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upstart or underdog ―

 

 時田のフラットの下に佇んでいたカレンは、奏と累の姿を見つけると、手にしていた携帯電話をバッグに放り込んで、ちょっと憤慨したように腰に手を当てた。
 「おっそーい。累君とこからここまで、こんなにかかる?」
 「悪い悪い。累がパニクっちゃって、電話してから暫くは動けなかったんだ」
 「ま、動きがなくて幸いだったけど。…脚も疲れちゃったし、あたし、そろそろ帰るわ」
 累が原因と聞いて、追及が甘くなったのだろうか。カレンはそう言うと、ひらひらと手を振って早くも歩き出してしまった。
 「っととと…、カレン! これ、見張り役代」
 カレンの手を捕まえた奏は、さっきスタンドで買ってきたキャンディの大袋を差し出した。キョトンとした目でそれを見たカレンは、5秒後、可笑しくて仕方ない、という風に、肩を震わせて笑い出した。
 「やーだー、あんたってば、成田さんの真似してんのー」
 「…うるせー。あいつには負けたくないんだよっ」
 「友達のレベルで張り合ってどうすんの? 変なやつぅ…。ま、いいわ。貰っとく」
 「食いすぎて太るなよ」
 奏のデリカシーのないセリフに、カレンはピクリと眉を上げると、キャンディの大袋をひったくって、さっさと歩き去ってしまった。
 まあ、張り合っている訳ではないが―――確かに多少、悔しい部分はある。たったキャンディ3つで、あのカレンを大泣きさせるなんて。
 「―――こんなに仲いいのに…」
 一連のやりとりを少し離れた場所で眺めていた累は、以前以上に仲の良さそうな2人の様子に、少し眉を寄せて呟いた。そんな累を振り返った奏は、累の言わんとするところを察し、苦笑した。
 「カレンはずっと“友達”。体の関係があった方がおかしかったんだ。なんか、恋愛感情とか独占したいって感情が生まれないんだよ、オレ達の間には」
 「…そんなもんなのかなぁ…」
 自分の立場も知らずに残念そうにする累に、誰のためにカレンが大泣きしたと思ってるんだよ、と心の中で愚痴ったが、すぐにそれを訂正した。原因は、自分にもあるんだよな、と。

 たとえ慰めあいであっても、カレンの気の済むよう、寂しい時の抱き枕になってやり続ければ良かったのかもしれない。でも、奏の心がもうそれを拒否していた。
 どれだけ他の人間の体温で誤魔化しても、癒されることはない―――蕾夏本人でなくては。その事実に、カレンより先に気づいたから。だから、カレンとは「ただの友達」に戻った。
 カレンも、やっと気づいたのだろう。瑞樹に話を聞いてもらって覚悟が出来た、と言っていた。
 『今週末にでも、と思ってたけど―――パニック状態の累君に告白しても虚しいだけだから、サンドラ・ローズの件がきっちり決着つくまで、待つことにするわ』
 奏もせめて想いだけは伝えたら? と言うカレンに、奏は曖昧な笑みしか返せなかった。
 とても、言えない―――自分が蕾夏に対してした事は。

 「…奏?」
 「―――いや、なんでもない」
 一瞬、身震いする。
 駄目だ。あの時のことは、今は頭から追い出さなくては―――奏はぶるっと頭を一度振ると、戸惑ったような表情を浮かべる累の肩を軽く叩いた。
 「…じゃ、行こう。累が呼び鈴押してくれよ。オレは警戒されてるから」
 「―――わかった」
 時田が実の親だという話をまだ完全には信じていない累は、複雑な心境を表すように、視線をやや下に向けてしまった。またさっきみたいに動かなくなってしまうとまずいので、奏はちょっと強引に累の腕を掴むと、ぐいぐい引っ張りながらエレベーターホールへと向かった。

***

 ドアを開けた時田は、意外なことに、奏の顔を見ても特に驚きも顔を顰めもしなかった。
 前日の夜、何気なく「郁って“UK・フォトグラフ・アワード”に出品したことあるんだな」と話を振った時、時田は間違いなく息を呑み、それから警戒した声色で「ああ、まぁね」とだけ答えた。本当は時田の方から、“VITT”の件でもう一度奏に説明したい、と電話してきたのだが、その話が出た途端、時田は、用件もそこそこに電話を切ってしまった。これは相当警戒されたな、と後悔したのだが、単なる思い違いだったのだろうか?
 「やあ、2人揃ってなんて、珍しいね」
 「あ…あの、郁。実は僕じゃなくて…」
 「わかってるよ。ここに来ようって言ったのは、奏君の方だろう?」
 しどろもどろな累に対して、全てお見通し、といった風な、余裕の笑み。時田のこういう笑顔は、あまり信用できない。時田は温厚そうに見えて、結構何を考えているのかわからない部分があるのだ。
 「とにかく、入りなさい。夕飯は?」
 「オレは食った。そう言えば累は?」
 「…うん、僕も、実家で食べて来たから」
 また、他のことに思考が引っ張られそうになる。
 そう言えば累は、今日、蕾夏には会ったのだろうか。自分と同じ顔をした累に、蕾夏はどんな反応を示したのだろう―――そこまで考えて、奏は再び、その考えを追い出した。時田が誘うままに部屋の中に入り、勧めに応じて累と一緒にソファに腰掛けた。
 「2人ともアルコールは強くなかったな…水割り位はいけるかい?」
 「シングルなら」
 「…僕はパス」
 累だって奏と同じ位には飲める筈だ。が、緊張を酒で誤魔化すタイプではないから、むしろこういう時は水か何かの方がいいのだろう。それを見越しているのか、キッチンでガタガタやっていた時田は、やがて奏の前には水割りを、累の前には氷水の入ったグラスを置いた。
 時田自身は、奏と同じ水割り。奏と累の前に腰を下ろし、ほっと息をついた。
 「―――で? まさか、2人揃って遊びに来ただけ、って訳じゃないよね?」
 膝の上で軽く指を組んだ時田は、そう言って2人の顔を真正面から見据えた。もうその顔は笑ってはいない。
 「逃げも隠れもしない。昨日の電話で、覚悟は決めてるよ。何が知りたいのか、本音をぶつけてくれていい」
 「…じゃあ、ぶつけさせてもらう」
 奏は、コクリと喉を一度鳴らすと、意を決して持参したカラーコピーを時田に差し出した。
 瑞樹が持ってきた、サンドラ・ローズの記事のカラーコピー ―――予想通り、それを目にした時田の顔が、僅かに強張った。
 「成田が、オレんとこに持ってきたんだ」
 硬い表情で写真を見下ろしていた時田は、驚いたように奏の顔を凝視した。
 「成田君が?」
 「あいつ、言ってた。事情がわからない限り、オレや郁がどんだけ困る羽目になろうと、もうオレのことは撮らないって。それが嫌なら、その理由をオレが突き止めろ、って―――何故郁がオレを撮ろうとしないのか、何故今回の“VITT”の件に限って、郁がこうも頑ななのか」
 「……」
 「…頼む。郁、本当のこと教えて。郁がオレを撮らないのは、その女のせい?」
 膝の上の拳に、知らず力が入る。奏は、少し身を乗り出すようにして、時田の目をしっかりと見据えた。
 「郁が、オレ達の本当の父親なのは、わかってる―――じゃあ、母親は? このサンドラ・ローズが、オレ達の母親?」
 奏の問いかけに、時田は、諦めたような深いため息をつき、俯いた。
 しばし、その状態のまま黙っていた時田だったが、やがて再びため息をつくと、顔を上げ、手にしていたカラーコピーをガラス製のテーブルの上に放り出した。
 「―――その質問に答える前に、いくつか僕からも質問していいかな」
 思わぬ切り返しに眉をひそめたが、ここでノーと言ったのでは話が進まない。奏はためらいつつも、一応頷いた。一方の累は、奏が言った言葉に即座に否と言わない時田の様子に、やはり時田が父だという話は本当だったのか、と、重たいショックを受けていた。
 「まず、累君だけど」
 「…えっ」
 いきなり時田に名前を呼ばれて、累は体を緊張させた。見慣れている筈の時田の顔が、なんだか別人に見えて仕方ない。
 「君は、本当に全部知りたいと思ってる?」
 「……」
 「奏君に連れてこられただけなら、帰ってもいいよ? それか、奏君にだけ日を改めて話してもいい。君は“VITT”の仕事とは無関係なんだし」
 「…でも…僕らのルーツに関わる話だよね…? なら、聞く。その覚悟は、奏に何度も確かめられたから」
 嫌ならやめとけ、と、自分の部屋で何度も確認された。最初こそ不安だったが、今は、知っていて当然な自分の起源がわかる、という知的興味の方が強い。累は、口元をぎゅっと引き締めて、硬い声で答えた。
 「そう。―――じゃあ、奏君。もし君が、成田君の言うところの“事情”を全部手に入れたとしても―――その先にあるのは、僕の代わりに成田君が君を撮る、って結果だけだよ。それは構わないのかい?」
 奏の表情が、一瞬強張る。が、奏も既にそれには答えを出していた。
 「―――いい。“VITT”の仕事は、もうどうでもいいんだ。郁に撮ってもらうことに執着してる訳じゃない。ただ…本当のことが知りたいのと、成田が提示した条件を、トライもしないうちから放棄したくないだけだ」
 ―――違う。本当の気持ちは。
 このままでは終われないからだ。
 このまま、蕾夏に会うことも許されないまま終わったら、きっと一生後悔する。いや、今だって後悔している。無理にでも他の事に集中して、あの日起きた事を頭から追い出しておかないと、絶対気が変になる、と思う位に。
 だから、負ける訳にはいかない。瑞樹が与えた課題をクリアして、もう一度蕾夏に会うためのチャンスを、絶対にものにしてみせる。
 「ふぅん…奏君らしくないねぇ。成田君が突きつけた条件を、素直に受けるなんて―――諦められたのかな? 藤井さんのことは」
 「え?」
 時田の言葉に、奏は無言で眉を上げ、傍らの累が思わず素っ頓狂な声を上げた。
 累が、説明を求めるように、奏の顔をしげしげと見つめる。が、累になど説明できない。本当は今の時田のセリフだけで、心臓がいやというほどに暴れているのに。
 「…今、そんな話をしてるんじゃないだろ。蕾夏は関係ない。オレ自身の問題だ」
 「―――なるほど。そうだね」
 静かな笑いを口元に湛える時田に、背筋が寒くなる。全部見通されているような気がして。
 「まだ質問があるのかよ。無いんだったら、ちゃんと教えてくれよ」
 奏が、これ以上の追及から逃れるようにそう言うと、時田はちょっと息を吐き出し、気が重そうに、テーブルの上のカラーコピーを再び手に取った。それを奏と累に向けつつ、一言一言区切るように告げた。
 「―――確かに。この女性が、君達の母親だ」
 「……」
 「でも―――この女性は君達の母親じゃない、とも言える。“サンドラ・ローズ”は、君らの母親じゃない」
 奏と累が、全くの同時に、瓜二つの怪訝な顔をする。そんな2人を置いて、時田はふいに席を立った。
 向かった先は、時田の寝室。ドアの向こうに消えた彼は、1分もしないうちに戻ってきた。その手に、1枚の写真を持って。
 「全て処分したんだけどね―――1枚だけ、残しておいたんだ。この1枚は、僕が一番好きな彼女の表情だったから」
 向かいの席に腰を下ろした時田は、穏やかな笑みを浮かべながら、奏と累の前のテーブルに置いた。
 その写真を見た瞬間―――奏は、思わず声を上げそうになった。
 ドクン、と心臓が大きな音をたてる。
 震えそうになる手を伸ばし、その写真を手に取ったが、心臓はますます制御不能に暴れ、息が苦しくなってくる。累も、同じことを感じているだろうか? いや―――累には、わからないかもしれない。累は、奏とは違う。この写真に写る笑顔に、特別な思い入れはない筈だから。

 写っていたのは、美しいブロンドの髪を持つ少女だった。
 確かに、目や唇の形は、サンドラ・ローズと同じだ。けれど、全体の印象は、全くの別人としか思えない。
 コスモスの花束を抱えた彼女は、カメラに向かって、なんとも形容しがたい笑みを返している。慈愛? 羨望? 情愛? 何と説明すればいいのだろう、この笑顔は。けれど―――奏は、これそっくりの笑みを知っている。

 「ら…いか…」
 震える唇が、思わず微かにその名を紡ぐ。
 そう―――写真の中の少女の笑みは、蕾夏が瑞樹に向ける笑みと、恐ろしいほどに同じだったのだ。

***

 「…今更、出会った経緯なんて、どうでもいいね」
 飲み干してしまった水割りを再度作った時田は、ため息混じりにそう言って、また腰掛けた。
 「とにかく―――彼女は、モデルを目指しつつも日々の生活に追われている某ファッションブランドのお針子で、僕はカメラマンになる夢を持ってる留学生だった。彼女には身寄りが全くなくて、13歳の時から苦労に苦労を重ねていた。だから、野心家だったよ。絶対に大金持ちになって、遊びたい盛りをひたすら働いて過ごした分、悠々自適な人生を送るんだ、って。そういえば、カレンと同じだね、そういうところは」
 この、あまり面倒見がいい方とも思えない時田が、勢いだけで渡英して途方に暮れていたカレンの面倒をあれこれ見てやった理由が、それで何となくわかった。累も同じことに思い当たったのだろう。その口元が、微かにほころぶ。
 「僕と彼女は友達になり、間もなく恋人同士になった。毎日毎日が最高だったよ―――苦労してきたせいか、彼女は人間不信気味でね。そんな彼女が、僕にだけこの写真みたいな笑顔を見せてくれる。そのことに、口にできない位の幸せを感じてた。彼女がいるだけで、目に映る景色は全て輝いて見えた―――何かに憑かれたみたいに、ひたすら撮り続けたよ。彼女と、イギリス国内の風景を」
 「…成田…みたいだな」
 つい、ポツリと呟く。すると時田は、少し目を丸くし、続いて苦笑した。
 「そう。成田君は昔の僕そっくりだ。ただ、決定的に違っていたのは―――彼らは、社会的に成熟した大人だけれど、僕と彼女は、まだ自制も計算不可能な、勢いだけで生きてる“ガキ”だった、って点だ」
 苦笑を深くした時田は、一旦言葉を区切ると、少し声を低くし、続けた。
 「―――彼女が僕に“子供ができた”と告げたのは、“UK・フォトグラフ・アワード”に出品した彼女の写真が、佳作を取った直後だった」
 奏の腕に触れている累の肘が、びくりと反応する。横目で確認すると、累の顔は、緊張に強張り、僅かに蒼褪めていた。
 一方の時田は、特に表情を変えず、微かな笑みを浮かべたまま、どこか遠くに目を向けている。
 「彼女は堕ろすと言った。当然だと思う―――僕と彼女のバイト料で子供を養うのは至難の業だし、何より彼女には夢があったから――― 一流のモデルになって、有名になるっていう夢が。でも…それを十分知っていてもなお、僕にはどうしてもイエスとは言えなかった。神様が授けてくれた命を闇に葬り去るのは罪だ。僕らみたいな無力な親、子供からすれば迷惑かもしれないけど…それでも、できなかったんだ。…その中に、これで彼女はどこにも行かない、一生自分の傍にいてくれる―――そんな気持ちがあったのも嘘ではないと思う。情けないけどね」
 「そ…っか…」
 そこで時田がイエスと言っていたら、自分達はこの世に生まれては来なかった訳だ。よく考えると、恐ろしい話だ―――親のたった一言で、子供の生き死にが決まってしまうなんて。
 「最終的には、彼女も了承してくれた。子供を産んでも、努力すれば体型は維持できる。彼女は努力家だからね。その点は自信があるって笑ってた。最初の1、2年は子育てに専念して、その後2人で組んでやっていこうと―――彼女がモデルとして、僕がカメラマンとして、2人で生きていこうと決めた。だからこそ、結婚してイギリスに移り住んだばかりの姉さんや淳也さんにも会わせたんだ」
 「…え…っ、父さんと母さんも、会ってるの? サンドラ・ローズに」
 想像していなかった話に、累が思わず口を挟んだ。
 「会ってるよ。彼女は感動してた―――ほら、姉さんはあの性格だし、淳也さんも陽気だろう? 新婚家庭ではあったけど、その時既に温かい家庭を絵に描いたようなムードがあってね。彼女は家庭を知らないから、憧れてた。自分もこんな家に生まれたかったと、夜、ベッドの中で丸くなって泣いてたよ。もっと普通な、もっと穏やかな生き方がしたかった…って」
 「―――…」
 写真の中の笑顔から、そんな悲痛なシーンは思い浮かばない。
 わからない―――人は、たとえ表面上笑顔を見せていても、その裏にどんな真実が隠されているかなんてわからないのだ。蕾夏のことだって、奏はまだわからないままでいる―――あの柔らかで優しげな笑みの裏に、彼女がどんな感情を隠しているのか。
 「…ちょうど、その頃だったかな。パトリック・ウェルシュから連絡があったのは」
 写真に目を落としていた奏は、その名前にパッと顔を上げた。
 パトリック・ウェルシュ―――サンドラ・ローズをスターダムに押し上げたカメラマンだ。
 「彼は、ポートレートを撮らせれば当代一、と言われる名カメラマンでね。“UK・フォトグラフ・アワード”で僕の写真が佳作に選ばれたのも、審査員の中で彼が特に評価してくれたからだったらしい。…彼からの連絡は、小さな雑誌広告を1枚撮ってみないか、という誘いだった。彼女をモデルに、ね。着衣状態なら、なんとか体型もカバーできる時期だったし、それに…何より僕らは、金に困ってた。それで―――つい、その誘いに乗ったんだよ」
 「…で…どう、なったんだよ」
 「―――売ってはいけないものを売ったのだと気づいたのは、それから随分経ってからだよ」
 時田の目が、暗く陰る。
 ぞっとするほどに、暗い瞳―――今、時田は、実際には何を見ているのだろうか。その暗黒を垣間見た気がして、ゾクリ、と寒気を感じる。
 「パトリック・ウェルシュは、僕らの“商品価値”に目をつけた―――特に、彼女の、ね。僕が撮る本来の彼女以上に“売れる”彼女を見つけたんだろう。そして、カメラマンとしての欲が出た訳だ。…どんな甘い条件で彼女を誘ったのかは、僕にもわからない。とにかく―――その結果、彼女は君らを出産した数日後、僕の前から姿を消した。完全にね」
 「……」
 「訳がわからなかった僕が事の顛末を知ったのは、それから2年後―――姉さんが、ファッション雑誌の表紙を飾ってる、彼女そっくりの別人を見つけた時だ。サンドラ・ローズという新進気鋭のモデル―――彼女を撮ったのは、当然、パトリック・ウェルシュ。彼は、サンドラ・ローズを手に入れて、更なる名声を手に入れ、彼女はサンドラ・ローズという新たな顔で夢を叶えた―――そういう訳だ」

 ―――喉が、カラカラに渇く。
 なんとかグラスを手にし、水割りを喉に流し込む。けれど、砂でも飲み込んだみたいに、その渇きが癒されることはなかった。累はどう感じているだろう、と気になり、隣を流し見る。累は一切動きがない。青白い顔で、じっと時田を見つめ続けている。
 淡々とした時田の口調に、彼が受けた傷の深さを思い知らされた気がする。当たり前だ。将来の夢を誓った相手なのに―――その夢も、弱さも、苦しみも、全て曝け出しあった相手なのに、その彼女が地位と名声のために、自分を捨てたばかりか、産み落としたばかりの子供までをも捨てたのだから。
 まだ20歳の青年には、受け止めがたい現実だっただろう。特に…彼女を愛していれば愛していただけ、余計に。“Heart's Blood”とあの写真に名づけた時田の想いを考えると、胸が痛くなる。

 「途方に暮れてる僕を助けてくれたのは、結局、姉さん夫婦だった」
 一番辛い思い出を語り終えたせいか、時田の表情は穏やかなものに戻っていた。一息つくように、彼もグラスに手を伸ばす。
 「君らが並んで眠ってるのを見た姉さんの第一声は、“まー、そっくり! 天使が2人並んで寝てるわ! ねえ、淳也、私、この子達育てたい。いいでしょう?” ―――凄いだろ」
 「…な…なんか、想像つく、それ…」
 病院で、事態も忘れて父の腕を引っ張りながらキャーキャーと騒ぐ母の姿が目に浮かんで、思わず苦笑してしまう。全く、たいした母だ。
 「姉さんは前からあんな人だったけどね。淳也さんも凄いよ。“これは運命だよ。この子達は、僕達の子として命を授かったんだと思う。だって、こうして手を握っても、自分の子だとしか思えないんだから”って―――会ったその日に、養子縁組を決めちゃったんだ。勿論、ありがたかったけど、ちょっと寂しかったよ。本当の父親は僕なのに、って」
 くすくす笑った時田は、水割りを一口飲み、懐かしそうに目を細めた。
 「でもね。姉さんが累を、淳也さんが奏を抱っこしてる姿見たら、ああ、この人達に委ねた方が、この子達は幸せになれる、って実感した。僕はまだ自分のことすらまともにできないのに、自分の思いだけで家族を作ろうと必死になってたんだ。…よく考えると滑稽だよ。君達の母親を、自分の元に引き止めておくことすらできなかったんだから」
 「そんなこと…」
 思わず累が呟いたが、時田は少し寂しそうな笑みを浮かべて、首を横に振った。
 「―――あの時、僕は君らの父親の権利を捨てた。僕は叔父でいい。君らの父親は淳也さん1人だ。母親も姉さんだけだよ。そのことは、この話をした今も変わらない。血の繋がりなんて、大した問題じゃない。そうだろ?」
 「…うん」
 「奏君も、それはわかるね?」
 「…わかってる」
 ―――でも、郁。頭でわかっていても、やっぱりオレは、もう郁を“ただの叔父さん”とは思えないんだよ。
 そう言いたかったが、それは言わなかった。言うまでもない事だろう。たとえそれが、実質的な「父」への思いでないにしても、やはりそこに自分の遺伝的ルーツがあると思えば、それまでとは違う目になるのは仕方ない。
 だからこそ―――知らねばならない。彼が自分にカメラを向けなくなった理由を。
 「…なぁ。それで、サンドラ・ローズはその後、どうなったんだ? 2年で活動をやめちまっただろ」
 和やかになりかけたムードを壊すのはためらわれたが、奏はそのためらいを振り切って問いかけた。
 「パトリック・ウェルシュが、新しいモデルに入れ込み始めたのと同じ時期に、忽然とモデル界から消えてるけど…やっぱり、それが原因?」
 「―――まあ、当たらずとも遠からず、だね」
 時田は、皮肉っぽく口元を歪めると、視線をそらしてグラスを傾けた。
 「彼女は、パトリック・ウェルシュを利用しているつもりでいたんだ。彼を利用して一流のモデルにのし上がる、それが彼女の計画だった。そのために何をしたかは、想像もついてるさ。有名だからね、彼の女性遍歴は。自分に惚れ込ませて撮る、それが彼の撮り方だ。でも、彼から見たら、どんな美女も“商品”に過ぎない―――彼女もそれを知ってたのに、途中からその事実を見失ったのさ」
 「…ってことは…」
 「気がついた時には、捨てられてたって訳だ。もう彼なしでも十分サンドラ・ローズの名は売れてたけどね。気鋭のカメラマンに捨てられた彼女は、自尊心がボロボロになり、もうカメラの前でのあの傲慢な輝きがなくなってた。…誰より、彼女自身がそれを一番わかっていたから―――彼女は、サンドラ・ローズの仮面を捨てた」
 はーっ、と大きなため息をついた時田は、苛立ったように髪を掻き混ぜた。何故か、それまでの話より、これ以降の話の方がしにくそうに見える。そのことに、奏は訝しげに眉をひそめた。
 「…で?」
 「―――聞きたいかい?」
 チラリと目を向けた時田は、また視線を逸らし、少々乱暴な口調で続けた。
 「同じ業界で生きていくには、サンドラ・ローズの顔は少々売れすぎていた。彼女は、顔を整形で少々変えて、半年ほどだけ、名ばかりのモデルとして生きた。元々の名前でね。そこで“元モデル”という肩書きを本名で手に入れたのさ。彼女は元々、お針子としてファッション業界にいた。だから、サンドラ・ローズの名で築いた莫大な財産を元手にして、自分のファッションブランドを立ち上げたんだよ」
 元モデル。
 ファッションブランド。
 2つの単語に、嫌な予感がじわりと沸き起こった。
 「…ちょ…っと、待って、郁。それって…」
 話が読めずにキョトンとする累の横で、奏の顔は次第に蒼褪めていった。
 そして、その奏の嫌な予感を確信に変えるかのように、時田は奏を見据え、諦めたような笑みを浮かべた。
 「そう―――サンドラ・ローズの本名は、サラ・ヴィット。―――君らの本当の母親は、あの“VITT”の社長、サラ・ヴィットだよ」

***

 3時間後。
 時田も、累も、アルコールが完全に回ってダウンしている中、奏はたった1人で、ひたすら血の上った頭を宥めることに努めていた。
 「…冗談じゃねーよ…あの女…っ!」
 苛立ちを紛らわすために、またグラスに手を伸ばす。喉をアルコールが通り過ぎても、その味など、もうわからなかった。
 時田の家にある酒全てを3人で飲み尽す勢いで飲んだが、3人揃ってあまり強くないときているから、半分程度飲んだところで、2人はノックダウン。奏だけが残り半分をちまちまと飲み進めている。
 これが、飲まずにいられるだろうか。
 あのサラ・ヴィットが、自分の産みの母だなんて。

 サラは、これまでに3回、時田に復縁を願い出たのだという。
 1度目は、奏達が8歳の時、“VITT”がなんとか軌道に乗り始めた頃。日本にいる時田の元に、突然サラが現われた。
 どうやって調べたのかわからない、と時田は言っていた。まあ、何がしかのつてがあったのだろう。当時、時田は写真雑誌の編集者だった。サラは、双子が一宮家に引き取られたのを察していた。ただひたすら「ごめんなさい」を繰り返し、なんとかやり直して欲しいと言った。今更母親として名乗るつもりはないけれど、あの子達に一度会わせて欲しい―――そう言うサラを、時田は無言で追い返した。
 2度目は8年前、イギリスに本拠地を移した時。時田は国際的な賞を既に1つ受賞していて、日本国外でも名の通ったカメラマンとして活躍し始めた時だった。そしてそれは、一宮一家が日本からイギリスに戻ってきたのと同じ時期でもあった。
 今度もサラは、前回同様、泣き落としで迫った。が、時田は断った。やっと彼女に与えられた傷から解放されつつあったのだ。今更サラと恋愛する気になどなれない。3日間にもわたる押し問答の末、サラは仕方なく、居座っていた時田のフラットから出て行った。
 そして3度目は、5年前。
 サラは、戦法を変えてきた。やり直してくれなければ、一宮家に行く―――脅しに転じた訳だ。
 それでも時田は、サラを受け入れなかった。何をしたのかは、結局奏や累には語らなかったが、とにかく「酷い仕打ちをして彼女を追い返した」と言っていた。

 何故そこまで、1人の男にこだわるのか。
 新しい恋人でも何でも作ればいいじゃないか、と苛立つ時田だったが、人のことは言えない。自分も同じだ。サラが消えて以来、どんな女性にも結局心が動かなかった。それなりに恋愛の入口までは行きかけるのに、最後の最後でサラと比べてしまう。おそらくサラも、時田と同じだったのだろう。
 それに、サラには、もう1つ望みがあった―――もう一度時田に撮って欲しい、という望みが。
 サラと時田にとって、写真を撮るという行為は、どんな行為よりも深い繋がりを示すものだった。だから、もう一度、彼にカメラを向けて欲しい。その思いが、サラを衝き動かしていた。

 そして、今回。
 “VITT”のモデルとして、自分の息子である奏と、奏の父親である時田を起用したのは、勿論社長のサラ本人だ。

 『サラは、僕があまりに冷たくあしらうから、意地になってるんだと思う。…自分は、何度頼んでも撮ってもらえない。けれど、息子の君が―――サンドラ・ローズとして活躍していた時の自分を彷彿させる君が撮ってもらえる。しかもそのお膳立てをしたのは、母親である自分だ。彼女は、僕に君を撮らせることで、埋められない心の穴を埋めようとしてる…埋められる訳もないのにね。当然、断った。僕にも、クライアントを選ぶだけのプライドはあるからね。でも―――言われたんだよ。断るのなら、自分を君達2人の母親だと認めてもらうための裁判を起こすって。意味のない裁判だが、病院のカルテも破棄された今、証明しようのない母親がそういう裁判を起こそうと思えば起こせる。…僕は、そんな裁判で、君らの家族を引っ掻き回されるのは嫌だったんだ。それをサラも見越してたんだろう』

 ごめん、と、時田は謝った。
 ごめん、奏君―――普段の君の目は大好きだよ。けれど、ファインダー越しに見たモデルの一宮 奏の目は、僕が一番見たくない“サンドラ・ローズ”の目に、あまりにも似てたんだよ―――と。
 「―――…っくしょう…なんなんだよ、あの女…!」
 金色の髪を乱暴に掻き上げた奏は、抱えた膝に額をくっつけた。

 期待などしていなかった。
 元々、自分達を捨てた親だ。碌な女ではないと思っていた。けれど、時田が愛した女性なのだから、少し位は愛せる部分もあるかもしれないと、心のどこかで思っていた。いや、そう信じたがっていた。
 なのに。
 時田の話から思い描くサラ・ヴィット像は、自分から捨てた男に20年以上も執着し続ける“執念の女”の姿だけだ。
 口では詫びたと言うが、本当に悪かったと思っているのだろうか? 思っているなら、時田を自由にしてやるのが、せめてもの優しさではないのか? ただ、自分の欲だけに忠実に生きている人間―――そう思えてならない。
 彼女にとって、自分と累など、もう、時田を再び振り向かせるために利用できるゲームの駒に過ぎないのかもしれない。そう思うと、どうしようもない怒りが、体の底から湧き上がってくる。

 冗談じゃない。
 誰がゲームの駒になんてなるか。

 その怒りは、次第に1つの方向へと、奏の意識を駆り立てていった。


***


 春霞にかすんだようなロンドンの街並みに、カメラを向ける。
 瑞樹は息を詰めると、ファインダー越しにそれらを捉え、ゆっくりと右から左へと視界を移動させていった。
 探しているのは、“色”。目に飛び込む、一番強烈で、一番鮮烈な“色”。10を感じることのない、ありきたりな遠景の中、ひたすら“色”を求めて、アングルを変えていく。
 そして―――やっと見つけたのは、そこから100メートルほど先にある洋菓子店の軒先の、赤い窓枠だった。
 ファインダーから目を離し、蕾夏を振り返った瑞樹は、蕾夏の目も同じ方向を見ているのを確かめた。そう―――彼女もまた、白い壁と見事なコントラストをなしているその鮮やかな赤に、目をつけていたのだ。
 「…あの、窓?」
 少し自信がなかったのか、蕾夏が首を軽く傾けながらそう言う。が、瑞樹が笑みを返したのを見て、自分と同じものに目を向けていたのだとわかり、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
 瑞樹が手振りで合図すると、蕾夏は手にしていたメモ帳を差し出した。それを軽く手で押さえつつ、瑞樹はペンを走らせた。

 『もう少し寄ったアングルの方がいい。あの電話ボックスまで行く』

 コクン、と頷く蕾夏の肩を引き寄せると、瑞樹はペンを胸ポケットに放り込み、早くも歩き出した。


 穏やかな土曜日。2人は一番好きな花や緑のある場所ではなく、あえて特色の少ない街中を撮影しに来ていた。
 大英博物館に近いこの辺りは、ハイド・パーク周辺に比べて“趣ビル”的な要素も少なく、また目を惹くようなフォルムの建物も少ない。2人の言葉で言うところの「10を感じられない被写体」だ。
 目に見える“色”を撮る―――その方針を実践に移してみると、なるほど、と思う部分がかなりあった。
 ファインダー越しに視界を転じていくと、時々、驚くほどに目に鮮やかに飛び込んでくる色がある。ファインダーから目を離すと、その色は瞬間、周りの風景の中に埋もれる。よほど注意して感じ取らなければ、その色だけに目が向くことはほとんどない。
 区切られた世界だからこそ、鮮やかに浮き出る色がある。面白い―――その面白さに、瑞樹は、本能で撮る時の面白さとは違う魅力を感じ始めていた。
 面白い、と感じることは重要だ。元々、魅力を感じなくてはシャッターを切れないタイプの瑞樹だが、魅力を感じていない被写体であっても、面白いと思えば、シャッターを切るきっかけが掴める。
 撮れるかもしれない―――3時間ほど、無味乾燥とした街を歩き回りながら、瑞樹はその手ごたえを感じ始めていた。初日でこれならば、回数を重ねれば、つかむことができるかもしれない―――今感じている、この鮮やかな“色”を。


 『HALは、プロになったらどのジャンルを選ぶの?』

 大英博物館前のベンチで休憩していると、蕾夏がメモに書いてきた。
 休憩時間や家にいる時など、コミュニケーションに時間をかけても構わない時は、蕾夏はこの流儀を貫いている。そしてメモ帳の上では、揃って書くのが面倒な自分達の名前は避けて、ハンドルネームで呼び合っている。ますますチャットを彷彿させる。

 『まだ決めてない。時田さんと同じ風景が理想だけど』
 『時田さんが、抱えてるうちの何を譲りたがってるのかにもよるよね』
 『付き合いを大事にする人だから、しがらみ少ない雑誌あたりかな』
 『淳也さんとこの仕事する可能性もあるかな』
 『どうだろう。情報誌だろ、あそこって。映画とか音楽とか』
 『本とかレジャーとかもあるよ。総合情報誌だから。でも、映画にひかれて専属を希望した部分はある』
 『レジャーは写真多いけど、映画はどうだろう』
 『来日した俳優のインタビューとか? ポートレートだよね』
 『…まあ、raiと一緒に仕事ができるなら、耐えてみせるけど』
 『期待してます』

 くすくす笑う蕾夏が、少し甘えるように体を寄せてくる。肩にもたれかかる頭の重さを感じながら、瑞樹もちょっと笑って、蕾夏の肩を抱いた。
 あの事件以来、蕾夏は前よりも、こうして甘えてくるようになった。
 事件翌日などは、男性である自分が触れるのはまずいと思って、瑞樹はむしろなるべく蕾夏とは距離を取るようにしていた。が、蕾夏は、自分の方から瑞樹の方へと近づき、その腕の中にすっぽりと潜り込もうとする。寝ている時も、まるで寂しがりやの子供みたいに、必死に瑞樹の体温を探す。
 不思議なことだが、そうやってどこか触れていると、安心するらしい。以前なら信じられなかったが、今の瑞樹にはわかる気がした。瑞樹を傷つける夢だけは見たことがない―――蕾夏のそのセリフを、ちゃんと覚えているから。
 「あと1ヶ月弱…かぁ…」
 帰国までの残り時間を数え、腕の中の蕾夏が、ポツリと呟く。
 何気ない一言。けれど、瑞樹のシャツを握っている蕾夏の指が、僅かに血の気を失い、白くなる。何かに耐えるように、その手に力を込めている。
 蕾夏は、夢を見ている。2人で1つの写真集を完成させる夢―――そのためのステップであれば、どれだけ困難でも耐えられる、と言っていた。けれど…今、耐えているのは、それ以前の問題。
 耳が聞こえなければ、いくら淳也が推薦しても、日本支社がそれを受け入れるとは思えない。打ち合わせもできない、インタビュー取材も任せられないライターなど、雇う筈もない。
 今抱えるものをクリアしなくては、夢の実現への道は閉ざされる―――実生活の不便以上に、蕾夏はその事を恐れている。
 軽く唇を噛んだ瑞樹は、蕾夏の手からメモ帳を抜き取ると、新しいページに簡単な言葉を記し、蕾夏に差し出した。

 『焦るな。お前が焦ると、俺も追い抜かれるんじゃないかと焦る』

 蕾夏の耳が聞こえるようになるのが先か、瑞樹が“色”を自分のものにするのが先か。
 そんな意味を汲み取ったのだろう。蕾夏はクスリと笑うと、その下に「Take it easy.」と書き記した。

***

 その夜の月は、青白い色をしていた。
 フロアベッドに並んで座り、天窓からそれを眺めていたら、蕾夏がうつらうつらとし始めた。
 蕾夏はまだ、夜中に何度か目を覚ます。精神安定剤は千里から貰ったが、あまり体質に合わないらしく、蕾夏はそれをなかなか飲もうとはしない。2人で同じ部屋で過ごすようになって解消されつつあった慢性的な睡眠不足に、再び陥っている。もっともそれは、蕾夏が目を覚ませば必ず目を覚ましてしまう、瑞樹にも言えることなのだが。
 ガクン、と勢いよく倒れる体を、慌てて支える。瞬間、蕾夏の肩が、怯えたようにビクンと跳ねた。
 息を呑む気配と、肩から全身に波及する緊張感―――瑞樹もそれを感じ取って、思わずその手を引っ込めそうになる。
 けれど、はっとしたように目を開けた蕾夏は、自分を支えている手が瑞樹の手だとわかると、安心したように体の力を抜いた。その腕の中に緩やかに体を委ねると、眠たげに目を閉じる。
 「…眠…れそ…う…」
 寝言に近いような口調の蕾夏の言葉に、瑞樹は蕾夏の背中を支えると、その体をゆっくりフロアベッドに横たえた。眠るにはまだ早すぎる時間だが、眠れるチャンスを逃す手はない―――たとえ数分で目を覚ましてしまうのだとしても。
 「瑞樹…」
 蕾夏の手が、緩く瑞樹の手を握る。うっすらと開いた目がぼんやりとではあるが、瑞樹を見上げていた。
 「―――ご…めんね…」
 「……」
 瑞樹は薄く微笑むと、今にも眠りの淵へと落ちかけている蕾夏の唇に、軽く唇を重ねた。
 淡く、微かなキス―――それを数度繰り返すと、蕾夏は最後の意識を手放し、微かな寝息をたて始めた。
 あの日以来の久々の感触に、どこか安心できる部分があったのだろうか。いつもなら瑞樹の手を絶対に握って離さないのに、今日は少し手を引いただけで、スルリと抜け出せてしまった。引き抜いた手のひらは、緊張で僅かに汗ばんでいた。
 怖かった―――たったこれだけのキスが。いくら自分は特別な存在だとわかっていても、まだ怖い―――こんなキス1つでも、蕾夏を壊してしまう気がして。小さくため息をつくと、瑞樹は前髪を掻き上げ、立ち上がった。

 水を1杯貰おうと部屋を出たタイミングで、階段下に設置されている電話が鳴った。
 まだリビングにいた千里が、瑞樹が下り着くより早く、その受話器を取った。
 「Hello? ―――え、奏? どうしたの、珍しいわね」
 奏、という名に、思わず緊張が走る。ちょっと階段を下りる足を速めた。
 受話器を握る千里の顔は、幾分緊張していた。多分昨日の、累を見た蕾夏の反応で、蕾夏があんな状態になった原因が奏であると、どこかで確信してしまったからだろう。
 「どうしたの、なんだか変な声ねぇ? …え? 二日酔いって、どうして。…ちょっと、累まで? あんた達、一体何やってるの? ―――え、瑞樹? いるわよ、ちょうど今1階に下りてきたところ。…ええ。…ええ、ちょっと待って」
 目の端で瑞樹の動きを確認していた千里は、瑞樹を振り返って、受話器を差し出した。小さな声で「奏からよ」とだけ告げて。
 千里の目は、幾分心配そうに瑞樹を見上げている。瑞樹は、千里を安心させるように僅かに口の端を上げて笑みを作ってみせると、無言で受話器を受け取った。
 「―――もしもし」
 『…成田?』
 いつもより低くて、しゃがれたような声。けれどその声は、確かに奏のようだった。
 「ああ、俺。…なんだ、その声」
 『…飲みすぎた。昨日、一晩中飲んでて、半分気絶状態で寝て―――目が覚めたの、今日の昼。動けなくて、自分の部屋戻ったのは、ついさっき』
 「―――で? 何の用だ。俺に二日酔いの克服方法でも訊きに電話してきたのか」
 皮肉っぽく言うと、奏は、電話の向こうで小さなため息をつき、余計声を低くした。
 『違う―――そんな訳ないだろ。…昨日、累と2人で、郁を追及しに行ったんだよ。郁のフラットに、直接』
 「ああ…それで?」
 『最悪』
 吐き捨てるように言い放った奏は、続けてこう言い切った。
 『オレ、もう“VITT”の仕事はしない』
 「…は?」
 『じょーだんじゃねーよっ、あんな女の持ち駒になんて、誰がなってやるか! あんな契約、こっちから破棄してやる!』
 「―――…」

 契約破棄って―――。
 奏。ちょっと、落ち着け。
 モデルが降りたら、時田さんにしろ俺にしろ、一体誰を撮ればいいんだよ?


 “VITT”のポスター撮影まで、あと1週間。
 まだまだ、波乱は続きそうだ。


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