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risky game ―

 

 カレンがカラーコピーの束を抱えて戻ってきたのは、瑞樹がライトの修理を終えるのとほぼ同時だった。
 「ほんと、人使い荒すぎるわよ」
 ぶつぶつ言うカレンに、瑞樹はコピーを受け取りながら、平然とした顔を返した。
 「暇なんだろ」
 「暇だからって、なんでこんな真似をあたしがしなきゃいけないのよっ。お礼位言ったっていいんじゃない?」
 「ああ、サンキュ」
 「心がこもってないっ!」
 カレンの憤慨など完全無視で、瑞樹はさっそく、受け取ったカラーコピーを確認し始めた。
 コピーしてもらったのは、先ほどのモデル仲間が持っていた雑誌の中の、サンドラ・ローズに関するページ、全て。特集記事が組まれていたらしく、カラーコピーは全部で8枚にのぼっていた。瑞樹は、その1枚1枚を順にめくっていきながら、そこに写っている伝説のモデル、サンドラ・ローズの顔を確かめていった。

 ―――やっぱり…間違いない。同じ目だ。
 表紙を見た時に直感的に感じたものが、写真を1枚見るたびに、だんだんはっきりと形作られてゆく。
 このサンドラの目そっくりの目を、瑞樹はもう1人、知っている。勿論、似たような形、似たような瞳の色の目は、他にも大量にあると思う。けれど―――形や色なんていうレベルではない、多分瑞樹のような人間にしか判別がつかないであろう類似点が、サンドラの目とその目にはあった。

 あの日、ファインダー越しに見つめた先にあった、奏の目。
 何の感情も感じ取れない、まるで綺麗なガラス球みたいな目。日頃の奏の目とも、ほぼ瓜二つな累の目とも、全く異質な目だった、あの目。
 カラーコピーの向こう側から、完璧な笑みを口元に浮かべているサンドラ・ローズの目は、あの“Frosty Beauty”の目と、ぞっとするほど同じ目だったのだ。

 「…ねぇ。何でそんなに、サンドラにご執心な訳?」
 苛立ったようにスタジオ中をうろついていたカレンは、無言のままカラーコピーに没頭している瑞樹に、呆れたような声をかけた。
 「そりゃ、寒気がする位の美人だし、プロポーションも極上だとは思うけど…蕾夏さんとはタイプが違いすぎない?」
 「―――なあ、サンドラ・ローズの経歴って、どっかに書いてないか?」
 真剣な面持ちでカラーコピーをめくる瑞樹は、カレンの文句などまるで耳に入っていないらしい。ため息をついたカレンは、仕方なく、壁にもたれている瑞樹の傍まで行って、手にしているコピーをパラパラとめくってみた。
 「…ないみたい」
 「ひとつも? 何のための特集記事だよ」
 「無理もないわよ。だって、サンドラって謎のモデルなんだもの。78年に、シャネルだかディオールだかのニューヨーク・コレクションで彗星の如くデビューして、2年ほどあらゆる雑誌やショーに出まくったと思ったら、その後ピタリと出てこなくなったの。出身地も不明、年齢も不明。だからこそ“伝説”なんて言われてるのよ」
 年齢不詳、国籍不詳―――手がかり、ゼロ。でも、瑞樹は、固まりつつある推論を撤回する気にはなれなかった。

 最初に聞いた言葉は、自分には“Frosty Beauty”は撮れない、という言葉だった。
 次に聞いたのが、激しすぎる感情がゆえに、自滅した―――そして、それを今も引きずり続けている、ということ。
 それから―――ずっと守りたかったものを失って、写真を撮れなくなって、ある程度立ち直るまでに10年以上かかった、ということ。一番大切だったものを失うと同時に、本能を失った。もう本当に撮りたいと感じるものは、何もない…と。
 彼の言う「失った」という言葉が、その人物が死んだとか、そういう類の意味ではないことは、なんとなく感じていた。決別した、もしくは裏切られた―――そんなムードが漂っていた。
 ことある毎に示されてきた、時田の手札(カード)。それらを繋ぎ合わせた時、ひとつの手が出来る。

 時田は、奏を「撮りたくない」のではなく、「撮れない」のではないだろうか?
 ファインダー越しに見つめた先の奏の目が、彼が失ってしまった人物の目にあまりにも似ているから、奏にカメラを向けられないのではないだろうか? 瑞樹が、母の目を思い出してしまって、ファインダー越しに人の目をまともに直視できないのと同様に。

 時田が今も、引きずり続ける“影”。

 時田を、奏を、累を捨てて姿を消した女―――それが、偶然見つけた雑誌の表紙を飾っているこの女性だなんて考えは、突飛過ぎるだろうか。


***


 蕾夏が目を覚ましたのは、瑞樹を見送ってから1時間ほど経ってからだった。
 熱を測ってみたら、37度ちょうど。迷ったが、眠って頭もすっきりしたので、起きることにした。
 部屋着のワンピースに着替えて顔を洗うと、熱があるのが嘘みたいに気分がすっきりした。こんなに元気なら、やっぱり瑞樹について行けば良かった、と少し後悔する。ぼんやりしていたのでは余計後悔してしまいそうなので、書きかけだった紀行文の続きを書くことにして、ホットミルクを作って2階に戻った。
 ―――なんだか説明だらけの文章になっちゃいそうだなぁ…。
 ノートに並んだ書きかけの文を読み返しながら、ちょっと眉をひそめる。
 写真1枚でこと足りることを、文章だと何行にもわたって説明しなくてはいけない。人が言うところの「観念的な表現」を必死に削って、たった数文字で表現していたものを、その数倍の文字数で説明する。この方が親切な文章だとわかっていながらも、やっぱり疲れてしまう。
 瑞樹にとっての写真と似ているな―――ふと、思う。
 本能のままに撮った写真が、本能のままに書いた言葉が、本当は一番気持ちがいい。変なフラストレーションを感じないで、感じたままを全て表現できる。でも、第三者に伝えるにはそれではダメ。削ったり、付け加えたり―――そんな作業が必要になって、削らなくてはいけないものを思うと寂しくなり、付け加えたものを見て「本当にこれでいいの?」と不安になる。
 瑞樹は、ライカM4では、何も足さずに何も引かずに、今まで通りの写真を撮る。だから蕾夏も、仕事を離れたその写真には、今まで通りの「観念的な表現」で言葉をつけよう、と決めていた。
 誰にも見せないものだから、2人だけの世界を作り上げれば、それでいい。そうやって、仕事モードのオン・オフができるのは、結構素敵なことかもしれない。
 ―――まぁ、オフモードを楽しむためには、オンモードを全力でやらなきゃ、ダメなんだけどね。
 つい甘い考えに傾きそうになる自分をちょっとたしなめ、蕾夏は、文字で埋まってしまったページをめくって、新しいページに続きを書き始めた。

 元々、集中すると時間感覚が鈍くなるタイプである。次に蕾夏が時計を見た時には、ホットミルクを作ってから既に2時間近く経っていた。
 「まず…」
 すっかり冷めてしまったホットミルクに、思わず顔を顰める。ちょっと疲れてしまったので、蕾夏は席を立ち、瑞樹のベッドの上に体を投げ出した。
 思い切り伸びをすると、強張っていた体がほぐれていく気がする。まだ瑞樹が戻るまで2時間位あるな…、と、夜までに書ける分量を頭の中で計算していた蕾夏は、ふと何かを感じ、体を起こした。
 「―――…?」
 外階段へと続くドアを見つめ、首を傾げる。気のせいかもしれないが、そのドアの向こうに、誰かいるような気がしたのだ。
 少し迷ったが、蕾夏は立ち上がると、足音をひそめるようにしてドアに近づいた。
 みだりにドアを開けて確認するのは、危険かもしれない。何か武器になりそうなもの、と考えた時、日頃掃除に使っている箒が目に入った。念のためそれを手に持ち、蕾夏は鍵を静かに開けて、ドアを薄く開いてみた。
 外は、前日同様の霧雨が降っていて、外階段を濡らしていた。扉の隙間から見える範囲をゆっくり視線を移動させていった蕾夏だったが、階段の最上段に腰掛けている人影を見つけると、緊張のあまり呼吸を止めてしまった。
 数秒、その後姿を凝視する。そして、その人物が、蕾夏もよく知っている人だと気づいて、慌ててドアを大きく開けた。
 「奏君?」
 蕾夏の声に反応して、後姿が微かに揺れた。驚いたように振り向いた奏の髪は、すっかり雨を含んで濡れていた。
 「どうしたの、そんなところで」
 「…あんた、留守じゃなかったんだ…?」
 多分、カレンからポートフォリオ撮影の件を聞いていたのだろう。奏の目は、びっくりしたように丸く見開かれていた。
 「風邪ひいちゃって留守番になったの。…一体いつからそこにいるの?」
 「…1時間位前から」
 「やだ、そんな前から?」
 早く中に入ってもらわないと―――そう思ったが、ちょっと、迷う。

 奏には注意しろ、と瑞樹に言われている。それに蕾夏自身、奏にはどことなく不安を覚える。どうも蕾夏は彼を激昂させやすい傾向があるようだし、激昂した彼は、何をしでかすかわからない部分があって、怖い。
 けれど―――雨に濡れている知り合いをそのまま放っておくのはためらわれる。第一、ここは奏の家なのだ。

 「…そんなに濡れてちゃ、風邪ひいちゃうよ。早く中に入ったら?」
 結局、そう口にしていた。

***

 何故ここに来てしまったのか、奏自身、その理由をよくわかっていなかった。
 時田の部屋を飛び出して、どこをどう歩いたのかも全然覚えていない。気がついたら、家の前だった。そんな感じだ。
 休日の午後、誰もいないと相場は決まっているのに、ここに来てどうしようと言うのか。何故か、日頃使うことなどない外階段に回りこみ、そこに座り込んで、何を考えるでもなくぼんやりと雨を見ていた。
 理由など、わからない。もしかしたら―――無意識のうちに、蕾夏の存在を感じられる場所を求めて来たのかもしれない。

 「奏君、紅茶飲む?」
 水を1杯貰って一息ついた後、リビング中を所在無げに歩き回りながら髪をタオルで拭いていたら、グラスを洗っていた蕾夏が顔を覗かせ、声をかけてきた。
 「奏君が飲むんだったら淹れようかな、と思ったんだけど」
 「…いい。飲みたいなら、あんただけ飲んだら?」
 「1人前じゃ上手に淹れられないよ。んー…、じゃあ、私もやめとこっかな」
 困ったような蕾夏の笑みの意味を、なんとなく想像する。淳也は紅茶にうるさい口だから、きっと蕾夏も淳也に手ほどきを受けたに違いない。でも、この家で1人前の紅茶を淹れたことはないのだろう―――いつも、瑞樹の分も一緒に淹れるから。
 「奏君、こっちに着替えとか置いてないの?」
 「あるけど…別に、このままでいい。霧雨だった分、髪は濡れたけど、服は結構無事だったから」
 「そっか。なら、良かった。…ええと、好きにくつろげた方がいいよね。じゃあ私、上で続き書くね」
 「え? いや―――ちょっと、待って」
 早くも2階へ上がろうとする蕾夏を、言葉だけで制する。足を止めた蕾夏は、キョトンとした顔をして、奏を振り返った。
 呼び止めたはいいが、こうして蕾夏と視線が合うと、やっぱり落ち着かなくなってしまう。奏は、少し視線を泳がせた後、思い切って一人掛けのソファにストン、と腰を下ろした。
 「1人じゃ間がもたないから…さ。暫く、話し相手してくれよ」
 何を話す気なんだ? と自分で自分のセリフに突っ込んでしまう。が、奏がぶっきら棒に向かいのソファを指差し、座れ、というゼスチャーをしてみせると、蕾夏はクスッと笑い、言われた通りにソファに腰掛けた。
 蕾夏が少し首を傾げるような仕草をすると、癖のない黒髪が肩から滑り落ちる。その僅かな動きが、なんだかスローモーションのように見えて、つい見惚れてしまった。奏は、髪を拭いていたタオルを無造作にテーブルの上に放り出すと、気まずさを誤魔化すように口を開いた。
 「…上で書いてたのって、累に見せる原稿?」
 「うん、でも、最終的には淳也さんに見せる原稿。帰国後の仕事に繋がるかもしれないから、結構必死なの」
 「もしかして、親父んとこの日本支部狙ってる?」
 「…うん。専属ライターとして契約できるように、淳也さんが掛け合ってくれるって言ってる。だから、日本の編集部の人達がOKしてくれる文章書かなくちゃいけないの」
 専属ライターの多くがこうした紹介で決まるのだと、累から聞いたことがある。父の会社と契約できれば、僅かではあるが蕾夏との繋がりが保たれる―――そう考えて少し安堵している自分が、無性に可笑しかった。
 「でも、オレからすると、ライターってのはちょっと意外だった」
 「え?」
 「成田とは全然無関係な道だからさ」
 奏が言うと、蕾夏は、ちょっと恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
 「…ああ…うん。当面は、ね。でも、夢があるから」
 「夢?」
 「―――いつか、瑞樹の写真集に、私が文章を添えるんだ、って夢。2人で1冊の本を作るのが、今の私と瑞樹の夢だから」
 「―――…」
 胸が、また、痛んだ。二重の意味で。
 「…累が、郁と2人で、写真集を完成させてるみたいに?」
 言葉にするつもりのなかったものが、無意識のうちに、唇から滑り落ちる。その言葉に、奏の抱える痛みを感じ取ったのだろう。蕾夏ははっとしたような表情になり、口を噤んだ。
 「―――オレも、モデルとして、郁の仕事に関わることができると思ってたんだけど…思うようには行かないよな、世の中」
 「……」
 奏の姿勢が、だんだん俯き加減になる。それを見ている蕾夏の目が、少し悲しそうに細められた。

 同じ顔なら、累になりたかった。
 時田に認められ、必要とされたかった。彼の写真が好きだからこそ―――彼の写真に関わりたい。そう強く願ったのに。
 累より自分が劣るなんて、考えてはいない。分野は違えども、同じ位は努力しているし、同じ位の成果は上げている。けれど―――こと、時田に関しては、大した思い入れもない累が報われて、こんなにも切望している自分は報われない。
 なんて、理不尽な話。…けれど、人間なんて、理不尽だらけだ。

 「―――聖書も結構、理不尽だよな」
 ポツリと奏が呟いた言葉に、蕾夏は眉をひそめた。
 「聖書?」
 「カインとアベルってあるだろ。人類最初の殺人事件。同じように勤勉に働いて、同じように最高の貢物をしたのに、弟のアベルの貢物だけ神様に喜ばれる。神様の依怙贔屓に兄貴のカインは腹を立てて、嫉妬のあまり弟を殺しちまう。…無茶苦茶だよな。あんな神様ありかよ」
 「……」
 「無茶苦茶だけど―――あんなもんなんだよな、現実もさ」
 誰に対しても愛情が等分されるとは限らない。
 苦しくなるほど切望するものであっても、努力すれば手に入るなんて幻想だ。努力しようが何をしようが、報われない時は報われない―――理不尽だ、と憤りを覚えても。
 思わず自嘲気味な笑みが、口元に浮かぶ。そうだ―――どれだけ努力しても手に入らないものの最たるものが、目の前にいるじゃないか、と。
 蕾夏は、何も問いただそうとはしなかった。やっぱり少し悲しげな目で、俯いたままでいる奏をじっと見つめているだけだった。多分、話の流れから蕾夏は察しているのだろう。奏が時田と諍いを起こしてしまったのだと。
 形容しがたい沈黙が流れる。なかなか顔を上げようとしない奏に、やがて蕾夏は口を開いた。
 「…私ね。聖書の創世記を初めて知った時、アベルって可哀想だな、って思った」
 そのセリフに、奏はちょっと顔を上げて、眉をひそめた。
 「もしも神様が、カインよりアベルを大事にしていたんだとしたら、どうして神様は、カインがアベルを殺してしまうのを止めなかったんだろう? 神様なんだから、その位お見通しだった筈なのに―――何故、アベルを見殺しにしたのかな」
 「…面白いな。そんなこと、考えたこともなかった」
 思わず、感心したような声を漏らす。蕾夏は、その反応に複雑な表情を浮かべ、視線をテーブルの上に落とした。
 「神様にとって、人間は“子供”みたいなもんでしょ? …“親”に見殺しにされたアベルは、どんな気持ちだっただろう―――それを考えるとね、胸が痛くなる」
 「…カインは可哀想じゃないのかよ」
 「可哀想だよ。実の弟をその手で殺めなくちゃいけないなんて―――それでも救われないなんて、可哀想だと思う。でもね、神様は、アベルを殺したカインを荒れ野に放ちはしたけれど、誰からも殺されないようにとカインに印をつけたの。カインを殺そうとする者には、7倍の苦しみを与えるって約束した。…神様に愛されてたのって、結局、どちらだったのかな…」
 「―――…」
 不思議な解釈をするな、と驚いてしまう。子供の頃は教会の日曜学校などにも行かされたけれど、カインとアベルをこんな風に解釈した神父はいなかった。
 「…あんたって、ほんとに、変わってるな」
 「うん。よく言われる」
 くすっと笑った蕾夏は、ふいに表情を引き締めると、奏の目を真っ直ぐに見つめた。
 「時田さんのこと―――信じてあげられない?」
 「……」
 「時田さんのことは、私もわからないけど―――時々“この写真は奏君が褒めてくれたんだよ”なんて言ってる。ちゃんと家に帰ってない、食事もろくにとってないんじゃないか、って、ことある毎に愚痴ったり心配したり…。奏君のこと、ちゃんと見てると思うよ?」
 動揺に瞳を揺らす奏に、蕾夏は、ふわりとした柔らかな笑みを返した。
 「累君も認められてる部分はあるけど、奏君だってそれは同じ―――奏君が思ってた部分とは別の部分かもしれないけどね。だから、奏君、もう累君のこと“憎い”とか“妬ましい”とか思わなくていいよ」

 ―――累を、憎まなくていい。
 その言葉に、心臓を射抜かれた気がした。
 一番苦しかったのは、時田に認められないことではない。累に対する気持ちが変わってしまったことだ。
 親のわからない中、ただ1人、間違いなく自分と同じ血を持つ弟と思っていつも大事に思ってきた累を、時田という存在のせいで妬んだり憎んだりしなければならない―――それが一番、苦しかった。

 こんな時―――ぐらぐらと、心が揺さぶられる。
 真実を見抜いてくれる存在に、どうしようもない渇望を覚えてしまう。
 自分はこんなにも蕾夏の言葉を必要としているのに―――気づきたくもなかったこの想いに振り回されて、体中が痛みを訴えているのに。
 蕾夏には瑞樹がいる。彼女を必要とする、彼女が必要としている人間が。
 蕾夏は絶対に、自分のものにはならない―――蕾夏の言葉に救われるほどに、その事実に心臓が引き裂かれる。

 「―――え…ええと…、私、そろそろ2階戻るね」
 奏が黙ったままなので、気を悪くしたとでも思ったらしい。困ったように視線を彷徨わせた蕾夏は、気まずさから逃れるように、席を立った。予想外の突然の幕引きに、奏の方が妙な焦燥感を覚えてしまう。
 「待てよ」
 つられるようにして席を立った奏は、背を向けた蕾夏の方へと手を伸ばし、思わずその腕を掴んだ。

 途端。
 全身が、総毛立った。

 正体不明のものが、背中をゾクゾクと這い上がる。ぐらぐらと揺さぶられた心が、平衡感覚をなくす。よく似た感覚は、ジェットコースターで落ちる寸前とか、切り立った崖の上に立った時とか―――そんな、感覚。突然襲ってきたものに圧倒されて、奏は一瞬、息を詰めた。
 突然腕を掴まれた蕾夏は、驚いたように振り向いた。僅かに肩に力が入っている。少し警戒したような表情に、振り解かれるんじゃないか、そんな焦りを覚える。
 「奏君?」
 奏を見上げる蕾夏の眉が、訝しげにひそめられる。それを見下ろしながら、奏は、咄嗟に掴んだ細い腕を、更にきつく握った。
 でも、それだけでは、震え出しそうな体を止められない。
 引き裂かれる心臓の痛みに、耐えることができない。

 奏は、蕾夏の腕をぐいっと引くと、倒れかけた体を抱きとめた。
 「! そ―――…」
 驚きに目を見開いた蕾夏が自分の名を口にする前に、奏はその唇を強引に奪っていた。


***


 電話の呼び出し音が10回にのぼったところで、瑞樹は諦めて受話器をフックに叩きつけるようにして掛けた。
 ―――ったく、どこ行ってんだよ、時田さんは。
 自宅にもオフィスにも不在。あれだけ多忙な人間のくせに、携帯電話ひとつ持ち歩いていないのだから呆れる。瑞樹は、苛立ったように髪を掻き上げると公衆電話のドアを押し開けた。
 重い足取りでスタジオに戻ると、とっくに帰ったと思っていたカレンが、まだスタジオ内をうろついていた。瑞樹が戻って来たのに気づくと、先ほどまでとは打って変わって、真剣な表情を瑞樹に向けた。
 「…ねぇ。さっきから一体、何を調べてるの?」
 瑞樹は、それには答えず、買って来たスポーツドリンクのペットボトルを掴んで、キャップを捩じ切った。そんな瑞樹の反応に、カレンは不満げに眉を上げた。
 「あたしは、あのモデル仲間が“大事なコレクションだから折り目ひとつつけるな”ってぎゃーぎゃーうるさく言う中を、はるばる何駅も先のカラーコピー屋まで行ってコピーしてきてやったのよ。何がどうなってるのか教えるのが、せめてもの礼儀なんじゃないの?」
 「―――ごもっとも」
 軽くそう答えた瑞樹は、ペットボトルに口をつけた。渇ききっていた喉が少し潤い、体の緊張が解けていく。半分近くまで一気に飲み干したところで、やっと一息つけた気がした。
 「…ごもっともだけど、説明はできない。憶測しかないからな」
 「何についてよ」
 「…聞かない方が、あんたの為だと思うけど」
 疲れたような笑いを見せた瑞樹は、視線を作業台の上のカラーコピーに移した。カレンに説明する気にはなれない。これは、時田の―――そして、奏の秘密だ。

 時田は、このサンドラの写真を見ても、しらを切るかもしれない。
 きっと時田は、奏や累には何も話していないだろう。第三者の自分達になど、余計に何も話さないかもしれない。でも―――やってみるだけの価値はある。
 時田が巻き込まれている、訳のわからないゲーム。黙ってその持ち駒になる気など、瑞樹には毛頭ない。全てに納得した上でなくては、替え玉なんて役、もう二度と演じたくない。
 それに、奏。このままいくと、いずれ奏の感情は爆発する。彼の時田に対するフラストレーションは、もうギリギリまで来ているのだ。今、この瞬間にだって爆発しているかもしれない。そうなったら、奏の目がどこに向くか―――想像するのは、容易だ。
 蕾夏は、傷つけさせたくない―――そのためにも。

 ふと時計を見ると、もう4時近くになっていた。
 時田が捕まらないのでは、もう調べようもない。それに、蕾夏の体調がどんな具合か心配だった。
 プロラボに寄れば、蕾夏に言っておいた帰宅時間ギリギリになってしまう。瑞樹はもう一口スポーツドリンクを飲むと、勢いをつけて立ち上がった。
 「悪いけど、俺、もう帰るから」
 「え? 帰っちゃうの?」
 ちょっと寂しそうに眉を寄せるカレンに、瑞樹はゼスチャーで「手を出せ」と合図した。
 訝しげにしながらも、カレンがおずおずと手のひらを差し出す。と、瑞樹はその手の上に、何か丸いものを落とした。
 それは、透明なフィルムに包まれた、ストロベリー味のキャンディーだった。さっき、スポーツドリンクと一緒に下のスタンドで買って来たのだ。
 「助かった。やっぱり蛇の道は蛇、カレンのおかげで、いろいろわかった」
 「…そう」
 「味は保証しねーから」
 「……」
 戸惑った表情のカレンに、瑞樹は口元だけに笑みを作ってみせた。それを見て、カレンの目が更に戸惑ったように揺れる。
 だが、瑞樹は、そんなカレンの変化には気づかなかった。ライトなどの機材の電源を落とし、無駄のない動きで帰り支度を進める。スタジオを出てから家に帰り着くまでに寄らなくてはならない場所を頭の中で復唱しながら。
 すると。
 「―――…?」
 急に背中が重くなった。
 デイパックにカメラを押し込んでいる途中だった瑞樹は、眉をひそめつつ、背後を振り返った。
 見れば、カレンが、瑞樹の背中にしがみついていた。
 10センチほどしか伸長差がないので、かなり無理のある体勢ではあるが、前かがみになった瑞樹の背中に額を押し付けるようにして、しがみついている。
 「おい…」
 瑞樹の迷惑そうな声と、カレンのしゃくりあげる声が重なる。泣いているらしい、と気づいて、さすがに瑞樹もぎょっとした。
 「ちょ…っと待てよ、おい。何泣いてんだよ」
 「―――あ…あたし、もう、駄目かもしれないっ」
 カレンのセリフは、酷くしゃくりあげている上に甲高い声なので、何がなんだかよくわからない。瑞樹は、デイパックから手を離すと、背中に貼り付いているカレンを引き剥がし、顔を上げさせた。
 カレンは、ボロボロ涙を零して泣いていた。いつもよりメイクが控えめなせいもあって、まるで子供が泣いているみたいに見える。
 「こ…こんな、キャンディー1つや2つで、こんな泣けちゃうなんて、もういっぱいいっぱいかもしれない」
 「…は?」
 なんだそれは、と瑞樹が言おうとしたら、カレンは感極まったように瑞樹に抱きついて、声を上げて泣き始めてしまった。
 「お、おい、やめろって」
 慌てて引き剥がそうとした瑞樹の耳に、やっとことの真相が届いた。
 「―――る…累君…」
 「……」
 「累君…累君―――…」

 何度も何度も繰り返される、たった1人の名前。
 けれど瑞樹には、それが全て「寂しい」という言葉に聞こえた。

 また、時計に目をやる。時計を見るたびに、何故か妙な焦燥感を覚える。カレンを引き剥がして、放り出して帰る。そんな選択肢が頭をかすめたが。
 恋焦がれながらも、友情を壊したくなくて、触れられない。諦めることには慣れていると思っても、諦めきれない。…そのもどかしさと寂しさを、瑞樹はよく知っている。
 泣いて、それで少しは楽になるのなら―――瑞樹はそのまま、カレンの涙が涸れるまで、待ってやることにした。


***


 唇が触れた瞬間、呼吸が止まった。
 知らない感触―――瑞樹ではない唇に、全身に悪寒のような震えが走る。
 「―――や…っ!」
 奏の胸を押し返して、顔を背けた。
 離れた唇を追ってくる奏から逃げようと、必死に後退っていたら、ソファの縁に足がぶつかってしまった。ガタガタとテーブルにぶつかりながら、ソファにペタンと腰を落とす羽目になる。
 「や…だってば、奏君っ!」
 ソファの縁ギリギリまで後退(あとずさ)って、全身の力で奏を突き飛ばす。間合いが少し開いた隙に、蕾夏は奏の頬を右手で平手打ちした。
 「―――…ッ!」
 奏が、叩かれた頬を手で押さえ、動かなくなった。それでも蕾夏は、ソファの上を限界まで後退って、奏との距離をできる限りとった。腕が掴まれたままでは、これが限界だ。

 訳がわからなかった。
 自分には瑞樹がいるということを、奏だって十分知っているのに、何故こんなことをするのかわからない。第一、奏は自分のことをあまり良く思っていないと感じていたのに…何故こんな真似をするのだろう?
 掴まれていない方の手で、思わず唇を拭う。耐え難いほどの違和感は、それでもやっぱり消えてはくれない。乱れる呼吸を整えようと深呼吸を繰り返すが、体の奥底の震えが、吐き出す息までをも震わせた。

 「―――そ…んなに…」
 俯いた奏が、絞り出すような小さな声で、呟いた。
 「キス1つでそんなに怯えるほど、オレが嫌なのかよ」
 「……え?」
 ゆらり、と、奏が顔を上げる。
 微かに涙を湛えている目が、蕾夏を真正面から見据える。苦しいような、悲しいような―――そしてどことなく、怒りを含んでいるような、鋭い目で。
 ―――ゾッとした。
 あまりにも、似ていて。
 俺を見ろ、と言いながら、蕾夏を気絶寸前まで平手打ちし続けた時の、佐野の傷ついたような目。…あの目と、今目の前にある奏の目は、酷く似ていた。
 「この前も、オレが手を掴もうとしたら、凄い勢いで振り払ったよな。触られるのも嫌なほど、オレが嫌いなのかよ」
 「…ち…違うよ。嫌いだから、払いのけたんじゃなくて…」
 「―――じゃあ、好き?」
 “好き”。
 氷の塊でも飲み込んだような冷たい感覚が、胸の真ん中あたりに湧き上がる。
 「あいつの10分の1でも、100分の1でも―――オレのこと、好きだって思えるのかよ」
 「…そ…う、君…」
 思わず、困ったように眉を寄せてしまう。それを見た奏の目が、余計傷ついたように細められた。
 「…思えないよな。あんたの中の“好き”は、全部あいつのものだから―――オレがどんなにあんたに振り向いて欲しくても、胸を掻き毟りたくなるほどにあんたが欲しくても、あんたの中にオレなんて1パーセントもいないんだ」
 奏の口元が、自嘲気味に歪む。
 また、冷たい不安が、体の中に降り積もる。もう後退ろうにも後がないのに、蕾夏はじりじりと膝の位置を奏から遠ざけた。
 「1ヶ月もすれば、もう手の届かない所に行っちまう―――半年もすれば、オレに関する記憶なんて微かになる。そうやって忘れられてくだけなんだ、オレは」
 「……」
 「…嫌だ」
 その声は、奏の心臓の悲鳴のように聞こえた。
 「嫌だ。忘れられるだけの存在なんて…!」

 次の瞬間。奏の手が、掴んでいた蕾夏の腕を引いた。
 「きゃ――――!」
 体勢を立て直す暇などなく、蕾夏はそのまま、ソファの上に引き倒されてしまった。慌てて起き上がろうとしたが、奏に両肩を掴まれ、かなりの力でソファに押し付けられた。
 混乱で定まらない視線をなんとかコントロールして、奏の姿を探す。すると奏は、至近距離から蕾夏を真っ直ぐに見下ろしていた。
 それで、状況が飲み込めた。
 今、自分が、奏に組み敷かれているのだということが。

 冷たいパニックが、一瞬にして体全体に行き渡る。蕾夏は、奏の膝に押さえつけられそうになる脚を必死にばたつかせた。
 「そ…っ、奏君!? ちょ、ちょっと、冗談、やめてっ」
 「やめない」
 「やだってば!」
 「―――蕾夏」
 耳元で、奏が名前を囁く。こんな風に名前を呼んでいいのは、瑞樹だけだ。蕾夏は、聞きたくない、というように、首を激しく振った。
 「蕾夏――― 一度だけでいいから、オレのもんになってよ」
 「や…やだ」
 「優しくするから」
 「やめて!」
 蕾夏の抵抗を完全に無視して、奏が首筋に吸い付いてきた。服の上から体を弄られる感触に、蕾夏は焦ったようにもがいた。
 ―――やだやだやだ、気持ち悪い…! 放して!
 瑞樹ではない手の感触は、ただただ、気持ちが悪い―――蕾夏は必死に、奏の腕を拳で叩いた。
 「や…めてっ! ねぇ、こんな事で、奏君のこと嫌いにさせないでよ…!」
 けれど奏は、その言葉に、抑揚のない声で答えた。
 「―――嫌いになっていいよ。忘れ去られる位なら、嫌って憎んで、一生覚えていてもらった方がいい」

 蕾夏の体の中心が、まるで氷の刃で貫かれたみたいに、瞬時に冷たくなった。

 聞き覚えのある言葉―――憎め、と。一生忘れられない位に憎めと強要してきた、あの言葉。
 ―――こ…わい…。
 全身に鳥肌が立つ。ゾクリとした寒さを感じ、蕾夏は本当に体を震わせた。

 「み…ずき…」
 呼吸が、止まってしまいそうになる。蕾夏は、気が狂いそうな恐怖に駆り立てられるように、奏の腕を更に激しく叩いた。
 「み、ずき―――…瑞樹…!」
 無意識のうちに、瑞樹の名を呼んでいた。正気を保とうとしたのだろうか―――自分でも、よくわからない。ただ滅茶苦茶に奏の体を叩き、瑞樹の名を呼びながらもがく。
 そんな蕾夏の反応に、奏はまるで傷口を抉られたかのように、苦しげに顔を歪めた。
 「あいつの何がそんなにいいって言うんだよ…!? 何でもできて、何でも手に入れて、挫折も痛みも経験しなくて済むあいつみたいな男に、あんたが言ってた“心”なんて、本当にわかるのかよ!?」
 恐怖にもがいていた蕾夏の顔が、さっと険しくなる。
 こんな場面であっても、瑞樹を非情な人間のように言われるのは、蕾夏にはどうしても我慢できなかった。
 「奏君に何がわかるの!? 知りもしないで、瑞樹を悪く言わないでよ―――…!」


 その瞬間。

 限界まで張り詰めた空気が、音を立てて切れた気がした。

 一瞬、能面のように表情をなくした、奏の顔―――その目を見て、蕾夏は、自分がまた「あの日」と同じ過ちを犯してしまったのだということを悟った。


***


 「―――ひとつ、プライベートな事、訊いていい…?」
 スチール製の椅子に腰掛けて、膝の上でハンカチを握り締めたカレンが、ポツリと呟くように言った。
 壁によりかかって、なんとなく時計を見ていた瑞樹は、だるそうに首を傾けると、少しだけカレンの方に目を向けた。
 カレンが泣きやむまで、相当な時間がかかった。今はああやって落ち着いているが、また泣き出されたらたまったものではない。
 「あんたが泣かない内容なら」
 「―――…成田さん、蕾夏さんと“友達”だけじゃなくなる時、怖くなかった?」
 ハンカチを握り締める手に、力が入る。それを見て、また泣くかもな…と、一瞬思った。
 「…ああ。確かに、怖かった」
 「どうやってそれを克服したの?」
 真剣なカレンの目に、瑞樹はふっと笑い、前髪をくしゃっと掻き上げた。
 「…克服なんてしてねーよ。最後の最後まで、もうこれで蕾夏に警戒されたかも、もう蕾夏とは友達ですらいられないのかも、って―――あいつが、俺が差し出した手を握ってくれるまでは、ひたすら後悔してた」
 「…でも…どんなに怖くても、諦めることはできなかったのよね?」
 「―――気づいたもんを、見て見ぬフリするにも限界があるだろ。…今の、あんたみたいに」
 「…そうね。限界なのかもね」
 ため息と共に、カレンはそう呟いた。
 「…人を好きになるって、難しい―――想いを伝えられないと、伝えてもちゃんと届かないと、わかってくれない相手がだんだん憎くなってくる。あたしは累君を思ってこんなに苦しんでるのに、どうして累君はそんな風に笑ってられるの? って…好きな人なのに、苛立って、腹が立って、憎くなる。…自分の想いと、相手の想いがうまくかみ合ってないと…恋愛感情って、時々残酷ね」

 残酷―――…。

 『―――“好き”って、一体、何なんだろう。想いが受け入れられなかったら、相手を憎んで傷つける―――それが“好き”って気持ちなのかな。…だったら私、どうすれば良かったんだろう…』

 遠い海の果てを見つめながら、そう口にした蕾夏を思い出す。
 想いのバランスを欠いた恋愛は、時として、こんな残酷さを持つ―――そして蕾夏は、想いのバランスが取り難い。

 蕾夏を傷つけた佐野が特別異常な人間だ、という訳ではない。佐野も、瑞樹も、さして変わりはない普通の人間―――当たり前の欲を持ち、当たり前の希望を持ち、上手くいかなければ落ち込み、時にはそれが怒りにもなる。そんな普通の人間だ。
 誰もが持っている、危険な部分。…それが、実際に相手を傷つけるところまでいくかどうかは、案外、その場の流れとか運とか、そんなもので決まるに過ぎないのかもしれない。

 「…ねえ」
 それまでうな垂れ気味だったカレンが、ふいに顔を上げた。
 「ん?」
 「もし、蕾夏さんにふられたら、成田さんはどうするつもりだったの?」
 難しい質問に、瑞樹は眉を顰めた。そういえば、どうするつもりだっただろう?
 「…覚えてねーよ、そんなの」
 「ふられても、友達を続ける自信とかってあった?」
 そんなものは、なかった気がする。
 あったのは、確信だ。
 他の人間では、蕾夏の代わりはできない。蕾夏以外はいない、という確信。蕾夏に受け入れられようが、ふられようが、きっと自分はこの先もずっと、蕾夏しか欲しいとは思えないだろう―――そんな確信。
 「…想いを伝えた後の身の振り方なんて、何も決めてなかった気がする」
 「…そうなんだ…」
 呟くような瑞樹の言葉に、カレンはじっと、一点を見据えた。何かをゆっくりと、決意するかのように。
 「そうだよね…まだ結果が出ないうちから、そんな事を全部決めておこう、なんて考えてたら…一歩踏み出すことなんて、永久にできないよね」
 気持ちの整理がついたのか、カレンはしっかりと顔を上げると、瑞樹の方に笑顔を見せた。
 「もし、累君と友達ですらいられなくなっちゃったら、成田さん、慰めてくれる?」
 「―――飴の1個や2個ならやるけど、それ以上は却下」
 「…ケチ」
 唇を尖らすカレンに苦笑しつつ、瑞樹はまた、何気なく壁に掛かった時計に目を移した。
 そしてふと、違和感を覚えた。

 カレンが泣いている間も、話し始めてからも―――いや、その前も。撮影している最中からずっと、気づけば瑞樹は、時計を何度も確認していた。無意識の行動だから、あまり不思議にも思っていなかったが、何故かこの瞬間、瑞樹は自分がやたら神経質になっていることに気づき、思わず眉をひそめた。

 ―――なんだろう。
 何故今日は、こんなに何度も何度も時計を確認するのだろう?
 蕾夏がいないからだろうか? それとも―――何か、別の理由があるのだろうか。ただ…何故か、気になる。時間が。

 時計の時刻は、午後4時半―――別にそれほど遅い時間ではない。蕾夏に伝えていた時間より多少遅くなる程度。
 なのに、やたら、焦りを感じる。早く帰らなくては、と。
 カレンが泣き出そうが喚こうが、今度は脇目もふらずに、帰ろう―――そう決意した瑞樹は、壁を蹴って体を起こし、すっかり空になったスポーツドリンクのペットボトルを、作業台の上に放り出した。

 

***

 

 耳元であがった、空気をも切り裂くような悲鳴に、奏は我に返った。


 悲鳴―――いや、絶叫。
 一言も発しなかった蕾夏が、抵抗すら忘れていた蕾夏が、唯一発した“声”―――言葉としての意味を持たない、けれどその中に言葉にはできないほどの意味を含んでいる、断末魔のような絶叫。

 冷水を浴びせられたような、冷たい焦燥感。直前まで暴走し続けていた感情が、一瞬にして凍り付いた。
 「蕾夏…?」
 小刻みに震える白い背中に、思わず声をかける。
 蕾夏は、何も反応しない。ただ、自分の中に閉じこもっている。全身で奏を拒絶するかのように顔を背け、体を丸め、ただただ、震えている。
 ソファから投げ出された白い手だけが、何かを求めるみたいに、宙を何度か掴んでいた。が、それも、絶叫とともに、パタリと止んだ。今はもう、死んでしまったかのように、動かない。

 蕾夏は、ここに、いない。
 何故か、そんな気がして。

 「ご…めん―――…」
 もう……指先すらも、彼女に触れることは、できなかった。

 

 

 逃げるように家を飛び出し、ドアをバタン! と閉めた。
 分厚いドア1枚隔てた向こう側の気配を、ドアに触れている背中に感じる気がする。この向こうにあるものを考えると、呼吸は止まり、心臓は乱れたリズムで暴れてしまう。
 「蕾夏…」
 自分のパーカーの胸元を、ぎゅっと握り締める。まだ、この中で暴れている狂気。それを無理矢理、押さえつけるように。

 好きなのに―――何故?
 何故こんな風にしかできなかった? 傷つけて、いためつけて、ただ苦しめて―――そんな目に遭わせてなお、心の空洞が満たされない。そんな馬鹿なことを、何故―――。

 体が、震える。
 中途半端に投げ出されたままの焼け付くような熱と、凍りつくような嫌な予感と、体中を掻き毟りたくなるほどの痛みと―――そして、後悔。そんなものに、体がコントロールを失う。

 噛みしめすぎた唇に、痛みが走る。血の味が口の中に広がった。奏は、手の甲でその血をぐいっと拭うと、まだ雨が降り続く中へと走り出した。


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