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zone exit ―

 

 階段を上りきった奏は、ちょうど部屋を出てきた瑞樹とぶつかりそうになり、慌てて体を引いた。
 「え…? どこ行くんだよ」
 目を丸くする奏とは対照的に、瑞樹は無表情に近い涼しい目を奏に向けてきた。
 「お前らの部屋」
 「…でも…」
 おそらくは蕾夏がそう頼んだのだろうが―――いいのだろうか、自分を蕾夏と2人きりになどして。そう思った刹那、瑞樹がその考えを読んだかのようにつけ加えた。
 「ドアは開けとけ。それと―――わかってるよな」
 真っ直ぐに奏の目を見据える瑞樹は、そう言うと口の端をつり上げ、相手を威嚇するような笑みを作った。
 フラットに突然やって来た時の、瑞樹のあの冷笑を思い出し、奏の背中をゾクゾクとしたものが走る。“わかってるよな”の内容を瞬時に把握した奏は、少しひきつった顔で黙って頷いた。
 威嚇は十分だと判断したのか、瑞樹はそれ以上何も言わずに、奏と累が使っている部屋のドアを開け、その中へと消えた。勿論、ドアは半開きにしたままだ。蕾夏が呼べば、すぐに駆けつけられるように。
 ―――ちぇ…、やっぱり策士だよな、こいつって。
 蕾夏と2人きりにするのは、「お前を信用している」という言葉の裏返しに違いない。そして奏は、そんな瑞樹の隠れた言葉を、決して裏切ることはできない。蕾夏の信用を失うのも怖いが、それと同じ位に、瑞樹の信用を失うのも怖い―――自分のそんな部分は、きっと彼に既に見抜かれているのだろう。
 癇に障る―――なのに、惹きつけられる。
 全く、2人揃って、本当に厄介な存在だ―――奏は、小さく波立った気分を改めようと、大きく深呼吸をした。

***

 ドアが開いた瞬間、蕾夏の心臓はドキン、と音を立てたみたいに跳ねた。
 一瞬、息を呑む。膝の上で組んだ手にぐっと力を入れて待つと、内側に押し開かれたドアの向こうから、少し不安げな顔をした奏が、顔を覗かせた。
 普段着姿の奏は、“VITT”のスーツをまとっていた時に比べて、随分子供っぽく見える。叱られるのを覚悟で職員室を訪れた学生みたいなそのムードに、蕾夏は体の緊張を解き、思わず微笑んだ。
 「…ごめん。こんな時間に」
 蕾夏の笑顔に後押しされたように、奏が小さく呟いた。
 「ううん、いいよ。まだ寝るような時間でもないし」
 そう蕾夏が答えると、奏の表情が僅かに和らいだ。
 「―――良かった。ほんとに聞こえるようになったんだな」
 「…立ったままじゃ話し難いよね。とりあえず、そこ座って?」
 音を失っていた件については、自分の精神的な弱さを露呈しているようで、あまり触れられたくない。蕾夏は、奏の言葉には何も返さずに、机の前の椅子を目で指し示した。かく言う蕾夏は、ロフトに上がる階段に腰掛けている。奏とは結構離れているが、下手に近くで話すより、この方がお互い気を遣わなくていいと思ったのだ。
 ドアに手を掛けたまま佇んでいた奏は、瑞樹の指示通りドアを半分位開け放ったまま、部屋の中へ足を踏み入れた。そして、蕾夏との距離を確認するかのように、一瞬その目を宙に彷徨わせた後、机の前の椅子をがたん、と引いて、そこに大人しく腰を下ろした。
 何から話せばいいのか―――改めてこういう状況をセッティングされると、奏もやり難いらしい。でも、蕾夏はこういう沈黙が一番苦手だ。
 「あの―――“VITT”の撮影、お疲れさま。今日、使う写真決まったみたいで、やっとホッとできたけど」
 思わず、自分の方から口火を切ってしまう。
 唐突な話の展開に、奏はちょっと目を丸くしたが、きっかけができたことに安堵したのか、自然な笑みを浮かべて答えた。
 「ああ、うん…オレも、ホッとした。…サラ・ヴィットの目がいくら郁のお墨付きだって言っても、あの女のことだから、意地になって“撮りなおし”なんて言いかねないな、と思ってたから」
 「…じゃあ、奏君は、瑞樹が撮ったあの写真、気に入ってるんだ?」
 「まぁね」
 照れたり反発したりする素振りも見せず、奏は、どこか確信を持ったような声で、そう答えた。その目が妙に真剣味を帯びているのに気づき、蕾夏はちょっと不思議に思った。
 「いろいろ周りに迷惑かけた部分あったけど―――やってよかったって、オレ、思ってる。あの時、あんたに“カメラの前で嘘つくな”って言われたから、勝負できたんだと思う。…感謝してる」
 「今日は妙に素直だね」
 くすっと蕾夏が笑うと、奏もつられるように笑った。が、それも一瞬のことで、すぐに奏は、しまった、という顔をして眉間に皺を寄せた。
 「―――ああ、畜生」
 そう呟いた奏は、部屋の照明を反射してほぼ金色に見える髪を、乱暴に掻き毟った。大きなため息を一つつくと、改めて蕾夏の方に向き直る。その目は、もう僅かな笑みも残してはいなかった。
 「…ごめん」
 「……」
 「あんたの笑う顔見ると、つい、忘れそうになる。でも―――オレのやったことは、消えた訳じゃない」
 蕾夏の顔からも、笑みが消えた。それを見て、奏は辛そうに目を伏せ、座ったまま深く頭を下げた。
 「ごめん―――謝って済む問題じゃないけど…本当に、ごめん。傷つけて」
 「―――…」

 階段の中ほどで膝を抱えたまま、蕾夏は、全身に後悔の思いを滲ませて頭を下げる奏を、少し硬い表情で眺めていた。
 じりじりとした時間が流れる。奏は、頭を下げたまま動こうとしない。ただじっと、蕾夏が何か言葉を返してくるのを、ひたすら待っている。言い訳をするのは見苦しい―――そう考えているのかもしれない。
 蕾夏だって、言い訳など聞きたくない。
 けれど、「ごめん」の一言で「いいよ」と言える訳もない。

 「…ねぇ、奏君」
 不思議なほど静かで穏やかな声に、自分でも少し、驚く。顔を上げた奏も、予想外な声音に、少し目を丸くしている。
 「奏君の望みは、何だったの?」
 「…えっ」
 「ああすることで、何が欲しかったの? どんな結末が、奏君が欲しかった結末なの?」
 奏のブラウンの瞳が、僅かに揺れる。
 けれど、それに対する答えは、既に自分の中にあったらしい。奏は、コクン、と唾を飲み込むと、蕾夏の目から目を離さずに、静かに告げた。
 「―――どんな結末も、望んでなかった。ただ―――伝えたかっただけだ」
 「……」
 「あんたが、好きだって。オレの気持ちに少しも気づいてくれないあんたに…成田のことしか目に入らないあんたに、オレはこんなにあんたを必要としてる、こんなに欲しいと思ってる―――それを、伝えたかっただけ」
 ―――“好きだ”って、伝えたかっただけ…?
 奇妙なほどにシンプルな答えに、蕾夏は目を見開いた。
 「わかってたから―――オレがどんなに努力しても、あんたを成田から奪うなんて無理だって、最初からわかってたから、辛くて、苦しくて、どうしていいかわからなかった。でも…違う。あんな事がしたかったんじゃない。辛い思い出として一生あんたの中に残りたかった訳じゃない」
 膝の上の奏の拳が、微かに震える。奏の視線も、力の入る拳にひっぱられたかのように、膝の上に落ちた。
 「ただ、刻み付けたかった。どこかに。捨てるしかない想いを、どこかに―――多分、蕾夏自身に」
 「私、自身に…?」
 「…少しでもいいから、受け取って欲しかったんだと思う。行き場が無くなったものを」

 ―――行き場が無くなったもの。
 それは、奏の、想い。
 せっかく生まれたのに、報われることのない、捨て去るしかない、想い。
 切なくて切なくて―――捨て去るのが、辛すぎて。だから、それを、少しでいいから受け取って欲しかった。

 胸が、痛くなった。
 許せた、というのとは、違う。ただ、胸が痛くなった。
 子供の頃の自分には、わからなかった、痛み。でも、今なら、わかる―――人を愛し、それ故に苦しんだり、誰かを憎んだり、嫉妬したりする、人間の心の弱さ。それを、今の蕾夏は、知っているから。
 誰もが持っている弱さ。奏はただ、その想いの伝え方を間違えただけだ。

 ―――少しだけでも、受け取れればいいのに。
 俯く奏を、悲しげに眉を寄せて見つめていた蕾夏は、ふと、あることを思い出した。
 3月になったばかりの頃―――瑞樹とすれ違ってしまった時のこと。千里に相談して、自分が瑞樹の気持ちをちゃんと理解していなかったことに気づき、瑞樹に何度も告げた。ごめん、と。
 いつもは、ごめん、の応酬になるのに、その日はならなかった。瑞樹が言った一言―――「もう、いいよ」。その言葉で、蕾夏の謝罪の気持ちは、行き場を失うことなくちゃんと瑞樹に受け止めてもらえた。

 …そうか。
 人間は、言葉でも想いを受け止められるのか―――…。

 奏の言葉を、頭の中で咀嚼するように繰り返す。そして、その中から、今言うべき言葉を見つけると、蕾夏はフワリと柔らかな微笑に顔をほころばせた。
 「―――ありがとう、奏君」
 呟くような言葉に、奏の肩がびくん、と反応する。
 顔を上げた奏の目は、驚いたように大きく見開かれていた。その目を見つめ返して、蕾夏はもう一度、繰り返した。
 「ありがとう―――私のこと、好きになってくれて」
 「……」
 「奏君の想いには、私、応えることできない」
 奏の顔が、僅かに強張る。十分理解していることでも、やはり口に出して断言されると、平然とはしていられないのだろう。
 「応えてあげられたら、私も、奏君も、もっと楽なんだと思う。でも―――私は1人しかいないから。半分に分けることもできないから。だから…一度に愛せるのは、1人だけなの」
 「―――…」
 「ごめんね。苦しいばっかりで。でも…ありがとう。こんな私を好きになってくれて」
 奏の瞳が、大きく揺れた。
 信じられないものでも見るように、蕾夏の顔を凝視し続ける。やがて、その目には、知らず涙が浮かんできた。自分でもそのことに気づいたのだろう。奏は、バツが悪そうに目を逸らすと、手の甲で軽く涙を拭った。
 「…あんた、なんでそんな優しいこと言うんだよ」
 「優しい?」
 「オレ、あんたに殺される覚悟でここにいるのに―――罵られても平手打ちされても当然だって、そう思ってるのに…なんでそうしないんだよ」
 「…そんな事しても、あの日の記憶も、痛みも、消える訳じゃないもの」
 少し、声に力がなくなる。蕾夏は、奏の存在も忘れて感傷に浸ってしまいそうな自分を感じ、寂しげにふっと笑った。
 「仕方なかったとか、全て水に流そうとか、そんなきれい事は、言えないし、言いたくない。でも―――報復したいとも思ってないの。そんな事しても、何の解決にもならないってわかってるから。だから…痛みと折り合いをつけながら、生きてくしかないの。目に見えない位に小さな欠片になるまで―――私も、奏君も」
 「……」
 「まだ、傷は痛むけど―――私、奏君の痛みも、ちゃんと理解できたから。だから、奏君を憎いとは思わない。辛い思い出も残ったけど、それ以上に―――苦しむだけだってわかってても私を好きになってくれた人として、奏君はちゃんと私の中に残っていくよ。日本に帰っても、ずっと」

 “好きになってくれた人として、残っていく”。
 その言葉に、逸らされた奏の目から、涙が零れ落ちた。
 気性の激しい奏だけれど、涙はいつも静かだ。何故なのだろう―――蕾夏は、1枚の絵みたいに整った奏の横顔を眺めながら、それを不思議に思った。


 ―――やっぱり、こんな風に、ちゃんと向き合えばよかった。
 殺せと、殺してその罪悪感に一生囚われて生きろと言った彼の言葉、その本当の気持ちを、本当の望みを、ちゃんと確かめておけばよかった。
 目を逸らさずに、こんな風に話し合えば、佐野君の夢も見ずに済んだかもしれない。でも―――できなかった。まだ子供だった、あの頃は。

 悲しげに目を伏せた蕾夏は、取り返せない過去に、胸を痛めた。

***

 「―――うちの事務所との契約、切ろうと思うんだ」
 奏が静かに言い放った言葉に、瑞樹と蕾夏は息を呑んだ。

 蕾夏との話がついた奏は、どうしても2人に話があると言って、瑞樹が退避していた奏と累の部屋にやってきた。
 ベッドの端に腰掛ける奏と向かい合うように、自分達の部屋から運んできた椅子と、この部屋の椅子を並べて、瑞樹と蕾夏が座る。何を話す気なのか、と訝る2人に、奏が最初に言ったのが、この言葉だった。

 「事務所、って、モデル事務所のこと…だよね?」
 驚きを隠せない声色で、蕾夏が念のため確認をとる。すると奏は、真剣な面持ちでゆっくり頷いた。
 「で…でも、どうして? 凄くお世話になったんでしょ?」
 「…うん。本当に、世話になった。特にあのマネージャーは、あるかどうかもわからないオレの将来性なんかに賭けて、必死に仕事を取ってきてくれたんだ。感謝してる―――その気持ちは、今も変わらない」
 「じゃあ、何故…」
 眉を寄せる蕾夏に、奏は唇を軽く噛み、視線を手元に落とした。少しの間、黙って俯いていたが、突然顔を上げると、奏は真っ直ぐに瑞樹の目を見据えた。
 「なぁ、成田。あんた―――この前の“VITT”の時のオレ、どう思う?」
 「…は?」
 唐突な話に、瑞樹は腕組みをしたまま眉をひそめた。
 「あの時のオレと、これまでのオレ―――どっちを続けていくべきだと思う?」
 「―――お前、それを俺に訊くか? 訊くまでもないだろ」
 ちょっと呆れたような声を返す。そう、訊くまでもないことだ。瑞樹は最初から言っていたのだから。“人形”なんて撮る意味はない、と。
 「…オレも、そう思う」
 瑞樹の答えは、奏もわかっていたのだろう。具体的な返事をしなくても、奏はそう言って更に思いつめたような表情をした。
 「わかったから…オレがずっと求めてたのは、あれだって。外見じゃなく、中身で評価されたい。見た目だけを欲しがる連中に、ずっとずっとうんざりしてた。もう“Frosty Beauty”には戻りたくない」
 「じゃあ、戻るな」
 「―――戻れって言うんだよ、周りの連中は」
 「……」
 「マネージャーも、社長も―――売れてるのに、何故路線変更するのかわからないって言う。今日、“VITT”に採用された写真だって、いい写真だけど駄目だって言うんだ。理由は簡単だよ。あれが“Frosty Beauty”じゃないから―――あいつらがマネージメントして大切にしてるのは、オレじゃない、“Frosty Beauty”なんだ」
 憤りのあまり、奏の唇が微かに震える。瑞樹もまた、その話には激しい憤りを感じた。
 事務所の連中があの中身の空っぽな人形に固執するのは、要するにそれが大金を稼ぎ出すドル箱だからだろう。金に目が眩んで、本当の良し悪しも見分けられなくなっているのだろうか。それとも、元々見分けるだけの目もない癖にこの業界にのさばっているのだろうか―――何にせよ、自分が撮った奏より“Frosty Beauty”の方を評価されるのは、我慢ならないほどに腹立たしい。
 険しい目をした瑞樹は、表面上、冷静さを保ちつつも、「それで?」と低い声で続きを促した。
 「…あそこにいる限り、オレは“一宮 奏”になれないんだ。だから、事務所とは、決別しようと思う」
 「それって、フリーになるってこと?」
 蕾夏が心配そうな声で口を挟むと、奏は軽く頷いた。
 「多分、今より収入は減ると思う。一人暮らしは無理になるかもしれない。でも、オレを必要としてくれるんなら、イギリスにもこだわらない。どこにだって行く―――パリでも、ニューヨークでも…東京でも。オレを撮りたいって言ってくれる奴のいるとこなら、どこでも」
 揺るぎない口調でそう言うと、奏は再び瑞樹の目を見据えた。
 「だから、成田―――もう1回、オレを撮って欲しいんだ」
 「え?」
 「ポートフォリオを、作りたいんだ。あんたが撮った写真で」
 そう来るとは、さすがに思わなかった。思わず目を丸くする瑞樹に、奏は更に身を乗り出した。
 「これまでの実績じゃ、これからのオレを売り込むためのポートフォリオは作れない。オレが知ってる中では、唯一、あんただけなんだ。オレの中身を撮れる人間」
 「時田さんが、いるだろ」
 「そうかもしれないけど、オレは、あんたに撮ってもらいたい」
 「……」
 「ちゃんと、相場通りに撮影料も支払う。フィルム1本分で構わない―――それでも、駄目か?」
 必死とも言える、奏の形相。
 何故、時田ではなく、自分なのだろう―――瑞樹は、不思議な気分で、奏の真剣な目を見つめ返した。
 あれほど、時田に撮ってもらうことにこだわり続けていた奏なのに、自分の方がいいと言う。いつ、時田と自分の位置づけが逆転したのだろう? 自分の生い立ちがわかった途端、もうこだわる気持ちはなくなったのだろうか?
 人生の転機となる写真だからこそ、時田に撮って欲しいと、以前の奏なら言う筈なのに―――まさか、自分達の知らないところで、また時田とひと悶着あったのでは。…そんな考えが、一瞬頭をよぎる。僅かに戸惑った表情をした瑞樹は、その答えを求めるように、無意識のうちに蕾夏の方に目を向けていた。
 蕾夏にも、瑞樹の戸惑いは伝わったのだろう。彼女は、珍しい瑞樹の表情を楽しむような目をして、明るい声で告げた。
 「撮ってあげれば? カレンや他のモデル達は撮ったのに、奏君撮らないなんて不公平だよ?」
 「…そりゃ、そうだけど」
 「良かったね。まだ日本に帰ってないのに、もう初仕事もらえて」
 「…こいつが初仕事かよ。幸先悪…」
 軽く眉を上げてそう言う瑞樹に、奏がむっとしたように口を尖らせた。でも、それが瑞樹なりの同意の言葉だと気づいている蕾夏は、捻くれた瑞樹らしい表現に、おかしそうに笑い声をたてた。

 ポートレートがどうしても撮れなかった自分の初めての仕事が、よりによってポートレートとは、何とも妙な話だ。
 でも―――悪くない。

 時田に「写真を見る目は確かだ」と太鼓判を押された奏が、時田より瑞樹を選んだのだ。しかも、苦手なポートレートの分野で。
 悪い気は、しない。
 それどころか―――最高に、愉快だった。

***

 それからの1週間は、あっという間に過ぎた。

 時田のアシスタントとしての仕事はまだ普通通りにあったし、その合間に奏のポートフォリオ用の撮影もこなした。時間が空けば、蕾夏と2人で撮り残した風景を撮影しに行った。帰宅すれば、待っているのは、半年の間に部屋中に散らばり増殖してしまった、荷物の整理である。
 「テラリウムは、空輸できないよねぇ…」
 フロアベッドの傍らにあるサボテンのテラリウムを手にして、蕾夏は残念そうにため息をついていた。確かに、これは持ち帰るのは厳しい。日本に着く頃には、ガラス容器は割れて、色砂は全部零れているだろう。
 そんな風に、持ち帰れず、処分するしかないものも、いくつかある。半年という短い時間だが、この部屋に対する愛着もある。帰国までの時間をカウントダウンしつつ、2人は、なんとなく寂しい気分を静かに噛みしめた。

 そんな中、瑞樹は、時田に頼んで半日ほど休みをもらい、1人で写真を撮りにぶらりと出かけたりもした。帰国すれば、蕾夏と一緒に撮りに行く訳にはいかない。そのための、予行演習のつもりだった。
 以前、1人でハイド・パークを撮った時は、あまりの味気なさに、ものの10分で撮影をやめてしまった。今は、どうだろう―――そう考え、あえて前と同じハイド・パークを訪れた。
 手にしたカメラは、ライカではなく、ニコン―――まるで条件反射みたいに、瑞樹は仕事モードになる。
 鮮やかな色合いに生え揃った芝生や、明るい若葉色から深い緑色へと変わりつつある木々をフレームに収め、探す―――“色”を。どんな色を撮れば、このむせ返るような草いきれや、今感じている5月の風を、ほんの僅かでも第三者に伝えることができるだろうか…そう考えながら。
 気づけば、あちこちを歩き回り、“色”を探し続けた瑞樹は、都合2時間近くをハイド・パークで過ごしていた。その間に撮った写真は、フィルム1本半―――蕾夏と一緒の時ほどではないが、前回とは比較にならなかった。
 時田の指導は、正しかった。
 職人に徹して、何にでもカメラを向ける―――今の瑞樹には、それが自然にできるのだから。

 

 ロンドン滞在もあと数日となった日、時田は、瑞樹と蕾夏を、グリニッジに誘った。
 時田は、ライカM3を持参していた。考えてみたら、この半年で時田がライカを手にしているのを見たのは、初めてかもしれない。
 「本格的に、こっちに主軸を置くつもりなんだ」
 リスの観察に夢中になっている蕾夏を遠くから眺めつつ、時田がそんな事を口にした。
 時田同様、芝生に直接腰を下ろして蕾夏を眺めていた瑞樹は、その言葉に、時田の方に訝しげな目を向けた。
 「こっち、って…じゃあ、日本は?」
 「マンションは、売り払う予定なんだ。生活基盤は、こっちに置く。仕事で日本に行く時は、ウィークリーマンションでもホテルでも、まぁ何とかなるだろう」
 「そんな程度で、こなせるんですか、仕事は」
 「―――だから、君をアシスタントにして鍛えたんじゃないか」
 珍しく不敵に笑った時田は、そう言うと、着ていたジャケットの内ポケットから、1枚の紙を取り出した。
 A4サイズを四つ折にした、白い紙―――時田にそれを差し出され、瑞樹は不審に思いつつも受け取り、素直に広げた。
 「バツがついてるのが、これを機会に契約を終了する仕事。丸がついてるのが、君に引き継ぐ仕事。残りは、今後も僕が続ける仕事。…君達がこっちを発ってから1週間以内には、僕も一度、日本に行く。もう電話やメールでOKはもらってるけど、一応顔合わせにはついて行かないとね」
 「―――…」
 ざっと20件弱並んでいる、会社名や雑誌名。丸がついているのは、広告代理店が2社、雑誌名が2つだった。せいぜい雑誌1冊程度と踏んでいた瑞樹からすると、4つという丸の数は、かなりプレッシャーだ。が、雑誌名の一方を確認した時、瑞樹の目は、その一点に釘付けになった。
 「―――“月刊A-Life”って…」
 「…うん。淳也さんとこの日本支社が出してる雑誌だよ」
 思わず、目を上げ、蕾夏の姿を探す。蕾夏は、50メートルほど先の芝生の上で、地元の子らしき男の子と、何やら楽しそうに話をしていた。リスが縁で、話が弾んだらしい。
 “月刊A-Life”―――もしも蕾夏が専属契約を結ぶことができたら、蕾夏が記事を書くことになる筈の、雑誌だ。
 「…時田さん、“A-Life”でも撮ってたんですか」
 「たまにね。淳也さんが日本支社にいた頃に、頼まれて撮ったことがあって、その繋がりだよ。仕事の頻度は相当低いけど、切るに切れない仕事なんだ。藤井さんの件は、まぁ、ラッキーな偶然だけど―――悪くないだろ、こういうのも」
 「…参ったな」
 勝ち誇った笑みを見せる時田に、瑞樹は降参したような笑みを返した。
 勿論、瑞樹が撮る写真に、蕾夏が文章をつけるとは限らない。他にもライターや編集者がいるのだし、カメラマンも1人ではないからだ。でも―――可能性は、ゼロではない。それを考えると、鼓動が自然と速くなる。
 いつか、2人で1冊の写真集を作り上げるのが、夢。けれど、その前にも、小さな夢ができた。2人で1つの記事を作り上げること―――写真集へと続く、最初の1歩だ。
 「その広告代理店は、実は美和ちゃんに頼み込まれて丸をつけたんだ」
 時田はそう言って、一覧の中ほどにある広告代理店名を指差した。
 “美和ちゃん”―――すっかり記憶の隅っこに追いやられていたが、そういえばそんな奴がいたな、と思い出す。鈴村美和。例の“シーガル”の件の仕掛け人だ。
 「美和ちゃん、来月結婚するんだよ。東京の広告マンと」
 「…え」
 「こっちの代理店辞めて、日本に帰って、旦那と同じ代理店に勤めるらしい。ま、その実態は、ヘッドハンテイングなんだろうけど―――で、成田君が独立するなら、キープさせて、って」
 「キープって…俺はボトルかよ…」
 「ハハハ…、でも、美和ちゃんはあの時から、成田君には目をつけてたからね。独立する時は是非、って、ずっと思ってたみたいだよ」
 眉を顰める瑞樹に、時田は面白そうに笑ってそう言った。が、瑞樹は、その時田のセリフであることを思い出し、ちょっと表情を硬くした。
 「―――俺だけじゃなく、蕾夏にも目をつけてたんだよな、あの人」
 瑞樹が、ぼそりと呟くようにそう言うと、時田の笑みが、その顔から急速に消えた。
 「あの後来た、鈴村さんからのオファー。…もし受けたら、そこで俺を見限るつもりだったって、時田さん、言ってましたね」
 「……」
 「あの一件も、イギリスに誘った時から、既に計算済みですか」
 あくまで穏やかに訊ねる瑞樹を、時田はしばし、無表情気味に静かに見つめた。
 やがて、諦めたように目を伏せた時田は、ため息と共に言葉を吐き出した。
 「…いや。あれは、偶然だ。“シーガル”の件も、君があんな試し撮りをするとは思ってなかった。何らかの形で、君に藤井さんを撮らせようとは思ってたけどね」
 「―――…」
 「ただし、美和ちゃんが君達にしたオファーは僕の“やらせ”じゃないよ。勿論、そうなるだろうとは予想してたけど…美和ちゃんが君達に仕事を頼もうとしたのは、美和ちゃんの意志だ。僕は何も助言していない―――君達に、受けろとも蹴れともアドバイスしなかったようにね」
 「…じゃあ、俺達が、25年前の時田さんと同じ過ち犯す可能性に賭けた、ってことですか」
 「―――ハハ…」
 自嘲気味に笑うと、時田は前髪を乱雑に掻き上げ、目線を蕾夏に向けた。
 どこか、何かを懐かしむような目―――時田は、よく、こんな目をして瑞樹や蕾夏を見ていた。何故なのか、以前はわからなかった。が…、真相を知った今、瑞樹には彼が何を見ているのか、よくわかる。
 彼が見ているのは、彼が25年前、失ったもの―――かつての自分と、サラの姿だ。
 「…確かに、藤井さんを手に入れたいと思った。被写体として」
 「……」
 「藤井さんをイギリスに連れてきたのは、そのためだ。正攻法に“お願い”しても、彼女がイエスと言うとは思えないからね。…具体的な計画があった訳じゃない。ただ、チャンスはあるだろうと思ってたよ。実際、1度だけあった―――あのオファーで、もし君達が身の振り方を誤ったら、その時は容赦しないつもりだった。もしそうなれば、君らの恋愛関係も破局してただろうね。僕は彼女をそういう目では見ていないけど…君には、耐えられないだろう? 自分以外の男が、彼女にカメラを向けるのが」
 ―――無茶苦茶言ってくれるよな。
 つまり、かつて、パトリック・ウェルシュが時田にやったことを、時田は瑞樹に対してやろうとしていたのだ。思わず舌打ちした瑞樹は、ため息と共に髪を掻き混ぜ、時田の横顔から視線を逸らした。
 「やっぱり“危ない橋”だった訳か…」
 瑞樹が、ため息とともにそう言うと、時田は視線を瑞樹の方に戻した。
 「―――いや。実際には、あそこで選択を誤っても、そうはならなかったと思う」
 何言ってやがる、という気分で瑞樹が少し険しい目を時田に向ける。が、時田は極めて穏やかな表情をしていた。静かに瑞樹の目を見つめ返すと、また内ポケットから、何かを取り出した。
 「気づいたからね。サラ以外では初めて、僕の本能をぐらぐらに揺さぶったものが、何だったのか」
 「―――…?」
 そう言って時田が差し出した、1枚の写真―――それは、蕾夏のスナップ写真だった。
 見た瞬間、心臓が止まりそうになった。何故なら―――そこに写る蕾夏の目は、間違いなく、瑞樹にだけ見せるあの目だったから。
 写真の中の蕾夏は、横顔だった。言葉にすると照れてしまうような想いを、全てその視線に託しているような目をして、どこか一点を見つめている。その口元は、優しげにほころんでいた。
 「成田君を見ている、藤井さんのスナップ写真だよ」
 「……」
 「僕の本能を揺さぶったのは、“君といる藤井さん”なんだ。君から引き剥がせば、もうそれは僕が手に入れたかった彼女ではなくなる―――それに気がついた時、僕のゲームは終わったんだ」
 「―――じゃあ…時田さんからすれば、俺の力になるばかりで、得るものはなかった…ってことですか」
 「いや。そんなことないよ」
 怪しむ瑞樹の目に、時田は、もう一段笑みを深くした。
 「本能のままに被写体に食らいついていく、君の狩猟犬のような目にも…そんな君を、ただひたすら真っ直ぐに見つめる彼女の目にも…僕は、毎日毎日、揺さぶられてた。そのおかげで、失ってたものを、ほんの少しだけ取り戻せた。…十分だよ。君達をイギリスに呼んで、本当に良かった」
 「…そうですか。なら…良かった」
 少し安堵したように瑞樹が言うと、時田はポン、と瑞樹の頭に手を乗せ、その目をじっと見据えた。
 「―――君は、僕が歩めなかった道を行ける」
 「……」
 「その本能を失うことなく、写真を撮り続けられる。誰にも奪われず、誰にも邪魔されずに…いつか、最高の1枚を撮れる日まで―――彼女と一緒に」
 時田の目にあったのは、嫉妬でも、敗北感でもなかった。
 あったのは、ただただ、憧れだった。
 “僕は、憧れを撮る”―――でも、時田が本能の命ずるままにシャッターを切れるようになる日も、いつかは来るのかもしれない。今、目の前にいる時田は、それを予感させるような目をしていた。
 確かに、自分達が来たのは、時田にとっても決して無駄ではなかったのかもしれない―――そう感じた瑞樹は、時田の目を見つめ返し、静かに微笑んだ。

***

 「―――最後に月が出てて、良かったね」
 フロアベッドの上で膝を抱え、天窓から射す月明かりをぼんやり眺めながら、蕾夏はふわりと微笑んだ。
 その横に寝転がった瑞樹は、斜め下から見上げたアングルで、そんな蕾夏をフレームに収め、シャッターを切った。
 「…お前、目ぇ赤くなってる」
 小さく笑って瑞樹がそう言うと、蕾夏は、ちょっと頬を赤らめて唇を尖らせた。
 「…仕方ないじゃん。千里さん、わんわん泣くんだもん。もう―――下宿してた学生が出てくシーンでは、毎回毎回、あんな風に大泣きしてるのかなぁ」
 「累曰く、あんなの初めてらしいぜ? …いろいろあったから、思い入れも大きいんだろ。同じ日本人だしな」
 「淳也さんのあの熱唱も、思い入れの大きさのせい?」
 「…あれは…単に、酒が回ってただけかも」
 全5曲、送別の歌を熱唱されて、瑞樹と蕾夏だけでなく、千里と累もげっそりと疲れてしまったのだ。そう言えば、淳也にしては珍しく、ワインを相当量飲んでいたことを思い出し、蕾夏は納得してクスクス笑った。
 一宮家で過ごす、最後の夜。
 でも、奏は最後まで、姿を見せなかった。
 多分、明日も見送りには来ないだろう。フラットを引き払い、この家に戻ってくる日を明日にしたのも、「引っ越しで忙しい」と言い訳をするためかもしれない。そんな行動は、いかにも彼らしい―――瑞樹も蕾夏も、そう思った。
 「でも、“VITT”のポスターの印刷、帰国に間に合って良かったね」
 昼間見た大判ポスターを思い出した蕾夏は、瑞樹の横のスペースにごろんと寝転がり、明るい笑顔を見せた。
 「あの2枚が選ばれるとは、ちょっと意外だった。瑞樹としては、どう?」
 蕾夏がそう言って瑞樹の顔を覗きこむと、瑞樹は眉間に皺を寄せた。
 「―――確かに、ちょっと意外だった。なんかなぁ…面白くねーよなー、あのサラ・ヴィットがあの2枚を選んだと思うと」
 選ばれたのは、真っ直ぐにカメラを見つめたまま涙を流している写真と、ちょっと楽しげな笑みを口元に浮かべて、スーツの上着を羽織ろうとしている写真。静と動―――うまいコントラストになっていた。
 「時田さんのお墨付きは伊達じゃなかったんだね」
 「…まぁな」
 ますます面白くなさそうな顔をする瑞樹に苦笑しつつ、蕾夏は枕に頭を沈めた。

 「―――こうやって、同じ部屋で寝るのも、今日が最後なんだね。…なんか、変な感じ」
 ポツリ、と蕾夏が呟いた言葉に、今度は瑞樹の方が苦笑した。
 体の向きを変え、蕾夏の方を向いた瑞樹は、すぐ傍にある蕾夏の髪に、無意識のうちに指を絡めた。
 「来た頃は、同じ部屋で寝起きする方が“変な感じ”だったのにな」
 「そうなんだよね。あー…、なんか、日本帰ってから大丈夫かな、とか心配になってくる。1人でベッド入って、ちゃんと眠くなるかなぁ」
 「…それは、俺に、毎晩通って添い寝しろ、って言ってる?」
 「言ってませんっ」
 憤慨したような声でそう言い切り、蕾夏が瑞樹をキッ、と睨む。が、月明かりの下でも、その頬が赤く染まっているのがわかる。それを見て、瑞樹は思わず吹き出した。
 「バカ、真に受けんなって。おもしれー」
 「もーっ! また面白いって言う! なんかそれ、腹立つっ」
 ぷい、とそっぽを向く蕾夏に、瑞樹は余計笑った。それでも、指に絡めた髪を、軽くくいくいと引っ張り、蕾夏を振り向かせる。
 「…何よ」
 憮然とした顔で振り向いた蕾夏に、瑞樹は、からかいを含まない笑みを返した。
 枕に添えられた蕾夏の手を引き剥がし、軽く右手で包む。触れ合った手のひらから、互いの体温が緩やかに流れ込んでくる。
 「冗談抜きで―――どうしても眠れなかったら、呼べよ」
 「―――…」
 「飛んでって、眠れるまで、こうしててやるから」

 きっと、眠れない日々が、この先には待っているだろう。
 2人とも、まだ、抱えている。倖の記憶を。そして、佐野の記憶を。倖が死んでも、奏と和解できても―――この2つの記憶は、消えない。消えないままに、悪夢となって甦る。

 でも―――大丈夫。
 悪夢にうなされたら、こうして手を握りあえばいい。
 痛いけれど、苦しいけれど、2人で2つの傷を抱えていけばいい―――死ぬまで、ずっと。

 「―――…瑞樹も、眠れなかったら、呼んで」
 蕾夏は、そう言って微笑み、瑞樹の手をぎゅっと握り返した。
 「ずっと、手を握っててあげるから―――瑞樹が、眠れるまで」

 

***

 

 「ほんっとに、もー、なんでこんな日に引っ越すんだよ」
 「うるせー。さっさと手伝えっ」
 ぶつぶつ言う累を一瞥し、奏はてきぱきと荷物を自分達の部屋に運び込んだ。
 半そでTシャツをさらに肩の上までたくし上げ、やる気満々の奏とは対象的に、累の方はやる気ゼロ。壊してはいけないからと眼鏡を外しているから、視界も普段よりぼんやりしていて、余計にやる気をそいでしまう。
 「累、もうちょい体鍛えろよ。そんなんでカレンと付き合っていけんのかよ」
 ダンボールを2個運んだだけでへばっている累に、奏は呆れたような顔をした。カレンの名前を出された累は、バツが悪そうな顔をした。
 「…まだ、付き合ってないよ」
 「あー、そーだったよな。“恋愛対象として見たことがなかったから、これから意識してみることにする”んだったよな。そんなセリフ吐くお前もお前だけど、それで満足しちまうカレンもカレンだよ。変な奴ら」
 「い…いいじゃないかっ、これでも一歩前進だろっ?」
 「お前にしてはな。で、どうなんだよ。ちょっとは“女”として意識できたのかよ」
 「―――1週間じゃ無理だよ」
 「…一生やってろ」
 やれやれ、と肩を竦めた奏は、2階に運ぶには重過ぎる段ボール箱を、階段下で解体し始めた。中身を小分けして持って上がった方が、効率がいいからだ。
 そんな奏を、ちょっと恨みがましい目で見ていた累は、チラリと腕時計に視線を走らせ、反撃に出た。
 「ちょうど今頃、搭乗手続きしてるよね」
 「……」
 「奏も歪んでるよね。昨日も結局、最後まで顔出さなかったし、挙句に、出発当日に引っ越しぶつけるなんて」
 段ボール箱を解体する奏の手が、その言葉にピタリと止まった。
 階段下にあぐらをかいたまま、不機嫌極まりない顔で振り返る奏を、累は、しょうがない奴、という顔で見下ろした。
 「見送りに行けない位、別れるのが辛いんだったらさぁ、せめて昨日、顔出せばよかったのに」
 「―――喋るばっかで手伝う気ないんなら、リビングで紅茶でも優雅に飲んでろよ」
 「うん。そうする」
 ―――馬鹿野郎、嫌味に決まってるだろ、流すなよっ。
 奏の心の叫びは、双子の弟には届かなかったらしい。累は、「あーあ、疲れた」と言いながら、リビングに行ってしまった。

 多分、怒っているのだろう、累は。
 自分が見送りに行けなくなったから、ではない。奏が、結局まともに別れの挨拶をしないままにしたから。
 けれど―――とても、無理だった。今、この状態で、瑞樹と蕾夏に別れを告げるのは。

 本を抱えて2階に上がった奏は、足でドアを蹴り開け、机の上にそれをドサリ、と置いた。
 ほっと大きく息をつき、何気なく視線を上に向ける。するとそこに、瑞樹が撮った運河の風景写真が掛けられているのが目に入った。
 抑え込んでいた寂しさが、体の奥からせり上がってくる。
 ―――バカか、オレは。子供じゃあるまいし、こんなこと位で、泣きそうになるなんて。
 慌てて、口元を手で押さえて、写真から目を逸らす。ここ1週間ほど、ずっとこんな風だ。気持ちのコントロールが上手くできない。気づくと、瑞樹や蕾夏のことを思い出して、たまらない思いが喉元までせり上がってきてしまう。

 “―――ありがとう、奏君。…私のこと、好きになってくれて”。

 ―――蕾夏。
 あの時の笑顔が、脳裏に甦る。
 いつか、忘れられる日が来るんだろうか。この焼け付くような切望を、他の人間に向けられる日が来るんだろうか。
 そんな日は、一生来ないのかもしれない。少なくとも、暫くは―――心が叫びだしそうになるのを感じながら、耐えていくしかないのかもしれない。

 …でも、大丈夫。耐えられる。
 想いの一部を受け取ってもらえた今なら、瑞樹にも“被写体”として認めてもらえた今なら、耐えられる。

 ふと思い立ち、奏は、自分達の部屋を出た。
 向かいの部屋のドアノブを、ゆっくり回してみる。鍵がかかってるかな、と思ったが、ドアは簡単に開いた。
 ドアを開けた向こうには、もう瑞樹の気配も、蕾夏の気配も、既にない。
 綺麗に掃除された部屋は、本来の広さよりも広く見えた。ベッドの上に散りばめられていた写真も、ワードローブの横に必ず置かれていた瑞樹のデイパックも、そこには、もう無い。がらんと空っぽになった部屋は、外よりも何度か温度が低く感じられた。
 かつては自分が使っていた筈の、この部屋―――なのに、奏には何故か、この部屋が瑞樹と蕾夏の部屋に思えてならなかった。たとえそこに、2人の痕跡が何ひとつ残っていなくても。
 ―――もう、いないんだな、本当に。
 寒々とした部屋の中に立ち尽くし、奏はその事実をゆっくりと噛みしめた。

 と、その時。奏は、ロフトに上がる階段の上に、何か置かれていることに気づいた。
 「―――…?」
 何だろう。歩み寄った奏は、それを間近から見下ろした。
 置かれていたのは、ガラスの器に入れられた、小さなサボテンの寄せ植えだった。
 こういうのを、テラリウム、と呼ぶのだろうか。綺麗な色砂に、手のひらよりはるかに小さなサボテンが、バランスよく植えられている。でも、こんなものが実家にあった記憶はない。蕾夏の忘れ物だろうか。
 そう思った時、テラリウムの置かれた段の1段上に、白いレポート用紙が1枚置かれているのに気づいた。眉をひそめた奏は、それを手にとってみた。
 そこには、ボールペンで、明らかな女性の手による文字が書かれていた。蕾夏の字だ―――直感でそう察し、心臓がドクン、と音を立てた。


 『奏君へ
  これは、ロンドンに来てからずっと、私達と一緒にこの部屋で過ごしたテラリウムです。
  日本には連れていけないから、これからは奏君が育ててあげて下さい。
  もし、仕事に疲れたり、頭にきたりしたら、私達の代わりに、この子に愚痴って下さい。
  トゲトゲしてて、多分やさしく慰めてはくれないと思うけど、私達の分身だから、辛口なのは大目に見てやって。
  奏君が、奏君らしくあれますように。2人で祈ってます。』


 「…オレが、オレらしくあれますように…か」
 思わず、口にする。
 奏の口元に、奏のものとは思えないほど柔らかな微笑が浮かぶ。直後―――奏の目から、ぽたん、と涙が手紙の上に落ちた。

 


 世界は、1999年で終わるんだと思っていた。
 ノストラダムスの大予言を信じるならば、恐怖の大王が降ってきて、この世は終末を迎える筈だから。

 瑞樹と出会い、蕾夏と出会って、自分は今、新しい一歩を踏み出そうとしている。これまでよりも、自分らしくあるために。
 こんな風に、新しい世界に出会うなんて、想像もしなかった―――つい、半年前までは。


 それはきっと、想いを分かち合える生き物だからこそ、起こせる、奇跡。

 この奇跡に出会えたことが、とても、嬉しい。


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