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xxx ―

 

 「こちらの要望はお伝えした筈ですよ」
 “VITT”側の担当者が、眼鏡の奥の目を三角に尖らせて声を荒げた。
 と言っても、その担当者は、おそらくは瑞樹とさして年齢の変わらない、アジア系の女性である。声を荒げた、と言っても、高い声が甲高い声に変わっただけだ。
 瑞樹が彼女に会うのはこれが最初だが、時田が「今日は日本語禁止だよ。下手なこと喋ってると、バレるからね」と最初に釘を刺したところを見ると、目の前のこの女性は、多少日本語をたしなむのかもしれない。
 他にも、もう少し年齢が上らしき白人男性が2人ほどいるのだが、このプロジェクトのリーダーは彼女らしい。会議室に通されて10分経つが、挨拶以外の言葉を、彼らはまだ一言も発していない。
 「前日にもお話しましたし、一昨日の現場でもお伝えした筈ですよね?」
 「ええ、伺いました」
 少しも悪びれずにサラリと答える時田に、彼女の眉が余計につり上がる。
 「全てご承知の上で、これですか?」
 彼女が目で指し示す先には、大量のプリントの山。一昨日撮った、奏の写真をプリントしたものだ。時田はそれを一瞥し、より一層ニッコリと笑った。
 「より魅力的なものが撮れた自信はありますよ」
 あんたは1枚も撮ってねーだろ、と、瑞樹は心の中で愚痴りながら、隣に座る時田の笑顔を呆れたように眺めた。
 この半年、一緒に仕事をして実感したのは、時田の笑顔は信用してはならない、ということだ。温厚そうな笑顔で、かなりシビアな金額交渉をしている場面も目にしてきた。こう見えて、結構な修羅場を経験してきた人なのだから、笑顔で嘘八百並べ立てる位は朝飯前なのかもしれない。
 “VITT”側の担当者は、そんな時田の笑顔に騙されまいとするように、目つきを更に鋭くした。
 「確かに、この写真は魅力的だと私も思います。けどですね、社長の要望は…」
 「その社長要望ですが」
 笑顔を崩さない時田が、言葉を挟んだ。
 「元々私は、社長ご自身から直に依頼されてこの仕事を引き受けました。契約提示の際、社長は“撮影の全権を委ねる”、“好きなように撮っていい”とおっしゃってました。だから私は、好きなように撮らせてもらいました。確かに私は“VITT”と契約書を交わしてはいますが、あくまでクライアントは社長のサラ・ヴィットです。彼女の口から直接依頼内容の変更を告げられたのなら別ですが、代理人権限すらないあなた方の指示に従わねばならない道理は全くありませんし、そんなことは契約書のどこにも書いてありません。違いますか?」
 「―――…」
 立て板に水―――まるで、深夜にやっているテレビショッピングのバイヤーの口上のような、全くよどみない口調。瑞樹も、時田の英語を全て正しく聞き取れた自信はないが、とにかく、酷く強気な発言をしているのだけは確かだ。
 仕事の依頼を、ふざけんな、の一言で蹴った自分も相当なものだが、時田はそれ以上かもしれない―――唖然とする担当者に、いまだ笑みを返し続けている時田の横顔に、瑞樹は込み上げる笑いを密かに噛み殺した。
 「とにかく、社長にその写真を、一度全部見ていただいて下さい。その上で、社長ご自身の口からお話を伺います」
 きっぱりとそう言い切る時田に、誰も反論はできなかった。


 “VITT”の本社を出たら、途端にどっと疲れが出た。
 「…時田さんも、結構強気な時は強気ですね」
 息をつき、髪をぐしゃりと掻き上げながら瑞樹が目を向けると、時田はしれっとした口調で返した。
 「僕は少なくとも7回は断ったんだ、この仕事。それをごり押ししたのはサラなんだから、こっちも精一杯わがまま言わせてもらわないとね」
 「確かに―――でも、なんで俺を連れてったんですか」
 「ああ、成田君を連れて行ったのは、あの担当者の彼女への牽制だよ」
 「は?」
 「彼女も年頃の女性だからね。若くて見映えのいい男性が同席してれば、いつものヒステリックモードも控え気味になるって訳だ。いや、今日はほんとに楽だったよ、大人しくて」
 「……」
 涼しい顔ですたすた歩く時田を、瑞樹は、なんとも言えない気分で眺めた。今の話を聞いたら、余計に疲れてきた気がする。
 「―――時田さん、“真夜中のカウボーイ”って映画、知ってますか」
 「ん? ああ、あったねぇ。ダスティン・ホフマンが、まだ若いのにいい演技してたなぁ。それがどうかしたかい?」
 「…いえ」
 ダスティン・ホフマンに利用されて、次々女を食い物にしていったジョン・ヴォイドの気分は、もしかしたら今の自分の気分に近いのかもしれない―――そんな事がチラリと頭を掠めたが、それは言わないでおいた。口にしたらもっと疲れそうだ。
 「で―――結局、サラ・ヴィットと直接対決ですか」
 「…まあね。大丈夫。彼女はああ見えて、写真を見るセンスは抜群なんだ。前回の写真だって、僕が撮ったんじゃないと気づいたのは彼女ひとりだよ。“Frosty Beauty”と、君が撮った奏君、どちらが“VITT”に利益をもたらすかは、彼女ならちゃんと見極められる」
 そう口にする時田の穏やかな笑みを見た瑞樹は、少し躊躇した後、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
 「―――なるほど。別に、憎みきってる訳じゃないんだ」
 「え?」
 「サラ・ヴィットのこと」
 時田の横顔が、僅かに強張った。
 笑顔を消した時田が、瑞樹の方に顔を向けた。そこには、いつも余裕あり気に笑みを湛えている“師匠”の顔はない。瑞樹もまた、この件に関しては、時田を師として見るつもりはなかった。
 「奏に、見せてもらいました。25年前のサラ・ヴィットの写真。…時田さんの本能が、唯一撮りたいと思うのは、あれですよね」
 「…ああ。そうだよ。君にとっての藤井さんが、僕にとってのサラだった。でも、もう…」
 「あのサラはもう欠片も残ってないと、本気で思ってますか」
 その答えがノーであることは、時田の目を見れば明らかだ。時田は、既に見つけているのだ。女王を気取り、常に高慢な態度を崩さないあのサラ・ヴィットの中に、あの写真の中にいた、純粋に真っ直ぐに時田だけを求めているサラが、今も確かに存在していることを。
 「撮ればいいのに」
 「……」
 「俺なら、撮りたいと心が叫ぶものから、目を逸らし続けるなんてできない。たとえ裏切られた傷が痛くても、それが蕾夏だったら―――絶対、諦められない。多少の事には目を瞑ってでも、手に入れる方を選ぶと思う」
 「…君の年齢になっていれば、そうかもしれないね」
 時田は、そう言って寂しげに笑うと、視線を斜め下に落とした。
 「今の僕が裏切られたのなら、君と同じ事を思うかもしれない。人間、綺麗な感情だけを優先して生きられるものではないことを、今の僕なら十分知っている。サラのバックボーンを知れば、あの時サラが選んだ道も無理からぬことと理解できるし、その選択を彼女が後悔していることもちゃんとわかる。彼女を許して受け入れるのは、とても簡単なことだ。でも…」
 言葉を切った時田の足が、止まる。
 「でも―――今、僕が許してしまったら…彼女を失って、死すら考えた20歳の僕が、可哀想だろう?」
 「―――…」
 「許すのが、怖い―――まだ子供すぎて、真っ直ぐすぎて、あまりのショックにカメラを構えることすらできなくなった僕の、あの10年の歳月は何だったのかと…そう思ってしまいそうで、怖いんだ。情けない話だけどね。…君にはこんな考え方、馬鹿げてるとしか見えないかな」

 ―――馬鹿げている、どころか。
 去年の夏の終わりに自分が口にしたセリフと瓜二つな時田の言葉に、瑞樹は震撼していた。
 病気で弱ってしまった母を目にしたら、許してしまいそうな気がした。許せれば、和解することができれば、もしかしたら精神的には楽になったのかもしれない。でも―――嫌だった。
 もし許してしまったら、あの時母に殺されかけた8歳の自分が可哀想だと思った。
 感情をすべて押し殺し、何も感じられなくなってただ惰性で生き続けていた、蕾夏に会うまでの十数年。その長い時間は一体何だったのかと、後悔してしまうのが嫌だった。
 あまりに傷が深いと―――その傷を癒さずに過ごした期間があまりに長いと、人は、もう普通の治し方を受け入れることすらできなくなるものなのかもしれない。そんな思いを抱えた人間が、偶然、こうして出会うなんて―――瑞樹は、不思議な運命のようなものを感じながら、自嘲気味な笑みを口元に浮かべる時田を見つめた。

 「―――いえ…、凄くよく、わかります」
 瑞樹が、呟くようにそう答えると、時田は顔を上げ、意外そうな目を瑞樹に向けた。その目に応えるように、瑞樹は静かな笑みを時田に返した。
 「許す必要はないと思う。でも、撮らずにはいられない衝動を持ってる人種なら―――プロのカメラマンなら、その思いを超えてでも撮るべきものは、あるかもしれない」
 「……」
 「恋愛感情とは別の次元で、やっぱり“撮らずにはいられないもの”はあるって、俺は思うから」
 瑞樹は、そう言って微かに笑うと、時田の言葉を待たずして、先にゆっくりと歩き出した。
 そんな瑞樹を驚いたような顔で見送った時田は、やがて苦笑を浮かべ、
 「…ああ―――そうかもしれないな」
 と、小さく呟いた。


***


 夕食の終わったダイニングで、テーブルの上に広げた写真を眺めながら、蕾夏は口元をほころばせていた。
 広げていたのは、昨日“VITT”本社に届けたのと同じ、“VITT”秋冬コレクション用の、瑞樹が撮った奏の写真だ。事情を知る羽目になった千里が、「瑞樹が撮った奏なら、是非見てみたい」と懇願したので、急遽昨日プロラボに焼き増しを頼んでおいて、今日持ち帰ったのだ。
 大量の写真の中には、いろんな奏が散りばめられていた。
 寂しげに目を伏せた顔、闘志剥き出しでカメラを睨む顔、全身で可笑しさを表現して笑っている姿、箱の上で片膝を抱えて物思いにふけっている姿、自信満々の笑みを口元に浮かべて「いかにもモデルがしそうな立ち方」を実演してみせている姿―――そして、ただ静かに、涙を零す姿。
 徹底的に怒らせて、最初の壁を突き崩した後は、あっという間だった。奏は、持っている感情の全てを、カメラの前で曝け出していた。そして、そんな豊かな感情は、ともすれば冷たいだけで終わってしまう奏の綺麗すぎる顔を、人間味のある魅力的な顔に変えていた。
 綺麗―――蕾夏は、素直にそう思えた。
 正直、今、奏ともう一度顔を合わせたら、以前のように平然としていられるか、と言われたら「無理」と答えるしかないだろう。笑顔は作れるが、きっと普段よりぎこちなくなる。奏との距離は、以前よりも離れているに違いない。でも―――もう、フラッシュバックは起こさない自信はある。
 撮影の間中、ちゃんと奏を見つめることができたから。瑞樹に対して敵愾心をあらわにする奏も、時折不安げに蕾夏に目を向ける奏も、ずっと見守ることができた。佐野の時のように、その存在自体を視界の外に追いやったりしなかった。だからきっと、向き合える―――逃げることなく。
 もう、大丈夫。
 ―――なのに。
 何故、音は、戻ってこないのだろう。

 『瑞樹に“やっぱり郁夫が見込むだけの才能があるわね”って、後で伝えておいて』

 ぼんやりしかけた蕾夏の視界に、そう書かれたメモが割り込んできた。
 慌てて顔を上げると、千里がそのメモを差し出して、ニコリと笑っていた。
 千里はどうやら、写真が気に入ったようだ。見終わった写真をテーブルに置く淳也も、微笑んでいるところを見ると、そこに写る奏に満足しているのだろう。蕾夏は千里に笑みを返し、大きく頷いておいた。当の瑞樹は、自分が撮った奏をその両親に見られるなんてむず痒くて耐えられない、と言って、2階に上がってしまったのだ。
 2人とも、全て見終えたらしい。蕾夏は、テーブル一杯に広げてしまった写真を、丁寧に集めていくつかの束にまとめ始めた。すると、今度は淳也の方からメモが差し出された。

 『耳の方の具合はどうだい?』

 テーブルの上でトントン、と写真を整えていた蕾夏の手が、ピタリ、と止まった。
 はっとして淳也の顔に目を向けると、淳也は、心底心配そうな目で蕾夏を見ていた。日頃、こういったことは千里に任せてしまい、自分では何も訊ねてこない淳也なのに…珍しいことだ。
 「…いえ…まだ、特に変わったところは」
 ためらいがちに蕾夏がそう答えると、淳也の表情が曇った。差し出したメモを引き寄せると、またそこに何かを書きつけた。

 『君だけでも先に日本に帰って、本格的な検査を受けた方がいいんじゃないかな。実は、金曜日から日本支社に出張するんだ。よければ僕が連れてってあげるよ』

 書き慣れていないであろう日本語は、微妙に歪んだ形をしていた。それだけに、淳也が心から親身になって蕾夏のことを考えてくれているのがわかる。それがわかるからこそ、蕾夏は辛そうに、唇を噛んだ。

 『私も賛成よ。ご両親のところで、精神的にリラックスした状態で、本格的なカウンセリングを受けた方がいいと思う』

 千里もそんなメモを差し出す。が、勿論、文面は淳也には見せないようにしている。淳也は蕾夏の耳が聞こえない理由を、あくまでも「熱の後遺症」だと信じている。蕾夏だって、淳也に真実を知られたくはない。
 けれど―――真実を知られたくないのは、淳也だけではない。
 一番、知られたくない相手。それは、両親かもしれない。
 12年間、ずっと隠してきた。きっと異変には気づいていただろうに、両親は無理に聞き出そうとせず、いつも変わらない愛情を注いでくれた。こんな状態で戻れば、12年間ずっと騙し続けていたことを白状しなくてはならないだろう。それだけは、絶対にできない。
 2人が心配してくれるのは、嬉しい。けれど―――済まなそうに目を伏せると、蕾夏は静かに首を振った。
 「…ごめんなさい。淳也さんにも、千里さんにも、迷惑かけてると思う。でも、私―――…」
 いろんな言葉が、頭に浮かぶ。
 奏と話し合うまでは、時田との契約をまっとうするまでは、淳也から専属ライターとしての推薦を受けるための原稿を全て仕上げるまでは、瑞樹が納得のいく写真を撮るまでは―――帰れない。帰りたくない。
 けれど、最後に残ったのは、極シンプルで、一番本音に近い言葉だった。
 「―――私、瑞樹といたいの」
 目を上げた蕾夏は、正面に座る淳也と千里の目を、しっかりと見つめた。
 「瑞樹がここにいる限りは、私もここにいる―――お願い。わがままかもしれないけど…瑞樹と一緒にいさせて」
 真剣な眼差しでそう言う蕾夏に、淳也も千里も、うろたえたような顔をした。
 困ったように顔を見合わせた2人は、二言三言、言葉を交わした後、千里の方がメモにペンを走らせた。

 『私も淳也も、全然迷惑なんて感じてないわ。ただ、あなたが心配なのよ。離れるのは辛いかもしれないけど、少し我慢して、私より優秀な専門医に早く診てもらった方がいいわ。このままじゃ、せっかく見つけた夢だって実現できないでしょう?』

 千里より優秀なカウンセラーなどいるのだろうか―――あの瑞樹ですら、千里には心を許している部分があるというのに。カウンセラーは、相手に心を開かせるのが商売だ。その点千里は、瑞樹と蕾夏にとっては最高レベルのカウンセラーに間違いない。
 蕾夏は、ふわりと微笑むと、また首を横に振った。
 「もし、ずっとこのままだったら―――また、新しい夢を探すから、大丈夫」
 「……」
 「ごめんね、千里さん。…私、やっぱり、瑞樹と一緒にいること以上に大切なことって見つからないの」
 全てを悟ったような笑みでそう言う蕾夏に、淳也と千里は、もう何も言うことはできなかった。

***

 ―――ユアン・ウーピン指揮によるワイヤー・アクションは、“グリーン・デスティニー”で既に高い評価を得ていたが、今作では、その動きが見事に“マトリックス”という架空空間の非現実性をリアルに再現していて…

 ―――いやいやいや、それは、変。非現実性をリアルに、って、一体何? って言われちゃう。
 蕾夏は、今書きかけた部分を丸ごと消しゴムで消し去り、うーん、と唸りながら眉間に皺を寄せた。

 ―――ユアン・ウーピン指揮によるワイヤー・アクションは、カンフー映画というよりは“バーチャ・ファイター”などの格闘物アーケードゲームを彷彿とさせ…

 …彷彿とさせて―――どうなんだろう。
 実際にこの映画を瑞樹と一緒に観に行った時は、残業続きでヘロヘロな状態だった。でも、映画を観終わった2人は、その足でゲームセンターに行き、やったこともない格闘ゲームに1時間も興じてしまったのだ。その位、観ていて血が騒ぐ、というか、爽快、というか、現実にはあり得ない動きが、なんとも楽しくて快感だった。それを、わかりやすい言葉で、どう書けばいいのだろう?

 ―――…彷彿とさせる。観終わった後、ゲームセンターに飛び込みたくなること、間違いなし。

 「ああぁ、違う違う違う」
 何を書いてるんだ私は、と心の中でひとりごちた蕾夏は、レポート用紙を破り取り、ぐしゃぐしゃと丸めてゴミ箱に放り込んだ。
 頭を抱えて、うーん、とまた唸り始めた時、うなじに何か冷たいものが落ちてきた。ビックリした蕾夏は、飛び起きるような勢いで後ろを振り返った。
 見ればそこには、洗いざらしの髪をした瑞樹が、面白そうな顔をして立っていた。どうやら、うなじに落ちたのは、まだ濡れている髪から落ちた雫だったらしい。
 「い…っ、いつからそこにいるのっ!?」
 慌てふためいて蕾夏が叫ぶと、瑞樹はニヤリと笑って、右手の指を5本とも広げてみせた。
 「5分!? ちょ…ちょっとーっ! まさか、今のも読んでたの!?」
 顔が、カーッと熱くなる。あっという間に真っ赤になる蕾夏の顔を見て、瑞樹はついに吹き出し、傍らのベッドの上に倒れこんだ。笑い声が聞こえなくても、ゲラゲラ笑っているのは明らかだ。
 「ひっどーい! 人が気づいてないのをいいことに、勝手に失敗作読むなんてっ!」
 ベッドの上で、体をくの字に曲げて笑い転げる瑞樹を、蕾夏は真っ赤な顔でばしばし叩いた。その手を巧みに避けながら、瑞樹はゼスチャーで「何か書くもん貸せ」と蕾夏に合図した。
 仕方なく、机の上のレポート用紙とシャープペンを差し出す。すると瑞樹は、まだ笑いながらも、こう書いた。

 『読んでねーよ。俺が笑ったのは、お前のリアクションのせい』

 「―――…」
 一気に体の力が抜けてしまう。がっくりと肩を落とした蕾夏は、疲れ果てたようにレポート用紙を受け取った。
 「…もう、続きは明日にして、シャワー浴びてくる」
 デスクの上にレポート用紙を放り出してそう言う蕾夏に、瑞樹は笑いながら手を振ってみせた。

 飾り棚の上に用意していた着替えなどを抱えて部屋を出ると、蕾夏は小さなため息をついた。
 ―――あーあ。焦るなぁ…。
 耳が聞こえないようでは、ライターとしてアウト、とまでは言わないが、少なくとも淳也の会社に雇ってもらう訳にはいかない。帰国するまで、あと2週間と少し―――平気な顔はしているけれど、焦らないと言ったら嘘になる。
 千里がああ言うのは、多分、ここにいると、またいつ奏と顔を合わせるかわからないからだろう。千里は気づいているのだ―――全ての事実に。その気持ちはありがたいけれど、やっぱり日本に先に帰る気にはならない。瑞樹のいない日本に帰るなんて、とても考えられない。

 ―――声、聞きたいなぁ…。
 瑞樹の笑い声が聞こえたら、一緒に笑えたかもしれないのに―――バスルームに向かいながら、思わず蕾夏はうな垂れてしまった。

***

 蕾夏が、ドライヤーで乾かしきれなかった髪を気にしながら部屋に戻ってくると、部屋のドアの所で千里と瑞樹が話をしていた。
 すぐに階段を下りていってしまった千里を見送り、問いかけるような目を瑞樹に向ける。すると瑞樹は、受話器を耳に当てる仕草をして階下を指差した。
 ―――こんな時間に?
 時計は見ていないが、もう日付けが変わる直前の筈だ。思わず眉をひそめる蕾夏だったが、瑞樹は何も説明せず、背後のロフトを親指で指し示した。どうやら、先に寝てろ、ということらしい。気にはなったが、保留になっている筈の電話をあまり待たせてもまずいと思い、蕾夏は一応頷いておいた。それを確認した瑞樹は階下に下りて行ったが、何故かその顔が僅かに緊張しているように、蕾夏には見えた。
 一体、誰からの電話なのだろう―――部屋に入り、ロフトへと続く階段を上がりながらも、蕾夏は瑞樹にかかってきた電話が気になって仕方なかった。
 そもそも、瑞樹や蕾夏に電話がかかってくること自体、珍しい。せいぜい時田が急なスケジュール変更の連絡をしてくる位だが、明日は撮影もないし、重要な打ち合わせもない。親にはこの家の電話番号を知らせてあるが、かかってくることはない。時差と電話代の問題から、定期連絡はこちらから、しかも公衆電話から入れるようにしているのだ。
 そんなことに考えをめぐらせていた時、ひとつの可能性が頭にひらめき、蕾夏の心臓は嫌な感じに痙攣を起こした。

 ―――もしかして…。
 もしかして、瑞樹のお父さんからの電話?

 もし、そうだとしたら―――メール連絡のできる人なのに、わざわざ電話してくる用件なんて、一つしかない。
 鼓動がだんだん、速くなる。蕾夏は、フロアベッドの上で膝を抱え、せり上がってくる嫌な予感を押さえ込もうとするように、膝に額を押し付けた。
 ただの「予感」で終わって欲しい。…でも、一度浮かんでしまった可能性は、押さえ込もうとすればするほど、それが正解のように思えてならなかった。
 もしそうでも、泣いちゃ駄目だ、と言い聞かせる。
 瑞樹は、それでいいと言ったんだから―――自分もそれでいいと思ったんだから、泣いてはいけない。もし泣いたら、それは瑞樹を裏切ることになる気がする。
 何でもいいから、早く、瑞樹の顔が見たい―――なんだか心細さを感じて、蕾夏は余計、膝に額をきつく押し付けた。

 そんな風に、5分ほど動かずにいただろうか。
 ふいに人の気配を感じ、蕾夏は顔を上げた。
 フロアベッドに伝わる、微かな振動。階段の方に目を向けていると、やがて瑞樹が、ロフトに上がってきた。
 瑞樹の表情は、別に辛そうでも苦しそうでもなかった。かと言って、普段通りという訳でもなかった。意識の半分を、どこかに置き忘れてきてしまったみたいな、少し虚ろな、けれど何かを考え込んでいるような、そんな表情をしていた。
 蕾夏と目が合うと、一瞬、瑞樹の顔が強張る。が、何かを予感している蕾夏の目に、今、何を蕾夏が考えているのかを察したのだろう。瑞樹は寂しげな笑みを口元に浮かべると、蕾夏のすぐ傍に腰を下ろした。
 「―――瑞樹…?」
 問いかけるように声をかける蕾夏の瞳が、「予感」が「確信」に変わりつつある感触に、不安げに揺れる。
 そんな蕾夏の目をしばし見つめ返した瑞樹は、蕾夏の向こう側にあるサイドボードへと手を伸ばそうとした。その目的に気づき、蕾夏は慌てて、瑞樹の腕を手で制した。
 「い、いい。…何も、言わないで」
 蕾夏の言葉に、一瞬、伸ばしかけた腕を止めた瑞樹だったが、思い直したように自分の腕を軽く掴む蕾夏の手を外させると、サイドボードの上に置かれたメモ帳とボールペンを手に取った。
 視線をメモ帳に落とし、いつもより長い時間をかけて何かを書きつけた瑞樹は、書き終えると同時に、小さなため息をついた―――ように見えた。そのため息が聞こえた訳ではないので、本当のところは、わからない。
 やっと目を上げた瑞樹は、やっぱり寂しげな笑みを浮かべたまま、そのメモ帳を蕾夏に差し出した。

 『いざ、その時になれば、泣けるかと思ったけど、やっぱり、俺は、泣けないらしい』

 「―――…」
 “泣けない”。
 寂しげな瑞樹の笑みの意味が、その言葉に表れている気がした。それに気づいた瞬間、前触れもなく、涙が蕾夏の目に一気に溢れてきた。
 泣いてはいけない、と思ったけれど、無理だった。蕾夏は、口元に手を置くと、声を殺して泣き出した。


 ―――あの人は、もう、この世にいないんだ。
 わかり合う道は…謝罪し、許す道は、瑞樹も倖さんも望んでいなかった。だから、これでいい。そう…これでいいんだ。
 …でも。
 それでも、涙が、止まらない。
 寂しくて、寂しくて―――愛せなくて、歩み寄れなくて、死で引き裂かれてもなお許すことができない、倖さんと、瑞樹が。寂しすぎて、涙が、止まらない。
 瑞樹が、倖さん自身の手で救われる日は、もう来ない。
 あの日、病室で私が聞いたあの話を、倖さんの口から瑞樹に語る日は、もう来ない。
 私を救ってくれたこの人を、この世に生み出した人。…あの人に会うことは、もう永遠にないんだ―――…。


 蕾夏を慰めるように、瑞樹が髪を撫でる。目を上げると、涙で霞んだ視界の中に、沈痛な面持ちの瑞樹の唇が、何かを喋っているように動くのが見えた。
 …でも、聞こえない。
 今、瑞樹が伝えようとしている言葉が、聞こえない。

 ―――声が、聞きたい。

 胸が張り裂けそうな位の、切望。
 瑞樹の、声が聞きたい。他のことなんてどうでもいい。今、この瞬間、瑞樹の声が聞けないのが一番辛い。何を耳にしても構わないから、気が違ってしまっても構わないから―――瑞樹の、声が、聞きたい。
 何故、音は戻ってきてくれないんだろう? 今こそ、必要なのに―――どんな時より、今、瑞樹の言葉が聞きたいのに。

 苦しげに細められる蕾夏の目を見て、瑞樹もその意味に気づき、自分を責めるような目をした。口を噤んだ瑞樹は、泣くな、というように、更に蕾夏の髪を撫でた。「お前が泣くようなことじゃない」―――瑞樹が口にしていたのは、多分、そんなことだっただろう。
 蕾夏は、髪を撫でる瑞樹の手を取ると、両手で包んだ。その手の甲にも、涙がぽたん、と落ちる。
 「…瑞樹は、泣かなくてもいい…。泣けないからって、自分を責めないでよ」
 「……」
 「瑞樹が泣けない分、私が泣く。だって、感じるもの。瑞樹は泣けないけど、瑞樹の心は“痛い”って訴えてる―――だから…この涙は、瑞樹が流す筈の涙なの」

 もっと上手に、今、両手で包んでいるこの手から感じているものを、瑞樹に伝えたい。
 母親の死に涙を流せない自分を責める必要はないのだと、瑞樹が理解できる言葉で伝えたい。
 でも、考えがうまくまとまらなくて、全部涙になって流れていってしまう。蕾夏は、何度もしゃくりあげながら、ただ必死に言葉を紡いだ。
 「ご…ごめ…ん。私、こんな時なのに、瑞樹に何もしてあげられない…。上手く思ってること伝えることもできないし、瑞樹の話を聞いてあげることも―――な、何か、できること、ない? 私でもできること、何かない? 何か瑞樹のためにしてあげられないと、私の方がおかしくなりそう…」
 そんな蕾夏を、瑞樹は少し辛そうな目で見ていた。が、ふいにきゅっと唇を噛むと、自分の手を包んでいる蕾夏の手を、もう一方の手でそっと引き剥がした。
 蕾夏の左手首を掴み、手のひらを広げさせる。そしてそこに、指で短い文字を綴った。

 アルファベットの、“X”―――もしくは、バツ印。それを、3回。

 “XXX”―――それが、ラブレターなどの最後に書く言葉であることは、蕾夏も知っていた。キスを意味する、たった3文字の愛情表現。
 蕾夏は、“X”の書かれた自分の手のひらを、その意味を探ろうとするように、瞬きもせずに見下ろした。そして、それが「何か瑞樹のためにしてあげられること」の答えであると察し、思わず口元をほころばせてしまう。
 「…バカ…」
 呆れたような口調でそう呟きながらも、涙は余計、溢れてくる。たった3文字の瑞樹の“甘え”が、こんな時、酷く愛しく思えて。
 蕾夏が顔を上げると、留まりきれなくなった涙が零れ落ち、頬に伝った。らしくない事をした、と思っているのか、どこかバツの悪そうな顔をしていた瑞樹は、それを見て手を伸ばし、蕾夏の頬に落ちた涙を指で掬った。
 涙を掬った指が髪を掻き上げる。それに促されるように目を閉じると、その刹那、唇が重ねられた。
 何度かキスを繰り返すうち、ただ触れるだけのキスが、相手を求めるキスに変わる。続かない息から逃れるように、背中からフロアベッドに倒れこむ。唇に感じた熱に、全身が飲み込まれるまで、さしてかからなかった。
 一切音の消えた静寂の中、自分の心臓の音だけを感じる。瑞樹の髪に指を梳き入れながら、性急すぎるほどに求めてくるその唇を受け止めた。燃えるような熱さを感じるけれど、どこが熱いのか、もうわからない。その熱さに思考回路が焼ききれそうになった時―――蕾夏の心を無視して、その体がビクン、と強張った。
 「―――…!」
 無意識のうちに、蕾夏の胸元に手を這わせていた瑞樹が、蕾夏が体を強張らせるのを感じて、はっとしたように体を起こした。
 罪悪感を滲ませた瑞樹の目に、蕾夏は慌てて手を伸ばし、離れようとしたその肩を引き戻した。
 「…大、丈夫」
 駄目だ、という風に首を振る瑞樹に、蕾夏はそれより激しく首を横に振った。まだ離れようとしている体に腕を回し、必死の思いで抱きとめる。
 「大丈夫―――お願い、信じて。瑞樹のことは、本当に怖くない。瑞樹を奏君と間違えたりしない。信じて」
 「……」
 「お願い…いつもみたいに、名前を呼んで」
 名前を呼んで―――聞こえる筈もないものを望む蕾夏を、瑞樹は、少し体を離して、眉をひそめるようにして見下ろした。何故そんなことを蕾夏が望むのか、わからないのかもしれない。
 やがて瑞樹は、寂しげな笑みを浮かべると、蕾夏の髪を指で梳きながら口を開いた。

 『らいか』

 そう、唇が動く。
 それに応えるように、蕾夏はふわりと微笑んだ―――たとえ、声が聞こえなくても。その笑顔に促されるように、瑞樹はゆっくりと、蕾夏の体を抱きしめた。
 触れ合った肌から、体温が体の中に溶け込んでいく。その温かさに、さっきまでとは違う涙が溢れてきた。


 蕾夏―――いつも瑞樹が、どこか切ないような声色で囁く、自分の名前。
 今、何が欲しいかと言われたら、あの声が欲しい。強く強く願えば、もしかしたら聞こえるんじゃないか…そう思う位、あの声が欲しい。

 ―――瑞樹の声が、聞きたい。

 その思いの強さを伝えようとするかのように、蕾夏は更にきつく、瑞樹に抱きついた。


***


 ―――夢を、見た。

 蕾夏が、桜の木の下で、体を丸めて眠っている夢を。

 「―――蕾夏」
 蕾夏の耳元で名前を囁くと、蕾夏は小さく肩を震わせ、目を開けた。
 「瑞樹―――佐野君は…?」
 少し怯えた声で、蕾夏が訊く。瑞樹は、安心させるように笑みを浮かべ、その髪を撫でた。
 「ここには、いない。もしまた来ても、もうお前にナイフは握らせない。大丈夫…俺が、お前の代わりに、あいつを倒すから」
 蕾夏の表情が、少し、和らぐ。が、またちょっと眉をひそめ、瑞樹の手を握る。
 「…倖さんは…?」
 「―――あの女は、もう、いない」

 …いない。
 どこを探しても、いない。
 自分を見殺しにしようとした、そして、実際にその手で殺そうとしたあの女は、もう、いない。

 恋慕とも、後悔とも違う、鈍い痛み。
 泣けない。悲しいとは思わないから。では、この痛みは何だろう? ―――瑞樹自身にも、それを何と呼べばいいのか、わからない。

 悲しげに眉を寄せた蕾夏の目から、涙が零れる。瑞樹は、その涙を掬うように、蕾夏の目元に唇を寄せた。
 その、小さなキスで、蕾夏から瑞樹へと、何かが伝播したのだろうか。
 気づくと、瑞樹の瞳から、一粒の涙が零れ落ちて、頬を伝っていた。

 ―――ああ…俺にも、まだ、こんなもんが残ってたのか。

 夢の中の、たった一粒の涙だけれど―――そこに、もう欠片も残っていないと思っていたものを見つけた気がして、瑞樹はなんだか、おかしくなった。

 


 頬に、天窓から射す光が当たるのを感じ、瑞樹は目を開けた。
 目を開けると、誰も寝ていない枕と、本来蕾夏の向こう側にある筈の目覚まし時計が見えた。昨日の夜、抱きしめて寝た筈の蕾夏がいない。やたら寒いと思ったら、蕾夏の体温がないからだ。
 虚ろな目で周囲を見回すと、間もなく、寝間着の上着を肩に羽織って起き上がっている、蕾夏の背中が目に入った。
 「―――…蕾夏…」
 まだ眠い声で名前を呼ぶと、蕾夏の背中が、小さく揺れた。
 黒髪がサラリと肩から滑り落ち、蕾夏がゆっくりと振り向く。その目は、昨日泣きすぎたせいで少し赤くなっていて、何故か驚いた時のように、僅かに丸く見開かれていた。
 しばし、そんな目で瑞樹を見下ろしていた蕾夏は、やがてフワリと朝の光に溶けてしまいそうな微笑を浮かべた。
 「…おはよう」
 「……」
 眠気でぼんやりとしていた頭が、今のシーンに何かひっかかるものを感じて、急激に目覚めていく。

 名前を、呼んだ。
 ―――そしたら、振り向いた。

 瑞樹が呼ぶ声に、反応した―――…。

 虚ろだった瑞樹の目が、みるみるうちに大きく見開かれる。その意味をはっきりと認識すると同時に、瑞樹はがばっと起き上がった。
 「…ら…蕾夏?」
 「…うん」
 「いつから?」
 「―――目が覚めて、気がついたの。ああ、音がある、って」
 体が、震える。
 いろんな感情が混ざりあって、体の中で渦巻く。言葉にできない。今感じているものは。結局、口にできた言葉は、ありきたりな一言だけだった。
 「―――…よかった…」
 瑞樹は、蕾夏の肩を引き寄せると、思いの丈をぶつけるように抱きしめた。それに応えるように、蕾夏も瑞樹の背中に手を回し、緩やかに抱きしめ返した。

 何故取り戻すことができたのか、とか、結局何が原因だったのか、とか、そんなことはもう、どうでもいい。
 名前を呼べば、ちゃんと振り向いてくれる。ただそれだけの事実があれば、それでいい。
 泣きたくなる位の想いを伝えようとするみたいに、何度も髪や額に唇を落とす。その感触がくすぐったいのか、蕾夏は少し身じろぎ、小さな笑い声をたてた。
 「蕾夏…」
 「ん…なに?」
 「聞こえるようになったら、真っ先に言おうと思ってた」
 「……?」
 不思議そうに目を上げる蕾夏の耳元に口を寄せると、瑞樹は素早く、たった一言、囁いた。

 「―――…」

 その言葉に、蕾夏は驚いたように目を丸くし、瞬きを忘れたみたいに瑞樹の顔を見つめた。
 言葉が、耳から入って、体中に浸透していく気がした。そして、その言葉が体全体に行き渡ったのを感じると、蕾夏は心から幸せそうな笑みを浮かべた。
 瑞樹の首に腕を回して、その耳元に唇を寄せる。そして、瑞樹がくれたのと同じ想いを、瑞樹に囁いた。

 「―――私も、瑞樹のこと、愛してる…」


***


 その日の午後、2人は時田に頼み込んで2時間ほど休みをもらい、ロンドンで一番好きな教会に足を運んだ。もういない人のことを、そこで考えるために。
 ウェストミンスター寺院のすぐ脇にある、素朴で静かな、小さな教会。ガイドブックにも載っていないような教会だが、何故か2人とも、この教会が妙に気に入っていた。
 ちょうど自由に出入りできる時間帯で、中には既に数人の観光客がいた。その中に紛れて、静かに祈りを捧げている人もいる。
 瑞樹と蕾夏は、特に祈りを捧げるでもなく、教会の一番後ろに立って、黙って祭壇の上にあるキリスト像を眺めた。周囲の人には気づかれないよう、互いの指先だけを繋いで。

 「―――今頃、通夜やってると思う。葬儀は明後日だって言ってた」
 30分近く経って、やっとそれだけ、瑞樹は口にした。
 傍らに立つ瑞樹をチラリと見上げた蕾夏は、その表情が静かで穏やかなのを確認し、また視線を祭壇に戻した。


 今朝、蕾夏の耳が聞こえるようになったと聞くと、淳也と千里はそれこそ涙を流さんばかりに喜んだ。

 何故治ったのか、何がきっかけで治ったのか、と、特に千里が熱心に説明を求めてきたが、さすがにそれは言えない。「さぁ?」と2人して首を傾げるだけで、一切何も答えなかった。
 でも、実際のところ、蕾夏自身ですら、その理由を確信してはいない。
 単に、回復に必要なだけの時間が経過しただけかもしれないし、ショッキングなニュースが蕾夏の何かに作用したのかもしれない。きっかけがきっかけだけに、瑞樹を受け入れることができたことで、体に触れられることへの恐怖心を乗り越えられた、とも考えられる。でも多分―――それだけではないと、蕾夏は思っている。
 瑞樹の腕の中で、ずっとずっと、声には出さずに繰り返していた言葉―――瑞樹の声が、聞きたい。
 その思いが、全てのネガティブな思いに勝ったのだ、きっと。
 いずれ、千里にだけは、その話をしようと思う。彼女は、ほぼ全ての事情を知っているから。でも…、とりあえず今は、2人だけの秘密だ。

 とにかく―――詳細不明、という不満点はあるものの、前日、日本に先に帰すことまで考えていた淳也と千里にとっては、蕾夏の回復は何よりも重大なニュースだった。
 だから、千里は、忘れてくれたようだ。
 前日の夜中、突然かかってきた、瑞樹の父からの国際電話を。


 「きっと千里さん、快気祝いし終えたら思い出すよね。電話のこと」
 祭壇を見つめたまま、蕾夏が眉を寄せてそう言うと、瑞樹も僅かに眉間に皺を寄せた。
 「 …多分な。昨日、もの凄く気にしてたから」
 「お父さんから電話があるなんて、初めてだもんね。それに…突然の電話って、あまり良くない報せだって、相場が決まってるし…」
 「―――でも、俺は、帰らない」
 静かな、けれどきっぱりとした口調で、瑞樹はそう言いきった。
 たとえ離婚した母でも、千里は、猛ダッシュで帰国して葬儀にだけは出ておけ、と言うだろう。でも―――それは、しない。たとえそれが、世間的に見たら非常識な話でも。
 「そう決めたからこそ、イギリスに来たんだし」
 そうだろ? という風に瑞樹が視線を向けると、蕾夏は、口元にだけ微笑を浮かべて、小さく頷いた。もう、生きて会うことは、二度とない―――それでいい、と覚悟したからこそ、イギリス行きを了承した。葬儀に間に合わないことも承知の上だ。最初から。
 「でも―――帰国したら、一度、お墓参りだけは、しない?」
 ポツリと呟くように、蕾夏がそんなことを口にした。
 「…墓参り…か」
 「あ…、別に、和解すれば、って言ってる訳じゃないよ?」
 「…ああ、わかってる」
 蕾夏の意図を感じ取り、瑞樹は軽く苦笑した。

 母の死に、涙ひとつ流せない。
 同じDNAが、この体の中にちゃんと存在しているのに、その人物が死んでも、何も感じられない。
 けれど、鈍く痛む、心にあいた小さな小さな穴―――この、本当に小さな痛みのためだけに、墓参りに行くのだ。たとえ、その痛みの意味が、一生わからなかったとしても。

 「…墓石前にしても、やっぱり俺は泣けねー気がするなぁ…」
 ため息混じりに瑞樹がそう言うと、蕾夏は瑞樹を見上げ、きっぱりと、けれど優しいトーンで告げた。
 「大丈夫―――また瑞樹が、1滴の涙も流せなかったら…代わりに私が、涙が涸れるまで、泣くから」

 そう口にする蕾夏の笑顔は、しなやかで、揺るぎなくて、優しい。
 なんだか蕾夏は、涙を流すたびに、強くなっていくみたいだ―――瑞樹は、蕾夏に微笑を返すと、愛しげにその頭をくしゃっと撫でた。


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