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wild shot ―

 

 一宮家で奏と累を待っていたのは、千里の愛の鞭だった。

 2人が家に入るなり、すっかり血の気を失くした顔をした千里は、まず累の左頬を平手打ちした。続いて何故か、奏の左頬も。
 身長160センチに満たない千里の力では、ひっぱたいたところで大した痛手にはならない。が、その勢いと迫力のあまり、2人は勿論のこと、千里に付き添っていた瑞樹までもがフリーズしてしまった。
 「全くもう…この、バカ息子っ!」
 「ご、ごめんなさい…」
 叩かれた頬を押さえて思わず累が謝ると、千里の目から涙が溢れた。
 「2人揃ってバカよ、あんた達は…っ! 知ってたなら…知りたいんなら、どうして私に何も言わないのっ! あんた達が知りたいなら、何だって教えてやる覚悟はできてたのに…なのに、私に内緒にしてるばかりか、あの女の家に勝手に乗り込むなんて…!」
 千里の言葉が、そこで詰まる。
 耐え切れなくなったように、千里は並んで立つ奏と累の体に腕を回し、2人一度に抱きしめた。
 幼い頃は、時々こうして千里に2人一緒に抱きしめられた。兄弟喧嘩した後の仲直りの時とか、母の日に小遣いを出しあって千里に花をプレゼントした時に。あの当時は、小柄だった2人は千里の腕の中にちゃんと収まったものだったが、今は千里が精一杯両腕を伸ばしても、なんとか2人にしがみついている、という程度にしかならない。
 「―――…よ…よかった…」
 ため息に乗せるように、千里が呟く。
 「よかった、2人とも、帰ってきてくれて…」
 「…何言ってんだよ。帰ってこない訳ないだろ…?」
 思わず眉をひそめて奏が言うと、千里は首を横に振り、更にぎゅっときつく2人を抱きしめた。その腕から、微かな震えが伝わってくる気がする。
 帰ってこない筈がない。2人にとっては、淳也と千里こそが両親なのだから。その位、千里だってわかっている筈だ。
 けれど…陽気な笑顔の裏で、千里はいつも怯えていたのだろうか。サラと2人の間にある、「血の繋がり」という自分は持ち得ないものの神秘に。

 あの時―――最後に振り返った時。一瞬の気の緩みが、サラの素顔を垣間見せた。
 自分には家族なんて無縁のもの。あの時の選択は間違っていなかった―――そう言い切ったサラの顔は、本音を包み隠した無表情な“サンドラ・ローズ”の微笑みだった。サンドラの仮面をとった後も、サラはそうやって生きてきた。後悔していたら、きっと生きていけないから。
 勿論、そう思う部分も確かにあるのだろう。サラがどれだけ努力しても、千里のような母親にはなれないし、夢はやはり捨てられない。けれど―――淳也と千里が作る家庭に、こんな家庭に生まれたかったと体を丸めて泣いたというサラが、家庭に憧れない訳がないのだ。
 ドアノブを握っていた震える手だけが、全ての仮面を脱ぎ捨てた、サラの本音。
 かつて時田が撮ったあの写真の中にいた、素顔のサラ・ヴィットが、あの時、あそこにいた。大きな夢と、ささやかな幸せの狭間で、ただ1人、時田だけに心を開いていたあの少女が。
 胸が痛む部分は、確かにある。
 でも―――彼女を救えるのは、もう自分達ではない。そして、自分達が帰るべき場所も、彼女の所ではない。そのことは、サラの素顔を垣間見る前も後も、変わらない事実だ。

 宥めるように千里の背中を叩いていた奏は、ふと視線を感じ、目を上げた。
 視線の主は、瑞樹だった。廊下の壁にもたれかかった彼は、奏と目が合うと、この前見せたのと同じ、どこか寂しげな微かな笑みを浮かべた。
 やはり、彼には何か、こんな顔をするような心の傷があるのかもしれない。そんなことをぼんやり思いつつも、奏はあることを思い出し、慌てて表情を引き締めた。
 「あ…、説明、サンキュ。助かった。大変だったよな、説明するの」
 言い難そうに奏が言うと、瑞樹は寂しげな笑みをひっこめ、代わりにいつもの相手を威圧するようなニヤリという笑いを浮かべた。
 「ああ。もの凄く苦労させられた」
 「……」
 ―――嘘でもいいから、もうちょい遠慮した物言いしろよ。
 つい、眉がつりあがってしまう。
 一方の累も、瑞樹が千里に事情を説明してくれたらしいと察し、慌てて千里を引き剥がして、ぺこりと頭を下げた。
 「あ、あの、成田さん。お世話かけました」
 「累の場合、俺より淳也さんに謝った方がいいんじゃねぇの」
 ちょっと呆れたような顔で瑞樹がそう言うと、累の顔がさーっと蒼褪めた。
 「う、うわっ、そうだ、打ち合わせ!」
 「―――そうよ。打ち合わせよ」
 そう言ってむくり、と顔を上げた千里は、累が千里に貸そうと思って手にしていたハンカチをその手からひったくり、目元に当てた。
 「しかも2日連続無断欠席よ。真面目さがあんたの一番の個性だったのに、全く…。後で淳也と編集長にお詫びの電話入れなさい」
 「…わ…わかった…」
 ますます蒼褪める累の様子に、奏まで気分が焦ってくる。そんな2人を見て、瑞樹は、密かに笑いを噛み殺した。
 が、その時。

 「千里さーん…?」
 階段を下りてくる足音と声に、累以外の3人の表情が、瞬時に強張る。
 「もう泣き止んだ? 累君達から、何か連絡―――…」
 先ほどまで千里と瑞樹がいたリビングの方の様子を窺いながら階段を下りてきた蕾夏は、人の気配に気づいたのか、言葉を切り、玄関の方に目を向けた。
 瞬間。
 蕾夏の足が、階段をあと数段残した状態で、ピタリと止まった。
 少し心配そうな表情を浮かべていた顔から表情が消え、見開かれた目が、僅かに揺れる。開きかけた唇は、一瞬、何も言葉を発しないままに引き結ばれそうになった。
 けれど蕾夏は、階段の手すりに添えた手を放したと思ったら、何故か、いつものようにフワリと微笑んだ。
 10日ぶりに見る、蕾夏の笑み―――奏は、全身が総毛立つのを感じた。
 「…あ…良かった。2人とも、ちゃんと帰ってきたんだね」
 「―――…」

 呼吸が、止まりそうになる。
 ―――なんで…、なんで、そんな風に笑えるんだ?
 どんな報復を受けても当然だと、覚悟していた。勿論、こんな形での再会は予想していなかったけれど―――でも、どんな場面であっても、奏の想像の中の蕾夏は、奏に笑顔など見せてはくれない。その体を無理矢理奪おうとした奏を、蔑み、憎み、睨みつける蕾夏しか想像できなかった。
 こんな風に、当たり前のように笑う蕾夏など、一度も想像したことがない。
 こんな場面だというのに―――奏は、立場も忘れて、その笑顔に魅入ってしまいそうになった。

 「目一杯、千里さんに叱られてね。千里さん、凄く泣いてたんだから」
 ニコリ、と笑みを強めると、蕾夏はくるりと踵を返し、2階へと戻り始めてしまった。彼女の動きに合わせて、髪がふわっと靡くのを見て、奏はやっと我に返った。
 「―――…っ、蕾夏っ!」
 「奏! やめなさい」
 思わず蕾夏の後を追おうとした奏を、咄嗟にその腕を掴んで千里が引き止めた。そのすぐ脇をすり抜け、瑞樹が蕾夏の後を素早く追った。
 「辛いだろうけど、今はまだそっとしておいてやって。お願いだから」
 囁くような千里の声に、奏は大きく目を見開き、千里を振り返った。
 奏の腕を掴む千里の目は、悲しげに細められている。奏を責めるでもなく、怒るでもなく、ただ悲しそうだった。
 ―――知っている。
 千里は、蕾夏を傷つけた相手が奏だと気づいている。奏はそのことを、千里の目と言葉から直感した。
 形容しがたい空気が流れる中、事情を知らない累だけが、愕然とした表情をする奏の様子に不安を覚えながら、困惑した顔で佇んでいた。

***

 蕾夏の手がドアを開けた瞬間に、瑞樹は蕾夏に追いついた。
 背後からでも、今蕾夏がどんな顔をしているかは想像がつく。瑞樹は、蕾夏の肩を引き寄せると、素早く部屋の中に入ってドアを閉めた。
 後ろ手に鍵を閉めると同時に、下ろされたままの蕾夏の手を掴む。案の定、その手は、指が手のひらに食い込みかねないほどに固く握り締められていた。これ以上握り締め過ぎたら、爪が割れた痕をまた痛めてしまう。
 瑞樹は、蕾夏にこちらを向かせて、蒼白のその顔を自分の胸に押し付けるようにして抱きしめた。
 「蕾夏、もういい、もういいから」
 聞こえないとはわかっていても、声をかけずにはいられない。まだ強張ったままの背中を更に強く掻き抱き、声をかけ続ける。
 「もういい、我慢するな、もう俺しかいないから、我慢しなくていいって」
 音としてでなくても、その思いは通じたのか、腕の中の蕾夏がビクッ、と反応し、それまで詰めていた息を鋭く吸い込んだ。
 「―――…ッ、あ…!」
 息を吐き出すと同時に、襲ってくるものに必死に耐えていた拳から力が抜ける。弛緩した両手は、縋るように瑞樹のシャツの胸元を掴んだ。
 呼吸困難を起こしたように、せわしなく吸って吐いて吸って吐いてを繰り返す。吸い込む息も、吐き出す息も、全て震えていた。強張っていた体から力が抜けていくに従って、体の奥に飲み込んでいた震えが、肩に、背中に、徐々に広がっていく。
 そうして、呼吸が普通の速度に落ち着き始めた時、抑え込まれていた涙がやっと蕾夏の目に浮かんだ。
 涙が、すっと頬を伝う。
 それで、感情を解放する道筋ができたのだろうか。蕾夏は、それから暫くの間、瑞樹にしがみついたまま、声を上げずに泣き続けた。


 それから30分後。疲れ果ててぐったりした体を引きずって、2人はロフトに上がっていた。
 どういう訳か、ロンドンに来てからずっと、2人にとってはこの狭いロフトが一番落ち着ける場所になっている。フロアベッドに2人並んで座り、天窓から見える空を見上げる時が、一番安心できる気がして。
 今日の空は、晴れとも曇りともつかない、微妙な空。ぼんやりとそれを見上げていた蕾夏は、ことん、と、頭を瑞樹の肩に乗せた。瑞樹もそれを感じて、蕾夏の肩に手を回し、指に触れた髪を無意識のうちに指に絡めた。
 言葉もなく、ただ、空を見ている。
 それは、心をリセットするための時間。
 ゆっくりゆっくり、混乱や苦痛をそぎ落とす。何も考えず、ただ空を見上げることで、余計なことを考えすぎて限界ギリギリになってしまった頭を、まっさらな状態に戻していく。
 「―――かえって、良かったかもしれない。今日、会っておいて」
 やっと口を開いた蕾夏が言ったのは、そんな言葉だった。
 「撮影現場でいきなり会うよりは、この方が良かった。そう思わない?」
 確かに、それは思う。けれど瑞樹は、その言葉に眉をひそめるしかなかった。
 胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出した瑞樹は、短い一言を書いた。

 『やっぱりお前は、撮影には来ない方がいい』

 そう言われるのは、覚悟していたのだろうか。メモを見せられても、蕾夏はあまり表情を変えなかった。
 数秒、その文字を見つめた蕾夏は、目を伏せてゆっくりと首を横に振った。瑞樹にしても、その反応は予想していた。再度メモの空欄に、言葉を足す。

 『奏と向き合う機会は、ちゃんと別にまた設けるから』

 それでも蕾夏は、また首を横に振った。
 ため息をついた瑞樹は、またメモ帳に言葉を書き足そうとしたが、蕾夏が瑞樹の手首を軽く掴み、それを止めた。
 瑞樹の肩に乗せていた頭を起こした蕾夏は、瑞樹の手首を握ったまま、瑞樹の方に向き直るように座り直し、その目をまっすぐに見つめた。その目は、思わず息を呑むほどに真摯で、そこにはもう動揺や混乱は残っていない。
 「ねえ、瑞樹。瑞樹にとって、今、この世で一番撮りたくない相手って、誰?」
 「……」
 「私の自惚れでなければ、それってきっと、奏君だよね」
 少し動揺したように瞳を揺らした瑞樹だったが、蕾夏の言うことは、誤魔化しようもない事実だ。瑞樹は静かに、目だけで頷いた。
 「だったら―――もしも今、瑞樹がその思いを乗り越えて奏君を撮ることができたら…倖さんの目に、勝てないかな」
 その言葉に、瑞樹の肩に、思わず力が入る。
 「ファインダー越しに人と目が合わせられないってトラウマ―――今更、倖さん本人で克服するなんて無理だし、そんな残酷なこと、瑞樹にはさせたくない。でも…奏君が撮れたら、奏君の目をちゃんと見て、奏君自身が持っているものを感じ取ってそれを撮ることができたら…他のどんな被写体のポートレートも、撮れると思わない?」

 確かに―――そうかもしれない。
 被写体の中に蕾夏を探して撮るあの方法は、本来間違っている。被写体本人の持つものを冷静に感じ取り、その瞬間を探し出して、撮る。それが正しい撮り方。それは、瑞樹もわかっている。
 ただ、今の瑞樹にそれができないのは―――母の目が、邪魔をするから。
 あの時、吐き気がするほどリアルに感じ取ってしまった、母の憎悪、怯え、不安―――被写体から何かを感じ取ろうとした時、必ずあの時の感覚が甦る。感じ取る前に目を逸らさなくては、と、瑞樹の防衛本能が瑞樹の目を被写体から逸らさせる。だから、探せない。被写体本人の持つものを。
 けれど―――もし、奏を撮ることができたら。
 おそらく瑞樹に対しては、マイナスな感情をより多く抱いている相手。そして瑞樹自身も、やはりマイナスな感情をより多く抱く相手。ファインダー越しに目が合えば、奏が瑞樹に対して持っている暗い感情と嫌でも向き合わなくてはいけないだろう。
 そんな奏の目を、もしも、ちゃんと見ることができたら―――目を逸らさなくてはというあの焦燥感に打ち勝って、奏の持つ魅力を、ちゃんとその中に見つけ出すことができたら。
 勝てるかも、しれない。あの日、ファインダー越しに見てしまった、母の目に。

 自分を見つめる瑞樹の目に、瑞樹が自分の言葉に心を動かされたと感じ取ったのだろう。怖いほど真剣だった蕾夏の表情が、幾分和らいだ。
 「私も…奏君と、ちゃんと向き合いたい。許したいとか報復したいとか、そういうんじゃない。何故ああなったのか―――私の、奏君の何がいけなくてああなったのか、ちゃんと知りたい。奏君の話が聞きたいの。それができたら…私も、佐野君に勝てるかもしれない」
 「……」
 「瑞樹が見つめられた目なら、きっと見つめ返せる。だから、お願い―――ちゃんと現場で見させて。瑞樹がどんな奏君を撮るのかを」
 瑞樹の手首を握る蕾夏の手が、少し、強くなる。
 瑞樹は、しばし蕾夏の目をじっと見据えていたが、やがて口元を僅かにほころばせ、蕾夏に手を放すよう促した。
 サラサラと素早くメモに文字を書き、蕾夏につきつける。

 『気分悪くなってボロボロになって、かっこ悪いとこ見せるだけになるかもしれないけど、いいか?』

 それを見た蕾夏は、小さな声をたてて笑った。
 「いいよ。そういう時のためにも、私が傍にいるんじゃない。瑞樹がボロボロになったら、私がちゃんと抱きしめてあげる」
 人前でベタベタするのが苦手な蕾夏が、時田や奏を前にそんなことができるのだろうか。第一、蕾夏が瑞樹を抱きしめても、さっきの千里同様、蕾夏が瑞樹に抱きついているようにしか見えないだろう―――そんな場面を想像して、瑞樹は思わず苦笑した。
 「それに、私だって自信ない。今日ほどじゃなくても、またおかしくなるかもしれないもの」
 ちょっと眉を寄せる蕾夏に、瑞樹は、新しいページに文字を書きつけ、それを差し出した。

 『そういう時のためにも、俺が傍にいるんだろ?』

 それを見た蕾夏は、一瞬キョトンとし、それから照れたような、でも嬉しそうな笑みを浮かべた。

***

 「―――奏…、大丈夫?」
 うな垂れたまま隣を歩く金色の髪をチラリと見遣り、累は、心配そうに訊ねた。
 「…ああ。大丈夫」
 本当は、大丈夫などではなかった。
 累と一緒に淳也の会社へ向かいながらも、奏の頭の中では、ついさっき起きた出来事がぐるぐる渦巻いていた。まさか、母が気づいていたなんて―――消えてなくなりたい位、いたたまれない気分だ。

 千里は奏を責めなかった。
 『奏は本来、女の子とは楽しく付き合いたい方だし、そうできる条件も揃ってる。女の子襲って欲求を満たすようなタイプじゃない―――ちゃんとわかってるわ。なのにそうできなかったのは―――苦しかったからでしょう? 諦めるしかない相手を、死ぬほど欲しくなってしまったから。人が人を好きになってしまうのは、仕方のないことよ。私には責められない。その方法が間違っていたのは悲しいけれど―――あんたを裁けるのは、私でも瑞樹でもない。蕾夏だけよ』
 だから、待ちなさい―――千里はそう言って、奏の頭を撫でた。
 不覚にも、泣きそうになってしまった。今抱えている苦しさを、誰かにわかってもらえた…ただ、それだけで。

 「…奏。ひとつ、訊いてもいいかな」
 少し先の地面に目線を落とした累が、ぽつんと呟くように口を開く。顔を上げた奏は、そんな累の横顔を見て、少し首を傾げた。
 「なに?」
 「藤井さんのこと」
 「―――何があったか、なんて話は、いくら累にでもできないぞ」
 千里だって、累には聞かれないよう、その話は場所を変えてした位なのだ。思わず奏が眉を顰めると、累はちょっと笑って首を振った。
 「違うよ。そんなんじゃない。…つまりその…なんでなのかな、と思って」
 「なんで、って、何が?」
 「成田さんがいるってわかってて、どうして藤井さんを好きになったの?」
 こちらに目を向ける累に、奏は呆気にとられたような顔をした。
 「どうして…って…、そんなの、仕方ないだろ」
 「え?」
 「好きになるのに、相手の恋人の有無なんて関係ないよ。そりゃ、恋人がいなけりゃ自分が報われるチャンスが多くなるから、嬉しいけど」
 「藤井さんが、成田さんより奏を好きになるかもしれない、って思ってた?」
 「…いや、全然。でも―――報われないってわかってても、止められない場合もあるんだよ」
 そんな、自分でも馬鹿だと思えるような感情が自分の中に眠っていたなんて、奏自身、ずっと知らなかったけれど。
 気づいてしまったのだから、認めるしかない。傷つかない相手だけを好きになれるのなら、世の中には失恋も不倫も心中も存在しない筈だ。報われなくても止められない感情は、誰もが持っている危険要素―――そのことが、今の奏には、実感を伴ってよくわかる。
 「理屈じゃ説明つかないことだらけだよ、恋愛なんて―――馬鹿だよな、ほんと」
 自嘲気味に呟く奏を見つめていた累は、どこか寂しげに目を細めると、ゆっくりと視線を逸らした。
 「―――やっぱり奏の方が、あの人のこと、僕よりわかってあげられたかもな…」
 「え?」
 落ち込んだような声で、累が呟いた言葉。
 サラと累のやりとりを知らない奏が、その言葉の意味を知る由もなかった。


***


 運命の土曜日。奏は、“VITT”本社への殴りこみも、仮病によるエスケープも果たせず、結局は大人しくスタジオ入りしていた。
 「マネージャーさんが、つきっきりだねぇ」
 スタジオのメイクルームでヘアメイクに髪を整えられているところに、時田が顔を覗かせた。
 奏のすぐ傍には、奏のマネージャーが怖い顔をして座っているので、純粋たる英国ビジネスマンの彼には会話の内容がわからないよう、日本語で会話を進める。
 「よほど奏君が逃げ出すと疑ってるんだろうな」
 「…当たり。昨日からうちのフラットに泊まりこんで見張ってるんだぜ」
 そりゃ凄い、と、くすくす笑う時田を、奏はむっとしたように、鏡越しに睨んだ。
 本当に来たくなかった。今回ばかりは。
 累をサラの家から連れ戻してから今日までの3日間、あらゆる手段で抵抗を試みたが、全てこの隣にいるマネージャーに阻まれた。このマネージャーが抱えているモデルは、何も奏ひとりではない。“VITT”はメンズもレディースも手がけているブランドだから、事務所側も将来所属モデルを使ってもらえるよう、今回の仕事は是が非でも成功させたいのだろう。事務所には、とても世話になっている。だから奏は、渋々ながらもサラに対する意地をなんとか引っ込めた。
 それに―――時田から聞かされていたから。瑞樹が奏を撮ることを、ちゃんと了承してくれた、と。
 今、世界で一番撮りたくないであろう被写体を、彼は撮ると言っている。…ならば、自分も逃げる訳にはいかない。
 「…なあ、郁。昨日の打ち合わせの話…」
 奏が、少し表情を硬くしてそう言いかけると、鏡の中の時田の顔が、その内容を察して少し沈んだ表情になった。
 「ああ―――あれか。“今回も前回同様、彼の無機質さとノーブルな外見を活かしたショットでお願いします”」
 “VITT”側担当者が出した要望だった。何食わぬ顔で「はい」と時田は答えていたが、彼の真意がそこにあるとは思えない。
 「郁は、どう思う?」
 奏が眉を寄せると、時田はちょっと考えた後、僅かに微笑んで答えた。
 「向こうのニーズはニーズだ。後はもう、僕がどうこう言う立場じゃないよ。好きにしたらいい」
 “奏君と成田君で決めればいい”。そうはっきり言えないのは、マネージャーやヘアメイクがいくら日本語がわからないと言っても、何がどうなって時田が撮らないことがバレないとも限らないからだ。
 奏も時田の言葉に、微かな笑みで応えた。しかし心の中では、まだ迷っていた。
 クライアントの求める自分を演じるのが、モデルとしての使命。それが、先輩モデル達から、常に言われ続けてきた言葉。
 けれど、“人間を撮ることで、人形を撮る無意味さをわからせてやる”―――あの瑞樹の言葉が、どうしても耳から離れなかった。


 1着目のスーツを着て撮影スタジオに入った奏は、そこに蕾夏の姿を見つけ、心臓が止まりそうになった。
 蕾夏は、踏み台に乗って、ライトの角度を微妙に調整していた。ファインダーを覗き込みながら手振りで指示する瑞樹に合わせて作業するその姿は、とても耳が聞こえていないようには思えない。
 声をかけそびれていたら、奏が入ってきた気配に気づいた瑞樹が、ファインダーから目を離し、振り向いた。
 「…契約破棄計画は失敗に終わったらしいな」
 ニヤリ、と笑う瑞樹に、奏は精一杯強がって笑みを返した。が、作業中の蕾夏は、まだそんな2人のやりとりに気づいていないようだ。聞こえていない、という事実を見せつけられ、せっかく浮かべた強気な笑みが、一瞬で強張ってしまった。
 瑞樹は、踏み台の上の蕾夏の腕のあたりをつつくと、背後を指差し、何か合図をした。やがて振り向いた蕾夏は、そこに奏の姿を認めると、一瞬戸惑いを見せながらも、僅かに口の端を上げて会釈した。
 ぐるりと見回すと、本来の主役である筈の時田がいない。
 「郁は? まだ外?」
 「いや。この部屋の奥に、簡易控え室あるだろ。そこで昼寝してる」
 「は…!? 昼寝!? 自分の仕事なのに」
 「俺達だけの方が撮りやすいから、って、頼んで休んでもらったんだ。別に時田さんが率先してさぼってる訳じゃねーよ」
 「瑞樹」
 ライトの調整を終えた蕾夏が、瑞樹のシャツの袖を軽く引っ張った。
 「ポジフィルム、3種類用意してあるけど、とりあえずどれでいく? 何本出しとけばいいかな」
 考えるように少し眉間に皺を寄せた瑞樹に、蕾夏が小さなメモ帳を差し出す。よく見ると、クリップのようなもので、Gパンのバックポケットに留めてあったようだ。瑞樹はそのメモに、胸ポケットにさしてあったボールペンで何か書きつけ、それを蕾夏に渡した。
 「…ん、OK。わかった」
 ニコッと笑った蕾夏は、メモを手に、スタジオの奥の作業台へと小走りに走って行った。
 初めて目の当たりにする音のない状況でのやりとりに、大変だな、などと声はかけられなかった。その状況を生み出した原因の大半は、自分にあるのだから。奏は、居心地が悪そうに視線を彷徨わせると、ぶらぶらとホリゾントの方へと歩き出した。
 「あんた、昨日の打ち合わせの話、郁から聞いた?」
 やはりそれが気になる。奏が訊ねると、瑞樹は、三脚の具合をチェックしながらサラリと答えた。
 「ああ、聞いた。また氷の人形やれって話だろ。無視しろ」
 「無視しろ、って―――前日に念押しされたのに、全然違うオレ撮ったら、郁が何て言われると思ってんだよ」
 「その時田さんが、俺の好きに撮れって言ってるんだから、問題ないだろ」
 「だからって…それに、あんただって、“人形”の方が撮りやすいだろ。…今回は」
 口ではそう言ったものの、奏の本音はそうではない。
 瑞樹が楽だから、ではない。むしろ自分が“人形”を演じる方が楽だから、こんな事を言うのだ。
 生のままの自分を、今、瑞樹が構えるカメラの前でむき出しにするのは、怖い。この体の中には、瑞樹に対するいろんな感情が渦巻いている。嫉妬、羨望、後悔、不安、恐怖―――そんな状態の自分を撮られたら、一体どんな自分が写るか、想像するだけで怖い。
 それに、ここには、蕾夏がいる。蕾夏の力をもってすれば、写真を通さなくとも、そういった奏のマイナスの感情を感じ取ってしまうかもしれない。手に入らない存在とわかっていても、蕾夏にこれ以上嫌われたくはなかった。
 三脚のチェックを終えた瑞樹は、そんな奏を返り見、軽く口の端を上げて笑った。
 「―――なるほど。人間のお前を撮られるのは、そんなに怖い訳か」
 「…っ、そ、そんなんじゃねーよっ」
 見事に図星をさされて、奏はつい顔を赤らめてしまった。わかりやすい反応に、瑞樹はくっと笑って、肩を揺らした。
 「お前、ほんとに感情に正直な顔してるよな」
 「……」
 「そんな奴が、一生氷の人形演じ続けて、何が楽しいんだよ」
 「―――必要とされてないオレなんか撮ってもらっても、意味ないんだよ。売れる自分を撮ってもらえなきゃ、モデルやってる意味ないだろ」
 「ハ…、さすがは“サンドラ・ローズ”の血を引いてるな。同じ事をしようって訳だ」
 ドクン、と心臓が大きな音をたてた。
 頭の中が冷たくなる。そうだ―――サラは、時田が撮ったあの笑顔を捨てて、もっと売れる“サンドラ・ローズ”の仮面を被った。クール・ビューティーがもて囃されたあの時代、純粋で子供っぽさを残したあの笑顔より、確実に売れる顔だったから。そこにいたのは、氷でできた綺麗な薔薇の花―――息づかいの感じられない、まるで奏が演じている“Frosty Beauty”そのもの。
 奏の唇が、微かにわななく。何故、こうも煽るのか―――今日の瑞樹は、腹立たしいまでに好戦的だ。逃げ道を少しも与えてくれない。どこまでも奏を追い詰めてくる。
 「―――奏君」
 ふいに、視界の外から、蕾夏の声が聞こえ、心臓が再び跳ねた。
 声のした方に目を向けると、作業台の傍に立った蕾夏が、つかつかと奏の傍まで歩み寄ってきた。そして、僅か1メートルにも満たない距離まで近づくと、奏の目を真っ直ぐに見上げてきた。
 心の中を見透かされてしまいそうな、黒曜石のような黒い瞳―――半年前、この同じスタジオで奏を見上げてきた時の目と、それは全く同じ目だった。
 魅せられる―――ゾクリと体を震わすその目に、奏は思わず唾を飲み込んだ。
 「今日は、カメラの前で絶対に嘘つかないで」
 「―――…」
 「瑞樹に“人形”なんて撮らせない。“人間”の奏君を見せて。少しでも嘘ついて演じようとしたら、絶対許さないから」
 許さない。
 その一言に、奏の表情が強張った。あの事件のことを言っている訳ではないとわかっていても、蕾夏の口からこの言葉が出ると、どうしても緊張してしまう。
 少し顔を蒼褪めさせる奏を見上げ、蕾夏は、強気な笑みを浮かべてみせた。
 「サラ・ヴィットのゲームの駒になるのは嫌なんでしょう? …だったら、もう“Frosty Beauty”なんてやめればいい。クライアントの…サラの意向なんて無視すればいい。“サンドラ・ローズ”とは似ても似つかない奏君を瑞樹に見つけてもらって、サラを出し抜いてやればいいじゃない」
 「……」
 今の瑞樹との会話が聞こえてもいないのに―――2人のムードから、それを察知したのだろうか。
 奏にとって、一番痛い部分を的確についてくる。こんなことを言われて、心がグラつかない訳がない。

 ―――なんて女だ。
 奏は、初めて会った時同様、蕾夏の鋭さに背筋が寒くなるのを感じた。

***

 奏が撮影中にかけるCDを選んでいる隙に、瑞樹は蕾夏の手を軽く握ってみた。
 微かに震えている手―――瑞樹が、少し心配げに目を上げると、蕾夏は、大丈夫、とでも言うように微笑んでみせた。
 「―――瑞樹も、信じて。ファインダーの向こうに何を見ても、ちゃんと私、ここにいるから」
 だから、大丈夫。
 蕾夏が奏に啖呵を切れたのも、きっと同じ理由。もし正気を失いかけても、そこに瑞樹がいるから、きっと助けてくれる―――そう信じたから。
 了解の意味を込めてニッ、と笑った瑞樹は、少し体を屈めて、奏に気づかれないよう素早く蕾夏の唇を盗んだ。途端、蕾夏の顔が、耳まで一気に赤くなる。
 「バカッ!」と、小さな声で抗議する蕾夏に勝者の笑みを返すと、瑞樹は、三脚に固定していたニコンのカメラを取り外し始めた。スナップ撮影を得意としているので、固定で撮るより手持ちの方が安心する。最終的にどうするかは別として、最初は手持ちで、動き回って撮ろう―――そう思ったのだ。
 カメラが三脚から外れると同時に、スタジオ内に、けたたましいハードロックが響いた。ギョッとして振り向くと、CDをセットし終えた奏が、どこか満足げな表情でホリゾントへと向かってくるところだった。
 「…お前らしい選曲だよな」
 「だろ?」
 “VITT”的には、こんなギラギラしたロックなどより、クラシックでもかけて撮ってもらいたいところなのだろうが―――連中が求める綺麗な人形を撮る気など、微塵もない。瑞樹はカメラを取り外し、奏にスタンバイするよう手振りで指示した。
 チラリ、と、壁際に退避している蕾夏の様子を窺うと、蕾夏はまだ頬が赤く染まっていた。それを誤魔化すみたいに、少し俯き加減でいる。その様子に一瞬口元をほころばせた瑞樹は、ホリゾントに向き直ると、その口元を再び引き締めた。

 大きく、息を吐く。
 大丈夫―――何を見ても、何を感じ取っても、蕾夏が傍にいる。
 もし、母の目にかけられた呪縛に負けたとしても…もう、一人きりで、海晴や父に気取られないようにしながらもがく必要はない。倒れこめる腕が、ちゃんと差し出されているから。
 何を感じても、見つけてみせる―――クライアントに“Frosty Beauty”など忘れさせる、奏自身の持っている“何か”を。

 「―――じゃ、始めるか」
 瑞樹が目を上げると、奏は、急に緊張したように顔を強張らせた。
 「…オレ、どうすればいい?」
 「プロだろ? 好きにしろ」
 突き放すように言うと、奏はむっとしたように眉を上げた。それを見届け、瑞樹はおもむろにカメラを構えた。
 ファインダーを覗くと、そこに、“VITT”の秋ものの新作スーツを着こなした奏が、少しピンボケ気味に佇んでいる。ピントをゆっくりと合わせていくと、不機嫌そうに眉を上げていた奏の顔が、持っている闘争心を条件反射的に隠していくのがわかった。
 まだ、奏の目と、目が合わない。
 「―――まだ、ネコ被ってるだろ。そんなもんか? お前の中身は」
 「……」
 「目線が俺を通り越してる。最初から逃げてんなよ。そんなんで勝てるか? え?」
 逃げている、と言われて、奏の頭に血が上ったようだ。カッとしたように僅かに頬を紅潮させると、奏は、半ば睨むようにして、レンズ越しの瑞樹の目を見返した。
 ファインダー越しに、瑞樹の目と、奏の目が合った。
 途端―――瑞樹の背中に、冷たいものが一気に走った。
 全身に鳥肌が立つような、冷たい感触。胃の辺りから、強烈な焦燥感がせり上がってくる。大音量のハードロックが部屋中に響き渡っている筈なのに、何ひとつ耳に届かない。ただ自分の心臓の音だけが、うるさい位に耳のすぐ傍で鳴っていた。
 手が、震えそうになる。が、瑞樹はぎりっと奥歯を噛みしめ、その感触に耐えた。まだフレームの中の奏は、本気になっていない。ここで負けていては、捕まえる前に、こっちがダウンしてしまう。
 「まだまだ―――もっと本性現せよ」
 「…な…んだよ、本性って」
 「お前が持ってるエネルギーは、そんなもんじゃねーだろ。もっと本気で睨みつけろ」
 奏は、必死に隠そうとしている。瑞樹には見せたくない、蕾夏には見せたくない、自分の醜い部分。気を抜けば、いつもの人形の顔に戻ってしまう。そういう訓練が出来てしまっているから。
 だから、冷静になる隙など、与えない。瑞樹はさらに、目の前の獲物を追い詰めていった。
 「隠そうとするな。目の前にいるのは、お前が“こいつさえいなければ”とずっと思ってる奴だろ」
 煽るような瑞樹のセリフに、奏はますます眉を上げる。瑞樹も、せり上がってくる焦燥感に負けそうになる。が、まだ止める訳にはいかない。何ひとつ奏の持つ感情をフィルムに写し取ることができないまま終われば、あの呪縛から解放される日は来ないのだから。
 早く、曝け出せ。
 隠そうとしているものを、お前が持ってるあの呆れるほど激しい部分を、カメラの前に曝け出せ―――瑞樹は、呼吸を整えるようにゆっくりと息を吸い込むと、最大限、残酷な奴になりきることにした。
 「俺がいるせいで、お前は、どうしても欲しいもんが手に入らない―――悔しいだろ。ムカついてるよな。だったらそれをぶつけてこいよ」
 「―――…っ!」
 その言葉に反応した奏は、ぎゅっと拳を固めると、闘争心剥き出しのあの目を、とうとう瑞樹に向けてきた。

 感じたのは、怒りでも憎悪でもなかった。
 燃え上がるような、対抗意識―――越えられない目の前の存在に対する悔しさと、それでも挑もうとする激しい闘争心。
 あの時―――瑞樹に、フリースロー勝負を挑んできた時の、奏の鋭い視線。あれと同じ闘争心をはらんだその目に、瑞樹はゾクリとした高揚感を覚えた。
 強烈な、オーラを感じる―――それは、炎みたいに燃え上がる、鮮やかな“赤”。その色は、奏が胸元のポケットに入れているハンカチーフの色と、偶然にも同じ色だった。
 まだ、心臓は耳元でどくどく音をたてている。けれど、今放っている奏の激しいオーラをフィルムに収めなくては、という意志が、それを押しのけた。瑞樹は息を詰め、最初の1枚のシャッターを切った。

 まさかこの場面で撮られるとは、思ってもみなかったのだろう。瑞樹がシャッターを切ったのに気づくと同時に、奏はびっくりしたように目を大きく見開いた。
 「は―――!? と、撮ったのかよっ!」
 悲鳴に近い声をあげる奏に、ファインダーから目を離した瑞樹は、ニッ、と笑ってみせた。その笑みの裏で、うるさかった心音が少しずつ遠ざかり、頭に響くようなエレキとドラムの音が次第に戻り始めた。

 ―――大丈夫。
 少なくとも1つ、感じ取ることができた。
 間違いなく、今の奏が持っているもの―――決してプラスばかりではない感情。目を逸らすことなく、ちゃんと拾い上げることができた。
 あとは、これを重ねていくだけ―――探し続ければいい。撮りたいと思う瞬間を。

 「…あんた、怒ってるオレを撮りたかったのかよ」
 再びカメラを構えた瑞樹を軽く睨み、奏が吐き捨てるように言った。
 「まあ、そんなとこ」
 「変な奴…普通、怒ってる顔なんて撮らないだろ。今の写真、絶対“VITT”のお偉方が弾くぞ」
 「かもな。―――仕事、忘れんなよ。ただ不貞腐れてつっ立ってるだけじゃ、撮る気起こらねぇよ」
 「あーそーだよなっ!」
 ぷいっとそっぽを向いた奏は、まるで、本当に不貞腐れたガキ大将のような顔をしていた。その横顔がいかにも奏らしくて、瑞樹はまたシャッターを切った。今度は、奏も気づかなかったらしい。
 「やっぱりあんた、どっかおかしいよ。マネージャーもクライアントも、お前はもっと感情を抑えろ、ってずっとオレに言い続けてきたのに―――ぶち切れる寸前のオレが撮りたいなんて…」
 そう言いながら、奏はそっぽを向いたまま、金色の前髪を弄った。こんな時でも、さすがはモデルというべきか、ポケットに片手を突っ込んで軽く背中を反らせたそのポーズは、ポスターのように様になっている。瑞樹はそのカットもフィルムに収めた。
 「感情抑えてる奏なんて、奏じゃねーよ。そう言われたことも、一度はあるだろ?」
 瑞樹がそう言うと、奏はチラリと目をカメラに向けた。視線がぶつかるが、今度はあの焦燥感は襲ってこない。普段、ファインダー越しではなく奏と目が合った時と同じ感じしかしなかった。
 奏が、前髪を弄っていた指で髪を掻き上げたところで、シャッターを切る。奏は少し首を傾げるようにして考えていたが、やがて、何かを思い出したのか、ちょっと口元をほころばせた。
 「あー…、あったな。累に言われた。この仕事始めた頃のポートフォリオ見て、“まるで記念撮影だ、笑ったり怒ったり、感情豊かな奏でないと、なんだか奏に見えないよ”って」
 「…なるほど。さすがは弟。よく見てる」
 「はは…、でも、感情的なオレは、クライアント的にはアウトだってさ」
 「俺的には、人形状態のお前の方がアウトだ」
 「…この短気すぎる性格で、あいつがあんな目に遭ったんだとしても?」
 まるで話の流れのついでのように飛び出した言葉。
 けれど、奏は、それを口にする僅かに前から、その思いを表すように、微妙に屈折した笑いを浮かべていた。多分奏は、あの事件以来、“感情的”という言葉に対してずっとこの思いを抱えていたのだろう。
 瑞樹は、カメラを構えたまま、口元だけに微かに笑みを浮かべた。
 「お前のやった事は、許せない。けど―――すぐカッとなるお前の単純さは、俺は嫌いじゃない」
 「―――…」
 「累を庇って、ガキ大将と喧嘩してた子供の頃のお前は、俺と重なる部分がある。自分達より名声を選んだサラをどうしても許せない部分も、何も見えなくなるほどに蕾夏を必要としてるとこも…お前は、俺と重なる部分がある。だから―――俺はお前のこと、完全には憎みきれない。結構気に入ってる」
 ファインダー越しに視線を結んだ奏の目が、動揺したように揺れた。

 すぐに感情が表に出てしまう、奏。
 だから、瑞樹は気づいていた―――奏が、蕾夏だけではなく、瑞樹のことも意識していることを。
 それは、もしかしたら、瑞樹と時田をどこかで重ねていただけなのかもしれないけれど―――奏にはずっと、どこか瑞樹を慕っているような部分があった。関心を引きたそうな、自分の方を向いて欲しがっているような素振りをしていた。

 あの事件の前も後も、奏のその部分は、全く変わっていない。
 だから、瑞樹の言葉を聞いた奏が、ぽたん、と涙を零した時、瑞樹にはその理由が、よくわかった。
 カメラを見つめたまま、声もなく涙を零す奏は、あの激しさとは対極にあるけれど、やっぱり、いかにも奏らしい。
 静かだけれど、氷の人形とは違う、生身の体温を感じる美しさ―――瑞樹はそれを感じ取り、静かにシャッターを切った。


***


 「―――お疲れさま」
 誰もいなくなった撮影スタジオの片隅で、椅子に腰掛けた瑞樹が作業台に頭を乗せるようにしてぐったりしていると、頭上から蕾夏が声をかけてきた。
 半年前と、ほとんど同じ光景―――瑞樹は顔を上げると、蕾夏が差し出した缶コーヒーを受け取り、柔らかく微笑んだ。
 蕾夏もそれに応えて微笑むと、半年前にやったのと同じように、瑞樹の頭をぽんぽん、と撫でた。くすぐったい感触―――けれど、蕾夏の手が触れたところから、ゆっくりと緊張が解けていく感じがする。
 「奏君とマネージャーさん、私が気がつく前に、帰っちゃったみたい。…私の方は、また次回に持ち越しだね」
 撮影後、ほとんど奏と接触する機会のなかった蕾夏は、そう言ってちょっと舌を出した。
 確かに、完全な解決は、次回に持ち越した形になる。でも、今日はこれでも十分だろう。撮影の最初から最後まで、蕾夏はちゃんと傍で撮影を見守ることができた。フラッシュバックを起こすことも、気が動転することもなく。
 そんな思いを伝えるように、瑞樹は、頭の上に乗せられている蕾夏の手を、一度軽く握った。そこに瑞樹のねぎらいの気持ちを汲み取ったのか、蕾夏はフワリと嬉しそうな笑みを浮かべ、瑞樹の隣に腰を下ろした。
 「それで―――どうだった? 仕事で撮る、2度目のポートレートは」
 蕾夏はそう言って軽く首を傾げ、作業台の上にメモ帳を差し出した。
 どうだったか―――言葉で説明するのは、少々難しい気分だ。瑞樹は、少し考えた後、ボールペンで、短い一言を綴った。

 『案外、悪くない』

 そっけないながらも、今の気分を端的に表した一言。
 それを見て、蕾夏は小さな笑い声を立てた。


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