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『昨日の夜、時田さんに電話して、午前中いっぱい休みもらった。午後は様子見て決める』
フロアベッドの上にぺたんと座り込んだ蕾夏は、瑞樹が差し出すメモを見つめて、僅かに眉をひそめた。
「でも…今日って撮影があるじゃない。夕方だけど…」
蕾夏と膝を突き合わす位の距離にあぐらをかいた瑞樹は、心配げな顔をする蕾夏に、メモを1枚めくって差し出した。
『お前のためじゃない。俺が離れるのが嫌なだけだから』
蕾夏を安心させるためではない。これは瑞樹の本心だった。
昨晩、奏のところに殴りこみに行った時だって、蕾夏が精神安定剤のおかげで間違いなく熟睡しているのを確認した上に、千里にしつこい位蕾夏の傍にいるようにと頼んで、ようやく蕾夏の傍を離れることができたのだ。たった1時間離れるだけでそんな風だったのだから、1日なんて到底不可能だ。
蕾夏をこの家に置いて、どこかに行くのが怖い。蕾夏の手を放してしまうと、あの時見た蕾夏の無残な姿が脳裏に甦り、気が違いそうになる―――それは、一種のトラウマかもしれない。傷ついているのは蕾夏の方だというのに、それ以上に自分が参ってしまってどうする、と自分の弱さに呆れるが、仕方ない。まだあの出来事から、2晩越しただけに過ぎないのだから。
「―――…私が“大丈夫”って言っても、瑞樹が“駄目”なんだね」
瑞樹の状態を察したのか、蕾夏はそう言って、微かに笑った。
昨日1日、笑うということが全くなかった。正常を保っているだけでもありがたいと思わなければ、というのはわかってはいるが、こんな微かな笑みでも、やっぱりあると無いとでは、気分的に全く違う。瑞樹は、蕾夏の言葉を肯定するように、同じような微かな笑みを返した。
「だったら…」
何かを言いかけた蕾夏は、そこでふと何かを思いついたように言葉を切り、しばし瑞樹の手元を見つめた。やがて、瑞樹が持っているメモ帳に手を伸ばすと、それを手に取り、背後のサイドボードの引出しの中からボールペンを取り出した。
何をするのだろう、と訝しげに見ていると、蕾夏は何事かをサラサラとメモ帳に書き込み、それを瑞樹に見せた。
『だったら、午後から、私も一緒に行く』
「……」
二重の意味で、唖然とする。勿論、書かれている内容にも唖然だが、何故蕾夏側から筆談する必要があるのかがわからず、思わず眉をひそめてしまった。
すると蕾夏は、瑞樹の反応を予想していたのか、瑞樹に文面を見せたまま、メモを1枚めくった。
『瑞樹ばっかり手が疲れて不公平だけど、これならお互い、平等でしょ』
「…あのなぁ…」
瑞樹が呆れた顔をすると、蕾夏は、瑞樹の意表をつけたことに満足したみたいに、控えめながらもニッと笑った。
いかにも蕾夏らしい行動に、本当は泣きたい位に安堵してしまう。蕾夏は、大きな痛手は受けたけれど、壊れてしまってはいない―――そのことを、こんな行動で実感できるから。
瑞樹は、依然呆れたような表情を保ちながらも、蕾夏の流儀に従うことにした。蕾夏からメモ帳をひったくり、既に書かれている文字の下に、こう書き添えて渡す。
『不公平でいいから、声が聞きたい、って言ったら?』
蕾夏の顔が、うろたえたように赤く染まるのを見て、瑞樹も蕾夏がやったように、口の端を上げてニッと笑った。そんな瑞樹の様子に唇を尖らせた蕾夏は、少し考えた末、こう返した。
『私だって、すごく声が聞きたいんだもの。だから、これでおあいこ』
―――見事、返り討ち。
こちらまで赤面させられる前に、瑞樹は苦笑を浮かべ、メモを取り返した。
不謹慎かもしれないが、こんな風に、耳が聞こえないことすら楽しむための要素の1つに変えてしまった方がいいのかもしれない。できる限り普段通りにした方が、気を遣われることを何より嫌う蕾夏にとっては良い筈だ、と、千里も言っていたのだし。
『一緒に行く、って言うけど、あまり食ってないし、やめた方がいい』
『大丈夫。家の中は問題なく歩き回れるから。それに、家の中、あんまり居たくない』
最後の部分に、瑞樹は僅かに表情を変えた。
蕾夏本人にそう言われてしまえば、やはり外に連れ出した方がいいのか、と思わなくもない。が…本当に大丈夫だろうか。耳の聞こえない状態での外出が、余計ストレスを与える羽目になりそうな気もするだけに、簡単にはイエスとは言えない。
瑞樹が迷っていると、蕾夏は、瑞樹に渡してしまったメモを再度手にし、新しいページに長文を書き記した。
『千里さんも、なるべく普段通りの生活を送って、おとといの事はもう済んだ事と割り切っていった方がいいって。家の中に閉じこもってると、気持ちが前に進まないと思う』
なおも渋い顔をしていると、蕾夏はとどめを刺すように「お願い」と書き添えた。
ため息をついた瑞樹は、くしゃっと前髪を掻き上げると、了承の意味で数度頷いて見せた。それを見て、蕾夏の口元がふわりとほころんだ。
何故、こんな風に微笑むことができるのだろう?
心も体も傷つけられて、正気を保つために“音”という外界からの刺激を脳がシャットアウトするほどの状態なのに…何故、こんな幸せそうな柔らかな笑みを浮かべることができるのだろう?
心配させまいと無理をしていないだろうか―――そんな懸念を抱く瑞樹をよそに、蕾夏は、またメモ帳に何かを書きつけ、瑞樹に差し出した。
『ちょっと早めに出て、ハイド・パークを散歩したいんだけど、ダメ?』
そのメモを差し出す蕾夏の目は、何かを期待するようにキラキラと輝いていた。あの“宝物”を見つけた時のそれには劣るが、蕾夏の心を映すようなその目に、瑞樹はやっと安堵し、心からの笑みを浮かべられた。
『いいよ。どのあたりを歩きたい?』
『イングリッシュ・ガーデン。この時期、きっと花が一番綺麗だと思うの』
『桜もあったよな。もう咲いてるかもしれない』
『ロンドンでお花見ってのも、和洋折衷で素敵』
『夜桜もシャレてるな』
『夜桜、もし撮れるんだったら、帰りに絶対撮ってね』
『ライトアップしてたらな』
のんびりしたテンポで、2人の間をメモ帳が行き来する。口で話すならものの1分で済む話に数倍の時間がかかる。が、意外なほどに苛立ちは感じない。何故なのだろう、と思った時、蕾夏が何かに気づき、クスッと笑った。
『これって、なんかチャットに似てない?』
蕾夏に差し出されたメモを見て、瑞樹も吹き出してしまった。だから違和感がないのか、と妙に納得できてしまう。
『だったら、ハンドルネームで書いた方が便利かもな』
『そっか。私達、2人とも難しい字だものね』
楽しげに笑った蕾夏だったが、メモを瑞樹に渡そうとした時、何を思ったのか急にその手を止め、メモをベッドの上に伏せてしまった。
どうしたのだろう、と、眉をひそめる瑞樹に、蕾夏は軽く小首を傾げるような仕草をすると、愛しい者にしか絶対向けない類の柔らかで優しげな笑みを浮かべた。
「―――瑞樹がいてくれて、良かった」
「……」
「瑞樹がいなかったら、私、今度こそ壊れてたと思う。瑞樹が抱きしめて、行き場のなくなったもの全部受け止めてくれたから―――だからこうやって、笑えるの」
「…俺は何も」
聞こえないとわかっていながら、ついそう口にしてしまう。蕾夏はすっと手を伸ばすと、瑞樹の唇に指先を触れさせて、それ以上の言葉を制した。
「私ね。瑞樹がまだ小さかった頃、私が傍にいてあげられてたらな、ってずっと思ってたの。でも…昨日、初めて逆のこと思った―――あの時、もし瑞樹がすぐ傍にいてくれてたら…私、もっと穏やかに、今までの人生過ごせた気がする」
「…蕾夏…」
「そう思う位に―――今、瑞樹がいてくれたことに、凄く感謝してるの」
微笑む蕾夏の頬に、涙が一筋、流れ落ちた。
何の涙なのかは、瑞樹にも、蕾夏自身にもわからない。
でも…多分、この涙は、体の中で行き場が無くなった想いが形になった、涙。以前、蕾夏は言っていた。想いは、言葉にすると増えていき、増えて増えてもう行き場が無くなると、涙になるのかもしれない―――と。
瑞樹は、蕾夏に応えるように柔らかな笑みを浮かべると、少し身を乗り出し、その涙を唇で掬った。
腕を回し、蕾夏が壊れてしまわない位に、緩く抱きしめる。そうしていると、抱きしめているのに、何故か抱きしめられているような安らぎを感じた。
あの頃―――もしも蕾夏が傍にいてくれたら、自分ももっと穏やかな日々を送れたかもしれない。
微かに感じる蕾夏の体温に、瑞樹もまた、そう感じていた。
***
「姉からも聞いたよ。熱の後遺症だって? 大変だね」
パソコンに向かい、書類作成に没頭している蕾夏を見遣りつつ、時田が心配そうな声でそう言った。
蕾夏が聴力を失っているのは、高熱を出した後遺症―――淳也にも、時田にもそう説明している。瑞樹は、何食わぬ顔で時田の心配に微かな笑みを返した。
「医者の話では、一時的なものだってことなんで…」
「にしても、ある日突然じゃあ、日常生活だって大変だろうに…。別に藤井さんには休んでもらって構わないよ?」
「家に閉じこもってると気が滅入る、って、本人が来たがったことなんで。…大丈夫です、俺が事故のないように見てますから」
瑞樹がそう言うと、時田もそれ以上は言いようがない。「わかったよ」と答えた時田は、今日の撮影のための資料に目を落とした。
今日の撮影は、ロンドン郊外の花屋に出向いてのもの。いわゆる店舗紹介的な記事に使うらしい。夕方を選んだのは、少し陽が陰ってからの方が、店内のライトが映えるからだ。撮影から戻ってきたら、ちょうど夜桜撮影にはいい時間帯になるかもしれない。
「そう言えば成田君、この土日に、奏君に会わなかったかな」
唐突に時田が口にした言葉に、レンズを手入れする瑞樹の手が、一瞬止まった。
一瞬、蕾夏の方に視線を走らせる。こういう時は、時田が何を喋ろうと蕾夏には一切聞こえない、というこの状況を、少しだけ有難く思う。今、蕾夏に奏の名前など聞かせたくない。
「―――いえ。奏が、どうかしたんですか」
ポーカーフェイスを保って訊ねると、書類から目を上げた時田は、困ったように苦笑した。
「いやね。土曜日に、例の“VITT”の件で会ったんだけど…どうも、説得に失敗しちゃった感じでね」
「……」
―――これが、きっかけか。
奏が何故、突然蕾夏のところを訪れたのか、なんとなく経緯が見えた気がした。
時田と揉めてしまった奏は、決してその腹いせをするために、蕾夏に会いに行った訳ではないだろう。ただ、満たされたかった―――それだけのこと。それがあんな結果になったのは…やはり、その場の流れや、運なのかもしれない。
「それで、どうしたんですか」
「いや…どうにもできなかった。憤慨して飛び出した奏君を止められなくてね。情けないことに、まだ早い時間からパブで自棄酒を飲んで、昨日は1日ダウンだよ」
「…なるほど。だから土曜日、さっぱり捕まらなかった訳だ」
「え? 何か急用でもあったのかい?」
瑞樹の呟きに、時田が眉をひそめる。が、瑞樹は実際の用件ははぐらかし、
「いえ、別に、急用というほどでも」
と誤魔化した。
“VITT”の件は、奏に任せた。今更、自分が口を出す気はない。
ただ―――たとえ、ゲームの真相が明らかになって、やはり時田に奏を撮らせる訳にはいかない、という展開になっても、もう奏を撮りたくはない。ファインダー越しに見た奏が“人形”でなく“人間”だったとしても、それが蕾夏をあんな目に会わせた張本人だと思うと、怒りでカメラを構えられないかもしれない。
「…例の件は、もう少し、待ってくれ。奏君が納得いくように、ちゃんと話し合ってみるから」
瑞樹の気も知らないで、時田は真剣な面持ちでそう呟く。
時田に、何があったかを説明する気になど、到底なれない。一度条件を飲んだ以上、首を縦に振る以外なかった。
***
両手を広げたのと同じ位はある、巨大サイズのオープンサンドを目の前にしながら、奏はそれに手をつけようともせず、ずっと手元のカラーコピーを睨んでいた。
店内には、けたたましいロックがガンガン鳴り響いているのだが、それもほとんど耳に入らない。申し訳程度に、付け合せのフライドポテトに手を伸ばし、口に放り込んだ。
“Search for your Mother.”―――お前の母親を探せ。そう書いたからには、瑞樹はこの美女が自分達を病院に置き去りにした母親だと睨んでいるのだろう。全然似てないのに何でだよ、と思った奏だったが、昨日一晩、数枚の写真をひたすら見つめ続けたら、その答えらしきものが掴めた。
顔立ちは、あまり似ていない。眉の形も、鼻の形も違う。僅かに耳の形だけは似ているようだが、メイクのせいなのか男女差なのか、顔全体から受ける印象は「親子」だなんて思えないほどに、違う。
けれど、たった1ヶ所―――目の表情が、同じだ。
累の目や、普段の自分の目ではない。でも、この目には見覚えがある。これは、“VITT”のポスターになった、一宮 奏の―――“Frosty Beauty”の時の、奏の目だ。
瑞樹だから、気づいたのだろう。あのポスターを撮った瑞樹だからこそ、形も色もさして似てはいないこの目を、奏の目とDNAレベルで繋がっている目だと感じたのだろう。
奏も累も、自分達の出生については、誰からも何も教えられていない。
アジア系とヨーロッパ系の中間にある、この顔―――でも、日本3、イギリス1というクウォーターの淳也よりも更に白人的な顔立ちなところを見ると、自分達はハーフなのだろう、と推理はしていた。が、それ以上のことは別段考えたこともなかった。淳也と千里が、十分に親としての愛情を与えてくれたので、世間によくある話のように「実の両親を探したい」なんて心境にはならなかったから。
なのに、偶然にも知る羽目になってしまったのだ―――子供の頃から大好きだった“郁おじさん”が、実は自分の父親なのだ、と。
『奏は写真に興味を持ってるし、累は文章を書くことに夢中だし―――よく考えたら、君の人生の欠片をそれぞれちゃんと受け取ってる。血の繋がりとは不思議だねぇ…』
クリスマスということで、奏も累も時田も、一宮家に集まっていた。シャンパンを飲みすぎて、累と2人して早めにノックダウンされたが、真夜中に喉が渇いてしまい、階下に下りた。そして、偶然、耳にしてしまったのだ。父と時田の会話を。
不思議と、恨みのような気持ちは起こらなかった。むしろ、納得した。
自分達が生まれた時、時田はまだ20歳―――親の金で語学留学している学生に過ぎなかった筈だ。子供を養うことなど不可能だっただろう。だから、姉夫婦に託した。そんな事情だろう。
それ以降も、両親に対する思いは、なんら変わらない。
ただ、時田に対する思いだけが変わった。頑なに奏を撮ろうとしない時田に、苛立ち、憤り、悲しくなった。
時田は、奏の顔が奏と累の母親に―――実の子と、その子供の父親である時田を捨てて病院から姿を消した女に似ているから、撮らないのではないか。そんな気がして。
でも―――…。
―――郁がそこまで思うほど、似てるか? 似てないよなぁ…。
改めて、母らしき人物の顔を見つめながら、首を捻る。ならば何故、彼は撮ろうとしないのだろう?
今回は、勘弁してくれ、と言った。あの言葉も気になる。まるで、今回さえ我慢すれば、後は撮ってやる、という風にも聞こえた。あれは、どういう意味なのだろう?
時田に直接訊けば早いのだろうが、何も調べないうちから泣きつくのは、奏のプライドが許さなかった。
これは、ただの「捨てられた子供の親探し」ではない。奏の、瑞樹に対する、そして蕾夏に対する意地をかけた勝負だ。“VITT”のポスター撮影までに、必ず事実をつきとめて、瑞樹がつきつけてきた条件をクリアしなくては。
「あら? やだー、ちょっと、なんであんたがそれ持ってんのぉ?」
突如、頭上から甲高い声が降ってきた。
慌てて奏が顔を上げると、この店のウェイトレスの制服をまとったカレンが、細い眉をつり上げて口を尖らせていた。そう、ここはカレンのバイト先なのだ。
「なんで、って、カレン、これ知ってんのか?」
カラーコピーをひらひらとさせて見せると、カレンは銀色のトレイをうちわ代わりにしながら、大きく頷いた。
「知ってるも何も、それコピーしたの、あたしだもの」
「え? なんだよそれ」
訝る奏に、カレンは土曜日の顛末をとくとくと説明した。お前、バイトはいいのか? と途中何度か思ったが、内容が内容だけに、話を遮って「もういいから行け」とは言えなかった。それどころか。
「―――ちょ、ちょっとお前、そっちに座れよ。サンドラ・ローズの話、もっと詳しく聞かせてくれよ」
そう言って、向かいの席を指す奏に、カレンは呆れた顔をした。
「ちょっとぉ…、あたし、今仕事中なのよ?」
「チップはずむから」
「そんなのじゃイヤ。ねぇ、お金より、理由を説明してよ。成田さんも奏も、なんでサンドラ・ローズのことを調べたりしてるの?」
「……」
カレンなら、大丈夫だろう。ことが累に関わっているだけに、軽々しく口外したりはしない筈だ。一瞬ためらったが、奏は思い切って告げた。
「―――オレ達を捨てた、母親かもしれない」
その言葉に、カレンの目が、日頃の2倍位にまで大きく見開かれた。
***
それから3日後、奏とカレンの姿は、図書館にあった。
「ええと、W、W、W……あっ、あった!」
カレンの声に、少し離れた書棚にかじりついていた奏が駆け寄る。彼女が手にしていたのは、パトリック・ウェルシュという名の写真家の写真集だった。
表紙で微笑む女性は、サンドラ・ローズではないモデル。彼女の写真は、写真集を数ページめくったところにあった。
モノクロ写真の中で微笑むサンドラの目は、やはりどことなく冷たい。氷で出来た薔薇の花のような美しさ―――“Frosty Beauty”という自分のあだ名との共通項に、奏は無意識のうちに皮肉な笑みを口元に浮かべていた。
「ふーん…代表作とは書いてあるけど、サンドラの写真は2点だけね」
パラパラとページをめくりながら、カレンが呟く。実際、パトリック・ウェルシュの写真集の中身は、バラエティ豊かだった。どれも女性像だが、同じモデルの写真は3枚が上限。数えてみたら30人ものモデルを使っていた。
サンドラが世に出るきっかけとなったのが、このパトリック・ウェルシュが撮った1枚の写真だと、前日訪ねたファッション雑誌の編集者が言っていた。
とあるメーカーのポスターに採用されたというその写真は、この写真集にも載っている。確かに美しい1枚だった。正体不明かつ無名のモデルだったサンドラは、この1枚で一気に有名になった。その後、ことある毎にパトリック・ウェルシュのモデルを務め、あらゆる雑誌の表紙を飾った。
そして2年後、突然姿を消した。
「このサンドラの写真が、1978年だよな。…オレ達は、まだ2歳か…」
「もう1枚は79年。サンドラがモデル業界から突然いなくなった80年には、このモデルの写真が撮られてるみたい」
サンドラの写真の次のページに、ショートヘアーのトランジスタ・グラマー風の美人が写っていた。どうやら、2年から3年のサイクルで、ご執心のモデルが変わるらしい。
巻末の経歴表を見ると、1998年に逝去したと書いてあった。故人だったのだ。
―――郁とは、あまり接点のないカメラマンだな…。
サンドラがモデル業界から消えるのと、このパトリック・ウェルシュがサンドラから別のモデルに興味を移したのがほぼ同時期なので、この人物が何か鍵を握っているのでは、と思ったのだが…。
なおもパトリックのプロフィールを細かに見ていった奏は、たった1つ、時田に繋がりそうなものを見つけてしまい、ギクリとした。
“74〜78年 UK・フォトグラフ・アワード審査員を務める”
「審査員…」
74年から78年。時田がロンドンに渡ったのは18歳の時…74年だ。当時からカメラに夢中で、イギリス留学を決めたのも、イギリス国内をカメラに収めたいという、かなり不純な動機だったと聞いている。写真雑誌などに投稿して、時々入賞も果たしていたというから、この“UK・フォトグラフ・アワード”に出品していた可能性もある。
…もしも。
もしもそこで、パトリックが時田の写真に目をつけたのだとしたら?
時田が、『フォト・ファインダー』のコンクールで、審査した瑞樹の写真に衝撃を受けたように、パトリックも時田の写真に衝撃を受けたのだとしたら?
―――もしかしたら…その写真のモデルが、サンドラ・ローズ―――…?
そう思い至った時、背筋がゾクリとした。
もしその推理が正しいとすれば、時田、サンドラ・ローズ、パトリック・ウェルシュの関係は、今の瑞樹、蕾夏、そして時田の関係と同じだということになるから。
―――郁はなんで、蕾夏をイギリスに呼んだんだ…? 成田の写真に惚れ込んだだけなら、成田だけ呼べば済むものを。
「ねぇ、“UK・フォトグラフ・アワード”だったら、さっき、写真雑誌コーナーに受賞作品をまとめた本があったわよ?」
奏の指が、その経歴の文字の上で止まったままなのを見て、カレンが背後の書棚を指差した。その勧めに従い、奏は、パトリックが審査員を務めた時期の“UK・フォトグラフ・アワード”の資料を調べてみた。
大賞などの大きな賞には、時田の名前はなかった。だが、75年の佳作受賞者の欄に、確かに“Ikuo Tokita”の名前が掲載されていた。
受賞作品は、風景写真を愛する時田にしては珍しく、女性のポートレート写真だった。あまりにも小さな写真なので、顔の造作まではわからないが、全体の身体バランスは、サンドラに似て見える。どちらにせよ、この女性が、時田にとっては命より大事な女性であることだけは、間違いなかった。
“Heart's Blood”―――その写真には、そう、タイトルがつけられていたから。
***
突然、背後を駆け抜けた子供の肩が腰の辺りにぶつかり、蕾夏の心臓がドキン、と音をたてた。
振り向くと、やんちゃそうな男の子は、既に随分遠くまで走って行っていて、それを追いかける母親が、ちょうど蕾夏の背後を急ぎ足で通り過ぎている最中だった。
―――瞬間移動でもして、人間が現れたみたい…。
ちょっとため息をつき、視線を再び、レンガ造りのマナーハウスにカメラを向ける時田と、その横でレンズ交換の用意をしている瑞樹の姿に移した。
耳の聞こえない状況は、既に5日続いている。が、この状態には、なかなか慣れない。
部屋の中にいる間は、それでもまだ、マシだった。家の中で動くものは人間だけだし、生活に必要なものは、音が聞こえなくても大体使える。会話に関しても、筆談でなんとかなる。身体的に耳が聞こえなくなった訳ではないからか、それともまだ音を失って間もないからか、幸い喋ることもなんとかできている。ちゃんと発音できているか不安だが、周囲の反応を見る限り、言いたいことは正しく伝わっているらしい。だから、家の中で不自由を感じることは、あまりなかった。
けれど、月曜日、耳が聞こえなくなって初めて外に出た時は、想像と現実のあまりのギャップに驚いてしまった。
突然、目の前に自転車や車が現れる。それらが、実は自分の背後から近づいてきて、今さっき自分を追い抜いて視界の範囲内に姿を現したに過ぎない、ということに気づいた時、音がない、という事に初めて恐怖を感じた。
車のエンジン音、自転車のベルの音、チェーンが動く僅かな音、肌には感じない程度の僅かな空気の動き―――ただ普通に歩いているだけで、人とは随分耳から情報を得ていたのだと、音を失ってようやく気づいた。距離感が掴めない、方向がわからない、目に見えないところで何が起きているのかわからない―――耳が聞こえなくても目さえ見えていればそう不便はないだろう、と思っていた蕾夏は、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。
そんな風に、外を歩くのはかなりの危険を伴うので、瑞樹が常に蕾夏の肩を抱くようにして歩いてくれる。本当は、寒い季節でもないのにそうやってくっついて歩くのは恥ずかしいのだが、仕方ない。
これが、音のない世界。
まるで、無声映画の中にでも迷い込んだような気分だ。
聴覚障害者は、この世にいくらでもいる。彼らも最初は、こんな風に戸惑っただろうか。街中で見かける彼らは、極自然に歩いているし、特に不安を感じているようにも見えない。自分も慣れれば、あんな風に普通に歩けるようになるだろうか―――いや…、慣れてしまうほど長期間にわたって、この耳は、外界の音を拒絶したままでいるのだろうか。この状態が長引けば、話すことも厳しくなるだろう。そうなったら……もう、声で意思を伝えることすら、できなくなってしまう。
どうすれば、治るのだろう? 自分では、十分安定した精神状態になっているつもりなのだが…まだ、足りないのだろうか。
思わずため息をつき、蕾夏は、Gパンの膝の辺りにまで視線を落としてしまった。
ため息をついていても、仕方ない。蕾夏は顔を上げると、目の前に広がる見事な庭園を楽しむ事に専念した。
春まっさかりのイギリスは、至る所に花が溢れ返っている。今日撮影しているこのチェニーズ・マナーという庭園にしても、青々とした芝生に、色とりどりな花々が溢れんばかりに咲き誇っている。
―――凄いなぁ…色の洪水だ。
名前のわからない大輪の花を指先でちょん、とつつきながら、蕾夏は口元をほころばせた。
赤、赤、ピンク、黄色、白、白、ピンク―――もっと色を統一した方がいいんじゃないの、と言いたくなるほどに多彩な色が、風に揺れる。ザワザワ、という風に揺れる葉や茎のたてる音は聞こえない。ただ、色だけが目の前で揺れる。聞こえない音を、蕾夏の耳の奥に甦らせながら。
不思議だ―――なんだか、前よりも、色が鮮やかに感じる。
音を失った日から、漠然とは感じていた。なんだか、目に見える世界が、今までとは違う、と。
信号機の赤や青、店頭に並んだベストセラーの表紙の黄色、晴れた日の青い空、雨の日にあちこちで咲くカラフルな傘の花―――日頃見慣れた光景が、より色鮮やかに、カラフルに感じる。
音がないと、色を強く感じるものなのだろうか?
聴覚という情報を得る方法を失ったから、それを補うために、他の感覚が鋭くなっているのかもしれない。それに、形とか文字とか大きさとかよりは、色は目にパッと入りやすい。鋭敏になった視覚に、より強く訴えかけてくる。
蕾夏は、レンガ造りのマナーハウスを遠目に眺めた。
赤茶けた壁と、白い開き窓―――そして、周囲を囲む、新緑の緑色。それらがせめぎ合う中、一番目に訴えかけてきたのは、何故か一番面積の狭い「白」だった。
―――面白い。
色がくっきりすると、目に映る世界は、こんなにもわかりやすくて、鮮やかで、生き生きと輝いて見えるものなのか。
贅沢すぎると言われた、瑞樹と蕾夏の感性。その中の聴覚が奪われて、初めて気づくことができる世界かもしれない。日頃ならきっと、このむせかえるような花々の香りや微かなそよ風、小鳥のさえずりなどの方が強く感じてしまうから。
でも…写真を見る“第三者”には、香りを嗅ぐことも、風を感じることも、小鳥のさえずりを耳にすることも、できないのだ。
頼りとなるのは、視覚だけ―――目で見えるものだけで、そこに写るものの魅力を感じ取らなくてはいけない。
蕾夏にとっては、最も訴えかけてくる目に見えるものは―――色。
「―――そ…っか…」
思わず呟く。
蕾夏の表情が、次第に明るくなっていく。1人で笑っているのは、思い出し笑いみたいで周囲に変に思われるのかもしれない。が、笑わずにはいられない。ずっとずっと悩んでいたことを解決する糸口を、思わぬ怪我の功名で、見つけることができたのだから。
口元に手を当ててつい笑ってしまっていると、ふいに背中をポン、と叩かれた。
驚いて振り向くと、瑞樹が、どこか呆れたような表情をして立っていた。慌てて周囲を見回すが、時田の姿はどこにも見当たらない。撮影が終わったのだろうか。
キョロキョロと辺りをせわしなく見回す蕾夏に、瑞樹は苦笑を浮かべ、その手を取った。手のひらを広げさせ、そこに指で文字を書く。
『B・R・E・A・K』
どうやら、休憩に入ったらしい。英語にしたのは、英語の方が形が単純で、判読しやすいからだろう。
蕾夏は、待ちきれないというように瑞樹のシャツの裾を掴み、目をキラキラさせながら瑞樹を見上げた。
「ねぇ。明日って休みだよね?」
明日は土曜日だ。瑞樹は、何事だ、という顔をしながらも、軽く頷いた。
「じゃあ、写真撮りに行こう? どこでもいい。近所の運河でも、リージェンツ・パークでも」
「……?」
「瑞樹にも、見て欲しいの―――音がない世界を」
蕾夏の言葉に、何かを感じ取ったのだろうか。蕾夏の勢いにちょっと驚いたような顔をしていた瑞樹は、了解の意味を込めて微笑むと、蕾夏の髪をくしゃっと掻き混ぜた。
***
チェニーズ・マナーの撮影を終えて家に帰りつくと、出迎えた千里が、微妙な表情で瑞樹に告げた。
「お帰り。あのね―――今、リビングに、累が来てるの。蕾夏の原稿もらいに」
「……」
一瞬、息を詰める。
けれど、あまり反応をすると、窺うような目をしている千里に真実を見抜かれてしまう。瑞樹は、一瞬感じた不安を抑えつけ、何食わぬ顔を千里に返した。
「…わかった。俺が対応する」
「一応、累にも、蕾夏が“高熱の後遺症で耳が聞こえなくなってる”ことは伝えてあるけど…」
「でも、蕾夏、ちょっと疲れてるみたいだし」
駄目だ。奏と同じ顔をした累になど、まだ会わせられない。
何なの? という顔をして見上げてくる蕾夏に、瑞樹は先に2階へ行ってろ、と手振りで伝えた。瑞樹の目に、微かな不安を読み取ったのだろう。蕾夏は何も訊かず、軽く頷き、階段に向かおうとした。
が―――少々、タイミングが悪かった。
「あ、藤井さん、成田さん、お帰り!」
瑞樹達の帰宅に気づき、ちょうど玄関へと出向いてきた累と、鉢合わせになってしまったのだ。
いつも通りの温和な笑顔の累に、後姿の蕾夏の肩が、はっきりと強張った。
どんな顔をしたのか、瑞樹からは見えない。が、蕾夏と向かい合わせになった累は、蕾夏のその顔を見て、それまでの笑みを困惑したような表情に変えた。
「え、あ、あれ…? 大丈夫?」
蕾夏の機嫌を窺うように、累が1歩、足を進める、だが、蕾夏は彼を避けるように顔を背けると、足早に累の横をすり抜けていった。階段を駆け上がる足音があっという間に遠ざかり、パタン、というドアを閉める音が、2階から階下に響く。
何とも言えない気まずい空気が、瑞樹と千里、そして累の間に流れる。
「ど…どうしたんだろう…?」
オロオロと背後の階段を見遣る累の姿に、瑞樹は表情を暗くし、目を逸らすしかなかった。
やはり、無理なのだ。1週間やそこらでは。
いかに蕾夏が平然とした態度を取っていようとも、その心に刻まれた傷が、そんなに簡単に癒える筈もない。瑞樹といることで、日頃はその痛みを忘れ果てているのかもしれないが―――決して、傷が治った訳ではない。蕾夏に痛みを思い出させるのは、別に奏本人でなくても、同じ顔を持つ双子の弟の顔で十分なのだ。
視線を感じ、思わず千里に目を向けると、彼女は少し蒼褪めた顔で、瑞樹を見上げていた。多分、今の蕾夏の反応で、もしかしたら、と思っていたことがどうやら事実らしいことに気づいてしまったのだろう。
千里が、何か言いたげに、口を開きかける。瑞樹は、そこから逃げるように視線を累に移すと、その肩をポン、と叩いた。
「…悪い。蕾夏、今日の撮影で滅茶苦茶疲れてるらしい。…原稿の話なら、俺が聞く。まだ書きあがってない筈だから」
「そ…そう? でも彼女…」
「―――突然耳が聞こえなくなったんだ。日頃と多少態度が違っても、仕方ねーだろ」
そう言われてしまえば、納得せざるを得ない。累は、まだちょっと釈然としない表情を残したまま、瑞樹が促すに従って、リビングへと移動した。
累と30分ほど話をして2階の部屋に上がると、部屋の電気は消えており、デスクライトだけがついていた。
「―――蕾夏?」
蕾夏は、ベッドの上で膝を抱え、その膝に右頬をくっつけるようにして丸まっていた。考え事をする時、いつも蕾夏がとるポーズ―――聞こえていないとわかっていながらも、つい声をかけてしまう。
蕾夏は、まるでその声が聞こえたみたいに、ピクン、と肩を震わすと、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は、思っていたよりは普段通りだった。少し疲れたような感じではあるが、泣いていたり、強張っていたり、逆に作り笑いをしていたり…といった不安な表情ではない。
「…累君、帰っちゃった?」
その言葉に、瑞樹は軽く頷いて答えた。
「そっか…。今度会ったら、ちゃんと謝らなくちゃ」
ため息とともに髪をだるそうに掻き上げる蕾夏に、瑞樹は歩みより、用意しておいたメモを差し出した。
『原稿、週明けにでもまた取りに来るから、無理じゃなければ完成させといてくれって』
下手な慰めなどしない方がいいだろう。そう思って、累からの伝言だけをメモで伝えると、蕾夏は気持ちを切り替えるようにほっと息を吐き出し、「わかった」と言って微笑んだ。
「それより―――ねぇ、瑞樹。そこに置いといたの、読んで」
先ほどまでとは違う明るい声で、蕾夏はそう言って、机の上を指差した。
何事か、と机の上を見ると、そこには1枚の紙が無造作に置かれていた。蕾夏の字で、何かが書き連ねてある。筆談のメモにしては、少々長文だ。1行目の上の空白に、少し大きめの文字で“Colors”と記されている。
眉をひそめた瑞樹は、蕾夏に請われるままにその紙を手に取り、文面に目を走らせた。
音のない世界は、極彩色の世界。
いつもなら感じられる音が、空気が、香りが、音を奪われるとその半分も感じられない。その代わり、鋭敏になった視覚が、たくさんのものを拾い集めてくれる。
今日私が見たのは、水よりも青く海よりは優しい色をした、春の空の“青”。
私を追い越していった子供が着ていたTシャツの、その元気さをそのまま色にしたみたいな“オレンジ”。
風に揺れてたチューリップの、微笑んでいるみたいな“白”。
信号を待っている間に目の前を通り過ぎたダブルデッカーの、エネルギッシュだけど都会的な“赤”。
どんなに平凡な風景も、必ずそこに“色”があった。音がない世界の中、そうした“色”達は、いつも以上に刺激的で、鮮烈で、印象的だった。
“色”を、撮りたい。
目に見える“色”を撮りたい。
“色”は、その場にいなくても、絶対に消えないものだから。私達でなくても、必ず見えるものだから。
こんなに強烈なものならば、きっと見知らぬ人達にも伝わる筈だから。今日私が見たもの、感じたもの―――私の心を揺さぶったものが、何なのかが。
「…目に見える“色”―――…」
思わず、声に出して呟く。
「お父さん、よく、逆のこと言ってたから。目に見えない“色”が撮りたい、って」
まるで瑞樹の呟きが聞こえたみたいに、蕾夏はくすっと笑って、そう言った。
「ねぇ。10を感じられないような被写体をどうしても撮らなくちゃいけない時でも―――目に見える“色”を撮ることなら、できないかな」
その言葉に、瑞樹はハッとして、視線を再び蕾夏に向けた。
「時田さんが求める写真、まだそこだけがクリアできてないでしょ? でも…どんな風景にも、どんな商品にも、どんな人物にも目に見える“色”はあるじゃない。唇の赤でもいいし、芝生の緑でもいいし、白壁の白さでもいいし。とにかく1つ、一番印象に残る“色”を最高に綺麗に撮れたら―――その写真は、第三者に何かを伝えられる写真にならないかな」
「……」
「カラー写真を撮るのなら、最後に残る最強のメッセージは“色”なんだ、って、音をなくして初めて気づいた。だから―――“色”、撮ろうよ」
体の内側が、震えるような錯覚を覚える。
信じられない―――あんなに傷つきながら、あんなに苦しめられながら、しかもこんなハンデを負わされながら―――蕾夏が、そんなことを考えていたなんて。
自分ですら、あまりのショックにすっかり頭から抜け落ちていた課題を、蕾夏の方がきちんと覚えていて、しかもそれをこんな文章にするなんて。
音を失ったことを、逆に、今まで見えなかった世界を見るためのチャンスとして生かしてしまっている。…この小さな体のどこに、それほどの精神力が眠っているのだろう?
本当に、敵わない―――蕾夏にだけは。
苦笑した瑞樹は、机の上に投げ出しておいたメモを手に取り、ペンを走らせた。そのメモを蕾夏に渡すと、それを読む時間も与えずに、蕾夏の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
その勢いに驚いた蕾夏は、慌てて手元のメモに視線を落とした。
『お前、ほんとに、転んでもただでは起きないな』
その言葉は、蕾夏も気に入ったらしい。声を立てて笑った蕾夏は、頭を撫でる瑞樹の手を取り、嬉しそうな声で言った。
「だって、瑞樹が太鼓判押した“最強の女”だもの。…そうでしょ?」
***
―――藤井さん、どうしたのかなぁ…。
自宅への帰り道を辿りながら、累はどうしても首を捻らずにはいられなかった。
累の顔を見た瞬間、蕾夏は、その目を大きく見開いて、呼吸を止めたみたいに体を強張らせた。一瞬にして蒼褪めたその顔は、体の中の血までが凍ってしまったみたいに見えた。
震えていた唇、うろたえたように彷徨った視線―――あれは、間違いなく“恐怖”を表す表情だった。
何故、なのだろう? 知らないうちに、何か彼女を怖がらせるような真似をしてしまっただろうか? いくら記憶を掘り起こしても、何も思い浮かばない。ますます首を捻っていると、ふと、ある可能性が頭を掠めた。
―――もしかして…僕じゃなく、奏と何かあったのかな。
同じ顔をしているのだ。累本人には何の思いもなくても、奏に対してなんらかの感情があれば、ああした態度になるかもしれない。だとしたら…蕾夏と奏の間に、何があったのだろう?
思い出すのは、あの小雨がパラつく中見た、奏の涙。…あれは、蕾夏が原因だったのだろうか。
蕾夏と奏が喧嘩をしているのだとしたら、悲しいことだ。瑞樹と蕾夏の帰国まで、あと1ヶ月ほどしかない。最後の最後で険悪なムードになるのは、この5ヶ月あまりの楽しい思い出を全部ぶち壊されるようで嫌だ。
なんとか自分が間を取り持てないだろうか―――そんな事を考えながらエレベーターを降りた累は、自分の部屋の前に誰か立っているのに気づき、思わず足を止めた。
「え…っ、そ、奏!?」
「―――よぉ」
累の部屋のドアにもたれ、累の方を見てニッ、と笑っているのは、間違いなく奏だった。珍しい―――奏の方から訪ねて来るなんて、年に2回か3回程度だ。
「何、どうしたの。いつからそこで待ってた?」
慌てて駆け寄ってそう訊ねると、奏は腕時計を確認した。
「えーと…1時間位かな。退屈はしなかったよ。考え事ずっとしてたし」
「1時間!? ごめん、もっと早く帰ってくれば良かった。実は、エンジェルの家に行ってたんだ。藤井さんの原稿取りに」
累が素直にそう言うと、奏の表情が僅かに変わった。が、それも一瞬のことで、奏は適当に相槌を打っただけで、その件には触れようとしなかった。
「で…どうしたの?」
「ん…。お前さ、これからオレと一緒に、来て欲しい所があるんだけど―――構わないかな」
「いいけど…どこ?」
「郁んとこ」
奏の顔が、苦々しげなものになる。
「オレだけが行くと、郁、絶対警戒するからな。昨日の晩の電話がまずかった。あれは作戦失敗だったな」
「は?」
何の話だか、さっぱりわからない。忌々しげに昨日の電話とやらを後悔する奏を、累はただ怪訝な顔で見守るしかなかった。
「…なぁ、累」
やがて奏は、傾いでいた体をぐいっと真っ直ぐに戻すと、累の眼鏡の奥の目をじっと見据えた。かつてないほどに、真剣な眼差しで。
「お前―――オレ達の実の両親のこと、知りたくないか?」
「―――え…っ」
想像もしなかった展開に、累の心臓は、大きく跳ね上がった。
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