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待ち合わせのファーストフード店に現われた瑞樹の姿を見つけ、奏は瞬間、心臓が止まりそうになった。
昨夜、一宮の家に電話した時、「絶対契約破棄だ! 今からそっちに行くから話をさせろ!」と言い張る奏を、瑞樹は「馬鹿野郎、一晩頭冷やして出直せ」とばっさり斬り捨て、電話を切ってしまった。…まあ、冷静になってみれば当然のことだ。
そして今、一晩経ってこうして瑞樹を呼び出した訳だが、やはり、電話と直接会うのとでは、かなり覚悟の度合いが違う。昨日の電話では勢いが良かった奏も、いざ瑞樹の顔を見てしまうと、1週間前、本気で殺されると感じた時のことを思い出し、背筋がゾクゾク寒くなる。
こんな段階で気後れしてどうする、と、にわかに落ち着きをなくす心臓を無理矢理宥めた奏は、店内をぐるりと見回す瑞樹に、なんとか自然に見える程度の合図を送った。
手を挙げる奏の姿が目に入ったのか、ゆらりと頭を傾けた瑞樹の目が、奏の視線とぶつかる。考えを全然読み取ることのできない、冷めていて無表情な目―――瑞樹は、僅かに眉を上げるだけの反応を見せると、悠々と注文をしにカウンターへ行ってしまった。
―――ああいう態度が、なんか、癇に障るんだよな…。
自分が、感情が顔に出やすいタイプなだけに、感情の読めない瑞樹のようなタイプには、どうも劣等感がある。喧嘩にしろ交渉事にしろ、闘志を顔に表してしまっている段階で、既に自分の方が負けている気がしてしまうのだ。
やがて、アイスコーヒーを手に奏の向かい側の席についた瑞樹は、挨拶もそこそこに、さっそく用件を切り出した。
「1時間以内に、家に戻らないとまずい。手短に話せ」
「…ここから家まで10分かからないのに…だったら家で話そうか?」
「千里さんや淳也さんの前でできる類の話かよ」
呆れたような目つきをする瑞樹に、思わず言葉が詰まる。それは、できない―――さすがに。
「…無理だよな」
「―――だろうな。で…一晩たって、少しは頭が冷えたか」
「いや…あんまり。考えれば考えるほど、どんどん腹立ってきて、今すぐにでも契約書破り捨てて無茶苦茶に踏みにじりたくなる」
「…なるほど。契約書を全部マネージャーに取り上げられるのも道理だ」
涼しい顔でそう言った瑞樹は、アイスコーヒーを片手に、窓の外を流し見た。
―――だから、そういう態度が、なんか、癇に障るってんだよ。
ムカムカしてくるが、ここでそれを爆発させるのは、瑞樹の言葉を肯定するに等しい。奏は、不満そうな顔になるのをなんとか抑え、冷めかけたフライドポテトを口の中に放り込んだ。
そんな奏の反応を目の端で捉え、瑞樹は口元だけでふっと笑うと、アイスコーヒーを一口飲んで正面に向き直った。
「とにかく―――時間もないことだし、さっさと聞かせろよ。そのために来たんだろ?」
それから30分以上の時間をかけて、奏は瑞樹に、一昨日時田から聞かされた話を、事細かに説明した。
瑞樹は、あまり驚いた顔はしなかった。さすがに、サンドラ・ローズの正体があのサラ・ヴィットだという部分には目を丸くしていたが、それ以外は、ある程度は予想の範囲内だったのか、平然とした顔で黙って聞いていた。
瑞樹が表情を変えたのは、2回―――時田にコピーさせてもらった、あのたった1枚残しておいた、かつてのサラの写真を見せた時と、パトリック・ウェルシュと時田達の関係を説明した時。僅かに表情を変えたものの、口では何も言わなかった。
「サラ・ヴィット、なぁ…」
ひと通り聞き終わると、瑞樹は、忌々しげに眉を顰め、ため息と共にそう呟いた。
「どうりで社長室に呼ばれる訳だ。…にしても、似合わねー…」
「あんた、サラに会ってんの?」
ちょっと意外だったのでそう訊ねると、瑞樹は余計、眉間に皺を寄せた。
「2度ほどな」
「―――あんまりいい印象はなさそうだな、その顔だと」
「悪い印象しかねぇよ」
「…オレはむしろ、いい女だよな、って思ってた」
「なら、良かったな。“いい女”と遺伝子で繋がってて」
「…ほんとにいい女だったら、オレがこんな顔してる訳ないだろ」
嫌味な奴、という目で瑞樹を睨んだ奏は、不貞腐れたようにそっぽを向き、すっかり氷が溶けてしまったコーラを、まずそうにすすった。
ショーの打ち合わせで、仮縫いで、実際の舞台で―――現場で何度か接したサラは、決して悪い印象はなかった。
何に関しても、妥協を許さない仕事振りも好ましかった。45歳とは思えないほど女としての魅力もあって、日々自分を磨く努力をしてるんだな、と、その点でも好印象だった。できる女は嫌いじゃない。むしろ好きだ。大人しくて尽くすタイプの女より、ああいう自分の力で道を切り拓くタイプの強い女が奏の好みなのだ。
でも―――いや、好印象を持っていたから余計に、腹がたつ。
自分達を、そして時田を捨てて、地位や名声を手に入れる方を選んだ女。挙句に、20年以上経った今もなお、時田に執着し続けている女―――そんな女に好印象を持っていたなんて、考えるだけで寒気がしてくる。
「一瞬でもあの女のこと、“悪くない”って感じた自分に吐き気がする。あの女の魂胆を全然知らないで、笑顔で対応してたなんて。信じらんねーよ。人のこと、ゲームに勝つための持ち駒みたいに扱いやがって」
「…案外いるぜ、そういう女も」
「自分の子供でもかよ」
「―――ハ…、馬鹿馬鹿しい」
皮肉っぽい冷笑を浮かべた瑞樹は、少し乱暴な仕草で前髪を掻き上げた。
「自分で産んで育てて一緒に暮らしてる子供でさえ、愛人との生活に邪魔だからって殺したり、惚れた男を振り向かせるために利用したり、なんて話、新聞にもゴシップ誌にもゴロゴロ転がってる」
「……」
「案外、“実の母親”に幻想抱いてるタイプらしいな」
忍び笑う瑞樹に、そんなことはない、と反論しようとした奏だったが、その言葉は、喉の奥で詰まってしまった。
―――そういう部分が、あったのかもしれない。
決して美化するつもりはなくても、自分達にはいない“自分達を産んだ人”というものに、何がしかの期待を持っていたのかもしれない。淳也と千里の子とは絶対思えない、今以上にアングロサクソン系の顔をしていた子供時代―――他の子供達がみんな知っている“自分を産んだ人”を知らないが故に、それに対して無意識のうちの憧れを抱いていたのかもしれない。
「…そうだよな。どのみち、オレと累を置き去りにした女だってことは、最初からわかってたのにな」
実の子を捨てる親がいる。その証拠は、奏自身だ。捨てる位だから、ゲームの駒にするのだって平気だろう。わかってた筈なのに―――そう思うと、自嘲気味な笑いがこみ上げてきてしまう。
深いため息をついた奏は、再びコーラを、少々うな垂れ気味にすすった。が、やがて、額の辺りに視線を感じ、思わず顔を上げた。
「―――なんだよ?」
いつまでも自分の方に視線を据えている瑞樹に、奏が訝しげに眉を寄せる。すると瑞樹は、口元だけで微かに笑って、視線を窓の外へと逸らした。
「いや―――別に」
「別に、って…そんだけ人のこと見といて、別に、はないだろ?」
「プライベートなことだ。お前とは関係ねーよ」
そう言って一瞬奏に向けられた瑞樹の目は、やたら静かで、どこか寂しげだった。
この目とよく似た目を、一昨日見た気がする―――ごめんよ、と言った時の、時田の目。心の傷を垣間見せた時の、時田の目だ。
「…で? “VITT”はどうするんだ」
瑞樹が一瞬見せた目の意味をぼんやり考えていた奏は、瑞樹の言葉に、はっと我に返った。慌てて、弄んでいたストローから手を離し、瑞樹の方に向き直る。
「――― 一晩、よく考えたけど…郁が撮ろうが撮るまいが、もう“VITT”の仕事をする気にはなれない。だから、マネージャーに掛け合ってみる。今回の仕事、違約金払っても構わないから、降りられないか、って」
「降りられなかった場合は?」
「…まだ、考えられない。でも…郁は、オレ達に本当の親を知らせたくなくて、やむなく引き受けたんだ。郁にこれ以上、無理はさせたくないし、迷惑もかけたくない。だから―――…」
緊張のあまり、思わず膝の上の拳をぎゅっと握り締める。
「だから、あんたに撮ってもらうしかないと思う。頼めた義理じゃないのはわかってるけど―――もし、契約破棄にこぎつけられなかったら、あんたに撮って欲しい」
「―――…」
瑞樹は、半ば睨むような勢いで見据えてくる奏を、腕組みをして見つめ返していた。が、諦めたような疲れたような大きなため息を一つついたかと思うと、堅い椅子の背もたれに深くもたれかかった。
うんざり、とでも言いたげな表情で髪を掻き混ぜた瑞樹は、その髪の隙間から覗く目で、奏を睨み据えた。
「…言っとくけど、俺、お前を撮る自信なんて微塵もねーからな」
「……」
「今、この世で一番撮りたくない被写体は何だ、って訊かれたら、迷わずお前だって答える。…理由は、わかるよな」
確認するまでもない。奏は、ゴクリと唾を飲み込み、ぎこちなく頷いた。
「それでも撮れって?」
軽く首を傾けると、瑞樹の髪が僅かに靡く。窓から入る光で微妙に色合いを変えるその輪郭に一瞬見惚れつつも、奏ははっきりと答えた。
「…オレや郁が意地になってるだけだ、って言われたらそれまでだけど…これだけは、譲れない。―――“人間”を撮ることで“人形”を撮ることの無意味さをわからせてやる、ってあんたのセリフ、かなり惹かれてたけど…オレ、今回も“人形”で構わない。オレそっくりのマネキンが立ってるとでも思ってくれればいい。“物”ならちょっとはマシだろ?」
本当は、彼が日本に帰ってしまう前に、1度でいいから撮ってみてもらいたかった。ありのままの一宮 奏を。
サンドラ・ローズを知ってしまった今、“Frosty Beauty”の仮面を被った自分には、これまで以上に嫌気がさしている。けれど―――ありのままの自分が市場に求められていないことも、十分承知している。結局自分は、“綺麗な人形”であり続けるのが運命なのかもしれない。
『―――それは、奏君の内面を上手く引き出せるカメラマンがいなかったからなんじゃない?』
一瞬、蕾夏の言葉が頭を掠める。が、無理矢理その言葉を追い払い、奏は唇を噛んで、怯まずに瑞樹の目を見つめ続けた。
睨みあうこと、数十秒―――やがて、根負けしたのか、瑞樹の方がため息とともに視線を落とした。
「…わかった。俺もあの女が気分良さそうに笑うのは面白くねーから、なんとか協力できるようにする」
その返事に、ほっ、と体の力を抜いた奏は、僅かではあるが、やっと久々に笑みを浮かべることができた。
一方の瑞樹は、ニコリともせず視線を逸らした。まるでそのついでのように、腕時計の時間を確認したが、ちょっと顔色を変え、がたん、と席を立った。
「…まずいな。そろそろ帰る」
「え?」
言われて初めて、瑞樹が店に顔を見せてから、そろそろ1時間経とうとしているのだと気づいた。奏も慌てて立ち上がり、早くも帰ろうとする瑞樹の腕を掴んだ。
「ちょ…っ、ちょっと、待ってくれよ」
迷惑そうに振り向く瑞樹に、一瞬怯みそうになる。が、奏は負けじと、瑞樹の腕を掴む手に力を入れた。
「あの―――あいつには、いつ、会える?」
「……」
「あんたが出した課題はクリアしたと思う。だから…なるべく早く、会って謝りたい。でないとオレ―――…」
後悔のあまり、気が変になる。
言外にそう必死に訴えかける奏の表情に、瑞樹の眉が、苦悩を表すように歪む。
しばし、逡巡するように瞳を揺らした瑞樹だったが、一度唇を引き結ぶと、思い切って口を開いた。
「―――お前の気持ちはわかるけど、まだ無理だ」
「…えっ」
「蕾夏はまだ、お前に会える状態じゃない」
“会える状態じゃない”。
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
「…ど…どういう、状態なんだよ、あいつ」
嫌な感じに心臓が暴れる。せり上がる不安感に、瑞樹の腕を掴む手が、今にも震えだしそうだ。
そんな奏の目を見据え、瑞樹は、淡々とした調子で答えた。
「別段、変わらねぇよ。一見、前のままだ―――ただ、耳が聞こえないだけで」
「―――…!」
「精神的な、一過性のものだって医者は言ってる。…言っとくけど、お前が直接の原因じゃない。元々あいつは、もっと深い傷を持ってる―――お前のしたことで、閉じかけてた傷が開いただけだ」
瑞樹の言うことの半分も、頭に入ってこない。
予想を超える蕾夏の状況に、声すら出ない。もう、震える手を止めるのは無理だった。大きく見開いた目で瑞樹の目を見返したまま、呼吸すら止まってしまった気がする。
元々持っている深い傷―――それが何なのか位、奏にも推測はできる。“佐野”という名を口にした蕾夏の声が、何故あんなに硬くて苦しそうだったのかも、その推測で説明がつく。だからこそ―――耐え難い痛みが、体の奥底からじわじわと奏を苛む。そのうち、ではなく、今、この瞬間にも―――後悔のあまりに、気が変になりそうだ。
「…もう少し時間を置けば、会う時間も作れると思う。それまで待て」
一気に顔色を失う奏に、瑞樹はそう言って聞かせた。そんな瑞樹の様子に、奏は少なからず違和感を覚え、思わず瑞樹の顔をまじまじと見つめた。
「あんた―――なんで今日、そんなにトーンが柔らかいんだよ」
「え?」
「この前は、今にもぶっ殺しそうな勢いだったのに―――サラ・ヴィットの話聞いて、同情してるとか?」
特に柔らかくした覚えもない瑞樹は、そう言われてちょっと目を丸くしたが、
「―――同情、か」
その言葉に、何故か、苦笑気味の笑みを浮かべた。
「確かに―――同族意識は、ちょっとあるかもな」
同族意識。
奏の話の何にそれを感じたのか―――瑞樹は何も説明してくれはしなかった。
ただ、その言葉を聞いた奏は、さっき瑞樹が見せた寂しげな目の意味を、本能に限りなく近い部分で、なんとなく理解できた気がした。
***
『累君は、どんな反応だったの?』
蕾夏が差し出したメモを受け取った瑞樹は、その下の空白に返答を書き記した。
『青い顔して、ずっと黙ってたらしい。ショックだったんだろう』
それを見て、蕾夏の眉が心配そうに寄せられる。人の心配をしている場合じゃないだろうに―――そもそも、奏から聞いた話は、まだ蕾夏にするつもりはなかったのだ。
僅かのタイミングで、瑞樹が帰宅する前に目を覚ましてしまった蕾夏は、何かいつもと違う瑞樹の様子に気づいて、どこへ行っていたのかとしつこく訊ねた。しらを切り通すにも限度があり、ついに瑞樹は根負けして喋ってしまったのだ。奏の名を出して大丈夫なのか、それが一番心配だったが、蕾夏は最初こそ顔色を僅かに変えたが、あとは平然としていた。そんなことより、内容の方に衝撃を受けているようだ。
『でも、本当に時田さんが話した通りなのかな。私は、サラさんの立場に立てば、また違う話になる気がするけど』
『たとえば、どんな?』
『今回のポスターの話も、ただの自己満足のためなのかな。奏君と接点が持ちたかった、ってことも考えられない?』
『あのサラ・ヴィットが、そんな殊勝なこと考えるか?』
『そりゃあ、HALはサラさんに対して悪印象しかないから…。でも、やっぱりお母さんだもの。そう思っても不思議じゃないよ?』
『母親にも、いろいろあるだろ』
瑞樹が書いた言葉に、蕾夏はハッとしたように表情を曇らせた。
少し俯いた蕾夏が、メモ帳に何かを書きかける。が、うまく言葉にならなかったのか、2文字ほど書いて、ぐちゃぐちゃとその文字を乱雑に塗りつぶしてしまった。
「ごめん…」
文字の代わりに、言葉でそう呟く。瑞樹は苦笑すると、メモを受け取りながら、蕾夏の頭を軽く撫でた。
『でも、俺も、時田さんが話してない真実があると思ってる』
そう書いて差し出すと、蕾夏の目が丸くなった。
「どうして?」
瑞樹を見上げ、当然のようにそう訊ねる蕾夏に、瑞樹は困ったような顔をするしかなかった。
『いや、うまく、説明はできないけど』
説明は、できない。
ただ―――自分が、時田なら。そう考えた時、やはり納得ができない。
奏と累には、徹底的にサラに愛想を尽かし、すっかり辟易しているような風に話をしているが…本当にそうだろうか?
あの写真。時田が撮った、20歳前後のサラ・ヴィット。…あんな写真を撮った相手を、たった一度裏切られただけで、永遠に憎むなんて、きっとできない。
もしも蕾夏が自分を裏切ったら―――何十回、何百回裏切られても、憎めないと思う。それが運命だと諦めながらも、やっぱりこの目が追うのは、蕾夏の姿だと思う。撮りたい―――その欲求には勝てない。本能が求めるのは、蕾夏だけだから。
時田にとってのサラも、そうなのではないだろうか。でなければ、あの写真の説明がつかない。
時田は、今もまだ、サラに与えられた傷を引きずっている。そして―――サラに対する想いも、引きずっている。…そんな気がする。
だとすれば、その本音を隠したままでの奏や累への説明は、100パーセント真実を表しているとは限らない。真実の極一部―――見えない部分は、きっとある。多分それは、暴いてはいけない部分―――時田とサラの秘密なのだろう。
「私も“VITT”の撮影、出たいな…」
フロアベッドの上に膝を抱えた蕾夏が、唐突に、そんなことを呟く。
「瑞樹はきっと止めるだろうけど…その場で見てみたい。瑞樹が、どんな風に奏君を撮るのか」
「……」
「…撮ってあげてね。奏君のこと」
顔を上げた蕾夏は、真っ直ぐな眼差しで瑞樹を見つめた。
「瑞樹が奏君を撮って、私もそれに最後まで立ち会えれば―――何か1つ、超えられる気がするの。奏君も、瑞樹も、私も。うまく説明できないけど…そんな気がするの。だから、お願い」
どんな予感を覚えて、蕾夏がそんなことを言うのか、瑞樹にもよくわからなかった。
ただ、蕾夏の目があまりにも真剣で、あまりにも真っ直ぐだったので―――撮りたくない、と思いながらも、瑞樹は思わず、蕾夏の言葉に頷いてしまっていた。
***
明けた月曜日は、何事もなく過ぎていった。
瑞樹と蕾夏は、いつも通り時田のオフィスに出勤し、プロラボからあがった写真の選定を行ったり、書類を作成したり、印刷会社との打ち合わせに同席したりした。
時田は当然、奏が瑞樹に全て話したことを知っているだろう。が…彼は、何も言わなかった。瑞樹もまた、何も時田には言わない―――“VITT”の件も、時田とサラの件も、瑞樹はあくまで第三者だ。答えは、奏や時田が出せば、それでいい。それは蕾夏も同じ考えだった。
一方の奏は、さっそくマネージャーに、土曜日に行われるポスター撮りをなんとか他のモデルに差し替えられないか、と申し入れた。当然、と言えば当然だが、マネージャーには一笑に付されただけだった。
“VITT”社に直談判に行く、と言ったら、後頭部を思い切り叩かれ、そんなことができないよう、昼日中からスポーツジムに放り込まれてしまった。マネージャーが目を光らせる中、スポーツジムのフルコースをこなす羽目になり、帰宅する頃にはくたくただった。
部屋に帰ると、“VITT”の件は、あっという間に頭から抜け落ちる。その代わりに頭を占めるのは、昨日聞いた蕾夏のこと。そのことを考え始めると、奏の頭の中にはもう余裕など1パーセントもなくなってしまう。
だから、カレンからかかってきた電話にも、うわの空に近い状態で対応してしまった。
『えー、1日スポーツジム? じゃあ、あれって累君だったのかな』
「…あぁ? 何が?」
『今日の午後、見かけたのよ。奏らしき人物が歩いてるの。トラファルガー広場の辺だったかな。髪も短く整ってたし、眼鏡もかけてなかったから、てっきり奏かと思ったのに』
トラファルガー広場と言えば、“VITT”の本社に近い。そんなことをぼんやり思ったが、それを大事とは思わなかった。
「とにかく、オレじゃないよ。ってことは、累だろ」
『変じゃない? なんで眼鏡かけてなかったんだろう…』
「眼鏡が必須なのは、読み書きの時だけだよ。眼鏡なしで歩きたい気分だったんじゃない」
『そうかなぁ…』
どうにも納得のいかなそうな、カレンの声。
けれど奏は、それでもまだ、ことの真相には気づかずにいた。
***
サラがチェルシーにある自宅に到着したのは、辺りがすっかり暗くなった、夜10時過ぎだった。
夕方から降り始めた雨が、かなりの激しさになっていた。駐車場に車を停めたサラは、憂鬱な気分を吹き飛ばすような明るい花柄の傘を開いた。
1日中、バーミンガムに新規出店する店舗の打ち合わせに出ていて、一度も本社オフィスに顔が出せなかった。もっとも、こんなことは頻繁にある。ただ、オフィスに置いてきてしまった作成途中の書類が少々気になった。
このままオフィスに寄ればよかったかもしれない―――そんな事を考えながら玄関へと回り込んだサラは、次の瞬間、はっとして息を呑んだ。
「―――…誰?」
玄関ポーチのところに、誰かが座り込んでいた。
ずぶ濡れになった金色の髪、雨を含んで重たげに見えるオフホワイトのシャツ―――見覚えのある背格好。
まさか、と思いながら、声をかけてみた。
「奏―――…?」
膝を抱え、俯いていた顔が、パッと上げられる。
心細そうなその顔は、確かに奏と同じ顔。でも―――違う。奏ではない。
「累…あなた、累なの?」
目を丸くするサラを見上げた累は、しばし、戸惑ったような表情で彼女の顔を見つめていた。
やがてフワリと柔らかに微笑んだ累は、雨に打たれ続けた寒さのあまり、グラリと体が傾くのを、遠のく意識の中で感じた。
***
火曜日の朝、トーストを頬張っている最中の奏の元に、千里から電話が入った。
『累がいないのっ!』
珍しい位に切迫した声に、手にしていたトーストを落としてしまう。
「ちょ…ちょっと、落ち着けよ。…いないって、どこに?」
『昨日、淳也の会社で打ち合わせの予定があったのに、顔を出さなかったの。夜どおしフラットに電話かけ続けたけど、今朝までに一度も繋がらなかったわ。しかも、今日もやっぱり、打ち合わせの時間に顔を見せてないのよっ!』
さすがに、顔色が変わる。あの真面目な累が、何の連絡も入れずに打ち合わせをサボるなんて―――しかも、一晩、部屋に帰っていないなんて。
声を出せずにいると、受話器の向こうで、人の入れ替わる気配があった。
『奏?』
聞こえてきたのは、瑞樹の声だ。条件反射的に、背筋に緊張が走る。
「あ、ああ、オレ。…あんた、仕事は?」
『今日は時田さんが、出版社のイベントに招かれてエジンバラ行ってるから、俺達は休み』
「そ…っか。なあ、累がいないって…」
『…まぁ、もう24の大人だから、心配することはねーけど…お前、心あたりないか?』
「別に…」
ない、と言いかけて、昨日のカレンの電話が頭に甦った。
“VITT”本社の近所で、髪を切り、眼鏡を外して歩いていた、累―――その理由を考えた時、頭の中が一気に冷たくなった。
「―――あ…あいつ、サラ・ヴィットに会いに行ったのかも、昨日」
『…やっぱりか』
受話器の向こうの瑞樹が、軽く舌打ちをする。瑞樹の推理も、奏と同じだったらしい。
サラに会って、一体どうするつもりなのか―――そんなことは、多分、累自身にもわかっていないだろう。ただ、いてもたってもいられなかったのだ、累は。奏とは違い、彼はサラを知らない。だから、余計に。
「わかった。今日、大した仕事ないし、オレが累のこと探す。見つけたら必ず連絡入れるから」
『千里さんに、話していいか? 例のこと』
「……」
『話さねーと、説明つかないだろ』
できれば千里と淳也には、自分達は何も知らない、とずっと思っていて欲しかった。けれど、累が突然いなくなった事情を説明しようとしたら、やっぱり誤魔化し切るのは難しい。
「…いい。なるべくショック受けないように話してくれると助かるんだけど…」
『…また難しい注文を―――…っと!』
受話器の向こう側の音声が、一瞬乱れる。瑞樹の驚いたような声と入れ替わりに、千里の怒鳴り声が受話器から響いた。
『奏、いいわね!? 累を見つけたら、どこにも寄らずに、まっすぐにうちに来なさい! 2人とも逃げたら承知しないわよ!? 仕事を何だと思ってるの、全く…!』
「わ、わかった。わかったから、落ち着けって」
―――成田…うまく説明してくれるかな…。
仕事をさぼって行方をくらました段階で、この怒りよう―――真相を知った時、千里がどれほど怒るか、ちょっと不安になってきた。奏は、まだやかましく騒ぎたてる千里をなんとか宥め、無理矢理電話を終わらせた。
***
その朝、累は、夢を見ていた。
まだ日本にいた頃の夢―――小学校の高学年位だろうか。クラスの中で、2人だけ毛並みが全く違っていた、奏と累。苛められるのは、いつも累の方。奏は、累を苛める相手と喧嘩をし、先生に呼び出されて注意される役だった。
「お前らのハハオヤ、どっから見たって日本人じゃんかよー。チチオヤだってお前らよりガイジンぽくないぞ。お前ら、ほんとはあの家の子供じゃないんだろー」
“もらわれっ子”と囃し立てる連中に、累は何も言い返せなくて泣き、奏は真っ赤になって食ってかかった。
「あーそーだよっ! オレ達は父さんと母さんにもらわれて、今むちゃくちゃ幸せに暮らしてるんだよ! お前らよりずーっとずーっと百倍も千倍も幸せにな! 文句あっかっ!」
奏は、喧嘩が強かった。けれど、それでも敵わない場合もある。ズタボロになって家に帰ると、千里にまた怒鳴られた。
「もーっ、あんたはどうしてそう短気なのっ! いちいち馬鹿な連中の相手をするなって、何度言ったらわかるの!?」
「…だってあいつら、累のことブジョクするんだ。オレのことはブジョクされてもいいけど、累は頭いいし性格いいし、累のこと悪く言われるのは我慢できないんだっ」
「それでも、ちょっと位は我慢するのっ」
千里が傷口に塗る消毒薬に悲鳴を上げる奏を、累はいつも申し訳ない思いで眺めることしかできなかった。
サラは、奏があんな風に殴られたり叱られたりする場面を、一度でも想像したことがあっただろうか。
一度位はあった―――そう、信じたい。
今回、奏を自分の会社のモデルとして起用したのも、ただの自己満足のためだけじゃないと信じたい。奏との接点が欲しいと―――自分の子供と一緒に仕事がしたいという思いが、ほんの少しだけでもあったと、信じたい。
気づいた時には、サラに会うことを決めていた。
サラが何を思い、どんな人生を歩んできたのか、時田からだけではなく、サラ本人から聞いてみたい。そして、サラ・ヴィットという女性のほんの一部分でも理解したい―――累はそう、思ったのだ。
目が覚めると、枕元に、洗濯と乾燥の終わった服が置いてあった。
ぼんやりした頭のまま、着替える。時計を見ると、もう昼近い―――雨に濡れたせいで、熱でも出たのだろうか。頭の芯が、グラグラと不安定な感じがする。
改めて見回しても、やっぱり立派なゲストルームだ。実家で使っているものより数段上等な羽根布団、デザイナーに特注したらしき照明器具やカーテン、趣味のいいワードローブ―――家庭に恵まれず、金を稼ぐために必死になっていたかつてのサラ・ヴィットの面影は、この部屋にはない。努力したんだな、と感心する一方、どことなく寂しさを覚えた。
「―――気がついた?」
ノックの音と共に、上品な英語が耳に届いた。
慌てて入口のドアに目を移すと、そこに、高級そうなワインレッドのワンピースを着たサラが、マグカップ片手に立っていた。
時田に見せられた写真とは、まるで別人だ。微妙に整形手術をしたらしいが、そのせいだけではない気がする。
「…おはようございます」
ためらいがちに累が挨拶すると、サラは、唇の端を綺麗に上げてニッコリと微笑んだ。その笑みも、やっぱりあの写真とはかなり違う。
「奏と違って、礼儀正しいのね、累は」
「…奏だって礼儀はちゃんとしてます」
「あら。お兄ちゃん思いなのね」
むっとしたような顔をする累の様子に、サラは可笑しそうに笑った。
「下に来ない? もうすぐお昼だけど、朝食の用意もできるわよ」
「…あんまり食欲は…」
「熱が下がってないのかしら。オートミールもあるわよ。いかが?」
「…シリアルなら」
どうやら、シリアルもあるらしい。いらっしゃい、という風に累を促し、サラは先に立って部屋を出て行った。
サラの家は、一宮の実家と同じ位の大きさの2階建てらしい。大した大きさではないものの、一人暮らしにしては広すぎる位だろう。社長なのだし、メイドの1人や2人いるのかと思いきや、どうやらサラ1人のようだ。
廊下に飾られた絵も、案内されたダイニングルームの調度品も、みなセンスが良くて、高級なものばかりらしい。人を雇わない分、こういう所に金をかけているのかもしれない。
「シリアルとミルクでいい? 果物は?」
「いえ…いいです。あの―――今日、会社は?」
「私は社長よ。スケジュールの調整さえちゃんとつけられれば、好き勝手に休んでも文句なんて言わせないわ」
自信あり気な笑みと共にそう言ったサラは、慣れた手つきでシリアルとミルクの準備を始めた。
―――悪い人では、なさそうだけど…。
席につきながら、累はサラの背中を目で追い、そんなことを思った。
時田の話からは、もっと執念深そうな粘着質な性格をイメージしていた。けれど、機嫌よくシリアルの用意をしているサラは、カラッとしていて明るくて、そんな感じは少しもない。
本当の顔は、どんな顔なのだろう―――シリアルとミルクを累の前に置き、気を遣わせないためか、またマグカップを持ってリビングへと移動してしまうサラを見送りながら、累の頭はだんだん混乱していった。
「―――ご馳走様でした」
結局、シリアルもミルクも全て平らげた累は、気まずそうな表情を浮かべて、ドアの間からリビングの中を覗き込んだ。
サラは、高級そうな皮製のソファに身を沈めて、クラシック音楽を聴いていた。手にはまだマグカップを持っている。それなりの時間が経っているのに、まだ中身があるのだろうか。
サラは、累の方に目を向けると、テーブルの上を指差した。
「眼鏡。危うく洗濯機で回しちゃうところだったわ」
テーブルの上に、シャツの胸ポケットに入れておいた縁なしの眼鏡が、丁寧に置かれていた。
「あ…ありがとうございます」
「わざわざ眼鏡を外して、奏のフリしてうちの本社に行ったそうね。社長の家を教えてくれ、って」
「……」
「意外に大胆ね。双子とはいえ、自分以外の人間になりすますなんて」
ニッ、と笑うサラの視線を避け、累は眼鏡を手にとり、また胸ポケットに収めた。いつものように眼鏡をかけてもよかったのだろうが、こうしていた方が、奏のように勇気が持てそうな気がする。
「とりあえず、かけて」
サラに促され、累はサラの向かい側のソファに腰を下ろした。上質のスプリングなのか、座った感触は柔らかいのに、体が完全には沈み込まない。適度な座り心地だった。
「まずは私から質問させて」
累が落ち着くのを待って、サラは脚を組みなおし、累を真正面から見据えた。
「あなたがここに来たってことは―――つまり、全部知ってるってこと? あなたも、奏も」
「―――はい。全部聞きました。郁から」
幾分低めの声で累がそう答えると、サラは、やっぱり、という風に、諦めたような大きなため息をついた。
後ろで結い上げた髪を解き、軽く頭を振る。すると、肘あたりまである緩やかな曲線を描く見事なブロンドヘアが、するりとサラの肩に落ちてかかった。その髪を何度か手で梳きながら、サラはチラリと累の方に目をやった。
「…で? あなたは、どう思ったのかしら?」
「―――郁が可哀想だって思いました」
「ふぅん…郁夫の口から語られる私は、相当残酷無比な女だったようね」
くっ、と笑うと、サラは手にしたマグカップに口をつけた。微かな香りから、それがコーヒーらしいことを、累は悟った。
「…郁が可哀想、ってのは、昔の話じゃなくて、今のことです」
綺麗に整えられたサラの眉が、そのセリフにやや上がる。
「今?」
「僕には…あなたの郁に対する思いは、愛とか恋じゃなく、ただの“執念”に見えて仕方なくて―――あなたと関わるたび、過去の傷と向き合わなきゃならない郁が、可哀想に思えたんです」
「―――“執念”、ね」
微かに口の端を歪めたサラは、手にしていたマグカップをテーブルに置き、髪を大きく掻き上げた。
「執念…執念、か。そうね。もう、そう呼んだ方がふさわしいのかもしれない。これだけ長い期間になるとね。45にもなって、いまだに20歳の頃の恋愛が忘れられないなんて、世間に知れたら笑われるわね。それでなくてもサラ・ヴィットは、あれだけの美貌を持っているのに男の噂ひとつ耳にしない、って、ゴシップ記者達から気味悪がられている女なんだから」
「…本当に、郁以外にいないんですか?」
「いないわよ」
サラはきっぱりと言い切り、さっき同様、口の端を綺麗に上げた笑い方をした。
「パトリック・ウェルシュの話も聞いた?」
「…はい」
「確かに彼とは体の関係は持ったけれど、心なんてこれっぽっちも許してなかった。知らない土地で生きていかなくちゃいけなくて、有名になってからは周囲は敵だらけで、気づけば彼に縋るしかなくなって堕落してた部分はある。でも、彼に対して恋愛感情なんて微塵も感じたことなかった。私が生涯で“愛してた”って言えるのは、郁夫ひとりよ。昔も今もね」
「―――…」
「こんな女に愛されて、郁夫は可哀想?」
ますます笑みを深めるサラに、累は、うろたえたように視線を膝の上に落とした。
わからない―――そんなことは。
男女のそういったドロドロした感情など、小説の上でしか読んだことがない。実体験なんて当然したことがない。交際経験は一応あるが、それはサラの言葉からイメージする嵐のような激しい恋心とは遠くかけ離れたものだった。友達の延長線上―――好きな女の子の中で、一番好き。そんな感じの。
―――奏は、どうだろう。
ふと、自分と同じ顔をしたもう1人のことを考えた時、一瞬、胸の奥にヒヤリとしたものを感じた。
土曜日の夜、時田が言った言葉―――“諦められたのかな? 藤井さんのことは”。
知らなかった。奏が、蕾夏のことをそんな目で見ていたなんて。というより、瑞樹という存在があるから、累から見れば蕾夏は恋愛対象外だった。それは奏にとっても同じだろうと思っていたのに…。
奏なら、わかるだろうか。サラの気持ちが。
蕾夏という、初めから手に入らないとわかっている女性を好きになってしまった奏ならば、サラが言うような、身を焦がさんばかりの熱情を、ちゃんと理解できるだろうか。
奏を傷つけたくなくて乗り込んできたけれど―――むしろ奏の方が、サラの愛すべき部分を見つけられるのかもしれない。そう思うと、人生経験があまりにも薄っぺらな自分が、酷く情けなく思えた。
「…じゃあ…ひとつ、聞かせて下さい」
視線を落としたまま、累はなんとか声を絞り出した。
「今回、“VITT”のポスターに、郁と奏を起用したのは―――郁が頑として撮ろうとしない自分の代わりに、昔の自分を彷彿させる奏を撮らせたかった。そのためのお膳立てを、母親である自分がして、満足したかった。…ただ、それだけですか?」
「……」
サラの視線が、額の辺りに突き刺さる気がする。
今、彼女は、どんな目で自分を見ているのだろう。
なんて質問をするんだ、と呆れた目をしているのだろうか。それとも、冷血漢のような言われ方をして憤った目をしているのだろうか。それとも…自分の心を見透かされて、焦ったような目をしているのだろうか。知りたい。でも―――顔を上げて、確かめるのが怖い。
暫く、沈黙が続く。その間、累はずっと視線を落としたままだった。やがて口を開いたサラの声は、これまでで一番、冷やかに聞こえた。
「―――あなたは、何が言いたいの?」
「…えっ」
「何を期待して、ここに来たの?」
思わず目を上げた先には、無表情に自分を見つめているサラの姿があった。
感情が読み取れない―――まるで、あの“サンドラ・ローズ”のような顔。美しい顔なのに、何故か背筋が寒くなった。
「…別に、期待なんて…」
そう、累が言いかけた時。
玄関のベルが、ジリジリジリ、とけたたましく鳴った。
***
玄関のドアを開けたサラは、作り笑いだと一目でわかる、完璧な笑みを浮かべていた。
「あら。こんにちは、奏。ショーの時以来ね」
「…来てるんだろ。累の奴」
挨拶抜きにサラを睨んだ奏は、半ばサラを押しのけるようにして玄関の内側に入った。
サラがクライアントだと言う意識は、この瞬間、どこかに追いやられていた。“VITT”の受付の美人も、普段そつのない笑顔で話しかけてくる奏が、近寄れば斬るぞ、というムードで「昨日オレが来ただろ!? 何話してた!?」と妙なことを訊ねるものだから、すっかり怯えてしまっていた。少なくとも“VITT”社内での一宮
奏のイメージは、確実にダウンしただろう。
初めて訪れたサラの家の中をずかずかと歩き回った奏は、リビングルームの入口から、玄関の様子を窺っている累を見つけ、慌てたように駆け寄った。
「累!」
一方の累は、突然現われた奏に、唖然としたような顔をしていた。
「奏…! なんでここに…」
「バカ、お前を迎えに来たに決まってんだろ? とにかく帰ろうぜ」
「えっ…、あ、いや、まだ話が」
まだ、一番聞きたかった話を聞いていない。奏に腕を掴まれた累は、思わず慌てたような顔をした。
「話なんて、もういいだろ。ほら」
「いや、でも」
「あんまりなんじゃないの? 奏」
累の腕を引っ張って歩き出した奏に、まだ玄関に佇んでいたサラは、腕組みをして半分睨むような目をした。
「雨に打たれて熱出してたこの子を介抱したってのに、その態度?」
「…お世話かけました」
その点は、やはりお礼を言うべきなのだろう。不貞腐れた声で小さく礼を述べた奏は、累を引っ張ったまま、サラの目の前を通り過ぎようとした。
しかし。
「―――累」
サラが、鋭い声音で、目の前を通り過ぎようとした累を制した。
累だけでなく、奏の足も止まる。サラの顔を振り返ると、彼女はさっき同様、感情の読めない笑みを浮かべて2人を見ていた。
「さっきの話だけど…あなたが言った通りよ。それ以上の理由も、それ以下の理由もない」
「……」
「もしあなたが、私に何かを期待してここに来たのなら、勘違いもいいところよ。確かに私は、あなた達2人を産んだ。けれどね、産んだという事実以上に“捨てた”という事実があるのを忘れないで」
―――なんて言い草。
捨てた本人が、こんなに偉そうに言うなんて。奏は眉を顰め、累は表情を強張らせた。けれど、サラの笑みは一切崩れない。
「私はあなた達の母ではあるけど“お母さん”なんかじゃない―――私には郁夫は必要だけど、“夫”や“子供”は要らないの。家族なんて…昔から、私とは縁のない世界よ。あの時の私の選択は、許されることではないけれど、間違いじゃなかったと断言できる。もっとも…それで郁夫を失うことになったのは、大きな痛手だったけれどね」
「……」
「これで、あなたが知りたかったことの答えになってるかしら?」
「…はい…、わかり…ました」
震えそうになる声をなんとか制御し、累は一言、それだけ答えた。何かを振り切るように踵を返し、奏より先に玄関のドアを開ける。奏もそれを見て、慌てて累に続いて玄関の外へと出た。
もう、何も話すことなどない―――今のサラの言葉で、サラの考え方は、もう十分わかったから。軽い失望感が、累の中を侵食しつつあった。
「奏」
そのまま立ち去ろうとしたところ、背後から、サラの声が追ってきた。
つい、条件反射のように2人が振り返ると、サラが玄関のドアを大きく開けて、身を乗り出していた。その顔は、先ほどの氷でできた薔薇みたいな笑顔が消え、仕事の現場でよく見せる笑顔を湛えていた。
「土曜日の撮影―――降りるなんて言わないでよ?」
サラが、軽く首を傾げるようにすると、ブロンドの美しい髪が、外から流れ込む風に、ふわりと靡く。奏と累は、よく似た感じに眉をひそめ、そんなサラの顔を凝視した。
話の内容のせいでも、彼女の表情の変化のせいでもない。2人同時に、あることに偶然、気がついてしまったから。
「仮にもプロでしょう? 私情で降りたりしたら、ソウ・イチミヤの名が泣くわ」
そう言って釘を刺すサラに、奏は言葉での返事はせず、僅かに口の端をつり上げる笑みを作って応えた。
累も微かに微笑む。そして2人は、ほぼ同時に踵を返し、今度こそ二度と振り返らずに、サラの家を後にした。
2人共、気づいていた。
日頃の笑顔に戻って玄関のドアノブを握るサラの手が、何かに耐えるかのように、微かに震えていたことに。
そしてそれが、サラのどんな心理を表しているのか、ということに。
けれど2人は、サラのあの震える手には、気づかなかったフリをした。
それでいい―――奏も、累も、何故かそう思った。
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