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yesterday oncemore ―

 

 出版社のビルを1歩外に出た途端、どっと疲れが出てしまった。
 「…き…緊張したぁ…」
 大きく息を吐き出して脱力する蕾夏を見下ろし、累はクスクス笑った。
 「急な話だったからね。でも、良かった。藤井さんの耳が治った後で」
 「ホントだよ、もう。―――ねぇ、手を入れる余裕もなかったから、淳也さんに渡したまんまの原稿、そのまま渡しちゃったけど…あれで本当に大丈夫かなぁ?」
 「大丈夫だって。父さん、文章見るプロだもの。父さんがOK出した文章なら、佐伯さんも絶対気に入るって」
 佐伯とは、つい今しがた面会した淳也の会社の日本支社の人物。もし蕾夏が専属ライターとして契約を結ぶことができれば、蕾夏に指示を出す立場になる人物である。一昨日からロンドンに来ていたのだが、せっかくの機会だから、と、淳也が蕾夏と引き合わせる段取りを取ったのだ。
 音を取り戻したのが、水曜の朝。現在、金曜日の午前。午後には佐伯は淳也を伴って日本に発ってしまうのだから、本当にギリギリなスケジュールだったのだ。
 佐伯は、これまでに蕾夏が書き溜めてきた紀行文や書評、映画評や時事問題に関するコラムなどを、全て日本に持ち帰ると言う。蕾夏自身の帰国はまだ先なので、それまでには社内で検討しておく、と約束してくれた。
 「ま…専属取れなかったら、フリーでやってくだけなんだけどね」
 あの部分もこの部分も不安要素だらけだなぁ、と、渡してしまった原稿に思いを馳せながら、蕾夏はため息をつき、バッグを肩に掛け直した。
 「でも、専属の方が安定してるよ? スケジュールも組みやすいし…。そんな弱気になることないよ。藤井さんには才能あるって。僕よりずっといいライターになるよ」
 「あはは、褒めすぎだよ」
 「いや、ほんとに。そう言いたくなる位に大好きだったんだ。打ち上げ花火に照らし出された群衆のシルエットの写真につけてた、あの言葉。実はもう暗記してるんだ」
 蕾夏の隣を歩きながら、累は、ちょっと夢見心地のような目をして、遠くを見つめた。

 目の色も、肌の色も違うけれど、“Happy New Year.”の思いは、みんな同じ。
 小さな感動が集まって、大きな歓声のうねりになる。それは、感動を分かち合う生き物だからこそ、生み出せる、奇跡。
 “Happy New Year.”―――この奇跡に出会えたことが、とても、嬉しい。

 「―――…ね?」
 暗唱してみせた累は、ちょっと得意そうな目を蕾夏に向けた。
 呆気にとられた顔で暗唱を聞いていた蕾夏は、思わず赤面し、俯いてしまった。確かに暗唱の通りの文だったが、改めて人の口からそれを聞かされると、無性に恥ずかしくなってしまう。
 「写真だけじゃ気づきにくかったことが、あの言葉でリアルに感じられたし、文章だけじゃイメージしにくかった部分が、写真を見て、ああ、なるほど、って思えた。…成田さんの写真と、藤井さんの言葉って、一対なんだね」
 笑顔でそんなことを言われると、余計に恥ずかしくなる。蕾夏は一切それには返答せず、ただ黙々と歩き続けた。
 なんとなく、沈黙が続く。
 昼は、時田や瑞樹と合流して、パブで食べる計画にしている。だから、時田のオフィスまでは累とずっと一緒だ。こんな具合の沈黙が続くのは、なんとも気まずい。何か話題はないかな、と、考えをめぐらせていると、累の方が先に口火を切った。
 「―――藤井さんと成田さんって、親友同士だったんだよね」
 唐突な話に、蕾夏は一瞬、キョトンと目を丸くした。
 「うん。今もそうだよ?」
 「今は、恋人同士でしょう?」
 「そうだけど、親友同士であることをやめた訳でもないよ?」
 蕾夏の返答に、累は、意味がわからない、という目を向けた。確かに、理解し難いのかもしれない―――蕾夏は、最初は自分も戸惑った話が、いつしか当たり前になっていることに苦笑した。
 「恋愛感情が生まれたからって、友情が消えちゃった訳じゃないよ。男女としてじゃない、ただの人間同士としての“好き”って気持ちは、今もずっと私達の中にあるの」
 「…じゃあ、どちらかが他の人を好きになって、恋人同士の2人が別れることになったら? ただの親友同士に戻れる?」
 「―――前とすっかり同じには、やっぱり戻れないと思う。恋人だった自分が、辛すぎて一緒にはいられないと思うから。でも…やっぱり、人間としての“好き”は残り続けると思うから―――時間をかければ、いずれは、戻れるかもしれない」
 「……」
 「あの…それが、どうかしたの?」
 何故こんな事を累が訊くのかわからず、蕾夏は眉をひそめた。が、累はそれに答えず、ただ顔を少し赤らめて、視線を逸らしただけだった。
 ―――もしかして、カレンと何かあったのかな。
 累のその表情を見て、なんとなく、そう思った。

 蕾夏の勘は、正しい。
 実際、この時累が考えていたのは、前日の夜に会ったカレンのことだ。ただ、蕾夏が考えているよりは、累の受け止め方は少々複雑だったのだが。

 

 カレンの告白を聞いた累は、たっぷり1分半、フリーズした。
 「―――あの…もう一度、言ってくれる?」
 やっとフリーズの解けた累は、食べかけたピザを皿に戻して、真向かいで俯くカレンの方に少し身を乗り出した。
 「だ…だから、ね。あたしが好きなのは、累君なの―――ずっと前から」
 「…ずっと前って…」
 「…ロンドンに来た当初から」
 「―――…」
 青天の霹靂とは、こういうのを言うのだと思う。
 だって―――カレンには、どの時期も常に親しい男性がいたように見えたし、自分に対しては「累君ってお兄ちゃんみたい」と無邪気な笑顔でいつも言っていたし…。だから自分も、妹のように可愛がってきたのだし、当然、そんな目で見たこともなかった。
 目をパチクリさせて自分の顔を凝視する累を、カレンは酷く辛そうな顔で上目遣いに見ていた。デリバリーしてもらったピザも、カレンはほとんど手をつけていない。1分経っても2分経っても返事のない累に、その表情はどんどん暗くなっていく。
 「…何か言ってよ…」
 「…いや…何か、と言われても…」
 「可能性ゼロならゼロで、はっきり言って。あたし、わかってるの。累君にとってあたし、そういう対象じゃないって。それに―――好きになってもらう資格もない。累君は、女の人とほとんど付き合ったことないのに、あたし、全然綺麗じゃない…いろんな男の人知ってる。全然好きじゃない人とも…それどころか、そっ、奏とまで…っ」
 奏の名前が出たところで、カレンの目に、一気に涙が溢れた。女の子の涙には、もの凄く弱い。累は慌てふためいた。
 「あ、ああっ、な、泣かないで! 泣かれると困るよっ」
 「ごっ、ごめんね、累君。こんなあたしが、累君のこと好きだなんて、ふざけてるよね」
 いや、そんなことない、と言って差し出されるハンカチも、既にカレンの目には入っていない。ボロボロ泣き出すその顔は、どう見ても22歳の実年齢にはあと5年ほど足りないムードだ。
 「でも、駄目なの。もう誤魔化し効かない…累君でないと、駄目なのっ。ホントはずっと黙ってようと思ってた。告白して、フラれて、もう会う事もできなくなる位なら、ずっと友達のままでいた方がいいって思ってた。でも―――黙ってるのも、もう苦しいの。限界なの」
 「……」
 「迷惑だよね。累君、困ってるよね。ごめん…でも、駄目なの。累君でないと…」

 『私が生涯で“愛してた”って言えるのは、郁夫ひとりよ。昔も今もね。…こんな女に愛されて、郁夫は可哀想?』

 泣きじゃくるカレンの姿に、何故か、あの日聞いたサラの言葉が重なった。
 奏に「お前のは恋愛とは言わない。お前は彼女いない歴と年齢が同じだ」と呆れた顔をされるたび、失礼な、そんなことないぞ、とムッとしていたのだが―――サラに会った日、そうなのかもしれない、とぼんやりと思いはした。自分の知る恋愛なんて、サラの言う世界とはまるで次元が違っていたから。
 でも…サラだけではなかった。
 想いは一方通行だけれど、奏も、カレンも、既に見つけていた。自分の想いの全てをぶつける相手を。
 雨の中、真っ直ぐに前を見つめて涙を零す奏のオーラは、たとえようもないほど、綺麗だった。そして今、子供みたいに泣きじゃくっているカレンも、これまで見たカレンの中で、一番綺麗だ。
 こんなのは、知らない。
 忘れよう、諦めよう、何度もそう自分に言い聞かせてもなお諦めきれない、その人しか欲しくない―――そんな感情、まだ一度も抱いたことがない。

 その時感じたのは、自分の知らない世界を知る彼らに対する、羨望―――そして、何も知らない自分に対する、劣等感。
 累は結局、この日、何も答えを出してあげられなかった。
 「迷惑なんかじゃないから。だからそんなに泣かないで」―――そう言って、カレンをなんとか泣き止ませるだけで精一杯だった。

 

 「―――藤井さんの中では、いつ、“恋人の成田さん”が増えたの?」
 累は、もの凄く真剣な顔で、また難しい質問をしてくる。
 沈黙がなくなったのはありがたいが、これはこれで、結構困る。蕾夏は眉を寄せ、うーん、と空を仰いだ。
 「…そんなこと言われても…うーん…本当言うと、全然わからない」
 「…そっか…」
 「でも、瑞樹には、凄く感謝してる」
 空から累に視線を移し、蕾夏は、どこか懐かしげな笑みを浮かべた。
 「先に気づいた分、瑞樹の方が辛い思いしてたと思う。私は、自分の気持ちを育てて、最後の1歩を踏み出せばよかったけど…瑞樹は、その何倍も大変だったと思う。友達の関係を壊すのが怖いのは、多分2人とも同じで―――それでも勇気を出して、私にずっと手を差し出していてくれた。無理矢理手を掴まずに、私がその手を取るまで、ずっと待っててくれた。凄く、感謝してるの」
 「…優しい人なんだね、成田さんって」
 ふわっと柔らかに微笑んだ累を見て、蕾夏は、ちょっとからかうような色合いに、その笑みをチェンジした。
 「カレンも、累君にはすっごく優しいと思うよ?」
 「―――えっっ!!!」
 途端、累の顔が、一気に真っ赤になる。
 やっぱり、その事を考えていたらしい。図星をさされて慌てふためく累を見上げて、蕾夏はクスクス笑った。

***

 全ての写真を見終わった時田は、それを丁寧に机の上で揃え、ほっとため息をついた。
 「なるほど―――君らが見つけたのは“色”か」
 目を上げた時田に、瑞樹は微かな笑みを返した。どうやら時田には、ちゃんと伝わっているらしい。
 「君達は元々、色彩感覚がいいからね。それに成田君は、光の使い方が上手いし。光の強弱を上手く使って、一番目を惹く色合いを見つけ出して、上手く撮ってる。青系がちょっと沈み気味かな? それ以外は、合格点だよ」
 そう言って写真を手渡されて、やっと瑞樹も緊張が解けた。写真を受け取り、しっかりとした笑みを口元に浮かべた。
 とはいえ、まだ1つ課題は残っていそうだ。だから、
 「じゃあ、青系を中心に、もう1回撮ってきます」
 と言ったのだが、時田の反応は意外なものだった。
 「え? ああ、もういいよ」
 「…は?」
 「もう写真は見せなくていい。残りの時間は、僕のアシスタント業さえやってくれれば、あとは藤井さんと2人で好きな写真を好きなだけ撮っていいよ」
 ニコニコ笑う時田のセリフに、瑞樹は訝しげに片眉を上げた。
 「…どういうことですか」
 「まあ、また藤井さんもいる時に、詳しく話すよ。君もその方がいいだろう?」
 「いえ、別に」
 憮然とした口調で、しかし表面上は無表情に瑞樹が答えると、時田の笑顔が、ちょっと強張った。
 「変な話だったら、むしろ蕾夏には聞かせたくないんで」
 「…信用ないねぇ。まあ、替え玉やらせたり何だり、無理もない部分はあるけど」
 そう言って、時田は苦笑した。全くもって、その通りだ。
 「そうだなぁ…藤井さんには聞かせない方がいいのかもなぁ。彼女、怒るかもしれないし。回りくどい! って」
 「―――何ですか」
 「つまりね。僕が君をイギリスに呼んだ目的は、もう全部達成できた、ってことだよ」
 「…それって、もう俺が独立して仕事請けても大丈夫、ってことですか?」
 「そんなの、最初からだよ」
 「は!?」
 ―――なんだよそれっ!!
 思わず、席を立ってしまう。その勢いで、時田のデスクの上に乱雑に積み上げられていた書類が傾いた。
 「成田君、もう1枚の写真が準グランプリ候補になったこと、忘れてるんじゃないか? 僕のわがままのせいで落ちちゃったけど。基礎技術は元々プロレベルだから、あのままプロになっても別段困る事はなかったと思うよ」
 「…いや…まさか」
 「見ただろう? “VITT”の連中。僕と君の写真の区別もつかないし、あんな奏君の顔したマネキンをイメージモデルに嬉々として採用してる。あれがクライアントの現実だよ。早い話、プロなんて、君位の技術さえあれば、芸術的センスも何も必要ない。いい構図で、ピンボケ起こさないように撮れば、なんとか食っていけるんだ」
 ―――他のカメラマンに聞かせたら、絶対ぶっ殺されるぞ。
 冷や汗が、背中を伝う。が、時田の方は依然ニコニコ笑ったままだ。
 「じゃ…あ、なんで…」
 「言っただろう? 君にはプロの視点を学んでもらう、と」
 そう言うと、時田はニヤリ、と笑った。
 「あの“生命”を見て、すぐわかった。君はね、根っからの芸術家タイプなんだ。心を揺さぶられないと、シャッターボタンが押せないタイプ。サラがいなくなる前の僕が、ちょうど同じだった。だから、思ったんだ。ああ、このままプロの世界に足を突っ込んだら、理想と現実のギャップで潰されるな、ってね」
 「―――潰されかけましたよ。最初の“VITT”の撮影で」
 「ハハ、そうだろうね。…僕もね。サラがいなくなった事以上に、あの“サンドラ・ローズ”に痛めつけられたんだ。あんなものが―――氷で出来た綺麗な器だけのサラの方が、僕が撮ったサラより市場に求められているのか、そう思ったら、もう何も撮る気がしなくなった。…芸術家の時田郁夫が死にかけた瞬間だね」
 時田の気持ちは、そのまま、“VITT”の社長室で奏のポスターを見た時の瑞樹の気持ちだった。同意をこめて、瑞樹は軽く頷いた。
 「しかしねぇ…悲しいかな、こういう世界は、駆け出しの芸術家は食っていけないと相場が決まってるんだよ。本当に撮りたい写真を撮るためには、そのための土台を作らないといけない。ある意味、職人に徹して、撮りたくない物も撮り、魅力を感じないものにもカメラを向けなくてはいけない。…僕が君に叩き込んでたのは、結局、そのことだけだよ」
 「……」
 「君の写真の出来は感情に酷く左右されてたけど、第三者を意識することで、出来・不出来のブレが大幅に減った。ここ1ヶ月は安定してるね。でも、10を感じられなくなった訳じゃない―――単に、より“消費者うけ”しやすい写真を撮るコツを身につけただけだ。魅力を感じない被写体も、今の君は撮ることができる―――というより、撮らなければ、という意識がしっかり出来上がってる。使命感が生まれてれば、もう大丈夫。君は職人として、自分の腕を売っていくことができる」

 ―――確かに、そうかもしれない。
 時田の回りくどい指導のせいで、一時は蕾夏とすれ違ったりしたのだが―――結局、あのアドバイスがあったから、素直に第三者の目を意識するように、感覚がシフトしていった。10感じるうちのどの1つを選べば、第三者に伝えることができるのか…そう考えるのが癖になったから。
 自分と蕾夏以外の人に、伝えなければ―――そう考える土台が出来たことで、以前の自分ならシャッターを切る気にならない被写体も、どうすればシャッターを切れるのか、その方法を模索することができた。
 結局、時田から叩き込まれたのは、「消費者の目を意識すること」と「何にでもカメラを向けること」。つまりは、「プロの職人の視点」だ。

 「…よく、わかります」
 時田に言われたことを、何度も頭の中で噛み砕いた瑞樹は、呟くようにそう言った後、少し姿勢を正した。
 時田に真っ直ぐ、向き直る。そして、丁寧に頭を下げた。
 「ありがとうございました。感謝してます」
 「―――…」
 頭を下げられた時田は、びっくりしたように目を見開き、一瞬、椅子に座ったままフリーズした。
 「…成田君って、時々、別人のような態度になるよねぇ…」
 感心したような声で時田がそう言うと、顔を上げた瑞樹はニッ、と笑った。
 「二度とやらないんで、堪能しといて下さい」
 「―――ごめん。撤回する。やっぱりいつもの成田君だ」
 「堪能ついでに、訊いていいですか」
 「どうぞ?」
 瑞樹の笑みが、微妙に種類を変える。僅かな警戒心を滲ませ、瑞樹は静かな口調で訊ねた。
 「蕾夏までイギリスに呼んだ理由は、何ですか」
 時田の笑顔が、微かに強張った。
 ほんの僅かな、変化。けれど、その中に瑞樹は、自分が求めていた答えを見た気がした。
 「―――俺と蕾夏、実はもの凄く危ない橋を渡ってたんじゃないですか」
 「……」
 「それともまだ、渡ってる最中ですか」
 礼儀をはらった中にも、絶対に警戒を解かない、瑞樹を包む空気。時田は、そんな瑞樹を、感情の読めない静かな表情で見上げていたが、やがて口元だけに笑みを浮かべ、きっぱりとした口調で答えた。
 「―――それは、もう少し後で教えるよ」
 「…やっぱり、食えねー奴」
 ふっと笑った瑞樹が放った、敬語を脱ぎ捨てた一言に、時田は彼以上に愉しげに笑った。

***

 「いい加減にしろ、奏!」
 休憩コーナーを利用している人間全ての視線が、奏に注がれた。
 それに気づいたマネージャーは、慌てて笑顔を周囲に振り撒き、斜め前に座る奏の襟首を掴んで、その間合いを詰めた。
 奏にだけ聞こえるヒソヒソ声で、マネージャーは、なおもきつい口調で続けた。
 「担当者から直接俺に電話がかかってきたんだよ。その意味がわかるだろ? “VITT”側は怒ってるんだよっ。お前も、なんだって時田さんの言いなりになって、あんな写真を撮らせたりしたんだ?」
 「…あんな写真って何だよ」
 ムッとしたように眉を顰める奏の背中を、マネージャーはバシッと叩いた。
 「あんな写真だろ! 奏、お前、駆け出しの頃の失敗、もう忘れたのか? “Frosty Beauty”は売れるんだよ。クライアントが求めてるのはアレなんだよ。お前の武器はその完璧なルックスだって、とっくに理解してんのに、何今更いきがってるんだ?」
 「なにが“Frosty Beauty”だよ。面白くも何ともねーよ、あんなの。サラ・ヴィットは、郁の好きに撮ればいいって言ったんだろ? 騒いでんのは周りだけなんだから、大人しく審判待ってりゃいいって」
 「奏! お前、一体どうしたんだよ? いつからそんな風になった? え?」
 マネージャーが、途方に暮れたような顔をする。が、奏の憮然とした表情は、一切変わらない。

 “いつから、そんな風に”? そんなの、最初からだ。本当は。
 感情も息遣いも感じさせない一宮 奏なんて、ばかばかしいとずっと思っていた。それに甘んじていたのは、それでなければ撮ってもらえないと思っていたからだ。自分の中身など、誰も評価してくれないと思っていたからだ。
 でも―――瑞樹が撮った写真を見た時、もう駄目だと感じた。
 いつも累が言っていた自分が、そこにいた。

 『奏が本気になった時のオーラは、もの凄いエネルギーを持ってるよ。炎みたいに激しくて、明るく光って、凄く綺麗なんだ。…不思議だよね。僕と同じ顔なのに、まるで違うんだから』

 自分では、わからなかった。自分がこんな風に撮れるなんて。
 改めて、それまでの自分の写真を見て、ゾッとした。そこに居たのは、奏ではなかった。奏の顔をした、別人―――まるであの、“サンドラ・ローズ”の化身みたいに見えた。
 認めない―――あんなものは、もう二度と演じたくない。

 「…郁は、撮り直さないよ。オレも嫌だ。撮り直さない。あの写真を認めさせる」
 「奏! お前なぁ」
 マネージャーがまた文句を言おうとした時、マネージャーが着るスーツの内ポケットの中で、携帯電話が小さな音を立てた。
 マネージャーは、まだ帰るんじゃないぞ、と目で奏を威嚇しつつ、苛立ったように電話に出た。
 「はい。こちら―――…ああっ、社長っ! こ、このたびは…」
 突如低姿勢になる彼の態度に、奏の眉がぴくりと上がった。
 社長。モデルエージェントの社長ではない。それならば、ここから10メートル廊下を行った先のドアの中にいる。しかも、“このたびは”ときている。電話の主は、サラ・ヴィットだと考えるのが妥当だ。
 「はいっ、…はい…えっ、本人とですか? …い、いえ、別に不都合は―――え、ええ。少々お待ち下さい。今本人と替わります」
 マネージャーは、酷く怪訝な顔をして、携帯電話から耳を離した。そして、手にした携帯電話を、無言で奏に差し出してくる。
 「オレ?」
 「“VITT”の社長ご本人からだ。俺は席を外せと言われた」
 「いい。オレが外すから」
 ひったくるように携帯電話を掴むと、奏は席を立ち、エレベーターホールから続く階段へと向かった。
 肩越しに背後を確認したが、マネージャーも、それ以外の周囲にいた事務所の関係者も、誰も追ってくる雰囲気はない。マネージャーは大物からいきなり直接電話してこられて、茫然自失状態らしい。暫くそうやって呆けてろ、と心の中で悪態をついて、奏は携帯電話を耳に当てた。
 「もしもし、オレ」
 『ハロー、奏。郁夫のアシスタントに激写されたご気分はいかが?』
 嫌味な位に綺麗なクイーンズ・イングリッシュ。からかいを含んだ千里より低めの声に、奏は眉間に皺を寄せつつ、冷笑を浮かべた。
 「最高にハッピー。あんたはどう? どこ探してもサンドラ・ローズが見つからないフォトセット見せられた気分は」
 『―――なるほどね。それがあなたの意見?』
 サラが電話してきた意図など見え見えだ。瑞樹が撮ったあの写真について、奏がどう思ったか気になったのだろう。
 奏は、階段の中ほどの段に腰掛けると、手すりに体をもたせかけた。
 「…ああ。それが、オレの意見。“Frosty Beauty”なんて、馬鹿らしくてもうやってらんないね」
 『でも、市場が認めているのは、そっちのあなたよ?』
 「じゃあ訊くけど。あんたの目には、冬と今回、どっちのオレが…いや、どっちのオレが着てる“VITT”のスーツの方が魅力的に見えた?」
 『……』
 「どっちのオレなら惚れる? どっちのオレの方が印象に残る? 元モデルとしての率直な意見を聞かせてよ」
 しばし、沈黙が続く。
 サラは、どんな顔をして、この沈黙をやり過ごしているのだろう? 悔しそうな顔? それとも―――満足そうな顔だろうか。
 『―――わかったわ。あなたの意見は、ちゃんと受け止める』
 「撮り直しになんて応じないからな。オレも、郁も―――勿論、成田も」
 『日曜日の晩、郁夫と会うことになってるの。その成り行き次第ね』
 奏の顔色が、僅かに変わった。
 ―――会う? 郁と? 個人的に…だよな。わざわざ夜を選ぶんだから。
 時田とサラが、今回の仕事のせいで、時折そうやって一緒の時間を過ごすらしいことは、この前の時田の話から察してはいた。会えば、食事して酒を飲み交わして終わり、ではないだろう。そのムードも、なんとなく察している。
 サラの方に未練があるのは、わかる。けれど…それに応じてしまう時田の気持ちは、よくわからない。時田もまだ未練があるのだろうか? 自分を捨てた女なのに? それを考えると、なんとも複雑な気分になる。
 「―――なぁ。1つ、訊いてもいい?」
 『なに?』
 「5年前、あんた、郁に手酷い仕打ちをされて追い返されたらしいけど―――どんな事されたんだよ」
 受話器の向こうのサラが、はっきりと、息を呑む。
 予想外な位に、あからさまな反応。よほど酷い事をされたのか、と、身構えた奏の耳に、さっきまでより少し掠れ気味になったサラの声が届いた。
 『―――大した事じゃないわ。ただ、あなたがた家族の団欒風景を見させられただけよ』
 意外な返事に、奏の目が丸くなった。5年前―――奏と累は、19歳。累は大学生だし、奏は広告モデルからショーモデルに方向転換した頃だ。
 「なんだよ。団欒風景って」
 『聞きたい?』
 「話せよ」
 『…あなたの、初めてのショーに連れて行かれたのよ。客席の隅の隅で隠れて見てたわ、郁夫と2人で。…郁夫のお姉さんも、そのご主人も来てた。2人に挟まれて、累もいた―――初舞台のあなたは、客席の“家族”に向かって、照れたみたいな笑顔を送ってた』
 「―――…」
 『ショーが終わった後、家族4人で祝杯あげてるところも見せてもらったわ。…やり直してくれなければ一宮家に乗り込む、なんて、心にもない事を言った私が馬鹿だった』

 ―――言葉に、詰まる。
 脳裏に甦る、あの、震えていた手。素顔のサラ・ヴィットが垣間見せた本音。
 …でも。
 同情は、しない。その道を選んだのは、サラ本人だ。自分達には、何ひとつ罪はない。

 『同情はしない、って言うんでしょう? わかってるわ』
 先を読んだのか、サラが、ちょっと笑いを含ませてそう言う。奏は、返す言葉を失ってしまった。
 『じゃあ―――また。いい仕事ができて楽しかったわ。機会があれば、またうちのショーに出て頂戴』
 「…ああ。また」
 奏の返事の数秒後、電話はプツリ、と切れた。

 なんとなく、奇妙な感じだ。
 自分達を捨てた女なのに、憎いとか恨めしいという感情は、さっぱり湧いてこない。かと言って、恋しい、という気持ちも皆無だ。
 感じるのは、愚かな奴、という蔑みの気持ちが半分。そして―――憐れみの気持ちが、もう半分。
 たった一度の選択ミスで、一番欲しかったものを失った、サラ・ヴィット。自分はそんなミスは犯さない、と思いながらも、つい道を踏み外してしまうことがあるのを、奏は身を持って知っている。結局、死ぬほど後悔するのは、自分自身―――同じ愚かな人間として、サラを憐れに思う。ただ、それだけだ。

 「社長、何ておっしゃってたんだ?」
 声が頭上から降ってきて、奏は我に返った。
 振り返ると、数段上にある踊場から、マネージャーが不安げな顔で奏を見下ろしていた。電話の内容が気になって仕方ないのだろう。
 「…別に。何も言ってなかった」
 「そんな訳ないだろ? 撮り直しを命令されたか? もしそうなら、絶対OKしろ」
 「…なあ。もしサラ・ヴィットが、“Frosty Beauty”より今回撮った写真を選んだら―――この先、このスタイルで仕事請けてもいいよな?」
 ぼんやりとした口調で奏が言うと、マネージャーは呆れたような顔をした。
 「お前、何言ってるんだ? 選ばれる訳ないだろう。そもそも、“VITT”がお前を起用したのは、“Frosty Beauty”としてのお前があってこそのことだ。生身の一宮 奏だったら、仕事は来なかったんだぞ。わかってるのか?」
 「……」
 「なあ…お前はもっと聞きわけが良くて野心家だったじゃないか。いい加減、ガキみたいなダダをこねるなよ」
 奏は、だんだん困ったような顔になるマネージャーを、冷めた表情で見上げていた。が、やがて、ばかばかしくなったようにため息をつくと、ぷい、とそっぽを向いた。

 ―――成田なら…そして、蕾夏なら、何て言うだろう。
 蕾夏が回復した、と、数日前、千里が電話で連絡してきた。弾むその声に、すぐにでも駆けつけようと思ったが、それはやめておいた。少し、落ち着きを取り戻すまで―――奏は、もう焦ってはいなかった。“VITT”のあの撮影を境に、奏の中の何かが、確実に変わったから。
 でも―――…。

 ひとつの計画が、奏の中に生まれ始める。
 それを実行することを決断する前に、あの2人に会わなくては―――奏は、抱えた膝をさらに引き寄せながら、そんなことを思った。


***


 座り心地の良い高級なソファに沈み込んだ時田は、一瞬、状況も忘れてまどろみそうになった。
 眠っている場合ではない、と思い直し、頭を振る。ぐしゃっと髪を掻き混ぜると、視線をテーブルの上に移した。
 そこには、大量の写真の山―――1週間前、“VITT”本社で金切り声を上げる担当者の前にあったのと同じ、奏の写真だ。時田が訪ねてくる直前まで見ていたのだろう。写真束はいくつかに分けられ、数枚は乱雑に広げられていた。
 「―――お待たせ」
 クラシックのBGMに割って入った声に、時田は顔を上げた。
 水割りを乗せたトレーを手にしたサラは、休日仕様の装いをしている。Gパンに、白いシャツ。下ろしたブロンドの髪。化粧はほとんどしておらず、口紅も淡いベージュ系だ。
 時田の前にグラスを置くサラの指は、つけ爪が外され、本来の丸く整えられた健康的な爪が覗いている。その小指に光っている指輪を見て、時田は微かに口元をほころばせた。
 「…休みの日は、まだ着けてるのか」
 「え?」
 「それだよ」
 自分の分のグラスもテーブルに置いたサラは、時田の目が自分の左手小指に向いているのに気づき、くすっと笑った。
 「ええ。うるさく詮索する人間もいない場所でなら、構わないでしょう?」
 「確かに」
 今のサラが着けるにしては、明らかに安物の、銀の指輪。25年前、時田がバイト代でサラのために買った指輪だ。
 銀製品は、手入れをしなければ、すぐに変色し、輝きを失ってしまう。25年経った今でも、その指輪は昨日買ったばかりのように輝いていた。
 わかっている―――サラが、何を一番求めているのかは。
 「―――さて。お酒も揃ったことだし、本題に入りましょうか」
 向かいの席に座ったサラは、肩にかかったブロンドヘアを掻き上げると、テーブルの上の写真を手に取った。
 「単刀直入に訊くわ。…これは、あなたの指示で撮らせたもの?」
 「―――いや、違う。成田君と奏の望みで撮ったものだ」
 「あなたの視点は、一つも入ってない訳ね?」
 「当然」
 「…あなたは、この写真、どう思う?」
 水割りを手にした時田は、その問いに、静かな笑みを浮かべた。
 「…いい写真だ。奏のいい部分を、上手く引き出してる。あの子はモデルになった当初、自我を表に出しすぎて“個性が強すぎる”って散々クレームをつけられたけど―――合うカメラマンと組めば、いい作品が作れるってことが証明できて、良かったよ」
 ちょっと言葉を切り、時田は、ついでのように付け加えた。
 「―――これであの子も、やっと“Frosty Beauty”とは決別できるだろう」
 時田を真正面から見据えるサラの目が、その言葉に、寂しげにすっと細められた。
 サラの目が、そのまま、手にした写真に落とされる。
 そこには、端正な顔立ちとはアンバランスなほどに、少年ぽい荒削りな笑い方をする奏の姿があった。1枚めくると、真っ直ぐに前を見据えて、静かに涙を流している姿。もう1枚めくると、どこか別空間のことを考えているかのように、遠い世界に目を向けて佇む姿。そして―――全身から炎のようなエネルギーを発してカメラを睨み据えた姿。
 「…確かに…こっちの彼の方が、惚れるわね」
 奏との電話を思い出し、サラは疲れたような笑い方をした。

 サラにとって、奏が演じる“Frosty Beauty”は、失ってしまった親子の繋がりを、唯一感じさせるものだった。
 自分と、奏や累を繋ぐもの。千里の光に包まれた子供達の中で、唯一、奏がカメラの前で見せるあの氷の彫刻のような美貌だけは、自分の血を感じさせるものだった。
 嬉しかった。自分の欠片を、奏の中に見つけられた気がして。かつて自分が歩んだ道を、そうとは知らず、息子の奏が歩んでいる―――その事実が嬉しくて、奏を愛しいと思った。
 時田は認めてくれないけれど、“サンドラ・ローズ”に誇りを持っていいんだ。一番大事なものを失ってしまったけれど、後悔する必要はないんだ―――奏が演じる、“サンドラ・ローズ”を彷彿させる姿は、サラにそんな錯覚を与えてくれた。

 …けれど。
 その錯覚は、この写真で打ち砕かれた。
 写真を見る目が確かなサラだからこそ、わかってしまう。“サンドラ・ローズ”なんて、ただのマネキン人形だ。
 一番大切なものを捨てて手に入れたものは、それに値しない、馬鹿げた虚像に過ぎなかったのだ。…その事実を、もう認めるしかなくなってしまった。

 「…バカ…みたい…」
 写真を持ったサラの手が、小刻みに震える。サラは、組んだ膝に肘をつき、空いている片手で目頭を押さえた。
 「本当に…バカみたい…」
 声をあげず、両肩を震わせて泣くサラを、時田は沈痛の面持ちで眺めた。

 サラは、ちゃんと理解している―――時田が何故、自分を撮ろうとしてくれないのか。
 時田は、“サラ”を撮りたくない訳ではない。ファインダーの向こうに“サンドラ・ローズ”を見つけるのが嫌なのだ。でも、サラは、まさしくその“サンドラ・ローズ”を時田に撮って欲しかった―――時田が撮ってくれれば、“サンドラ・ローズ”は失敗ではなかった、自分の選択は完全な間違いではなかった、と本当に信じきれると思ったのだろう。
 ―――そんなことは、させられない。
 認められない。“サンドラ・ローズ”なんて。
 あんなものが、自分を捨てるだけの価値のあるものだなんて、絶対に認めない。サラを失い、孤独に苛まれ、日々、サラが他の男の腕の中にいる悪夢を見て体中が引き裂かれそうになった、あの頃の自分―――それに見合うだけの価値が、あんなものにあるとは、絶対に認められない。

 「…郁夫は、酷いわ。いつも、一番重要なことは言ってくれない。“サンドラ・ローズ”の何がいけないのか、結局、私が自分で思い知らされるまでは教えてくれなかった」
 時折、小さくしゃくり上げながら、サラは涙声で続けた。
 「そうよ、郁夫は酷い男なのよ。私が抱いてって迫れば抱く癖に、絶対に“やり直す”って言葉はくれない」
 「…それは、約束しただろう?」
 時田がため息混じりに言うと、サラは顔を上げた。憤りと悲しみで、涙が次から次に溢れてくる。
 「確かに約束したわよ! 最初に“やり直して”ってあなたに縋った時―――私達は、奏と累に対して大きな罪を背負っているのだから、2人で幸せになる道だけは絶対に選んじゃいけないって! 私達は、一生“家族”にはならない―――子供を育てていく義務を、両親ともども放棄した責任を、そういう形で背負っていこうって!」
 「そうだよ。それは君も納得したよね」
 サラの顔が、まるで叱られた子供みたいに歪む。その表情は、時田と知り合った頃のサラそのままだった。
 「納得、したわよ? でもね―――でも、郁夫。“家族”にはなれなくても…“恋人”にはなれるんじゃないの?」
 「……」
 「私、“家族”としてのあなた達は裏切ったけど、“恋人”としてのあなたを裏切ったことは、一度もない。他の男に心を奪われたりしてない。それでもダメなの? 馬鹿な私には、救われる道なんて一つもないの…?」
 昔と同じ目が、必至に縋りつく。時田は、苦しげに眉を寄せると、視線を逸らした。
 暫く、そうやって視線を逸らしていた時田は、やがて何かを決意するように唇を強く引き結ぶと、足元に置いていたカメラを手に取った。
 手にしたのは、ライカM3―――最近では滅多に手にしなくなった、時田のプライベート用のカメラだ。
 ライカを構えた時田は、ファインダーを覗き込み、サラをフレームの中央に捉えた。
 驚いたように目を丸くするサラの泣き顔が、そこにはあった。
 多少、造作は違っているが、その目や口元は、昔のまま―――時田が、時間すら忘れて撮った、あのサラ・ヴィットのまま。“サンドラ・ローズ”は、欠片も見つからなかった。
 ―――撮りたい。
 僅かに戻ってくる、あの、感覚。
 その、本当に小さな本能に従うように、時田はシャッターを切った。

 シャッターが切られても、サラはまだ、目を丸くしたままだった。
 ファインダーから目を離した時田は、大きなため息を一つつくと、微かな笑みをサラに向けた。
 「―――君が望むような関係になるには、あと何年もかかると思うよ?」
 「―――…」
 「すぐに“恋人”には戻れない。君が憎いとか恨めしいとか、そういう事じゃない。ただ…戻れない。修復できずにいた時間が長すぎて、まだ無理なんだ。それでも―――君は、待てる?」
 涙を湛えたサラの瞳が、大きく揺れた。
 意味を考えるように、暫く、視線があちこちを彷徨う。そして再び時田に視線を戻した時、サラの目は「本当に?」と時田に問いかけていた。その反応が、まさしく昔のサラそのままだったので、時田は思わず苦笑してしまった。
 「君が、“サンドラ・ローズ”と決別するなら、ね」
 「…もう、彼女には愛想が尽きたから、未練はないわ」
 サラの顔に、笑みが戻った。
 「何年でも、何十年でも待つわ。だから―――失ったものの、ほんの一部でいいから、取り戻させて」


 そう―――何年後か、何十年後か、取り戻せるかもしれない。
 裏切られても、君以外は愛せなかったから。どれだけ憎みきろうと思っても、最後まで本当に憎むことはできなかったから。

 君しか、いないのかもしれない―――あの日失った本能を、僕に取り戻させることができる人は。


***


 “VITT”のポスターとして、瑞樹が撮った奏の写真のうち2点が正式に採用された、と通達があったのは、明けて火曜日―――瑞樹と蕾夏が帰国する日まで、2週間を切っていた。

 「…案外やるな、サラ・ヴィット」
 面白くない、という顔をした瑞樹は、ボールペンを弄びながらそう呟いた。
 「だって、時田さんも認める位に、写真を見る目は確かなんでしょ? それなら、当然わかる筈だよ。以前の奏君の写真と、今回の奏君の写真―――どっちがより魅力的かなんて」
 にこっと笑った蕾夏は、ベッドの上に広げられた、“写真集”の選考から漏れた写真を、丁寧に片付けている。
 「それより、いい名前浮かんだ?」
 「んー…、さっぱり」
 瑞樹の顔が、ますます不機嫌になる。
 机の上には、人の名前が書かれた紙が、現在のところ3枚―――そう。瑞樹が今やっているのは、イギリスに発つ前、妹の海晴に頼まれたこと。数日中には生まれる筈の海晴の子供の、名前を考えているのだ。
 倖の死で、瑞樹が一番心配したのが、臨月を迎えている筈の海晴のことだった。
 電話してみたところ、覚悟はできていたのか、思ったよりは気丈に振舞っていた。母の見舞いなどの機会に、久々に父に会えて嬉しかった、と言えるだけの余裕があったのだから、ひとまず安心だろう。
 「男の子か女の子か、聞いてないの?」
 「あえて医者に訊いてないらしい」
 どちらか判明してから名前を決めようと思っていた瑞樹としては、ちょっと予定外。おかげで、男女両方の名前を考えなくてはいけなくなってしまった。
 「私、瑞樹の“樹”って字、好きだなぁ」
 写真の束を膝の上でトントン、と揃えながら、蕾夏はそう言って微笑んだ。
 「お父さんの名前にもついてるよね、“樹”って字。イズミ君の名前じゃないけど、“樹”にも命を感じるなぁ…」
 「そうか?」
 「うん。ほら、屋久島で見た、あの屋久杉―――あれを思い出す。地面から水を吸い上げて、太陽の光を少しでも沢山浴びようと、一生懸命枝を伸ばして葉を繁らせる、力強い木をイメージできるの」
 「…ふーん」
 「瑞樹の“瑞”は、めでたい、とか瑞々しい、ってことだから、瑞樹の木はきっと、生命力いっぱいの若木だね」
 「…50になっても60になっても“若木”のまんまかよ。なんかなぁ…」
 「そんなこと言ったら私なんて、おばあさんになっても“蕾”のまんまで、全然花開かないよ?」
 思わず、2人して顔を見合わせて苦笑してしまう。
 けれど、悪い気はしない。きっと、親がこの名前に託した思いは、“可能性”―――未完成な、まだこれから成長していけるものを名前にすることで、いろんな未来の可能性を託したのだ。きっと。

 お互いの友人の名前を肴にして“命名談義”などをしていたら、ドアが3回、ノックされた。
 時計は、午後10時―――顔を見合わせ、何だろう、という顔をした2人だったが、時田からの連絡かな、と思いつつ、瑞樹が部屋のドアを開けた。
 立っていたのは、千里だった。何故か、どういう顔をすればいいのか困っているような、微妙な表情をしている。
 「ごめんね、2人とも。くつろいでるところに」
 「いや…何?」
 「―――奏が、来てるの」
 瑞樹の顔が、僅かに緊張する。
 「2人に会いたいって。…どうする?」


***


 階段下の廊下に佇みながら、奏は、言うべき言葉を、頭の中できちんとまとめようとしていた。
 いざとなれば、きっと上手く言葉にならないのだろう。感情ばかり先走って、言いたい事の半分も言えないかもしれない。
 ―――それでも、伝えないと。
 無意識のうちに弄っていた金色の前髪を掻き上げ、奏はゆっくりと息を吐き出した。
 「奏」
 千里の声に、はっと顔を上げる。
 階段を途中まで下りてきた千里は、硬い表情の奏に向かって、安心させるような笑みを見せた。
 「2人とも、会ってくれるって。上がっていいわよ」


 伝えた先に、何があるのか―――それは、まだ、わからないけれど。

 伝えることで、きっと、次の1歩を踏み出せる。それを信じて、奏は階段の手すりに手を掛けた。


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