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silence ―

 

 一宮の家の駐車場に、既に淳也の車があるのを見つけ、瑞樹は眉をひそめた。
 淳也と千里は、帰宅は午後7時頃になると言っていた気がする。まだ5時半―――随分早く帰ってきたものだ。不思議に思いながらも、瑞樹は外階段へは回らず、1階の呼び鈴を押した。千里達の在宅時は1階から。それがルールだから。
 ほどなく、千里がドアを開けてくれた。が、何故かその表情は、いつもの笑顔ではない。少し眉を寄せ、困ったような顔をしている。
 「ああ、瑞樹。お帰りなさい」
 「ただいま。…7時頃って言ってなかったっけ」
 「その予定だったんだけどね。先方の手術が予定より1時間以上早く終わったし、道路も空いてたから、早く帰ってこれたの。ねぇ、それより―――蕾夏、知らない?」
 「え?」
 予想だにしないことを訊かれ、瑞樹は肩を強張らせた。
 「私達が帰ってきた時、玄関が開いてたのよ。あの子が戸締りもせずに外出する筈ない、って思ったんだけどね。リビングにもキッチンにもいないの」
 「2階の部屋は?」
 「鍵がかかってるのよ。何度もノックして声かけたけど、全然返事がないし…。こういう時防音構造なのがネックよねぇ…中にいるのかいないのか、ドアを閉めちゃうとさっぱりわからなくて」
 普段留守にする時は、確かに部屋の鍵をかけて、外階段側のドアから外に出る。逆に在宅中は就寝時以外、鍵などかけない。外出していると思う方が正しいのだろうが―――…。
 「家に、何か異常とかは?」
 「リビングにスポーツタオルが置いてあった位かしら。外に出て、雨に濡れたから使ったのかな、とも思うんだけど…」
 それを聞いて、瑞樹は念のため、リビングに行ってみることにした。
 リビングでは、淳也が所在無げにウロウロしていた。運転疲れか少々いつもより元気がなく見える。
 「あ、お帰り。蕾夏は一緒じゃなかったのかい?」
 「いえ。すみません、玄関開けっ放しだったみたいで」
 「いや、泥棒もうちみたいな貧乏な家には見向きもしなかったみたいで、それはいいんだけどね。どうしたのかねぇ、蕾夏は…風邪ひいてただけに、心配だよ」
 淳也の言葉を半分うわの空で聞きながら、瑞樹はぐるりとリビングを見渡した。確かに、別段変わった様子はない。千里が言っていたスポーツタオルが、テーブルの上に無造作に置かれているだけだ。
 やっぱり、外出しているのだろうか―――そう考え始めた時、瑞樹はふと、3人掛けソファの上に、見覚えのあるものが落ちているのに気づいた。
 拾い上げて、確認する。
 やはり、知っている―――これは、蕾夏が部屋着にしている、淡い色をしたコットン素材のワンピースのボタンだ。独特の色合いと形をしていたので、ファッションに疎い瑞樹でも見分けがついた。
 ボタンは、縫い糸が半分絡まったままで、落ちていた。それをしばし見つめていた瑞樹は、やがて、考えたくもない可能性に行き当たり、表情を険しくした。
 瑞樹は、ソファにデイパックを放り出すと、淳也にも千里にも目もくれず、外に飛び出した。

 ―――何か、あった。
 絶対に、何かあった。
 自然に取れたにしては不自然すぎる―――まるで引きちぎられたかのような、このボタン。馬鹿な想像だと、下衆な連想だと思える方がまだマシだ。けれど…状況を考えれば考えるほど、それが正解のような気がして。

 外階段を駆け上がりながら、ダンガリーシャツの胸ポケットから鍵を取り出した瑞樹は、焦りそうな気持ちを必死に抑えて鍵を開けた。
 この時期のロンドンは5時半と言ってもまだ相当明るいが、今日は雨―――電気をつけていない部屋の中は、薄暗かった。が、ドアを開けてすぐ、瑞樹のベッドの上で、何かをすっぽりと頭から被ってしまっている人影が目に入った。
 「蕾夏…?」
 声をかける。が、反応はない。瑞樹は急いでベッドに駆け寄った。
 背格好からして、それが蕾夏なのはすぐわかる。被っているのは、瑞樹のベッドの綿毛布らしい。蕾夏の顔は見えないが、綿毛布の端っこを握り締めている手だけが見えた。
 「蕾夏、どう…」
 どうした、と言いかけたが、蕾夏の手を見て、それが止まった。
 爪が割れて血が滲んだ、細い指―――瑞樹は顔色を変えると、綿毛布に包まれた蕾夏の肩を掴み、自分の方を向かせた。
 なすがままに瑞樹の方を見た蕾夏の顔を見た瑞樹は、言葉を失った。
 蕾夏は、魂がどこかへ行ってしまったみたいな顔をしていた。
 左頬だけが僅かに赤くなっている以外、目立った異常はないが、その表情のなさがまるで人形のようで、見た瞬間、ぞっとした。感情が死に絶えてしまったのではないか…そんな風に見えて。
 光を失った目が、一瞬、戸惑ったように揺れ、ゆっくりと瑞樹を見上げる。エネルギー切れを起こしかけたロボットが、最後の力でなんとか動いた、そんな感じで。
 「―――瑞樹…千里さん達は?」
 抑揚のない声で最初に口にしたのは、そんな言葉だった。瑞樹は、唾を一度飲み込み、なんとか声を絞り出した。
 「…今、まだ下にいる」
 「…そう…良かった、間に合って」
 ふわり、と微笑む。状況の異常さと、やたら普通な笑顔のギャップに、背筋が冷たくなった。
 恐る恐る、綿毛布を落とす。抵抗されるかと思ったが、蕾夏は驚くほどあっさり、握り締めていた綿毛布の端を手放した。
 綿毛布がパサリと落ちた瞬間、瑞樹は全身の血が一瞬で凍った気がした。
 蕾夏は確かに、あのワンピースを着てはいた。が…ボタンの留められた胸元を無理矢理開かれたのだろう、ボタンがほとんど取れかけた状態で、引きちぎられた下着もろとも引き下げられていた。白い上半身のあちこちに、痛々しい赤い痕が散らばっている。腕の一部は、握られすぎたのか、くっきりと指の跡がついている。抵抗した時に爪でもひっかけてしまったのだろうか、上腕には引っかかれた時のみみず腫れまである。
 何があったかなど、一目瞭然だ。もう、それ以上の状態の確認など、到底する気になれない。
 怒りなのか、ショックなのか、よくわからない感情に体が震えだす。瑞樹は、口元に手を置き、震えで乱れてしまいそうになる呼吸をなんとか整えようとした。
 「―――佐野君に、助けられちゃった」
 先ほどの微笑を湛えたまま、蕾夏がポツリと呟いた。
 「あと少しでもうダメ、ってところで、フラッシュバック起こしちゃったの。―――驚いたのかな…気がついたら、いなくなってた」
 「蕾夏…」
 「私ってラッキーかも…2回とも未遂で終わるなんて」
 「バ…ッカ、笑うな…!」
 この微笑の意味がわかるから―――瑞樹はいたたまれなくなって、蕾夏の両肩を掴んだ。
 蕾夏の目を見れば、すぐわかる。蕾夏は今度も、やっぱり涙を流していない。恐怖を飲み込んだまま逃げ続ければ、蕾夏はまた「あの日」の状態に戻ってしまう。10年以上かけて少しずつ削り落としていった恐怖が、今日受けた暴力に対する恐怖で刺激され、更に嵩を増してしまう。
 今、彼女が体の中に飲み込んだままにしている恐怖―――それを、吐き出させなくてはいけない。瑞樹は、掴んだ肩を揺すり、蕾夏にしっかりと自分の方を向かせた。
 「笑うな…! また昔と同じこと繰り返すつもりか!? また平気な振りして、今抱えてる恐怖をずっと持ち越す気なのかよ!?」
 その言葉に、蕾夏の顔から、笑みが消えた。
 「“普通”を演じて逃げたって、お前が怖がってるものは消えない―――怖かったんなら、全部吐き出せ!」
 「……」
 大きく見開かれた黒い瞳が、涙を湛えて潤みだす。それに伴って、笑みが消え、表情を再び失っていた顔が、次第に感情を取り戻し始めた。
 「大丈夫…俺が全部、受け取るから…」
 祈るような気持ちで、そう告げる。すると、それまで呼吸すら感じさせなかった蕾夏の肩が、小刻みに震え始めた。
 薄く開いた唇がわななき始める。耐え切れなくなったように、涙が一筋、零れ落ちた。
 「わ…私…知らなかったの…」
 一言、発する。それをきっかけに、体の震えは次第に大きくなってきた。
 「知、らなかった、あんな、あんなに奏君が…奏君が…」
 「―――うん…」
 「み…瑞樹のこと、酷く言われて、あ、頭にきて…ダメだって、佐野君の時、絶対出しちゃいけない名前があるって、ちゃんと覚えた筈なのに…なのに、私…わ…たし…」
 「…お前は悪くないって」
 「ごめん…瑞樹、ごめん…私、もう瑞樹に優しくしてもらう資格なんて、ない」
 「バカ、そんな訳あるか」
 「だって! だ…って…」
 そこまでが限界だった。
 瑞樹は、蕾夏の背中に手を回すと、震える唇を重ねた。
 唇から、震えと熱が伝わってくる。けれど、それが蕾夏のものなのか自分のものなのか、もうその区別もつかなかった。今、全身に感じるこの痛みが、自分の痛みなのかどうかすらわからないのと同様に。
 蕾夏の手が、瑞樹のシャツの裾を握り締める。割れた爪が痛い筈なのに、その力はいつもの蕾夏の力以上に強い。唇を離した瑞樹は、至近距離から、蕾夏の涙を湛えた瞳を見つめた。
 「大丈夫…お前は、何も変わってない」
 「……」
 「奏が何をしようが、穢されてもいないし、壊されてもいない―――やっぱりお前は、“最強の女”だよ」
 耐え切れなくなったように、蕾夏は、瑞樹の胸にしがみついた。
 抱きとめた肩が、何度も大きく震える。宥めるように髪を撫でてやると、蕾夏はとうとう、声を上げて泣き出してしまった。

 痛かった。
 どこが、なんてわかる筈もない。ただただ、痛い。抉られるように、引きちぎられるように、痛い。
 今あるのは、一緒に連れて行けばよかったという後悔でも、蕾夏をこんな目に遭わせた奏への怒りでも、せめて事態が決定的なものになる前に帰ってこられればという憤りでもない。ただの、痛み―――名前など付けようもないほどの、痛み。
 その痛みを吐き出すように、蕾夏は子供みたいに声を上げて泣き続け、瑞樹は必死にその体を抱きしめることで、その痛みに耐えようとした。千里達がドアをノックしても、それに応えることすら忘れて、ひたすら泣き続け、抱きしめ続けた。
 そうしなければ―――今にも、気が違ってしまいそうだった。

***

 叩かれた頬が、熱かった。
 これは、私が奏君を傷つけたことへの、仕返し。心の痛みを、体の痛みで返している。
 奏君が、何か、叫んでいる。私が、瑞樹のことを悪く言うな、と言ったから―――それに対して、何か言っている。でも、叩かれた時の耳鳴りで、何も聞こえない。
 彼が今、どんな思いで私を押さえつけているのか、わからない。
 必死に彼を拒絶しようとする私の手をどう思っているのか、全然わからない。

 ねえ―――これは、私が欲しいからしていること?
 それとも、私が憎いからしていること?
 あなたの望みは、何? ―――私が傷ついて、バラバラになって、もう立ち直れないほどに壊れてしまえば、それで気が済むの?
 私に忘れられたくないだけだったら、もう十分―――もうこれ以上はいらない。もうやめて。

 抵抗し続けるうちに、体に力が入らなくなっていく。
 おかしい…前の時は、もっと頑張れた筈なのに。
 …ああ、そうか、私って熱があったんだっけ―――なんでこんな部分だけ、妙に冷静なのかな…。
 …もう、動けない。
 なんて、弱いんだろう。
 吐き気がして仕方ないのに、頭が割れそうにガンガンするのに、触れられたくない人の手に、好き勝手に触らせているなんて。
 気持ち悪い気持ち悪い―――なんで人が違っただけで、同じ行為がこんなに気持ち悪いんだろう。キスされても、胸を掴まれても、ただ痛いとか気持ち悪いとかしか感じない。奏君は、こんなことがしたかったんだろうか…こんな、辛そうな顔してるのに?

 脚に触られた瞬間、死にかけてた感覚が戻ってきて、あまりの衝撃に体が跳ねた。
 ―――気持ち、悪い…。
 やだ…やだやだやだ、これは、いや、我慢できない。
 早く、やっつけないと、早く、追い払わないと―――壊される。もう修復不可能な位にまで、壊される。
 殺される。殺される前に、早く、殺さないと。
 必死に手探りで、ナイフを探す。どこ? どこにあった? 違う―――今、ここにはなかったんだった? さっきから空気ばかり掴んでいて、あの冷たい金属の感触はどこにも見つからない。

 …助けて。
 助けて、助けて、助けて! 壊されてしまう、早く助けて!

 必死の思いで、ナイフを振り上げた。
 ううん、ナイフはなかったんだから、あの日の幻覚を見ただけかもしれない。
 柄を伝って手のひらに伝わった、ざっくりと刃が腕に食い込む、あの感触。目の前で散った、自分のものではない血の赤い色―――怖い、怖い、怖い、あまりの恐怖に、気が狂いそう。

 『―――上等だ』
 斬られた腕を押さえもせずに、言い放たれた言葉。
 『殺せよ。そのナイフで、とどめを刺せよ。そうすれば―――…』
 いや。
 嫌、嫌、嫌! やめて、佐野君、思い出させないで―――!


 『―――そうすれば、お前は一生、俺のもんだ。早く、殺せ…!』

 

 「―――あ…」
 眠っていた筈の蕾夏が、突然目を開け、瑞樹の手を掴んだ。
 傍らで、ずっと蕾夏の寝顔を眺めていた瑞樹は、その突然の発作のような目覚め方に、ギクリとして身を起こした。
 恐怖のあまり見開かれた目が、宙の一点を見つめている。
 「…蕾夏?」
 「あ…あああ、いやっ!」
 絶叫に近い悲鳴をあげた蕾夏は、何かに抵抗するように、空いている方の手で宙を叩いた。何度も、何度も、何度も。
 「いや! 嫌だ、いや―――…!」
 「蕾夏…!」
 瑞樹も、何度かその手に叩かれた。なんとか蕾夏を抱き起こし、腕の中に抱え込む。それでも蕾夏は、瑞樹の腕のあたりを叩いていた。
 「いや! 違う、あなたを殺したりしない、あなたのものになんかならない、あなたなんて知らない…!」
 「大丈夫、大丈夫だって…! お前は誰のもんでもない、もう大丈夫だから…!」

 “あなた”が誰を指すのか、大体わかる。
 奏、ではない―――佐野に違いない。
 14歳に戻ってしまった蕾夏の悪夢の中では、もう、奏と佐野の区別などついていないだろう。彼女に呪縛を与えたのは、佐野―――見えない無数の傷跡を蕾夏の心に刻んだ張本人。その張本人と、事件後の1年以上、同じ教室で過ごさねばならなかった蕾夏の苦しみなど、誰にわかるだろう?
 でも、彼女は、“普通”を演じ続けた。
 正気を手放せば、佐野に自分の傷を晒すことになると、知っていたから―――佐野の手に落ちるのだけは、嫌だったから。
 今吐き出している痛みも、まだ誰にも吐き出したことのない痛みなのだろうか…12年間、蕾夏の体の奥底に沈んだまま、夢の中でだけ蕾夏を苛み続けてきたのだろうか?

 「み…ずき…、瑞樹、助けて」
 やっと少し落ち着いてくると、蕾夏は泣きじゃくりながら、瑞樹に縋りついてきた。包帯を巻いた指が、瑞樹の腕に食い込む。
 「怖い…怖いの。助けて、瑞樹―――助けて…」
 「…大丈夫」
 襲われている間も、こうやって自分を呼んでいたのだろうか―――それを思うと、気が狂いそうになる。
 「大丈夫―――俺が代わりに殺してやるから」
 今目の前にいたら、本当に殺すかも―――そう思いながら、蕾夏の髪を撫でる。が、蕾夏はそれに、首を横に振った。
 「…ダメ…」
 「―――…」
 「…瑞樹は、誰も殺しちゃ、ダメ…」

 一瞬だけ戻った、正気。
 そこで神経が限界を迎えたのだろう。蕾夏はそのまま、瑞樹の腕の中で眠ってしまった。

***

 「―――瑞樹」
 階下から聞こえた声に、瑞樹は顔を上げ、ロフトの手摺りから下を覗いた。
 見ると、トレイに食事を乗せた千里が、心配げにロフトを見上げていた。そういえば、すっかり時間感覚を失くしていたが、今、一体何時なのだろう?
 「軽いリゾットだけど、少し食べたら?」
 「…いや…腹減ってないし、蕾夏も食ってないから」
 「でも、もう日付けも変わっちゃうわよ。蕾夏も目が覚めたら食べさせましょ。まずは瑞樹から―――酷い顔してるわよ。瑞樹が倒れちゃったら、蕾夏はどうするの?」
 一食二食抜く位、なんともない。が、自分が食べなければ、蕾夏も食べないだろう。少し迷った末、瑞樹は、握っていた蕾夏の手を放そうとした。
 しかし、放せなかった。蕾夏の方から、きつく瑞樹の手を握っていたから。
 「…上、持ってきてもらっていいかな」
 「…オーケイ。お姫様が放してくれないのね」
 苦笑した千里は、片手でトレイを器用に持って、ロフトへの階段を軽やかに上がった。
 千里や淳也には、蕾夏は風邪が悪化して倒れていた、と説明している。真実など、言える筈もない。蕾夏も、彼らにこの姿を見せる訳にはいかないからこそ、正気を失いかけながらも、体を引きずるようにして2階に上がったのだろうから。
 蕾夏は、少し眠っては飛び起き、瑞樹に宥められながらまた眠る、といったことを繰り返している。回数を繰り返すにつれ、飛び起きた時の激しさは収まりつつあるが、今、千里の目の前で目を覚ましてしまったら―――…。
 「あらまぁ。どっちが病人かわからない顔ねぇ」
 ロフトに上がってきた千里は、そんな瑞樹の懸念も知らず、ますます苦笑を深めた。
 ベッドの空いている場所にトレイを置き、床にぺたんと座った千里は、スプーンを手に取ると、からかうように瑞樹を見上げた。
 「手が空いてないようだから、食べさせてあげましょうか。大きくなってからは、こんなのも久しく体験してないでしょ」
 「…冗談」
 本当に、冗談ではない。久しく体験してないも何も、生まれてこのかた、体験したことがない。
 病気になった時、父が不在であれば、自分でおかゆや玉子酒を作った瑞樹だ。母など、水枕ひとつ替えてもらった覚えもなければ、熱を測ってもらった覚えもない。瑞樹は、げんなり顔を千里に返し、千里の手からスプーンをひったくった。
 こぼさないよう、トレイを膝の上に移し、リゾットを一口、口に運ぶ。空腹など微塵も感じていなかったが、程よいコンソメ味が口の中に広がった途端、自分が空腹だったことを実感した。
 いつ蕾夏が目を覚まさないとも限らない。早く食べなくては、と、瑞樹はひたすらスプーンを口に運んだ。
 「…ねぇ、瑞樹」
 黙々と食べ続ける瑞樹を眺めながら、千里は、静かな口調で切り出した。
 「そんなに急いで食べてるのは、私を早く追い払いたいから?」
 さすがに、口に運ぶスプーンを止めてしまう。瑞樹は目を上げ、微妙に硬い無表情で千里を見返した。
 「蕾夏が目を覚ますと、私に知られたくない蕾夏の姿を晒してしまうから…違う?」
 「―――…」
 「風邪が悪化しただけで、そんな指にはならないわよね」
 千里の視線は、瑞樹の手を握って放さない、蕾夏の左手に注がれている。爪が割れ、指先に血が滲んでいた中指に、包帯が丁寧に巻かれている。
 「蕾夏が、過去に性犯罪に巻き込まれたらしいことは、一応知ってるの」
 蕾夏の手に視線を落としていた瑞樹は、思わず顔を上げて、千里の顔を凝視した。千里は、相変わらず穏やかな顔をして、まるでカウンセリング中の患者に対する時のようなムードで話し続けた。
 「と言っても、具体的なことは聞いてないわよ? そういうことがあったんじゃない、って訊いたら、頷いただけ。酷く強張った顔をして、ね。だから、今日もわかった―――この部屋のドアを開けた時の、瑞樹の顔を見て」
 千里の目を見て、これは今更否定しても誤魔化すのは難しいだろう、ということを瑞樹は悟った。千里はこの道のプロなのだ。何十何百という症例を見てきた彼女を誤魔化そうとしても、すぐに見破られてしまう。
 「…さすがは、現役カウンセラーだな」
 「当然でしょう。第一、あなた達より20年以上長く生きてるのよ?」
 自慢げに胸を張る千里に、瑞樹は口元にだけ微かに笑みを浮かべた。が、千里は、すぐにおどけた態度を消し去り、これまでで一番真剣な表情で、瑞樹を見つめた。
 「それで―――相手は、わかっているの?」
 「……」
 「あの警戒心の強い蕾夏が、見ず知らずの人間を家に入れる筈はないと思うのよ。蕾夏、何か言ってなかった?」
 ―――言える筈もない。千里には。
 たとえ実の子でなくても、千里にとって奏は息子だ。息子が、娘同様に可愛がっている蕾夏に傷を負わせたと知れば、どれほど心を痛めるかわからない。蕾夏が必死に千里達から身を隠したのも、相手が奏だから、という理由が一番大きいだろう。
 否定しても肯定しても、おそらく千里は真実を見抜くだろう―――しかし瑞樹は、知らない振りをする事に関しては、エキスパートレベルだ。
 「…蕾夏は何も言ってねーし、今の蕾夏に、そんな話、訊く気にもなれない」
 全く表情を変えずにそう答える。
 千里は、そんな瑞樹の目を、心の奥底まで見通そうとするようにじっと見つめ続けた。が、どうやらギブアップしたらしい。
 「それもそうね」
 ほっ、とため息をつきながらそう言い、よっこいしょ、と立ち上がった。
 「じゃあ…もしも、よ。もしも蕾夏が、私の知ってる人間の名前を言ったら―――必ず、教えて」
 「……」
 「たとえ、うちのバカ息子達でも、よ。必ず…教えて頂戴」
 「…蕾夏が喋れば、ね」
 ふっと笑ってそう言う瑞樹に、千里は曖昧な笑みを返し、階下へと降りて行った。

***

 その後も蕾夏は、一晩中、何度となく目を覚ました。
 悪夢にうなされて飛び起きる事もあれば、ただなんとなく目覚めることもある。が、目が覚めるたびに、瑞樹が必ず傍にいて抱きしめてくれたので、ああ、こっちが現実なんだ、と安堵して、再び眠りにつくことができた。
 浅い眠りと覚醒を何度も何度も繰り返し―――やっと、何の夢も見ずに眠る事ができたのは、天窓から見える空が、漆黒から僅かに青みがかった濃紺へと変わり始めた頃だった。


 不思議な静寂の中で、蕾夏はふと、目を覚ました。

 最初に見えたのは、天窓の向こうの、白々と明けつつある、春の空。しばし、ぼんやりと、それを眺める。
 今、自分が、ほぼ正気を保っていることに、少なからず驚いた。
 前の時は、こんな感じで目覚められるようになるまで、何ヶ月もかかったと思う。翌日の朝なんて、自分の心がどこにあったかすら覚えていない。ずっと心が、どこか遠くで凍りついたままになっていた気がする。
 2度目だから、恐怖心が鈍くなったのだろうか?
 ―――違う。
 瑞樹がいてくれたからだ。
 瑞樹が、また恐怖心を体の中に閉じ込めようとした蕾夏に気づき、吐き出させてくれたから。
 自分でもコントロールが効かない感情を、瑞樹が全部受け止めて、常に抱きしめ続けてくれたから―――だから、本当の意味で、狂わずに済んだ。

 ゆっくりと首を回すと、すぐ傍らに、添い寝するように瑞樹が眠っていた。
 疲れているのだろう。瞼が少しも動かない。その寝顔を見ていたら、急に涙が溢れてきた。
 ―――何故、瑞樹にこんな思いをさせなきゃいけないんだろう…。
 瑞樹が抱えてきた傷を、死ぬまで一緒に抱えていく―――そう約束したのは自分の方なのに、むしろ瑞樹の方が、自分の傷の代償を被っている気がする。瑞樹の力になりたいのに、瑞樹の手を握っていてあげたいと思ったのに、力になってもらっているのは、手を握ってもらっているのは自分の方。こんな時、酷く自分が情けなくなる。
 2度も同じ目にあったのも、自分に何か問題があるような気がして仕方ない。何故こうも、バランスを欠いた人間関係しか築けないのだろう―――異性との間にも、同性との間にも。

 瑞樹が目を覚ました時、せめて泣き顔だけは見せたくない。蕾夏は涙を手のひらで拭い、瑞樹の髪に手を伸ばした。
 前髪を指先で梳くと、癖のない直線的な黒髪は、パラパラと額の上に落ちた。衣擦れの音すらしない―――そういえば、今日は本当に、不思議な位に静かだ。
 髪が落ちる感触に、気づいてしまったのだろうか。瑞樹がうっすらと、目を開けた。
 眠たげな目が、暫く、焦点が合っていないように、どこか違う空間をぼんやり見つめる。が、やがて、蕾夏が体の向きを変え、自分の方を見ているのに気づくと、薄く開いていた目は一気に見開かれた。
 「―――…」
 瑞樹の唇が、何か喋ったかのように、動く。
 けれど、その声は聞こえなかった。
 「?」
 思わず、眉をひそめ、瑞樹の目を見つめ返してしまう。どうしたというのだろう? 瑞樹は声が出なくなってしまったのだろうか。
 また、瑞樹の唇が動く。でも、やっぱり何も聞こえない。
 怪訝な顔を返すと、瑞樹まで怪訝な顔をしてきた。一体、何がどうなっているのか―――そう考えた時、ふと、違和感を覚えた。

 …静か過ぎる。
 窓の外の鳥の鳴き声も、僅かな空気の揺らぎも、瑞樹が半身を起こす際に聞こえて当然の、衣擦れやスプリングの軋む音も。
 そういえば、声だけじゃない。
 何も、聞こえない。

 何ひとつ、聞こえていない―――…。

 怪訝な顔をして見つめ合っていた2人の顔が、次第に蒼褪める。
 「どうしよう…」
 途方に暮れたように口にした言葉も、やっぱり蕾夏の耳には届かなかった。

***

 目の前に座った、千里の友人だと言う女医の唇が、何事かを喋っているかのように動いた。
 女医の隣に座っている千里は、手にしたメモ帳にさらさらと何かを書きつけ、蕾夏に見せた。
 『過去にこういう経験はある?』
 眉を寄せて、記憶を辿る。が…特に思い出せない。あるとしたら、佐野の事件があった当日と翌日―――傷の手当てをするから、と辻に声をかけられたのに気づいたあの瞬間までの、十数時間。でもそれは、耳が聞こえていなかったのか、単に心がここになかったからなのか、自分でもよくわからない。
 「多分…ないと思う」
 ためらいがちに千里にそう伝えると、千里はそれを女医に伝えたようだった。
 また千里がメモを差し出す。
 『昨日、耳に酷い損傷を受けた覚えはある?』
 「…叩かれた時、耳鳴りはしたけど…耳自体は、別に」
 それを千里から伝え聞いた女医は、眉間に皺を寄せて暫く考え込んだ。さっき、ペンライトのようなもので散々耳を調べられたが、それではわからなかったのだろうか。
 不安になり、隣に座る瑞樹の方を見てしまう。瑞樹も、表情が硬い。蕾夏と視線が合うと、さっきからテーブルの下で握っている蕾夏の手を、更にぎゅっと握り締めた。
 やがて女医は、千里の方を向くと、さっきまでより長い時間、千里に何かを話して聞かせた。千里は何度か頷きながらそれを聞き、メモ帳に文字を書き記していった。
 約3分後、千里が差し出したメモ帳には、こう書かれていた。
 『耳そのものに異常はないって。多分、精神的なものよ。強いショックやストレスを受けると、心が壊れないよう、そうした疾患に逃避するシステムが人間の心にはあるの。数日で治る場合もあるし、長くかかる場合もある。まずはゆっくり、体を休めることから始めましょう』

 逃避―――…。
 その2文字は、蕾夏をどん底まで落ち込ませるには、十分すぎるものだった。

***

 ベッドに突っ伏して泣く蕾夏を、瑞樹は慰めることができなかった。
 無理もない。何を言って慰めても、それが蕾夏の耳には聞こえないのだから。

 蕾夏が、あんな目に遭っても魂の抜け殻のようにならずに済んだのは、まさに奇跡に近いと言っていいだろう。前回の状況を大体聞き及んでいるだけに、“逃避”の2文字にショックを受けて泣くほどに「蕾夏らしい反応」ができるのは、むしろ喜ぶべきことかもしれない。
 しかし―――心が壊れずに済んだ皺寄せが、思わぬ形で出てしまったのだろうか。だとしても、何故こういう形で?
 わからない。瑞樹は心理学のプロフェッショナルでも何でもない。これは、千里の領域だ。

 『こういうのを、専門用語で“転換性障害”って言うの。受け止めきれない現実が、耳が聞こえないって症状として蕾夏を襲ってるんだと思う。原因が取り除かれるか、あの子が現実を受け止めるまでに強くなれれば、きっと回復できる。瑞樹はなるべく、あの子の傍にいてあげて―――あなたがいると、心が安定するみたいだから』

 受け止めきれない現実―――当然だろう。2度も同じ目に遭ってしまえば。
 なんとか、避ける方法はなかったのだろうか。昨日からずっと、そればかり考えてしまう。
 奏に危険を感じていたのに、奏を暴走させる前に、なんらかの手段は講じられなかったのか。たとえ悪夢を見せる結果になってでも、奏が蕾夏を欲していることを教えておくべきだったのか―――考え出すと、後悔ばかり募って、気が変になりそうになる。
 その後悔から逃れるべく、瑞樹は、深く深くため息をついて、蕾夏の髪を宥めるように撫で続けた。

 「…わ…私って、なんでこんなに弱いんだろ…」
 しゃくりあげるたび、ベッドにうつ伏せている蕾夏の背中が大きく跳ねる。
 「瑞樹に一晩中、あんなに迷惑かけたのに―――その上、こんな、こんなことになっちゃって…」
 「…バカ。何言って―――」
 言いかけて、気づく。そうだ、これも聞こえないんだった、と。
 瑞樹は、サイドボードからメモ帳とボールペンを取り出すと、そこに文字をしたためた。突っ伏している蕾夏の背中をとんとん、と叩き、顔を上げたところで、そのメモを突きつける。

 『たまには甘えろ』

 「……」
 蕾夏は、涙で潤んだ目で、その文字をじっと見ていた。が、甘えていないという自覚が全くないのだろう。悲しげに眉を寄せるだけで、それ以外の反応は見せなかった。
 瑞樹は、メモ帳をひっこめ、次の1枚にまたペンを走らせた。さっきより長い文章―――それを、また蕾夏の目の前に差し出した。

 『普通にお前と話せるようになるまで、何ヶ月もかかる覚悟してた。やっぱりお前は強いやつだ』

 「…強くなんかないよ…」
 涙で声を震わせながら、蕾夏がそう呟く。この呟きすら、彼女には聞くことができない―――胸がしめつけられそうだ。
 このまま、聴力が戻らなかったら―――…。
 「…絶対、取り戻させてみせる」
 蕾夏に告げるでもなくそう呟いた瑞樹は、唇を引き結ぶと、また蕾夏の髪を撫でた。後悔と、憤りと、いたたまれなさ―――そんなものに、全身を苛まれながら。


***


 奏は、その日1日、打ち合わせに出ていた。
 頭がほとんど回っていない状態で、デザイナーの説明やら、採寸やら、試し撮りやらをこなしていく。ほとんど機械仕掛けでやっているようなものだ。人の言葉に体が自動的に反応して対応しているだけ―――頭も使っていなければ、心も使っていない。
 マネージャーからも「ちょっとおかしいんじゃないか」と心配されたが、曖昧な笑みで応えるしかなかった。自分でも、コントロールが効かないのだから。

 何故あんな真似をしたのか―――そればかりが頭の中をぐるぐると回って、どんな答えも出ないまま、ずっと奏を苛み続けている。
 あの瞬間、蕾夏が、あんな場面であっても瑞樹を擁護して表情を険しくするのを見て、やり場のない怒りに全身が震えそうだった。
 冷静に考えれば、蕾夏が憤慨したのも、極当たり前のことだ。彼女にとって瑞樹は、誰よりも大切な人なのだから。第一、あの時、必死に瑞樹の名を呼ぶ蕾夏に苛立って思わず口にした非難の言葉は、奏自身ですら思っていないこと―――瑞樹は、自分などよりずっと人の心をよく知っている。奏だってその位、肌身で感じてわかっている。
 なのに、耐えられなかった。
 自分に助けを請う事よりも、瑞樹を擁護する方を優先した、蕾夏の反応に。
 気づけば、平手打ちしていた。何もわからなくなっていた。どうしてわかってくれないんだ、どうしてその心の1パーセントだけでも自分に向けてくれないんだ、と、その憤りだけに支配されていた。
 どうしようもなく、寂しくて。
 捨て去られるしかない自分の想いが、どうしようもなく、辛くて。
 優しくしたい―――なのに、できない。そんな自分が、どうしようもなく嫌だった。

 夕方には打ち合わせが終わり、フラットに戻った。が、食欲などわく筈もない。玄関の電気以外全て消し、薄暗い中ベッドの上に仰向けになって、ずっと目を閉じていた。
 時間も忘れてそうしていると、疲れ果てた脳は、甦らせてはいけない物を甦らせてしまう―――昨日、蕾夏を抱きしめた時の、あの感触を。
 思わず身震いし、跳ね起きた。
 なんて奴―――あれほど彼女を痛めつけ、あれほど彼女を苦しませ、その罪の責め苦に喘いでいる癖に…。自分で自分の俗物さに呆れかえる。思い出したくもない暴力を思い出して、その甘美さに酔うなんて。
 “好きな女を傷つけて、満足するような奴もいる”―――瑞樹の言葉を思い出して、ゾッとした。自分がそんな人間だとは思いたくない。奏は、乱れた金色の髪を乱暴に掻き混ぜ、深いため息をついた。
 無意識のうちに、電話に目を向ける。
 今日1日、気づけば何度も電話に視線を向けていた。気になっていた。蕾夏があの後、どうなったのか。
 あの尋常ではない絶叫―――何を言っても、どれだけ謝罪してもピクリとも動かなかった彼女に、途方に暮れてそのまま家を出てきてしまったが、蕾夏はあの後、一体どうしただろうか。
 本当は、会って確かめたい。両親に詰られようが、瑞樹に殴られようが、実際にこの目で彼女の姿を確認したい。けれど…無理だろう。きっともう、彼女は会ってはくれない。それを考えると胸が抉られるように痛むが、自分が蒔いた種だ。仕方ない。
 せめて、電話で確認できないだろうか。
 実家に電話して、母にでも様子を訊ねられないだろうか―――そこまで考えた時、玄関の呼び鈴が鳴った。
 顔を上げた奏は、不審げに眉をひそめ、枕もとの時計を確認した。午後8時―――中途半端な時間。一体、誰だろう?
 奏は、付き合いは派手ながら、自分の部屋に人を呼ぶことは稀だった。だから、必然的に、奏の家を訪れる人間は少ない。何人か、可能性のある人物の顔を頭に思い浮かべながら、奏は魚眼レンズから、ドアの外の様子を窺った。
 外には、誰もいなかった。
 悪戯だったのか、と思いかけた瞬間、それを見越したかのように、また呼び鈴が鳴った。レンズの視界から外れた場所に、訪問者は立っているらしい。
 無視して引っ込むべきかどうか、かなり迷う。が、疲れた頭では、事態をさほど深く分析もできなかった。奏は、しばしためらった挙句、鍵を開け、薄くドアを開けてみた。

 その、刹那。

 ガツッ! という音がして、どこかで見たようなスニーカーを履いた足が、僅かに開いたドアの隙間に乱暴に差し込まれた。
 「!!」
 「―――まさか素直に開けるとはな」
 冷たい笑いを含んだ声に、呼吸が止まった。
 差し込まれた足から目を離し、恐る恐る目を上げる。が、奏がその相手の顔を確認する前に、相手の手があっという間にドアの隙間を開き、その体を玄関の内側に滑り込ませてきた。
 身の危険を感じ、反射的に後退る。その瞬間、突然入り込んできた男の顔が、玄関のライトの下ではっきりとあらわになった。
 「! なり―――…」
 瑞樹の名を呼ぼうとした奏の首に、瑞樹の手が掛かり、声がそこで詰まる。
 冷笑を湛えた瑞樹は、奏の喉元を手で押さえつけたまま、奏を壁際へと押しやった。なすがままに後退した奏は、壁に背中を打ちつけ、その痛みに顔を顰める。が、瑞樹の手は、痛みに浸る暇など与えてはくれなかった。
 「な…っ、成田!」
 ぐい、と喉元を絞め上げるように壁に押さえつける瑞樹の腕を、奏は何とか両手で押し返そうとした。が、一体どこにこんな力が眠っていたのか、さして奏と体格の変わらない瑞樹の力とは思えないほど、奏を押さえつける瑞樹の力は強かった。
 薄暗い中、浮かび上がる瑞樹の表情は、ゾクリとするほどに静かで、冷たくて、体の芯まで凍らせそうな笑顔だった。見ようによっては、見惚れてしまいそうなほどに魅惑的な笑み―――けれどその笑顔は、瑞樹の殺気が本気のものだということを如実に物語っていた。
 映画のワンシーンのように、怒りと殺意に目をギラつかせていてくれれば、まだマシだった。こんな静かで冷たい殺意を向けられると、あまりの恐怖に体が動かなくなる。
 「…最後の懺悔を聞かせてもらいに来たぜ」
 奏の目を、瑞樹のダークグレイの目が真っ直ぐに見据える。同時に、瑞樹の口元の笑みが深くなり、奏はその殺気に思わず全身を震わせた。
 「蕾夏を傷つけたらどうなるか、言っておいたよな。当然、覚悟はできてるんだろうな? え?」
 「……」
 “その時は、俺がお前を殺す”。
 勿論、覚えている。実を言えば、昨日、このフラットに戻ってきて一番最初に頭に浮かんだのが、情けないことにその瑞樹のセリフだったのだから。
 奏は、蒼褪めた顔で唇を震わせ、瑞樹の目を見つめ返した。力の加減をしているのだろう、喉が潰されて呼吸ができない、ということはない。が、苦しいことに変わりはない。奏の顔が、苦痛に歪む。
 「何か、言い残すことはあるか」
 「…な…い」
 たった一言、声を絞り出してそう告げたが、上手く喋れずに咳き込んでしまう。しばし喘いだ奏は、苦しさに涙が出てくるのも構わずに、再度、瑞樹の目をしっかりと見返した。
 「ない―――殺されて当然のことを、したから。ただ…あいつに、謝りたい。もう一度顔を見て、ちゃんと、謝りたい」
 「―――あいつを痛めつけたくて、あんなことしたのかよ」
 「…違う…オレはただ…」

 ただ―――…。
 自分の望みは、何だっただろう?
 記憶から消されていくばかりの人間になるのは嫌だ、と思った。覚えていて欲しい―――記憶にも残らない「どうでもいい人」になる位なら、憎まれて、恨まれて、一生覚えていてもらえる方がいい。確かにそう思った。最初は。
 でも―――それが本当に、自分の望みだっただろうか?
 どうやっても報われないこの想いを、そんな形で成就しようと、本当に思っていたのだろうか?
 …違う。そうではない。
 本当の望みは、もっともっと基本的で、簡単なことだ。

 「…オレは…ただ、わかって欲しかった」
 「……」
 「オレが、あいつの事を好きだって―――気が違うほど好きだって、あいつにわかって欲しかった。…それだけだ」
 奏が、なんとかそれだけ答え終えても、瑞樹はまだ手を離そうとはしなかった。相変わらず冷酷な殺意をまとって、静かな目で奏の目を見据えている。
 そんな状況が、3分近く続いただろうか。
 ふいに、瑞樹の手が奏の喉元を離れ、奏は唐突に解放された。
 ガクリ、と体の力が抜ける。奏は、ズルズルと壁で背中を擦りながら、その場にペタリと座り込んでしまった。
 不足していた酸素を求めるように、せわしない呼吸を繰り返す。僅かに脚が震えていることに、奏はこの時初めて気づいた。
 「…こ…殺すんじゃ、なかったのかよ」
 なんとか息を繋ぎながら、奏は顔を上げ、瑞樹を見上げた。
 パンパン、と一仕事終えたかのように手をはたいていた瑞樹は、眉をひそめて自分を見上げる奏を見下ろして、変わらぬ冷たい笑いを返した。
 「お前ごとき殺して、一生を棒に振るほど、バカじゃねぇよ」
 「……」
 「それでも、お前が一言でも言い訳じみたことを言ったら、問答無用で殺してた」
 表情を強張らせる奏を見て、瑞樹はふっと口元だけで笑った。
 「潔さに免じて、この場では、殺さないでおいてやる。お前は千里さんの育てた子供だし、それに…」
 一呼吸置き、瑞樹は更に続けた。
 「それに―――時田さんの、実の息子だからな」
 「―――…!!」
 奏の心臓が、ビクリと痙攣し、止まった。

 ―――何故…?
 何故、瑞樹がそれを知っているのだろう?
 知る筈がない―――自分ですら、本来なら知ることなく過ぎていく筈だったことなのだ。第三者の瑞樹に、時田が話す訳がない。ならば、何故…?

 驚きのあまり、声が出ない。大きく目を見開き、呆然と瑞樹を見上げていると、瑞樹はすっと腰を屈めると、奏の真正面にしゃがみ込み、小脇に抱えていた茶封筒を奏に投げつけた。それは、奏の胸にぶつかって、床にパサリと落ちた。
 「俺は、ゲームを降りる」
 「…えっ」
 「時田さんが何故お前を撮ろうとしねーのか、俺はもう調べない。ただし、事情がわからねー限り、どんなにお前や時田さんが困ろうが、絶対お前を撮らない。契約破棄して評判落とすなり、素人に撮らせるなり、好きにしろよ」
 「……」
 「それが嫌なら、お前自身で調べろ。結果が出るまでは―――蕾夏には、絶対に会わせない」
 奏の肩が強張る。その反応に、瑞樹はニッと笑った。
 「会って許しを請うことも、あいつに殺されることも許さない。自分の馬鹿さ加減に、悶え苦しめばいい」
 「…あんたは…オレに何もしなくていいのかよ」
 「お前に構ってる暇なんてあるかよ」
 冷たく言い放つと、瑞樹は立ち上がり、Gパンの膝の辺りをはたいた。
 顔から笑みを消した瑞樹は、まだ座り込んだままの奏を見下ろすと、これまでで一番低い、残酷さを含んだ声で吐き捨てた。
 「俺は、蕾夏を助けるだけで、精一杯だ」
 「……」
 その一言に、冷たい不安が、奏の体の奥に広がった。

 瑞樹は、それ以上何も言わず、踵を返して玄関から出て行った。
 バタン、とドアが閉まると同時に、体の緊張が一気に解ける。奏は大きく息を吐き出すと、まだ震えの残る口元を手で覆った。
 瑞樹は、本当の意味で、一番残酷な人間かもしれない。
 感情的に罵ることもなく、嫉妬に駆られたように暴力をふるうこともなく、静かな本気の殺意で奏を震え上がらせた挙句、一番知りたい蕾夏の現状については、ただ不安要素だけを与えて、何も教えてはくれなかった。残ったのは、本気で殺されるかもしれないと感じた恐怖と、自分ごときは瑞樹の相手にもならないという屈辱感と…蕾夏に対する、不安。
 今、彼女はどうしているのだろう? …けれど、会うことは叶わない。

 ―――郁が何故、オレを撮ろうとしないのか―――…。

 瑞樹の言葉を思い出した奏は、瑞樹が投げつけた茶封筒にノロノロと視線を移した。
 雑誌サイズ位のそれを開けて見ると、中からカラーコピーが数枚、出てきた。雑誌のコピーか何かだろうか。ガラスか氷で出来たみたいな、完璧で優美でありながらどこか冷たい感じのする美女が、茶封筒の中から奏に微笑みかけていた。
 これが、何だと言うのだろう? 不審に思った奏だったが、何気なく茶封筒の表に目を落とした瞬間、その衝撃に言葉を失った。


 『Search for your Mother.(お前の母親を探せ)


 そこには、横殴りの筆記体で、そう記されていた。


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