み、それ以上何も言わずに部屋を出ていった。
 パタン、と、扉が閉まる音が響くと、寂しさが体の奥からせり上がってきた。


 ―――どうしてそんな、辛そうな目をするの? 
 どうして罪悪感なんて持つの?

 どうして、信じてくれないの―――…瑞樹が私を求めてるのと同じ位、私も瑞樹を求めてるんだってことを。


 どうしようもなく、寂しかった。
 寂しくて、寂しくて―――蕾夏は枕に顔を押し付けて、声を殺して泣くしかなかった。


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