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「…おはよーございます…」
蕾夏が、気だるい声で挨拶をすると、そろそろ高校へ出勤する準備をしなくては、と部屋中をばたばた歩き回っていた千里が、その足をピタリと止めて振り向いた。
「あら? 蕾夏は今日はお休みだったんじゃないの? 瑞樹がそう言ってたわよ?」
「ん…大丈夫。動けるから。今日は大事な撮影あるから、休みたくないし」
「でも、熱あるって聞いたけど―――どれ」
テーブルに手をついて立っている蕾夏の額に、千里の手のひらが押し当てられる。ひんやりして気持ち良いということは、やっぱり熱があるのかもしれない。
「うーん…微妙」
「でも、どこも痛くないから、大丈夫」
「そう。ならいいけど―――シリアル食べる? 出かける前に、部屋に持ってこうと思って用意してたんだけど」
「うん、食べる。千里さん、もう高校行かなきゃいけないでしょ。自分でできるから、早く仕度して」
いつもより若干弱々しい笑みを千里に返し、蕾夏は、牛乳を取りに冷蔵庫へと向かった。
本当は、食欲もあまりない。けれどそれは、だるさからくるのではなく、多分精神的なものだろうと思う。食べておかないと、余計に体がもたなくなりそうだ。気が進まなくても、食べなくてはいけない。
パタン、と冷蔵庫の扉を閉めて振り向くと、まだそこに千里が立っていた。
「―――?」
どうしたのかな、と蕾夏がちょっと首を傾げると、千里はツカツカと歩み寄り、蕾夏の首筋を指でトントン、と指し示した。
「え?」
「結構目立つわよ。キスマーク」
「―――…」
カーッと顔が熱くなった。危うく、手にした牛乳を落としそうになってしまう。今すぐ隠したいけれど、片手に牛乳、片手にコップという状態では不可能だ。
「蕾夏、タートルネックって持ってないの?」
持っていない。襟元がスッキリしていない服装は嫌いだから。でも言葉にならなくて、ひたすら首をぶんぶん横に振る。
「…わかったわ。貸してあげる。私のじゃちょーっとサイズが合わないけどね。いきなりスカーフとか巻くよりは不自然じゃないでしょ」
「す…すみません…」
苦笑する千里に頭を下げつつ、心の中で“瑞樹のバカっ!”を10回以上繰り返す。
それにしても、見られたのが千里だけで良かった。淳也や奏や累が家にいる時だったら、恥ずかしすぎて、もう日本に帰るしかなかっただろう。誤作動を起こしたみたいに激しく暴れる心臓を必死に宥めながら、蕾夏は大人しくテーブルについて、千里が用意したシリアルを食べ始めた。
***
地下鉄を降りて地上に出た蕾夏は、風の冷たさに、一瞬怯んで背を向けた。
昨日で3月に入ったとはいえ、まだ春は遠い。くつろげ気味だったジャケットの襟元を手で握り締め、顔にかかった髪を掻き上げた蕾夏は、風に負けないように歩き出した。
いつもスタジオやオフィスに行く時に降りる駅より、2駅手前で降りた。元々歩くのが好きなのもあるが、今日は、歩きながらゆっくり考える時間が欲しかった。熱で動きの悪い頭には、この風の冷たさはちょうどいい具合かもしれない。ほっと息をついた蕾夏は、歩きながら何気なく空を見上げた。
珍しく、快晴の空―――日本の空と変わらないすっきりと透明な青色が、どこまでも視界に広がっている。命が洗濯されると強く実感できる…そんな、空。
前日、限界まで張り詰めて、もう今にも切れそうになっていたものが、今、感じられない。
何も解決していないのに、何も感じない。…それは多分、切れそうだったものが、本当に切れてしまったからだ。
勝手な事を一杯言った。口を開いたらもう止められなくて、この2ヶ月、ぐるぐる悩み続けたことを、全部瑞樹にぶちまけてしまった。あんな後ろ向きな人間じゃなかった筈なのに―――瑞樹を困らせて、怒らせて、結局…あんな辛そうな顔をさせて。
…情けない。
一緒にいない方がいい、なんて言っておきながら、たった1日、大人しく家で休んでいることすらできない癖に。
本当は、休んだ方がいいのかもしれない。熱がある自覚はないけれど、頭はぼんやりしているし、体もまだかなりだるい。行ってもただ足手まといになるだけで、迷惑をかけてしまうかも…。
けれど、休みたくなかった。
今休んで、瑞樹に“傷ついている”と思われるのは嫌だ。
それに―――あんな事を言っておいて今更、と言われてしまうかもしれないが、今日休んだら、本当にもう居場所がなくなってしまう気がする。自分は瑞樹の仕事には必要のない存在だということが、決定づけられてしまいそうな気がする。
馬鹿みたいだと、自分でも思う。けれど―――あのままあの部屋でひとりで瑞樹を待つなんて、あまりにも寂しすぎて、蕾夏にはどうしてもできなかったのだ。
昨日は軽々と上った階段を、やっとの思いで上る。
スタジオのある3階まで上がったら、今朝起きた時と同じ位に体が重く感じられた。負けるもんか、と、壁についた手をぎゅっと握り締める。大きく深呼吸して、蕾夏はやっと1歩、踏み出した。
スタジオの扉は、開かれていた。午後からの撮影の筈だが、今日撮影するのは農村風景のジオラマだというから、もう運び込みが始まっているのかもしれない。
中を覗き込むと、既にジオラマの本体の運び込みは終わっていて、時田が難しい顔をしてそれを眺めていた。その周囲で、ジオラマの製作者らしい若い白人の男性が、細々とした作業をしている。瑞樹は踏み台に乗ってライトの調節をしているようだ。
「おはようございまーす…遅くなりました」
遠慮がちに蕾夏が声をかけると、3人の視線が蕾夏に一斉に向けられた。
「え…藤井さん? 今日は休みじゃなかったのかい? 成田君からそう聞いてたけど」
目を丸くした時田がそう言うので、蕾夏は、できるだけ元気そうな笑顔を作った。
「ちょっと熱があったみたいだけど、動けそうなんで来ました。今日の撮影、楽しみだったし」
「そう。大丈夫? きつかったらすぐ言うんだよ。昨日も藤井さん、ちょっと具合悪そうだったし」
はい、と頷いて見せながら、蕾夏はチラリと瑞樹の様子を窺った。
瑞樹は、今朝見せたのと同じ、ちょっとバツの悪そうな、動揺したような表情をして、蕾夏を見つめていた。蕾夏と目が合うと、心配そうに眉を寄せたので、蕾夏は大丈夫という意味をこめてにこっと笑ってみせた。
初対面のジオラマ製作者と簡単な挨拶を交わし、スタジオの奥のテーブルにジャケットやバッグを置いていると、背後から瑞樹が近づいてきた。
「おい…休めって言っただろ? 無理すんなよ」
半分怒っているような声に、一瞬怯みそうになる。が、蕾夏は引かなかった。
「無理なんてしてないよ。来たかったから、来たの」
「目、潤んでる…まだ、熱あるだろ」
ちょっと乱暴に額に手を当てられた。作業をしていた瑞樹の手でさえ、少し冷たく感じる。確かにまだ熱は引いていないらしい。
「大丈夫。迷惑かけそうになったら、すぐ帰るから」
「こっちの迷惑の話をしてんじゃねぇよ」
「お願い」
―――ひとりに、しないでよ。
置いて行かれるのが、一番辛い―――その思いをこめて、瑞樹を見上げた。
その気持ちが届いたのか、それとも蕾夏の頑なさに折れたのか、瑞樹は小さくため息をついて、蕾夏の頭をくしゃっと撫でた。
***
「…奏君。もしかして、何か大失敗でもやって、仕事がなくなっちゃったのかい?」
前日に引き続き、スタジオのドアから顔を覗かせた奏とカレンを見て、時田が呆れたような声をあげた。
「昨日の写真、取りに来たの。奏はねぇ、仕事あるのに―――痛いっ!」
すっかりいつものテンションで喋り始めたカレンの後頭部を、奏の手が鋭くはたいた。痛い痛いと文句を言うカレンを放っておいて、奏はスタジオの中を素早く見渡した。
スタジオの中央に据えられた見事なジオラマは、現在取り壊し中、といった風情になっている。どうやら、撮影が終わったばかりらしい。関係者はどこへ行ってしまったのか、スタジオ内には時田と瑞樹と蕾夏の3人しか残っていなかった。
「撮影、終わったんだ?」
丁寧にジオラマを解体している瑞樹と蕾夏の様子を探りながら、奏は時田に何気なく訊ねた。
「ああ、ついさっき。今、下のパブでインタビューやってるから、その間に多少解体作業を進めておこうかと思ってね」
「ふぅん…」
―――オレの思い過ごしだったかな…。
時折瑞樹に確認を取りながら、ミニチュアサイズの木や動物を次々に箱に仕舞っている蕾夏を眺めて、奏は、ほっとしたような残念なような気分になった。
昨日、蕾夏は、間違いなく泣いていた。奏に見られたのに気づいて、初めて奏の目から視線を逸らした。
もしかしたら今日は来ていないかもしれない―――そんな気がして、針の穴ほどのスケジュールの隙間に、無理矢理ここまで来てしまったのだ。来たからといってどうなる訳でもないのだが…ただ、気になって。
ぼんやりと瑞樹と蕾夏を眺める奏をよそに、カレンは、まだ解体作業を続けている瑞樹の傍に行くと、いつもよりちょっと機嫌が悪そうな瑞樹の顔を覗きこんだ。
「成田さーん。昨日の写真、頂戴」
「…作業終わるまで待てねーのかよ」
迷惑、という顔で見る瑞樹に、カレンはさっぱり怯む様子もない。彼の腕をぐいぐい引っ張って、口を尖らせる。
「あたし、この後バイトあるのよっ。遅刻したらクビなんだから、協力してよ。ねーねーねーっ!」
「あー、うるせーって、耳元で怒鳴るな」
ますます迷惑そうな顔になった瑞樹は、うるさくされるよりマシと思ったらしく、傍らのテーブルの上に放置していた写真の束を無言で掴むと、それをカレンに押し付けた。
「面倒だから、全部持ってけ」
「あら、そんなの困るわよ。どれが一番蕾夏さんっぽく撮れてるか、成田さんが選んでよ」
「勝手に選べ」
「ええー…、あたし、写真見る目、あんまり確かじゃないんだもの―――あ、凄い、綺麗に写ってる!」
半透明のビニール袋から写真を取り出したカレンは、そう言ってパッと表情を明るくした。
2枚、3枚とめくっていくうちに、カレンの表情がだんだん真剣になる。自分を売り込むための写真なのだ。カレンだって真剣にならざるを得ない。
「ねえ、成田さん。この写真とこの写真なら、どっちが表情いいと思う?」
ジオラマの解体に戻ろうとした瑞樹の腕を、またカレンがぐいぐいと引っ張る。いい加減にしろ、とうんざり顔をした瑞樹だったが、カレンの声色が真剣なので、一応見てやった。
「…俺なら、こっち」
「うーん、そうかぁ…。少し子供っぽいかなぁ。肩の線はこっちの方が綺麗に出てるわよねぇ…」
どんな写真なんだろう、と興味が出てきた奏が、その写真を覗きに行こうと思ったその時、スタジオの奥で、ガタガタッと大きな音がした。
驚いて視線をそちらに向けると、蕾夏が、予備のライトに縋るみたいにして、半ば座りこんでしまっていた。
「藤井さん? 大丈夫かい?」
奏の傍でカメラの後片付けをしていた時田が、心配そうに声をかけた。
奏も思わず駆け寄ろうとしたが、蕾夏が時田の言葉に頷くよりも早く、瑞樹が蕾夏の傍に駆け寄っていた。それを見て、1歩踏み出した奏の足は、止まった。
―――すげ…、一目散。
あっという間に蕾夏の体を抱きかかえるようにして支えた瑞樹は、蕾夏の顔を覗きこみながら、その額に手を当てた。
「…あんまり変わってないか…」
「…ん…ごめん、ちょっと、足が滑っただけ」
どうやら、元々熱があったらしいが、足が滑ったという言葉は嘘ではなかったらしく、瑞樹の腕に掴まれば、蕾夏はちゃんと普通に真っ直ぐに立てるようだった。が、その顔色は、あまり良くない。目もどこか潤んでいるように見える。
「時田さん、俺、ちょっとこいつ家まで送ってきます」
当然という口調で瑞樹が時田にそう言うと、蕾夏は慌てたように目を見開き、瑞樹の腕をぎゅっと掴んだ。
「い、いい! いいよ、ひとりで帰れるから!」
「バカ、こんな状態でひとりで出せるかよ」
「ほんとに、大丈夫だから」
蕾夏の声が、なんだか必死になっているような気がする。だから思わず奏は、口を挟んでしまった。
「地下鉄の駅までなら、オレ、送ってくけど。そろそろ仕事先行かないとまずいし」
一斉に、全員の目が自分に向くのを感じる。
瑞樹の目が、本音を読み取ろうとするみたいに、奏の目をじっと見据える。目を逸らしそうになったが、その衝動に耐えて、奏も瑞樹の目を見返した。
「…オレ1人じゃ信用できないんなら、カレンも一緒に行く。それでいいだろ」
目の端で「なんであたしが!?」という顔をするカレンに気づいたが、それは無視した。
瑞樹は、まだ暫く奏の目を見据えていたが、やがて、ふっと緊張を緩めると、「じゃあ、頼む」と答えた。それを聞いて、いつの間にか力の入っていた奏の肩も、ほっと緊張を解いた。
―――どうもこいつは、苦手だ。
手にしていたハーフコートを羽織りながら、奏はチラリと瑞樹の方を見た。
嫌いだ―――と言い切ってしまえたら、もっと楽だと思う。その方が好都合―――嫌いな奴の恋人であれば、奏がどんな想いを抱いても問題はない。過去に、大して好みでもない女を、ただ「気に食わない奴の彼女」だという理由で、ゲーム感覚で陥落したことだってあるのだから。
でも…何故か、嫌いと言い切れない。瑞樹の写真に惹かれているせいだろうか? よくわからない。
「…あんたってば、ほんと、バカね」
瑞樹に渡された写真をキラキラしたラメの入ったバッグに押し込みながら、カレンが呆れたように呟いた。
「勝ち目なんてないのに」
「…うるせー」
「ま…あんたが頑張ってくれれば、あたしも好都合だけど? 彼がフリーになったら、あたし、空席狙わせてもらうもの」
どこまで本気なんだか―――カレンに負けないほど呆れた目をしてみせた奏は、何気なく帰り支度をする蕾夏の方を眺めた。
既にジャケットを羽織り、バッグを肩にかけている蕾夏は、瑞樹と何かをぽつりぽつりと話しているようだ。熱のせいなのか、いつもの蕾夏より少し無防備で気だるそうなムードに、遠目に見ていてもなんだかドギマギさせられる。
そんな蕾夏の髪を、瑞樹の手がサラリと撫でる。
蕾夏も、その愛しげな手の動きに促されるように、ちょっと首を傾げるような仕草で瑞樹を見上げた。切なげな、どこか悲しげな微笑を浮かべて。
その表情だけで、十分だった―――奏を傷めつけるには。
…言われなくてもわかっている。
勝ち目がないことなんて。
「奏君」
ふいに、隣に立つ時田が、カレンには気づかれないほどの小さな声で、奏に声をかけてきた。
奏が時田に目を向けると、時田は、穏やかな、けれどどこか奏を宥めるような表情をしていた。
「…やめておいた方がいいよ」
「……」
「気持ちはわかるけど―――奏君が傷つくだけだから」
―――オレ、一体どんな顔してあの2人を見てたんだろう…?
そんなにも、辛そうな顔をして見ていたんだろうか―――憐れみを滲ませた時田の目を見つめ返しながら、奏は、自覚したばかりの痛みに、知らず、顔を歪めていた。
***
「37度2分…」
リビングのソファに沈み込みながら、蕾夏は体温計が指し示す温度を見て、小さなため息をついた。
ふらつくほどの熱ではない。38度超えていても会社で仕事をしていた蕾夏なのだから、この位で足元がおぼつかなくなる訳がない。
理由は、熱じゃない。精神的なものの方だ。
撮影をこなしている間は、比較的元気だった。熱があるのも忘れていたほどに。おかしくなったのは、カレンが来てから―――カレンが瑞樹に、写真のことで相談をしているのを見た時から。
カレンのような立場なら、「仕事のパートナー」として、瑞樹と接していくことができる。モデルとカメラマンとして、対等な立場で1つの目標を持って進んでいける。自分を高めながら、瑞樹を上のステップへと押し上げることができる―――蕾夏が一番やりたくてできないことが、できる。
そのことと、昨日瑞樹がカレンを撮っていた時に感じたあの冷たい感情とが、蕾夏の体の中でぐちゃぐちゃに混じり合ってしまって…気づいたら、平衡感覚を失っていた。
心配そうな瑞樹の顔が思い浮かぶ。結局、彼の助言を無視して撮影に参加した挙句に、ただ心配をかけただけになった気がする。奏が助け舟を出してくれなければ、きっと瑞樹は蕾夏がどれだけ固辞しても家まで送ってきただろう。心配だけではなく迷惑をかける羽目になっていた筈―――それを考えると、もっと落ち込んでしまう。
―――なんでこう、弱いんだろう…。
自分で自分の心の弱さが嫌になる。蕾夏は、ずるずるとソファに更に深く沈みこみ、更に大きなため息をついた。
「あら、蕾夏? 帰ってたの?」
千里の声にはっと我に返った蕾夏は、慌てて体を起こし、振り向いた。そこには、学校帰りに買い物をしてきたのだろう、大きな紙袋を抱えた千里が立っていた。
「あ…っ、千里さん、お帰りなさい」
「ただいま。瑞樹は? 一緒じゃなかったの?」
「うん。私だけ先に抜けてきたの。まだ微熱があるから」
「そうなの。大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ、ダイニングいらっしゃいよ。おいしいクッキー買ってきたのよ。1人じゃ勿体無いから、2人で食べましょ」
パチン、とウィンクする千里に、蕾夏は思わず声をたてて笑ってしまった。千里は本当に、太陽みたいに明るい人だ。母とは全然違うタイプだが、一緒にいると「お母さん」という感じがして安心してしまう。
「千里さん、このセーター、夜まで借りてていい?」
蕾夏は、ダイニングに移動しながら、着ている千里のタートルネックセーターの裾を弄りながらそう訊ねた。すると千里は、軽く肩を竦めた。
「勿論いいけど…蕾夏、1日で消えると思ってるの?」
「…えっ」
「その分じゃ、下手すりゃ1週間近く残るわよ」
「えええっ!?」
「―――って言うと思ったから、2枚ほど買ってきたの。ハイネックのセーター。後で着てみせて」
そう言うと千里は、手にしていた大きな紙袋の中から、もう少し小さいサイズの紙袋を取り出して、蕾夏に差し出した。しょうがない子ね、という風に笑いながら。
「す…っ、すみません…」
今朝と同じように、また顔がカーッと熱くなりかける。また“瑞樹のバカっ!”と心の中で繰り返しつつ、蕾夏は差し出された紙袋をしずしずと受け取った。
「でも…ねぇ。つかぬことを訊くけど―――今回が、初めて?」
「は?」
ちょっと心配そうに眉を寄せる千里に、蕾夏はキョトンと目を丸くした。
「具合が悪そうだし…それに、ここに来て3ヶ月近くなるけど、今までそんな素振り、一度もなかったから、今回が初めてなのかな、と思って」
「…え…ええと」
どう答えればいいのかわからなくて、蕾夏は真っ赤になりながら、ただ首を横に振ってそれに答えた。その返答に、千里がほっとしたように笑みを見せた。
「そう。なら、いいわ。なんかねぇ…蕾夏って、そういう事に弱そうというか―――男の本性見ちゃったら男性恐怖症になっちゃいそうに見えて、不安だったのよねぇ…。外見と同じで、中身も真っ白そうって言うか…下手な扱い方したら、壊れちゃいそうな感じがしてね」
「―――…」
「でも、この千里さんでも今まで気づかなかったってことは、瑞樹が随分優しく扱ってくれてるってことよね。ちょっと安心したわ」
笑顔になって、買ってきた食材などを次々に紙袋から取り出す千里を見ながら、蕾夏の胸は微かに軋み、痛みを感じていた。
―――そう見えるのはきっと、私がまだ、佐野君に与えられたあの呪縛を、克服しきれていないからだ。
瑞樹が必要以上に優しくしてしまうのも、そのせい。…私がこんな風だから、瑞樹に気を遣わせてしまうんだ。
本来なら、こんな言葉位で動揺したりしない。けれど、やっぱり心が弱っているのだろう。ほんの僅かな刺激であっても、今の蕾夏には耐えられない。心の動揺が、すぐに涙腺を緩めてしまう。
気づいたら、涙が溢れてきていた。
「…えっ? 蕾夏!?」
蕾夏の涙に気づいた千里が、ギョッとしたように目を見開いた。慌てて食材を放り出し、蕾夏の背中をさする。
「どうしたの、急に…? 瑞樹と喧嘩でもしたの?」
「…な…なんか、私、情けなくて…っ」
「情けないって―――何が?」
「私、瑞樹に何もしてあげられなくて…なのに、瑞樹に気ばっかり遣わせて…なんか、もう…」
「瑞樹が蕾夏に気を遣ってる様子なんて、全然ないけど?」
そう言って、思わず千里は眉をひそめた。
「ううん。仕事だけじゃなく、恋愛でも、凄く気を遣わせてる―――だって、瑞樹、必要以上に優しい気がするもの。きっと瑞樹があんなに優しくするのは―――私が…私が、こんな風だから…」
泣きじゃくる蕾夏の言葉に、千里は、蕾夏の背中をさする手を止めた。
千里は、何かを感じ取ろうとするように、じっと蕾夏の俯いている顔を見つめた。そして、過去に自分がカウンセリングした何百人もの生徒の事例と丁寧に照らし合わせた結果、ある結論に達して、やっと納得がいった。
「―――ねえ、蕾夏」
再び蕾夏の背中をさすりながら、千里はゆっくりと口を開いた。
「あなた、昔、男の人のことで、何か怖い思いしたことがあるんじゃない?」
蕾夏の肩が、びくん、と跳ねた。
驚いたように上げられた泣き顔は、僅かに蒼褪めていた。せっかく開きかけた蕾夏の心が急速に閉じかけるのを感じて、千里は急いで先を続けた。
「ああ、その詳しい内容はいいの。ただね。それを瑞樹も知ってて、だから瑞樹に負担をかけてる、って蕾夏は思ってるんじゃないか―――そう思ったの」
微かに震えた唇が、何かを言おうとした。が、そのまま言葉は止まってしまった。
やがて蕾夏は、悲しげに視線を落とすと、小さく頷いた。
「そう…そうなの」
背中をさするのをやめて、千里は、蕾夏の肩をしっかりと抱き寄せた。痛々しくて、そうせずにはいられなかった。
「―――蕾夏が瑞樹に何もできないなんて、そんな筈ない。蕾夏は瑞樹にとって必要不可欠な人よ。保証する」
「…でも…」
「ねぇ、話してみない? 蕾夏が思ってること」
「……」
「話してごらんなさいよ。こう見えても千里さんは、ティーン・エイジャーの心の悩みを聞くのが商売なのよ?」
肩を抱いてくれる手が、優しくて。
話してごらんと促す声が、優しくて。
気がつくと蕾夏は、胸につかえていたものを、全部吐き出していた。
***
「…なかなか、難しい問題ねぇ…」
新しい紅茶を淹れながら、千里は深いため息をついた。
蕾夏の涙は、もう止まっていた。壁に掛かっている時計を確認すると、なんだかんだで1時間近く話していたことになる。時田との6ヶ月の契約のこと、大晦日に時田から受けたアドバイスのこと、“シーガル”の撮影のこと、その後美和に仕事を打診されたこと―――そして昨日、カレンを撮る瑞樹を見て感じたこと。かいつまんでではあるが、それだけの事を話したのだから、当然だろう。
「つまり蕾夏は、“瑞樹がプロになるために自分にできることは何もない”と感じたから、辛くなってるのね? イギリスに来た目的がまさに“それ”だから―――“それ”ができないのでは、自分の存在意義なんてない、って思うのね?」
千里の的確な要約に、蕾夏はこくん、と頷いた。
「でも瑞樹は、そんなことない、って言うのね?」
「うん…。瑞樹が言うのも、わかるの。私も瑞樹と離れ離れになったら、寂しいもの。恋人として必要、っていうのはわかる…けど―――私が贅沢すぎるのかなぁ」
両肘をテーブルに突いて頬杖をつきながら、蕾夏はそう呟いた。
「日本にいる頃は、私も瑞樹も、それぞれに仕事を持ってて、会えるのなんて土日がせいぜい、下手したら1ヶ月に1回2回なんてこともザラで―――だから、その少ない時間が、もの凄く大事だったの。2人で映画見たり写真撮ったり…そうやって、同じ感動を共有すると、なんだか生き返るような気分になれて…だから、私は瑞樹に必要な人間だ、って実感できた」
「…なるほど、ちょうどいい距離感があった訳ね」
ティーポットにお湯を注ぎながら、千里はそう相槌を打って先を促した。
「うん。でも、今は―――瑞樹の存在がなけりゃ、私がここにいる理由すら成り立たないでしょう? だからつい、“瑞樹をプロにするんだ”って目的に固執して、瑞樹の存在に依存しちゃうのかもしれない。そんな状態だと、私は瑞樹のために一体何ができてるんだろう、ってそればっかり考えちゃって…考えれば考えるほど、できることなんて、全然なくて…怖くなるの」
「何が?」
「居場所が、なくなるのが」
「……」
「カレンみたいに、極自然な形で同じ目標を目指して歩いていける立場の人がいると、自分の居場所がなくなっちゃう気がするの。私が居たい場所に、他の人がいつの間にか居るようになっちゃう気がして…」
…それに。
瑞樹が自分を撮る時の、あの目。あの目を、他の女性に向けることを考えると―――瑞樹が、プロになるのが、怖い。
でも、これは、いくらなんでも口にできなかった。あまりにも汚い感情すぎて。
千里は、程よい色合いになった紅茶を蕾夏のティーカップに注ぐと、それを蕾夏の目の前に差し出した。自分のティーカップにも注いで席に着くと、ほっと息を吐き出す。とりあえず、お互いに一口ずつ紅茶を口にする間は、沈黙のまま過ごした。
「―――なんとなく、わかったわ」
やっと口を開いた千里は、何度か頷くようにしながら、そう言った。
「瑞樹と蕾夏では、“親友”としての自分達と、“恋人”としての自分達の優先順位が違うのね、きっと」
ちょっと意外な話に、蕾夏は目を丸くした。
「…え?」
「瑞樹と蕾夏は、元々親友同士だった、って言ったでしょ? 親友として随分助け合ってきた、って。…あなた達2人は、元々、人間的な繋がりがとても強いんだと思う。男女として以上にね」
それは、わかる気がした。蕾夏は、まだ目を丸くしたままではあるが、千里の言葉に頷いた。
「友情っていう土台の上に、恋愛感情が乗っかってる状態、とでも言うのかな。そして蕾夏は、その土台の方を何よりも最優先してるのよ。親友のために一肌脱いでやりたい、っていう、その思いが凄く強いの。だから、親友がプロになるために具体的な手助けができないとなると、途端に落ち込んじゃうのよ」
「…親友のために…」
そう―――そう言えば。
『親友としての私はさ、一番の親友の人生最大のチャンスに、ただ黙って指くわえて眺めてるだけってのが、一番悔しくて嫌なんだ』
イギリス行きを決めた時、瑞樹に言ったセリフを、蕾夏は思い出していた。
そうだった。親友としてそういう思いがあって、自分はイギリス行きを決めたのだ。勿論、恋人として「離れたくない」という気持ちも大きかったけれど、それだけでは決め手にならなかった。ただのわがままだ、と思って、きっと我慢していただろう。
「…うん…わかる気がする…」
蕾夏がそう呟くと、千里はニコリ、と笑って続けた。
「でもね。瑞樹はそうじゃないの。瑞樹は多分、恋愛感情の方が強いのよ。勿論、友情という土台があるのは蕾夏と同じだけど、それでも、女性としての蕾夏を求める気持ちの方が強いの。蕾夏が言うような具体的な手助けじゃなくて、もっと根本的なもの―――生きていくためのエネルギーとして、蕾夏が必要なのよ、きっと」
―――生きていくための、エネルギー。
ドキン、と心臓が大きく跳ねた。思わず、テーブルの上で組んだ手に力をこめる。
「写真だけじゃなく、もっと広い範囲で―――具体的に何をする訳でなくても、ただ、蕾夏が瑞樹の想いをちゃんと受け止めれば、蕾夏がその想いにちゃんと応えてあげれば、それだけで瑞樹の役に立ってるの。逆に、蕾夏が、目に見える範囲のものに囚われて、泣いたり、苦しんだり、瑞樹と距離を置こうとしたりしたとすると、瑞樹は何もできなくなっちゃうんだと思うわ。勿論、プロになることも―――もしかしたら、生きていくことも」
「……」
心臓の音が、どんどん大きくなっていく気がした。
蕾夏しかいらない―――何度も何度も瑞樹が口にしてきた言葉。あの言葉と、千里の言葉がリンクする。怖い位に。
何度言ったらわかるんだ、と言っていた。口で言っても信じてもらえない、と苦しそうな目をして言っていた。蕾夏がわかってくれないから、蕾夏が信じてくれないから―――だから、あんなに何度も何度も求めてきた。
信じて欲しかったものは―――何?
あんなに何度も求めてきたものは、一体、何?
―――…そう…か。
私が、“親友”として必要とされたいことばかり考えてた間、瑞樹もずっと必要とされたがってたんだ。
“恋人”として、必要とされたがっていたんだ。私が生きていくための、エネルギーとして。
瑞樹が、信じて欲しかったもの。瑞樹が、求めていたもの。…それは、どちらも、“愛情”なんだ。
「…何がすれ違ってたか、わかってきた?」
クスッと笑う千里に、蕾夏も微かな笑みを返した。
「うん―――私は“友情”を欲しがってて、瑞樹は“愛情”を欲しがってたんだな、って」
「よくできました」
千里はそう言って、蕾夏の頭を撫でた。そのくすぐったい感触に、思わず声をたてて笑ってしまいそうになる。
「でも…愛情って、難しい。どうすればあげられるものなのか、全然わかんない…」
「そんなの簡単よ。傍にいれば、それでいいの」
あまりにもシンプルな答えに、蕾夏はちょっと目を丸くした。
「蕾夏は、友情の繋がりを重んじるあまり、自分の中の恋愛感情を“エゴ”として排除してしまう傾向があるみたいだけど―――結局恋愛って、いろんな物を取り払ったら、最後に残るのは“一緒にいたい”って感情だけなんじゃない?」
「…そうかも…しれない」
「それでいいの。それは全然“エゴ”なんかじゃない。自分の望みを叶えることが、相手の望みを叶えることなんだもの」
ただ、一緒にいるだけで…それだけで、本当にいいんだろうか。
なんだか、そんな気もするし、上手く誤魔化されてしまっている気もする。けれど―――蕾夏が、瑞樹と一緒にいたいと思っているのは本当だ。そして瑞樹も、きっとそれは同じだと思う。
「蕾夏の望む“友情”が果たしてもらえるのかどうかは、残念だけど私じゃわからないわ。郁夫の専門分野だものね。とりあえず蕾夏は、瑞樹の望むものを与えてあげることを考えてみれば? 写真の問題は、きっと瑞樹が考えてくれてるわよ」
「…ん…そうする」
「それとね」
千里の声音が、少しだけ改まったものに変わる。
「蕾夏が信じられるかどうかわからないけど―――男の人の中にはね、女性を支配したい、欲望を満たしたい、って部分も確かにあるけど…愛する人に限りなく優しくしてあげたい、って気持ちも、たくさんあるのよ」
「―――…」
「瑞樹は、蕾夏に気を遣ってなんていないと思う。優しくしたいから、してるだけ。ただ―――あなたの傷を知っているから、臆病になってるだけよ。また傷つけたら、あなたを失うと思ってるんだと思う。…わかる?」
失うと思って、臆病になっている―――…。
なんだかそれは、不思議と納得がいった。蕾夏は、ちょっと口元をほころばせると、千里に笑みを返し、小さく頷いた。
「千里さん」
「何?」
「ありがとう。…なんか、凄く楽になった」
「そう。良かったわ。私も長年、“娘の恋愛相談に乗る”ってのが夢だったから、実現できてハッピーだったわ」
千里の言葉に、思わず吹き出してしまった。
本当に千里は、こういうところがちょっと突拍子もないと言うか―――面白い。
「奏君や累君の恋愛相談には乗ってあげないの?」
「ああー、あの子達はダメダメ。奏も累も、学生時代からいっつも片想いばっかりで、言い寄ってくる子は全部ダメと来てるの。もう、兄弟揃って恋愛下手。奏は遊ぶのだけは上手いみたいだけどね。郁夫にしたって、相談に乗るこっちが面食らっちゃうような恋愛しかしないし…全く、困った血筋よねぇ」
「…ってことは、千里さんも困った恋愛ばっかりしてたの?」
「あら、失礼ねぇ。私だけはそんなことないわよぉ」
「あはは…、そうだよね。千里さんは、淳也さんと相思相愛だったんだもんね」
「そうよぉ。今の瑞樹と蕾夏より上を行く位の相思相愛だったんだから。勿論、今でも負けるつもりはないわよ?」
言っているのが千里だけに、完全なジョークとも思えない。熱々ぶりを自慢したそうにする千里の様子に、蕾夏は余計に笑った。
それから暫くの間―――夕飯の支度を始める時間までずっと、楽しげに笑う千里につられるように、蕾夏も笑い続けた。
本当は、笑えない内容がそこに潜んでいたことに、気づいてしまったけれど。
一瞬、ちょっと待って、と言ってしまいそうになったけれど。
千里は、暴発寸前だった自分を助けてくれた人だから―――蕾夏はあえて、気づかないふりをした。
ただ、みんな笑顔の裏にいろんな秘密を抱えてるんだな…と、胸を痛めるだけにしておいた。
***
外階段の最上段に腰を下ろして、蕾夏は、瑞樹が帰ってくるのを、ずっと待っていた。
時田と飲んでくる、と連絡のあった瑞樹は、日付けが変わる前には帰ってこなかった。さすがに寒いので、一番分厚いコートを引っ張り出してきて、着込んだ。
部屋の中で待てばいいのはわかっている。熱がまだ下がりきっていないのに、外で待っているなんてお前はバカか、と瑞樹に怒鳴られそうな気もする。でも…なんとなく、ここで待っていたい気分だった。
1分でも、1秒でも早く、瑞樹の顔が見られるように―――どんなに寒くてもいいから、ここで、待ちたかった。
―――話が、したい。
昨日、言えなかったこと。昨日、わかってあげられなかったこと。全部話したい。
でもそれ以上に―――瑞樹の話を、聞きたい。瑞樹が何を、どんな風に思っているのか…感じるのではなく、ちゃんと言葉で聞きたい。
自分達に足りなかったのは、きっと「会話」だ。
一番大切なことを、いつも話さずにきた。そう――― 一番大切な「好き」という言葉を、最後の最後まで口にしなかったように。
もう、見失いたくない。
ちゃんと、捕まえていたい―――瑞樹のことも、自分のことも。
一瞬、眠気が襲ってきそうになった時、微かに足音がした気がして、蕾夏は目を開けた。
暗闇に目を凝らしていると、やがて、街灯に照らされた中に、見慣れた人影が見えてきた。
「…瑞樹」
近所迷惑を考えて、小さな声しか出せなかったけれど―――蕾夏が呼んだら、瑞樹は、驚いたように階段の上を見上げた。
「―――蕾夏? …お前、何やってんだ、そんなとこで」
「瑞樹を、待ってたの」
クスクス笑いながらそう言うと、最初、呆れたような顔をしていた瑞樹も、やがてフワリと柔らかな笑みを浮かべた。
「…ただいま」
「ん…、おかえり」
そのやりとりだけで、今朝感じた寂しさを、やっと埋めることができた。
ちゃんと、言葉で伝えたい。
瑞樹が、とても、大切だということを。
瑞樹が、私しかいらない、と言うように―――私も、瑞樹さえいれば、後は何もいらないんだ、ということを。
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